13.
3階に上がると、エドゥアールとベルナー氏はまだ談笑中だった。
経済の話をしているところらしく、専門用語もちらほらと聞こえてくる。エドゥアールはところどころ適当にごまかしているようで、アルフォンスがたびたびフォローを入れていた。彼も苦労人である。足音に淡い金髪がふりむいた。
「おかえりヴィクトワール。午後のことなんだけど、フランソワーズ嬢は体調が悪くて来られないらしい」
「まあ。お気の毒ですわ」
つまりわたしはこの人たちと教会を訪問することになるのか。わたしまで体調が悪くなりそうなバッドニュースだった。フランソワーズとも打ち解ければなかよくなれるかもと思いはじめていた矢先だけに残念なことこのうえない。
「申し訳ございません。わたしもこのあたりは日が浅いのですが、誠心誠意ご案内いたしますので」
「あら、そんな。お気になさらないで。おだいじにとお伝えください」
「もったいないお言葉です」
パトリック・ベルナーは安堵の表情を浮かべた。わたしはそんなに恐ろしくみえるだろうか。心外だ。確かにヴィスクドールのように端整でどこか作り物めいた容貌をしているが、そこにいるろくでなし殿下もおなじ顔なのだ。高貴なる身分にふさわしい話し方はジレ夫人とセヴランの教育の賜物であり、断じてわたしの望むところではない。
階下から話し声が聞こえてくる。モーリスとマイア、それにクロエだった。彼らの客室も3階なのだ。ベルナー氏は2階に部屋をもっているが、クロエは形式上来客の扱いを受けていた。
「それでね。お兄さまったら、そこで伯父さまから一本取ってしまったのよ。おとなげないったら」
「お上手でしたのね」
「そこは年長者を立てるところでしょうに」
「マイア、おまえがそれを言うな」
「わたしがおとなげないのはお兄さまからの遺伝だわ」
「でも、モーリスさまも剣術がお上手ですのね」
「も?」
「ううん、なんでもないの」
クロエがモーリスに微笑みかける。夕日色の髪がゆれる。階段を登り終え、クロエは足を止めた。
3階の廊下、窓ガラスから差しこむやわらかな光を背にエドゥアールとベルナー氏が立っている。光を集めたような金髪の王子さまと、幼いころから憧れていた姉の婚約者がクロエのほうをみている。クロエは寄り添っていたモーリスからすっと身体を離した。
ベルナー氏とクロエの視線が絡まりあう。一瞬だけ、熱く、焦がれるように。秘密を共有する者に特有の意味深な視線だった。
アルフォンスが片眼鏡の奥の目を細めた。
マイアでさえも口をつぐみ手を握りしめた。
みえない糸が張り詰める。
「こんにちは、クロエ」
緊迫した空気をさらに引き絞ったのはエドゥアールだった。
ほがらかな声だった。だれにも反論を許さない、上に立つことに慣れた者の声だった。いまここでその能力を発揮するのはやめてほしかったが、口に出せるわけがなかった。
灰紫色の瞳がクロエを映す。モーリスはもちろんマイアさえも無視だった。クロエの視界からベルナー氏とモーリスが消えた。ついでにアルフォンスも消えた。わたしとマイアは端から映っていない。それはもう言うまでもない。ベルナー氏は後ろめたそうに目を伏せ、モーリスは強張った表情で王子殿下に頭を下げた。
わたしは頭痛がしはじめた。クロエにしゃべらせてはいけない。それだけは確実だった。
「こんに……」
「ごきげんよう、クロエ。これからマイアさまとピクニックだったかしら」
強く、気高く、麗しく。ジレ夫人の教えを総動員してもてる限りの優雅さと尊大さで問うた。
「…………」
「お気をつけて。ね?」
慈悲深いまなざしでやさしく告げた。
クロエはいまにも泣き出しそうな表情をして、そのまま行ってしまった。はっとしたマイアはエドゥアールとわたしに非礼を詫び、兄を引きずって去っていった。こちらは最低限の礼儀くらいはきっちり仕込まれているらしかった。わたしは午後の予定を再確認し、心底エドゥアールを恨んだ。