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だから、猫なんて嫌い。  作者: ミラ


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8/8


 底冷えのする年明けを過ぎ、姉さんの手術の日を迎えた。姉さんはまた私を交えずに医師との話し合いを終えてしまったけれど、私はもうそれに疎外感を持つことはなかった。


 姉さんは大人で、自分の足でしっかりと歩き、自分で決める。その決定に関われないことは、私の価値とは関係ない。


 それに、その決定が姉さん自身をないがしろにするようなものであればまた、私は大きな声で暴れて抵抗する。それだけだ。そう思うと、勝手に抱えていた不要の期待が吹き飛んで軽くなった気がした。


 平日の朝、私は仕事を休んで、初めて姉さんの純白な病室に訪れていた。もう十五分ほどで手術室へ向かう予定だ。


 姉さんが寝転ぶ白のベッドにはいろんな機械が囲んでいて、ピッピと無機質な音を刻み続ける。私は姉さんと透明のカーテンで隔てられたまま、ベッド近くの椅子に座っていた。


 姉さんはすっぴんでウィッグもなく、頭には布のようなものを巻かれて、手術着を着ていた。姉さんは私を見てからりと笑う。


「佐和ちゃん、もしお姉ちゃんがこのまま帰らなかったら、重蔵のこと」

「もう何度も聞いた。もう聞かないよ、姉さん」

「でも……」


 姉さんは重蔵をお願いと百回は言った。そして佐和ちゃんも元気でと五十回は言った。私はもうそれに勝手に傷つかない。姉さんらしいと笑ってしまうくらいだ。


 私は立ち上がって、できるだけ姉さんの近くへ寄って語り掛けた。


「姉さん、いなくなった時の話じゃなくて、手術が成功したら何がしたいか教えてよ」

「え?そんなこと言って叶わなかったら悲しいじゃない」

「そうやって口に出すことで意地でも手術成功してやるって気合いが入るでしょ!」


 私が両手を握り締めてふんと鼻息荒く言うと、姉さんはくすっと笑った。姉さんは病室の天井をふと見上げてもの想いにふけった。そうしてぽつぽつと、やっと姉さんを語ってくれた。


「もし、もっと長く生きられたら……重蔵と猫旅がしたいな」

「猫旅?」

「そう、猫を連れていろんなところを旅するのよ!小さいキャンピングカーで!ペットも一緒に泊まれるホテルとか点々としたり、色んな公園で遊んだりするのを写真に撮ってアルバムを作るのよ」


 姉さんが光に満ちた声でいきいきと語る夢を、私も想像してみる。私は首を捻った。


「あれ?その旅の間、重蔵ってずっとしかめっ面じゃない?」

「そうなのよ!私の妄想の中でも重蔵はいっつもシャー!って言ってるわ!」


 姉さんが私を見て目を大きくして大笑いした。重蔵はきっとあまり喜んだりはしないだろう。姉さんは涙が出るほど大笑いしてから、まだクスクス笑う。


「重蔵には迷惑だろうけど、猫旅、やってみたかった」

「猫旅、絶対、行ってね」

「行けるかな」


 私は喉にぐっとこみ上げたしょっぱい味を飲み込んで、力強く言いきった。


「行くんだよ」


 姉さんはそんな私を見て、潤んだ瞳で華やかに笑う。


「そうね!手術が成功したら、重蔵の本を抱えて、猫旅に行くわ!」


 姉さんの宣言が白い病室に響き、私は何度も大きく頷いた。姉さんは誰かのため、なんてしおらしいこと言っていないで、自分のためにこそ立ち上がればいい。それを見て私は、やれやれって言いたいのだ。


 未来を夢見た姉さんは行ってきますと元気に言って、手術室へと戦いに向かった。


 私はその日、朝から日が暮れるまでずっと手術室の前で座っていた。両手を組み合わせていた手の甲にはいつの間にか、爪が食い込んだ傷がついていた。仕事を終えて来てくれた直人におにぎりをもらって初めて、何も食べていないことに気づいた。


 それから手術が終わるまで、直人もずっと隣でいてくれてくれた。


 手術室から無事に息をして出てきた姉さんがベッドで運ばれていくのを見て、私はやっと息を思い出した。


 手術を執刀した医師から姉さんがよく頑張ったと聞いて、ありがとうございますと言ったまでは覚えている。


 だが、そこから家に帰るまでの道中はもう記憶が曖昧だ。直人が家の前まで送ってくれたのだと思う。 


 家に一人で帰ると、煌々とリビングには灯りがついていて、部屋は暖房で温かかった。重蔵がいると家はいつも快適な温度に保たれる。


 そんな恩恵を受けながら、私は重蔵がリビングの床で丸くなっているのを跨いでソファに直行し、脱力した。コートを脱ぎ捨ててごろんと寝転び、置きっぱなしにしていた毛布に潜り込む。もう何もできない。


