こんなにも汚れきった世界を貴方と
♀
私は、ベッドに寝っ転がって、天井を見ていた。
いえ、正確に描写するならば、天蓋を見ていたわ。
平成大不況を乗り越える為に、10年前に改正された独占禁止法。特例的に認められたコンツェルンという経営形態。昭和期には財閥という形で、銀行を中心としていたそれは、この時代に於いて最も利益率の高い医薬看護系の企業を中心とする薬閥という形態が主になっている。
お父様は、その薬閥の経営者。
「お嬢様、お食事のお時間にございます。」
執事が私を呼びに来る。
「わかったわ。藤堂、下がりなさい。」
「……失礼します。」
昔は只の使用人だった藤堂も、いまや我が家の全事務を取り仕切る執事。
それでも、私は昔の習慣のまま、藤堂に身の回りの世話をさせている。
これくらいの贅沢、許して貰えるわよね。社長令嬢なのだし。
……まぁ昔とはいっても、2年くらいしか経っていないのだけど。
藤堂が、うちの使用人になったのが2年前。
お父様の学生時代のご友人が、是非にと頼み込んで、うちで働くことになったの。
最初は勿論、みんな嫌そうだったわ。こういう、エリート意識の高い集団はえてして排他的ですもの。
でも、彼の腕は確かで、文句も言わずに深夜まで仕事をこなしていたから、最後には信頼を勝ち得たみたい。
私も……その一人なのかしらね。どうなのかしら。
回想終了。ついでに、着替えも。
今朝用意されてた服は純白のワンピース。清楚さを前面に押し出したいって訳ね。
その魂胆が既に腹黒いのよ。勿論、私は社長令嬢ですから、儚げな深窓の令嬢くらい簡単に演じて見せますけれど。ええ。
私は頭を切り換える。目下、次期社長夫人を期待されている私には仕事がたくさんある。
まだ19才だっていうのに、結婚なんて……。
いえ、もう私用の時間は終わったの。いまからは、公用の社長令嬢。切り替えなきゃいけないわ。
3階の自室から、天鵞色の絨毯が敷き詰められた階段を下りる。
1階にある食堂では、もうお父様も、お母様もいらっしゃった。
「おはようございます。お父様、お母様。」
「おはよう、百合亜。昨晩はよく眠れましたか?」
「ええ、心配無用ですわ。お母様。」
ワンピースの裾を指先でつまんで、少し持ち上げ、お母様に会釈する。
「…………シェフ、食事を。」
お父様の号令でやって来たのは、サンドウィッチ。
どうせ最高級の素材だけを使っているんでしょう。味も分からない癖に。
これだから富豪気どりの成金は。
……いけない。私ったら、もっと淑女然としていないと。
食事を済ませるとすぐにお父様の車に乗って、商談にでかける。
先方は、裃家の経営戦略上重要な相手で、ご子息様とは縁談も覚悟しておけ。との事。
経営戦略上重要な相手……碌な人間じゃないことは確かね。
裃薬閥――裃医薬看統合総社――は表向きは、“医療に関係する全ての事業を徹底した安全性と品質管理の下提供する企業”なんて謳っているけれど、実態はただひたすら利益を上げる新薬――毒物・自白剤・拷問用の薬物・違法薬物――を製造する為だけの会社。
今回の商談先も、誰かの暗殺をするためにそのクスリが欲しいってだけなんでしょう。
本当、嫌になっちゃうわ。
到着したビルはとても高かった。
都心も都心。まさに全都市機能の中枢がある地域に聳え立つ高層ビル。
そこの上層に、そのオフィスはあった。
“麻新興国発展援助機構”
暗殺者の文字がバレバレよ。ま、代表は実際に麻という苗字らしいけれど。
私とお父様が伺うと、奥から現れたのは麻代表と、そのご子息様だった。
彼は、私のことを隅から隅まで隈無く睨め回してきた。
気持ち悪い。
千歩……いや、五十万歩譲って、脂ぎった顔や曇った眼鏡、テカテカした髪の毛と額、漂ってくる悪臭に1週間入浴していないであろう不潔さ、挙動不審を許したとしても、その、私を品定めするような、品性の欠片も感じられない視線だけは許せなかった。というか生理的に無理だ。
できることなら殴り倒したいし、もっというなら藤堂にボッコボコに……淑女よ、百合亜。Be a lady.忘れないで。
そんな思考の間に私は少し硬直してしまったけれど、それで任を果たせなくなるような不躾な娘ではありませんわ。お父様とお母様に躾られた記憶はありませんが。
優美に優雅に会釈する。きっと好印象でしょう。
