11.
楡の木立の下にはベンチがあった。
わたしとセヴランが到着したときにはすでに先客があった。マイアとクロエが楽譜をひろげて歌を歌っていた。足音に気づいたクロエがぱっと顔を上げ、わたしをみて後ろにだれかを探すようなそぶりをし、セヴランしかいないのを確認してがっかりした表情になった。
「おはよう、ヴィクトワール……さま。いい朝ね」
マイアがわたしを呼び捨てにしたのでセヴランは思いきりにらみつけた。こういうところがわたしに友達ができない理由のひとつだと思うのだが、わたしの忠実な従者に悪気は一切ない。わたしだってマイアのようにくだけた話し方をすればもう少しかわいげがあるはずなのに。
「ごきげんよう、マイアさま。よい朝ですわね」
「朝って。ふたりとも、もうお昼前よ」
クロエの発言にマイアが首をひねる。
庶民は夜明けとともに労働にいそしむが、貴族の朝とは得てして遅いものである。お行儀はともかくマイアは生まれついてのお嬢さまである。こういうところに、埋められない育ちのちがいというものが出るのだろう。わたしは前世の記憶があるうえに口うるさいセヴランから脱走するためもあって早起きの常習犯だが。
楽譜のページをめくり、クロエは歌を再開した。王都で流行している歌劇の曲だった。こんな田舎でこれを聞くとは思っていなかった。夫人のドレスはちょっぴり流行遅れだったから。
「ノーリアの新曲ですわね。『薔薇の埋葬』」
「有名なの?」
「ご存知なかったのですか。失礼ですが、その楽譜はペロー卿から?」
「いいえ、ベルナーさんからよ」
なぜここでフランソワーズの婚約者の名前が出てくるのか。疑問符を浮かべるわたしにクロエはあっけらかんと説明した。
「同郷なのよ、ベルナーさんとわたし。ベルナーさんは、当時はまだ事業も小さかったけれど、街の名士だったの。わたしは小さな旅籠の娘だったけれど。母の旦那さんのお父さんがベルナーさんのお祖父さんとお友達だったとかで、わたし、何回もお金を借りに行くのについていったわ」
「どうして?」
「ほら、こどもがいると同情を買いやすいでしょう」
「そうなの?」
「ええ」
無邪気なマイアにクロエの声がどんどん小さくなっていく。
「わたしもかなり小さかったし。わたしを連れていくと、奥さまも玄関先で追い返すわけにはいかなかったの。大旦那さまにお会いできたときはお菓子やお小遣いまでいただいてしまったから、とても申し訳なかったわ」
「苦労なさったのですね」
クロエが恥ずかしそうにうつむいた。それから、感傷に浸るように陶然としたまなざしで空をみあげた。
「ベルナーさんはとてもいい方だったわ。わたしに会うといつも頭をなでてお菓子をくれたの。王都で流行の歌を教えてくれて、いっしょに歌ったわ。ベルナーさんはお仕事の勉強をしにお父さまに付いて行かれることがよくあったから。ときどきお土産もくださったの。かわいい髪飾り。お父さんにはないしょだよって、指切りをして」
わたしはパトリック・ベルナーの姿を思い返した。
やわらかな栗色の巻き毛とたれ目がちな目元をした人の好さそうな青年だった。物腰が穏やかで会話もうまい。経済に明るく父親の事業を手伝っていて、将来有望な鉄道部門を任され業績も好調だ。おまけに芸術にも明るくて流行に敏感、趣味もあう上に小さなころからやさしくしてもらったとくれば、クロエがあこがれるのも無理はなかった。
「すてきだわ」
マイアはたのしそうにはしゃいでいる。
けれど現在のベルナー氏はフランソワーズの婚約者だ。クロエも承知しているはずだ。ふたりの関係を思えば、素直にほほえましいとも思えなかった。
わたしはふと顔を上げ、クロエの視線を追いかけた。3階の廊下でエドゥアールがベルナー氏となにか話している。会話の内容までは聞こえるわけもない。けれどエドゥアールと話しながらも、ベルナー氏の瞳はひたすらにクロエをみつめていた。