 重蔵から視線を感じたがもう、睨み返す余裕もない。あったかい毛布に包まり身体をソファに預けると、気持ちが緩んでいく。私は大きく息をする。


 張り詰めていたものが一瞬緩んだその隙に、一粒だけ雫が頬を伝った。


 姉さんの命が終わらなかった実感に、理性の下をかすめてこぼれた一滴。私のその一滴を、重蔵が大きな目玉で見ていた気がする。けれど私は気がつかないふりをして、もうそのままソファで眠りについた。


 ふと気がついて目蓋を持ち上げると、一瞬ここがどこかわからなかった。


 ああ、ソファで寝てしまったかと思っていると、ソファが狭かった。身体が思うように動かない。何かにつっかかる。そろりと私のお腹らへんを確認すると、私のお腹のすぐ横、同じソファの上で重蔵が丸くなっていた。


 重蔵は毛玉の中からちらりと三白眼を開けて、私をじとりと見つめた。まるで動くなと言わんばかりだ。もしかして寒いから、私の側で暖を取っているのかもしれない。


 私は動くのも億劫で、またそのままソファに脱力した。私の呼吸のタイミングと違う、猫の呼吸の動きがお腹に伝わってくる。


 私と重蔵は仲良くもないのに、同じソファで寄り添いあって暖を分け合う。重蔵は私に情などなく、私が泣いたからと慰める意図もなく、ただ温かいからそこにいるだけ。私もいまだに猫の可愛さなどわからず、重蔵を撫でることもない。


 けれど姉さんの命の瀬戸際で佇み続けた私は、ただ生きて、あたたかい生き物がそこにいる気配に、どうしようもなく救われてしまった。


 私と重蔵は、日が高く上るまでずっと一緒のソファで眠った。





 姉さんの手術は成功という名の診断をもらい、姉さんは重蔵のSNSに毎日元気なコメントを投稿するまでに快調していた。


 姉さんは見舞いに来てあれを持ってきて欲しい、これを持ってきて欲しいとわがままを再開した。私はもうそのたびに笑ってしまっている。


 進級の春を迎え、猫田君は私の受け持ちではなくなった。だが、きちんと進級してくれて私はやり切ったと思っていた。


 春の日が差し込む廊下で、春休みを終えたばかりの猫田君に呼び止められた。猫田君の髪色は今も茶トラ色だ。


「タッキー!これ見た?!これ見た?!」

「何ですか猫田君、制服はきちんと着てください。もう先輩ですよ」

「そんなことよりこれだよ!やっぱわかってるよな本屋さん!」


 猫田君の手には、先日無事に出版された重蔵の写真集があった。


 重蔵の写真をメインに、私の投稿文も添えられている。加筆や修正もあって、私の時間がかなり取られた。出版するという姉さんとの約束を果たせ、やっと私の手を離れてくれて安堵していたのだ。


「『令和の清少納言とブサ猫のをかしな暮らし』買った?!」

「買いません」

「もうタッキーはそういうとこ人生損してるから!」


 大仰なタイトルに私は抵抗があったのだが、もう全部編集さんにお任せした。私には猫本の売り方などわからないからだ。


 隣に立った猫田君は私にページを開いて見せてくる。重蔵の顔など見慣れていて、その本も家に十冊ほどある。姉さんが退院したら全部押し付けるつもりだ。猫田君があるページを開いてにっと笑う。


「見てよここ!わろし!にくし!ってタッキーの授業でやったよね?!俺覚えてるっしょ?」


 春の光の中で猫田君の茶トラ色が透けて輝く。私はにこりと笑って猫田君を心から称えた。


「SNSからも、書籍からも言葉を見つける猫田君には、勉強の才能があります」

「やったぁ!俺、タッキーのそういうとこ好き!」

「ありがとうございます、中間テストはすぐそこですので。わからないところは早めに聞きに来てください」

「え、タッキー俺の担任じゃないのにいいの?」

「私はこの高校の教師で、あなたはこの高校の生徒ですよ?当たり前じゃないですか」


 猫田君の顔がパアッと春よりも明るく輝いた。授業の始まりを告げるチャイムが鳴り、廊下の角から南風さんが猫田君を呼ぶ。


「猫田~!行くよ~!」

「おうー!んじゃ、タッキーまたね!重蔵の本、また見せに行く!」

「その本より教科書を持ってきてください」

「この本も古典の教科書みたいなもんじゃーん!」


 猫田君が重蔵の表紙をした本を掲げて、廊下を走り抜けていく。たしかに彼の言う事は一理ある。どんな本でも教科書として学べば、人生は豊かだ。彼は軽やかで、柔軟で、若くて、これから先が楽しみだ。