最初のぎこちなさも、“清楚さ”という点においては、良い役割を果たしたのかも知れないわね。
その後も結局、私はソファーに座ってじっと麻ジュニアのいやらしい視線に耐えるだけのお仕事でした。
時々目が遭うので、仕方なくにっこり微笑んであげると、顔が赤くなっていた。
絶対勘違いされている。男なんてちょっと笑いかけてあげるだけで、惚れられてるんじゃないかって感違う単純な生き物ですもの。憐れね。
午後は、会社の視察に着いていって、研究所・関東営業所・衛生チェックセンターを次々とまわった。どこに行っても「姫様」ともて囃されたが、あの媚びへつらう顔が、私は嫌いだった。
あの、“こう言っておけば機嫌取れるだろ”みたいな顔が嫌いだった。
物心ついたときからそういった顔を見てきたからか、相手が自分に阿っているのかどうかなんて、すぐに分かるようになっていた。
今日一日の仕事が終わり自室に戻るとすぐに、私は淡い桃色の寝間着に着替えた。
ベッドに倒れ込む。衝撃は全て、高級寝具に吸収された。私の体はベッドに沈み込む。
本当はスウェットとか着てみたいのだけど……掃除のお手伝いさんに見つかってしまうから着られない。
……今日は、精神的にも体力的にも疲れた一日だった。
ベッド脇の呼び鈴を使って執事を呼ぶ。
彼はすぐにやってきた。ノックに対して返事をする。
「お嬢様、失礼します。」
藤堂紫狼。変わった名前だと思う。
「藤堂、マッサージしなさい。」
ベッドにうつぶせになって命じる。
「……今、女性の使用人を呼んで参ります。」
「ストップ。待ちなさい、藤堂。私はあなたにして欲しいの。それとも何?あなた、私のこと意識しちゃってんの?」
逡巡。
「……わかりました。お嬢様、では失礼します。」
溜息とも取れるような声でもって了承の旨を告げられた。
「……一応、弁解をさせて頂きますが、私はお嬢様のような貧相な体には一切興味がありませんので、ご安心を。」
「モデル体型よ、モデル体型。あんた仮にも執事でしょう?立場って物を弁えなさいよ。」
彼はふくらはぎから、丁寧に揉み始めた。
「あ゛ぁ~」
私の口から令嬢どころか、年頃の乙女としてもどうかと思う声が漏れる。
仕方ないわ、気持ちいいんですもの。
「お嬢様、そのようなお声はあげる物ではありませんよ。」
呆れた口調で窘められてしまった。
「今日は午後中ずっと、下部企業の視察よ?ハイヒールだったし、足がもうパンパンなの。」
「だとしても年頃の女性、殊更に社長令嬢が発する音ではありません。恥ずべきです。」
わりと真面目に怒られた。
「ごめーん。許してー。」
気持ちよくて、眠くなってきて、語尾が伸び始めた。もうすぐ私は寝てしまうだろう。
「……夕食前には起こしに参ります。ごゆっくり。」
私は夢の中へと潜っていく。
お母さんのいた時の、素敵な夢へ。
私達は幸せな家庭だった。
極普通の子供である私。
極普通の専業主婦であるお母さん。
極普通のサラリーマンであるお父さん。
でもそれは、10年前の独占禁止法の改正で……なくなってしまった。
その時丁度、お父さんの部下に、お父さんの務めていた会社の、社長の娘さんがいた。
娘さんは一人っ子で、社長さんは末期の癌患者だったみたい。
お父さんはその娘さんにかなり懐かれていたみたい。
お父さんは、独占禁止法改正でコンツェルンが解禁されたとき、これはチャンスだ、と思ったのでしょう。
お母さんを捨てて、その娘さん――いまのお母様――と結婚した。
ショックで衰弱したお母さんはまもなく病死。
私はお父さん……いや、お父様に育てられ、今に至る。
お父様は利益だけを求める拝金主義者に成り下がって、私の事なんて見向きもしないし、お母様はお父様の前では良妻賢母を演じているけれど、本当は、実の子でない私の事が嫌いで嫌いでしょうがないの。
なんて滑稽な家族なんでしょう。
温もりも優しさもない……溝よりも濁った家庭。
それが、大企業裃薬閥経営者の裃家の本当。
♂
お嬢様の体が自分の下にある。
そう考えると少し緊張した。
桃色の寝間着姿で眠っている彼女。
俺は、マッサージしていた手を背中から首へと持って行き、あてがう。
ここから先の動作も私……いや、俺にとってはさして難しくはない。
いまこの状況なら縊殺以外にもあらゆる、ほぼ無限と言える殺し方がある。
俺はどうしてコイツを殺さない?
