とげのない、まんまるな嘘(網田めい)
十分前。秒針の音は待機室の圧迫感を助長し隙がないほど、くどく鼓膜へまとわりつく。ひと仕事を終えると常連さんが、たくさんあるからとカタログギフトを一冊くれた。
私は過去にキャバ嬢をしていた。今では、ヘルス嬢で稼いでいる。
――なんて、自分の職歴をさらっと振り返ってしまうのは当然のことだった。十年前、カタログギフトで同棲中の彼と盛り上がったことがあった。こんなもので盛り上がるなんて、今ではありえない。『若かった』と、一言で片づけることの恥ずかしさと、嫌らしさが身に沁みる。「…………」その時の私は短大生。彼は三流大の頭が愉快な学生さん。猿になりきった軽い同棲生活だったが、昼夜問わず楽しいことに変わりなかった。
「つまらない」
おもわず独り言をつぶやいた。暗い性格の自分に気がついて、嫌になる。昔の私は、馬鹿みたいに笑って誤魔化すことだろう。今では鼻で笑うことすらできず、黙ってしまう。でも、二畳ほどの待機室の電灯が切れかけてて少し暗く、身だしなみを整える鏡が顔のしわを隠してくれるものだから、いつもより綺麗な顔に見えたことが救いだった。
しかし、つまらない。それはカタログギフトや私の人生ではなく、他者の喘ぎ声が聴こえてきても、動じない自分自身の肝っ玉に、だった。
私の人生は嘘で塗り固めて出来ている。齢三十になって気がついたことは、嘘は見栄っ張りから始まるという酷く些細なことだった。どうせいつかは別れるからと適当な見栄を張っているし、自然に弱気を魅せて媚びることができる。昔の私はキャバ嬢をしていた事を父親に許されているかのように、笑えていたのだ。
「安っぽい」
カタログギフトの商品は豪華に見えるが、案外安いものと知った。くだらない。
「ハツネさーん、お願いしまーす」
「――ねえ。今日からその源氏名を変えていい? 餓鬼臭いから、ユミで」
「お客さんが混乱するので、ちょっとそれは。それにそれは本名では……」
「誰も名前は求めていないのだから、いいじゃない」
カタログギフトを投げ捨てて、卑屈な笑いがため息といっしょにうかんで消えた。私は、ハムカツ君に恋をしていたという事実にすがりたいだけなのだと思う。今まで付き合った人の中で一番楽しかったのだから。
由美と呼ばれたいがために、私は身体を求めた。名前を呼んでほしいと、我儘を押しつけてもきちんと応えてくれる。名前を呼んでもらうことが私にとって必要なことなのだと、男の人は猿よりも馬鹿みたいに動いてくれた。とてもやさしくて、力強さなんてものは、もはや感じない。男の人は誰であろうと、透き通った粘土くらいに柔らかくて、美しい。
*
いつの間にか『ただいま』を言わないでいる。玄関を無言で開けたことに対して『私は凛としなければならない』と、塩梅も都合すらも良い、理想の自分を作っていた。これはカタログギフトを鞄には入れず、棒のように丸めて握っていたから、心にしこりが残って気がついたことだった。自分が嫌になる。これは、田舎のトイレに置いてあった痰壺よりも汚らしい。年寄りみたいに恐れを知らず怒鳴る動物のような粘り気のある我儘に思えた。
小腹が空く。冷蔵庫には安く薄いハムがあることは知っているが見たくない。なぜ、スーパーで手にした時に、彼のことを思い出さなかったのだろうか。ただの思いつきで購入した過去の自分が怯えるように身体へ駆け巡り、足を止めた。
「…………」
煙草の吸いすぎと睡眠不足のせいで食欲がない事にしてベッドへ、いやしく倒れた。
「ただいま」
うつ伏せで、久しく言う。恥ずかしくなったから、カタログギフトをゴミ箱へ投げた。見事に外れて、どさり、と聞こえた音は自室の静けさに装飾されて、空虚になる。手を伸ばして、カバンからたばこを取り出すが空っぽ。なんとなく箱の底に溜まった葉っぱを掌に乗せて数えると、粒は十。何も面白くはないのに、声を出さずに笑っていた。
蛍光灯を点けるのを忘れている。朝日が見えるからいいよね、なんていいわけが胸に迫った。西向きのマンションのおかげで朝は夜よりも、ひどく寂しい。携帯電話を取り出して、アドレス帳を開いた。液晶の照明が眩しかった。
苦しいから、楽しい。
名前を覚えているお客さんのアドレスをひとり、殺すつもりで消した。決定ボタンをすぐ押したのに、携帯電話は迷っているのか、二秒くらいかかるのが愛らしい。カバンから手帳を取り出して、めくる。携帯電話には存在しない、すでに消した男の番号を適当に選び、電話をかけた。
「もしもし? うん、久しぶりだねー。今、電話は大丈夫かな。いや、別に? 何をしているのか、気になったの。…………なあんてね。貴方のことなんて気にするわけがないじゃない。…………あはは、いつも面白いよね……っと、ごめんね。朝早いから、忙しいよね。私も眠いから、バイバイ」