 

 春が過ぎ、初夏を迎えるころには姉さんの退院のめどがついてきた。元気になって来ると、姉さんは外に出たい欲が増えた。姉さんの世話はどんどん手間がかかるようになってきて、私は最近姉さんのためにキャンピングカーを検索したりしている。


 そんな慌しい初夏の日に、私は穂香と前々から準備していた同人誌即売会に出店した。東京ドーム並みに広い体育館のような場所で行われる手作り文芸本のフリーマーケットのようなイベントだ。


 高い吹き抜けの大きな建物に所せましと長机が並んで、それぞれが自分の好きなものを書いた本を並べる自分だけの本屋を出店する。私と穂香は長机に作った本を並べて、二人で椅子を並べて座りそわそわと話し合う。


「ドキドキするね、佐和ちゃん」

「本当、ドキドキする」


 イベントの始まりを告げる明るい音楽の下で、私と穂香も朗らかに笑った。穂香が立ち上がり、そそくさと長机をくるんと回って私と向かい合った。


「イベント始まりました!では佐和ちゃん、お客さん第一号は私でお願いします!」

「いらっしゃい、穂香!オマケにポッキーもあげまーす」

「じゃあ私からも差し入れのひよこ饅頭あげまーす」


 私たちの店に客など誰も来ないことを知っていたので、私と穂香は二人でお店屋さんごっこに興じてきゃあきゃあ盛り上がった。特に誰も咎めない。みんな似たようなことをやっている。


 そうやって二人で盛り上がったあと、互いの本を読み進めたり、他の店を二人で回ったりしているうちに、結局、本は売れずに終了した。


 撤収して、同人誌を作ろうと決起会をした大人の女子のための焼き肉屋へ打ち上げに向かった。焼肉の網を挟んで向かい合いながら、私たちの手にはビールジョッキだ。私と穂香は笑顔でビールを打ち合わす。


「お疲れ様~!」

「本当にいろいろありがとう穂香~!」

「いえいえ~!」


 二人でビールをぐいぐい飲んで、喉にしゅわわと炭酸と苦みを行きわたらせてふわーと息をつく。互いにタイミングが重なってしまって、おっさんすぎると二人で笑い合った。


 肉が焼き上がるのを大人しく待っていると、穂香がふふふと思い出し笑いをした。


「お客さん一人しか来なかったね」

「もうその話やめない?」

「やめない。もうずっとおばあちゃんになっても語り継ぐ。絶対、次も来るでしょ、直人さん」

「来そう……」

「もう、佐和ちゃん乙女すぎるんだけど!私若返っちゃったよ!」


 穂香はがはがはと遠慮なく笑いながらビールジョッキ片手に肉も食べる。素人の本を買うお客などいないとはわかっていたのだが、たった一人お客が来た。


 直人だ。


 私が今日このイベントに行くと聞いていた直人は、こっそり買いに来るつもりだったらしい。けれど、店番は私なので余裕でバレた。詰めが甘いのがあの男だ。


 私が何やってるんだかと言い、背中を丸めてごめんと謝る直人を見てから、穂香はずっとにやにやしているのだ。


 今日はずっとテンション高くてご機嫌な穂香からトングを受け取って、私は肉の当番を代わる。私と直人の間に甘いものなどないのだが、今でも私の色恋沙汰に興味があるなんて、穂香は生粋の女子だ。


 良い色に焼けた肉を穂香の皿に乗せて、私もイベントをふり返る。


「本はさっぱり売れなかったけど、穂香はどうだった?」


 今回のイベントで、私は好きに字を書いただけだ。それ以外の手配は全て穂香がやってくれた。私は穂香がいなくては本を作り上げることすらできなかっただろう。穂香がもぐもぐ肉を噛む。