もう2年も“信頼関係を築く為”という名目で、側で使えてきた。
両手にはどうしても力が入らない。
ヴヴヴヴヴヴ
携帯電話が震える。
“組織”からの電話だ。
俺は、いそいで部屋を出て、色々な言い訳を駆使し、屋敷を抜け出した。
「もしもし、こちらコードネーム『ウルフ4』」
少し離れた土地の、人気のない雑木林で電話をかけ直す。
「こちら『ジャックナイフ』。元気かよウルフ。」
「ああ。身体に異常はないよ。そっちはどうだい?」
「俺もさ。まぁ、ちと戦況は厳しいがな。」
俺達は、世界中の“大企業”に対抗する為の組織だ。
企業はその本質を利潤追求に持つために、巨大化・肥大化すると、弱者から搾取し弱者を使役するようになる傾向がある。
俺達はそんな大企業に人生を狂わされた、元中小零細企業の従業員であったり、奴隷のように労働させられた元従業員であったり、公害に悩まされる一般市民だったりするわけだ。
「で、だ。極東の飢えた狼さんよぉ。いつになったらあの女を殺してくれるんですかねぇ?」
「それは……まだ、だ。彼女はまだ俺を信用していない。自分が只利用されるだけの人間だと理解している節も、両親の所為で人間を信じ切れないという思いもあるみたいだ。勝率はまだ100%じゃあ、ない。」
「100%じゃなくても、60%とか70%とかなんだろう?もう殺っちまえよ。こっちももう、時間に余裕がない。薬閥が手を組み始めたら最後、俺達に対抗する手段なんて存在しない。いまのうちに、片を付けなければ。」
「……わかっている。」
俺は本当に、分かっているのか?
「間違っても殺せないなんて言うなよ?俺はお前を殺したくなんか無いからな。」
ツーツー
通話が途切れる。
俺は……両親の為にも、俺を拾って育ててくれた盟主様の為にも、お嬢様を殺さなきゃならない。
あの家と企業を再起不可能なほどにボロボロにぶっ壊すのが、俺の本懐だった筈だ。
いつからこんなに腑抜けたのか。
ポケットに携帯を仕舞い、屋敷へと戻る。
♀
首に手を添える。
さっきまで藤堂の手が当たっていた首に。
あいつはきっとスパイね。
だから、あれだけの嫌がらせを受けても2年間、信頼を得る為に無心で働き続けることが出来た。
裃家の所為で親が職を失ったとか、そんな理由でしょう。
あの時、彼に電話が掛かってこなかったら、きっと私はこの世には居なかったでしょう。
電話先の主に感謝ね。
半ば無意識的に首を摩る。
お夕食の時間に、彼は私を呼びに来る。
出来るだけ、自衛の手段を講じておきましょう。
そうね、例えば軍事産業系の企業と取引したときに頂いたナイフだとか。
化学系の企業の方から頂いた昏睡ガスだとか。
あとは服の下に分厚い漫画雑誌を忍ばせておくか、形見の品をありとあらゆるポケットに詰め込んでおくくらいしか思いつかないわ。
……ボディーガードが目下一番の危険人物だなんて、想像もつかないわね。
事実は小説よりも奇なりということかしら。
そうこうしているうちに彼がやってきた。
ノックがあり、それに答える。
「失礼します。お嬢様、お夕飯のお時間です。」
「ありがとう、下がって良いわ。」
……特に何も無かったわね。
いきなり銃撃戦が始まったりするのかとワクワクしていたのだけど、少し残念だわ。
寝間着から、今度は夜用のドレスに着替えて1階へ。
下らない人間と、下らない挨拶、下らない食事を終えて、立ち止まらずに自室へ帰ってくる。
俗に言う『くそくらえ』という心情ね。これは。
独禁法改正前は、ただの中流階級だったのに、あれよあれよと一大企業までのし上がってしまったから、自分達は上流階級層だと思い込んで、格式や形式ばっかり気にして……。
本物はこんなことしない。
彼らは、ただ自然と高貴なのであって、わざわざ平民と差別化しようなんて思わないの。