名前を忘れたこのお客さんが掛けなおしてきたら笑える。だから、電源を落としてあげた。携帯電話をカバンにしまって、手帳をゴミ箱へ入れた。ベランダの窓を開ける。干していた洗濯物に触れた。見せびらかすための真っ赤な下着は、梅雨の外気を吸い、ひんやりと心地よい。誰も盗んでいなかった事実がほんの少しだけ悔しかったから、そのままにした。からからと、窓が閉まる音がどうにも騒がしい。二回ほど、開けてから閉めた。意味なんてないことは知っているのに、交差した鉄線が入っているガラス窓は、牢屋にしか思えない。しかも鉄線の影は、私の顔にバツ印を点けているようで、腹が立つ。何度も何度も、開閉を繰り返した。奇妙な行動に嫌気がゆらめいて、ため息をつくしか逃げ場はない。
でも、つまらないから飽きた。
ひどく重たい冷蔵庫を開ける。安くて薄いハムをじっと眺めた。ゴミ箱に入ることができなかったカタログギフトをすぐ見やる。本当にどうでもいい。でも、もどかしいのは本当。
後悔なんて、夕飯の選択を間違えたくらいに些細なことだ。軽くなった冷蔵庫を閉めて、磁石でくっつけていた車のキーを握った。財布にはたばこ代の四百五十円以上あることは当たり前なので確認はしない。鞄の肩紐を片手で下げて、ぶらりぶらり、と外へ出た。いつもどおりのぱっとしないマンションの一階の景色は歩みを遅くさせて、生ぬるい風が頬をさわる。気持ち悪さを通り越したものだから、ひとりぼっちの蟻を踏みつけた。潰れた蟻の触角がぴくりと動く。生まれたばかりの赤ちゃんをそのままジューサーに押し込むくらいの罪悪感が理性の隙間でまたたくが、虫を殺してしまっても外道ではないからと、子供を説得させるように気持ちを無理やり落ち着かせた。
いこう。
私の純白の中古車に鍵を挿入して、乗り込んだ。フロントミラーの私へ、目に媚を含んで無言の返事をする。そのまま、手を手で繋ぎ止めるみたいに、ハンドルを指でからめて握ってしまった。――エンジンをかける。駐車場の湿った地面がタイヤを一瞬空回りさせたものだから、今日のアクセルは軽く感じた。二車線の道路を走り、街並みは徐々に上がっていく速度で溶けはじめた。
(さぁ、向かうぞ、定食屋~! 目標は、ハムカツ~!)
住宅街の隙間の砕けた朝日は、眠気をじりじりと誘う。意識が朦朧とし、朝の寂しい趣が魚眼レンズにすり替えられたよう、円くなってかすんだ。人のいないパレードと変わらないくらい不安な景色になる。思い出の唄が強く流れはじめて、夢を見ていると気がついた頃には、瞳は閉じている。目の前が真っ暗になっていることが分からなかった。
「え」
鋭い衝撃が胸を貫いた。入道雲から遠雷が聴こえてくる昼下がり、子供の頃の研ぎ澄まされた怯えが車内の静寂と重なる。感情が空から降りそそぎ、地面に叩きつけられて表情がすぐ崩れた。心音が弦の切れた勢いで響き渡った。力が抜けているはずなのに指先は飛び出たエアバックを思いきり掴んでいる。フロントガラスにぱりぱりの蜘蛛の巣のひびができていて――てん、てん、てん、と、ボールが跳ねて転がり、蜘蛛の巣の背に隠れた。ボンネットに乗っかった子供の泣き声は無い。うつぶせで掌を丸め、匙で引っ掻くかのよう、かすかにボディを愛でていた。
焦って降車したら、ぴかぴかの黒い車にうしろから跳ね飛ばされた。目まぐるしいほど景色が転がって混乱したが、道路の渋くて赤い味を舌が感じて我に返った。車は蟻を踏んだように私を無視して走り去った。
電源を落とした携帯電話も、ゴミ箱へ捨てた手帳も、そのすべて。正直な頃の私に戻れると信じた些細な行動なのだと、道理が雲のように流れ、心に厚くたれこめた。私は、育ててくれた父親に同情され、ようやく許してもらえるかもしれないと体がほてった。一気に年寄りになった気分だ。一瞬の夢と、思い出。すべての後悔が消え失せて、これでいいのだと、ゴミのように自分を想い、それでも自分を愛していた。誰かに殺されることは、何て楽なのだろう。ひとりぼっちで行う自殺が糞みたい。酸味が効いたほろ苦いコーヒーで唇を火傷し、あるがままにキスでもするような。それくらいの廃れた現実の快感に陥った。
「う……、うっうっ……う……ああああああああ! 死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい! いっそのこと殺して、よ……! あっ。あっ。あっ。ああ、あはっ……あははは……ははっ、はははははははは……!」
短い付き合いがたくさんあったから、嘘のように幸せだった。
いずれにしても、彼は今も楽しく笑っていて欲しい。
ごめんなさいと暗にほのめかしたら、昔みたいに意味なく笑えた。