ファミリーレストランにも行くし、ファストフードも嗜んで、その上で正式な宮廷料理のマナーも完璧。
衣服が最高級なのではなくて、身のこなしが上品。
それが本物。
お父様は、ただの張りぼて成金よ。
ベッド横の机に飾ってある写真を眺める。
「お母さん……どうして、こうなってしまったの。」
あの頃が恋しい。
まだ私達が一般市民だった頃が、まだお母さんがいた頃が。
……お風呂に入りましょう。
一晩明けて、朝。
今日もいつものように、藤堂が起こしに来た。
ノック。
その音で起きた私は、返事が出来なかった。にも関わらず、扉は勝手に開く。
「お嬢様、おはよう御座います。本日は、当代ご主人様よりお話があるようです。即刻、ご主人様のお部屋にお出向かれますように、とのご指示を承りました。」
「わかったわ、ありがとう。でもね藤堂、返事もないのに勝手に扉を、それも主人の娘のを開けるなんて、執事として失格ではなくて?」
「申し訳ありません。ですが、もしお嬢様が起きていらっしゃらなかった場合、ご主人様の部屋へお連れすることが出来なくなってしまいますので、致し方ないことかと。」
「そんなこと言って、あなた、私の寝顔を拝みたかっただけじゃないの?」
「お言葉ですが、お嬢様。お嬢様のだらけきった寝顔など、とうに見飽きておりますので、それだけはないと断言させて頂きます。では、できるだけ早く仕度をお願いします。」
最初から最後まで無表情だったわ。
なんか腹が立つわね。
言われたとおり、お父様のお部屋に行くと、私にとって最悪なお話が舞い込んできた。
「百合亜、縁談だ。」
そう言って渡されたのは、麻家の長男の顔写真とプロフィールだった。
麻新興国発展援助機構は、新興国でありがちな紛争を解決する為のスペシャリストを養成する会社だとか。つまり、うちと戦地に直接繋がりが出来るって事ね。
安定的な市場の供給、需要の創造。商売の基本ではあるのだろうけれど。
「今週末、二人でデートをして貰う。粗相の無いようにな。」
♂
麻 帝國、26歳。父親、麻 凱人の元、株式会社麻新興国発展援助機構で取締役を務める……か。
いやー、酷いな。
何が酷いかって、全体的に酷い。
因みに、俺の名前『藤堂紫狼』は偽名だ。
本名の司郎と、あだ名の『極東の飢えた狼』を掛けている。
まぁ、こんな名前じゃあ、性格が歪んでも仕方がないような気もする。
私……じゃねぇ、俺がどうしてこの資料をもっているかと言うと、今日がお嬢様と帝國……さ、ま……の初デートの日だからだ。お嬢様のことだからきっと上手くやれると思うのだが、なんでか胸が痛い。心臓の辺りがキュッと締め付けられる感じがする。
……これが“嫌な予感”というものなのだろうか。
当代の言いつけで、俺には別の仕事が課されているから、お嬢様を尾行する事は出来ないが……。
大丈夫だろうか。
♀
待ち合わせは午前11時。
ご飯を食べて映画を見て、ショッピングをし、解散。ということだ。
使用人に聞くところによると、所謂“定番”のデートコースらしい。
奇を衒って残念な雰囲気になるよりはマシでしょう。あの男も、それなりにはできるようです。
ええ、人並みには。
時刻は10時半。私は駅前のカフェにいる。
……悪くないわ。
カプチーノを飲んで思う。
私は酸味の強いコーヒーはあまり好かないので、この苦みの利いたコーヒーは好きな部類に入る。
少し焙煎し過ぎな気もしないでもないけれど、誤差の範疇でしょう。
最近よく読む小説家の作品を開く。
持ってきておいてよかったわ。
無音の自室で読むのもいいけれど、喫茶店独特の、人の気配がある静けさの中で読むのも、違った趣があって良いわね。
午前11時13分、彼が待ち合わせ場所に姿を現した。
私は会計を済ませて、彼の下に移動する。
「遅れてしまってごめんなさい。もしかして、お待ちになりました?」
髪を掻き上げながら、気品漂うポーズで言う。遅れたのは私じゃないけれど。
ええ。これでばっちりね。麻さんはすぐ顔に出るから御しやすくて良いわ。
いまも照れて目が泳ぎまくっているもの。オリンピックも夢じゃないわ。
「い、いや。ぜ、ぜ、ぜんぜん……大丈夫、だから。あ、ああの、ふ、服……服、にいいあってるね!?」
「ありがとう御座います。そう仰って頂くと、私も一生懸命選んだ甲斐がありましたわ。」
微笑み、水色のレース生地のスカートを摘んで、くるりと一回転する。
「それに、そんなに緊張なさらなくても大丈夫ですわ。さぁ、エスコートして下さいな?」
「じゃ、じゃあまずは、レストランに!!」
そう言って連れてこられたのは、看板の緑と赤のコントラストが目立つイタリアンレストランだった。
……内装はイタリア名画で飾り立てられているけれど、まぁ……庶民的だった。
「ここには、よくいらっしゃるのですか?」
店員さんに禁煙席をお願いする。
「ま、まぁね。い、行きつけって感じ、、かな?」
「まぁ!それは素敵ですわね!味にも期待していますよ?」
わざとらしく両手を顔の前で合わせて、小首をかしげる。
「う、うん。期待してると、いい、おいしい。」
座席に案内される間に店内を見渡す。
子連れの親子、学生、老夫婦が主な客層だと見えた。
となると、この店ファミリーレストランの類だろうか?
「メニューを拝見してもよろしくて?」
席に座って、メニューを見る。
安い!
なにこれ!!
マジパネェ!!
……んんっ。淑女、淑女。
「このお店凄いのね……。とっても安いわ。どうやって見つけましたの?」
何を喋って良いか分からない様子の麻さんに、話題を振って差し上げる。
……それにしても安いわ。
わんちゃんの餌より安いじゃない。
一皿千円しないどころか、三皿でも千円きりそうよ。
恐ろしいわ。一体、何を使っているんでしょう?
「あの……麻さん、質問してもよろしいですか?先程から『ぴんぽ~ん』と音が鳴っておりますが、これは一体なんの音ですの?」
(聞き取り辛い所や、文脈が取れない部分を補完しつつ)説明を聞いて、私は驚いてしまった。
「なるほど!コレを使えば、給仕の者が常に気を配る必要もなく、お客様も気軽に呼ぶことが出来、一石二鳥というわけですわね!このシステムの発明は画期的ですわ。こんど晩餐会を開くときは、この形式を取り入れてみようかしら……。」
「そ、そろそろ頼む?あ、きき決まった?食べたい奴。」
「ええ。私は、このたらこスパゲッティを頂きますわ。あ、そのボタン!私に押させて下さい!是非!!」
ちょっとドキドキするわね。ポチッと。
『ぴんぽ~ん』
おお!鳴った!!
「お客様、ご注文は如何なさいますか?」
「えと……た、たらこスッパガッ……たらこスッパカゲッ……スパッゲット……スパ……」
「たらこスパゲティがお一つですね。」
「この、シーフードドリアとドリンクバーをく、下さい。」
「シーフードドリアがお一つ。注文は以上でよろしいですか?お水、ドリンクバーはセルフサービスと成っております。ごゆっくりお過ごし下さい。」
店員さんの教育もしっかりしてるじゃない。
あとは味ね。楽しみだわ。
お料理は注文から、5分くらいでやって来た。
早いわね。
中で調理しているのかしら?
そうだとしたら、かなり沢山のシェフが必要なはずよ。
そうすれば人件費が嵩んでこの安さは実現出来ないはず……。
謎は深まるばかりね。
「では頂きましょうか。」
「あ、ちょ、ちょっとままま待ってもらってもいい……かな。ドリンクバーに行きたいんだ。」
ドリンクバー?
店内にバーが設置されているの?
「着いていっても構いませんか?」
身長差があまりないので、上目遣いできなかった。不覚。
「ももも勿論!!ど、どんどん来て!」
「ふふふ、面白い人。」
顔を赤くする麻帝國。大の大人がすると、正直気持ち悪い。
「ドドドドドドリンクッ……ゲホッゲホッ……ドリンクバーって言うのは、コップで自分で注いで、飲むっていうことだよ!!」
……ふーむ。つまり、給仕にさせる仕事を自分で行う。という事ですわね。
人件費の削減でしょうか。
「ドリンクバーを注文するとね、全部が飲めるんだよ!!」
要するに、一旦お金を支払ってしまえば、ここにある飲料を全て飲むことが出来るという事かしら?
「ということは……あなたは今、コーヒーも紅茶もオレンジジュースも飲めるということですの?」
うんうん。と首肯する。
庶民向けのお店も侮れないわね。
さぁ、食事にしましょう!と意気込んで、席に戻ろうとしたところ、店員さんがオレンジジュースを持った麻さんにぶつかってしまった。
よろけた麻さんの服にはジュースが着いてしまった。
「も、申し訳ありません!!いま、何か拭く物をお持ち致します!」
「お、おい!何しやがっだ!!巫山戯んじゃねぇぞ!こここんなジュースで汚れた格好じゃあ、外でれぬぇだろうがよ!!」
「ひっ……!申し訳ございません!!」
「あや謝ってすむ問題じゃ、な無いんだぞ!弁償しろ!!心身の苦痛を味わったから、慰謝料請求する!」
激昂している。いい大人が、恥ずかしくないんだろうか。
私の前で恰好つけたいのかも知れないけれど、それじゃ完全に逆効果よ。
「麻さん……私、どんな時でも優しい男の人が好みなんですの。」
「……ゆ、許してやるよ。次はないからな!」
どうだ、俺は器が広いだろ?みたいな目で見てきたから、にっこり微笑んであげた。反吐がでそう。
運ばれてきたお料理も中々のものだった。
300円かそこらで食べられるものとしてなら、とても美味しいんじゃないかしら。
確か、このあとは映画を見に行くのよね。
タイトルは未だ聞かされていないけど、アクション物を見てみたいわ。
「次は、、映画館に行く……よ!チケットはもうあるから……」
「まぁ、そうですの。それは楽しみです事。」
歩くこと10分。
路地裏の路地裏。
寂れた個人経営の、小さな映画館に着いた。
上映中のタイトルは、『10年前から恋してた。』
まさかの恋愛ものでした。
相手が勝手に良い雰囲気だとか勘違いしだしたら嫌だなぁ……。
案の定、劇場は二人で貸し切りだった。
この程度で金持ちアピールされても。
裃家が散財系の成金なら、麻家はケチ系の成金みたい。
というか、こんな劇場に来る方とかいないでしょ。
映画が始まって20分。
余りにも下らないストーリーに嫌気が差してきた。
起承転結はない、登場人物の心理描写が雑、そもそも主人公の行動原理が猿レベル、ヒロインも女性幻想たっぷりの現実離れした性格で、俳優の演技もお遊戯会かと思うくらい下手だった。
駄作だわ。今世紀最強に駄作だわ。
しかも、さっきからチラチラ彼がこっちを見てくるのがわかる。
どうしてなのだろう。
人の視線を感知する感覚器官があるわけでもないのに、彼が私の体をチラチラ見ているのが手に取るように分かる。気持ち悪い。
うとうとしていたら、突然手を握られた。
ビックリして思わず振り払う。触られた手がベトベトしてる……うぇー。
「何を……なさっているんですの?」
「ふ、二人の愛を!愛を確かめ合うんだよ!!」
彼の顔が近づく。スクリーン上ではキスシーン。
♂
お嬢様は、今頃食事でもしているのだろうか。
どうも上の空で仕事が手に着かない。
部下の使用人にも『よっぽどお嬢が大事なんすね!』と笑われてしまった。
そうではない。そうではない……はずだ。
お嬢様は、やがて私が殺さなければいけない標的。
大事にする必要はない。大事になど思ってはいけない。
ああ。また捺印し損じてしまった。書類を印刷し直さなければ。
ヴヴヴヴヴ……
電話だ。
裃邸を抜け出して、電話に出る。
「もしもし、こちら『ウルフ4』。」
「あいよ、『ジャックナイフ』だ。お前さんのいってた“麻 帝國”の素性が……っくっくっく……なんだこの名前!面白すぎてまともに読めやしねぇ!!」
「同感だ。で、何か分かったのか?」
「まぁそうがっつくな。いいか、良く聞けよ?こいつには……過去に犯罪歴がある。」
……。
そうか。なんとなく、顔つきで予想はしていた。
「罪状は婦女暴行。どうやらこいつ、極度の妄想癖の持ち主で、相手が自分のこと好きだって激しく思い込むらしいぜ。『嫌よ嫌よも好きの内』理論で、婦女を暴行。父親の金と権力で事件はもみ消されてた。最悪だな。な、狼?」
「悪い、切るぞ。」
「今日がチャンスだぜ?どうせ娘は身も心も壊れるんだ。あとはお前が、両親を片付ければいい。な?麻家のほうは他のが何とかするさ。」
「……。」
無言で、電話を切った。
お嬢様のあとを尾行していた使用人に電話を掛ける。
1コール。
2コール。
3コール。
4コール。
……でない。
主人に電話を掛ける。
「もしもし、当代様。いえ、お嬢様の後を追っていた使用人が音信不通になりまして……。はい。居場所を教えて頂ければと。はい。ありがとうございます。」
⚥
『ウルフ4』への手向けの電話を終えた。
「盟主さんよぉ……本当にコレで良かったのかよ?」
『ジャックナイフ』と名乗る男が、大柄の男に尋ねる。
「いいんだ。わたしは、“大企業”を憎むよりも寧ろ、お前達息子に幸せになって欲しいのだから。」
「でもよー。結局、裃薬閥は潰れないぜ?仲間内でも反対とか厳しいんじゃねぇの?」
「いや。次期社長は、きっと上手くやってくれるはずだ。」
♀
男の顔が近づいてくる。
あと30センチ……20センチ……20センチ‥‥5センチ‥‥
劇場内に光が溢れる。
「お嬢様、ご帰宅の時間です。」
「遅かったじゃない、藤堂。もうクタクタよ。」
突然の闖入者に麻帝國はぎょっとしている。
まさか、薬閥の令嬢がSPもなしで行動するとでも思ってたわけ?
馬鹿にも程があるわ。
お父様も見る目がないのね。知っては居たけど。
「て、ててててめぇ!」
藤堂は、麻につかつかと歩み寄って、顔面を蹴り飛ばす。
無言で。
麻は一撃でのびてしまったらしい。日頃から運動してないせいね。
「……助けに、参りました。お嬢様、お手を。」
「ありがとう、藤堂。この駄作映画がつまらなくって本当に飽き飽きしてたところなの。助かったわ。」
「……じゃないでしょう…………」
「え?ごめんなさい、聞き取れないわ。もう一度言って頂戴。」
「礼を言うのはそこじゃねぇだろう!!」
びっくりした。
いつも淡々と業務をこなすだけの機械みたいだったのが急に声を荒げたから。
「え?……え?」
私は『え?』しか言えなくなってしまったみたいだ。
いくら何でも驚きすぎだろう。
「どうしてお前はいっつもそうやって、自分のことも他人事みたいなんだ!!もっと自分を大切にしろよ!」
「……え?」
「『え?』じゃねぇ!!お前が心を開けないんだったら、お前の仮面家族なんて俺が殺してやる!全員だ!!お前が笑えないんだったら会社だって潰してやる!!お前が幸せじゃないんだったら、その障害全部、殺してやる!!だから……だから、もう自分を殺すのは止めてくれ!!」
「…………あなた、私を殺すんじゃないの?」
「……ああ、そうだ。確かに俺は殺し屋だ。お前を、お前らを殺す為に屋敷に取り入ったスパイだよ。でも……気付いちまったんだよ。お前のことが好きなんだ。他の誰にも取られたくない、触られたくない。ずっと俺の側にいて欲しい。我が儘で良いから、自分勝手で良いから。ずっと笑っていて欲しい。その為だったら、俺は誰だって殺せる。俺は“組織”を裏切った。自分の過去も裏切った。もう後ろ盾もないが、失う物もない。俺に……着いてきて欲しい。」
「藤堂、口調が乱れているわ。」
「……お嬢様にだけは言われたくありませんね。」
「藤堂……私は、あなたを信じられない。」
「そう……ですか」
「でも、あなたと居るときだけは、お嬢様じゃない、我が儘な只の女の子になれると思うの。だからその……えっと…………よろしく、おねがいします。」
The End……
麻帝國の台詞中にある誤字は意図的な物です。