「本当はもっと売れるかなとか、ちょっぴり期待したけど」

「わかる」

「でもね、売れたか売れないかとかどうでもいいよ。佐和ちゃんと本を作るのがこんなに楽しいなんて思わなかった。またやりたい」

「うん、絶対またやろう。穂香の『光源氏に勝ちたい』の続編待ってる。恋愛要素もっと上げて」

「佐和ちゃんの『清少納言の歴史考察~をかしを読み解く~』はもっと難易度下げて。難し過ぎる」

「あはは!嫌だ!好きに書く!」

「え~!じゃあ私も好きに書く!」


 穂香と冗談を言い合いながら達成感の味がする肉をお腹いっぱいになるまで食べた。私は食後に苺アイスクリームをスプーンにすくって、穂香に皮肉を言った。


「よく考えてみたらさ、私がこんなに楽しんで作った本は直人のお情けで一冊売れただけなのに。重蔵の本はすごく売れてるとかおかしいと思わない?」


 穂香がバニラアイスを口に運びながらあははと笑い飛ばす。


「重蔵の本、ランキングずっと上位だもんね。重版ってやつ?」

「そう。私の皮肉が売れるならこっちの本が売れて欲しいのに」


 私は今日のイベントのために作った装丁に大人の資金力をかけまくった本を抱きしめて項垂れる。穂香が私のイベント本を指さしてくすくす笑う。


「その本難し過ぎるから」

「あ~ままならない!」

「ほんとだよね。でも、楽しかったから良いよね!」

「うん。ままならねぇまま、今日も酒を飲む!」

「なにそれ、おっさん~」

「居酒屋のご主人の真似」

「佐和ちゃん、飲みすぎ~でも私も飲んじゃお!」


 二人でもう一杯を注文して、私はビールの苦い喉越しと爽やかさを味わった。


 穂香と心ゆくまで飲んだ私が家に帰ると、夜のリビングでは重蔵が毛を逆立てていた。威嚇の鋭い声がおかえりの声だった。


「シャー!」


 意外だが、重蔵の威嚇相手は私ではなく本だ。


 リビングに置きっぱなしにしていた重蔵の顔が印刷された本。私と重蔵で出版したあの本だ。重蔵はそれをフローリングに突き落としたらしく、その本に向かってシャーしている。私は水を飲みながら、戦闘態勢を取る重蔵を眺めていた。


 重蔵は尻尾も耳を尖らせて、自分の顔が印刷された本と戦っている。


「その本は重蔵にとって敵か……わかる」


 水を飲み干した私は重蔵が、自分の顔が写った本を威嚇する様をスマホで撮影した。まだ重蔵が戦っている間に、さっそく投稿文を添えてSNSに投稿する。


『猫は本を敵だと見なす。私も本屋がこれ以上、猫本に侵食されるのは遺憾。初めて猫と気が合った。いとうとまし。』


 重蔵と仲良くするつもりはないが、妙なところで気が合ってしまった。だがご遠慮して距離を置きたい。そういう気持ちを乗せた文面に、さっそくネット民からのコメントがついていく。姉さんのコメントがあるかなとさらっとチェックする。


「出版してもなおブレないサワ、推せる」

「出版したくせに自作に悪態とは。をかし」

「本をお迎えしましたー!」

「重蔵ったら自分の顔にシャーしてカワイイ~!!」

「本屋に猫本増えたよね。わかる。猫好きには住みよい世界だけど、サワには……!笑」

「いたしかたなし~!」


 私は姉さんのコメントを見つけてそれだけに返信した。このコメントのどこかに猫田君が入っているのではないかと思うと少し笑ってしまう。SNSを閉じて重蔵の様子を確認すると、やっと戦闘は終わったようだ。


「重蔵、その本を座布団にすることにしたの?センスあるね」


 重蔵は自分の写真集の上に乗って座布団にして、ふてぶてしい顔をしている。姉さんに生きる気力を与えた奇跡の本だというのに、いまや座布団だ。本もまたこんなつもりではなかったのにと思っているかもしれない。


「はい、重蔵。今日のお菓子ね。重蔵が自分で稼いだお金だからじゃんじゃん使おう」


 印税で高級猫缶もお菓子もたくさん買ってやった。私はお金を重蔵と折半する責任を果たす。自分で食い扶持を稼ぐなんて、重蔵はできる猫だ。今までの冷房代と暖房代は全部返して頂いた。


 私が重蔵におやつのちゅるちゅるの袋を差し出すと、重蔵は私の手づからそれを舐め始めた。勝利の美酒的に食べているのかもしれない。そういえば、最近は私にシャーシャーする回数も減ったような気がする。


 けれど重蔵が私の側に寄ると、私の鼻はぴくりと動いた。


「あ、ちょっと重蔵、やっぱり離れてくれる?」


 あんまり近づくと猫の匂いがする。私はさっと手を引っ込めて、重蔵のちゅるちゅるタイムを一時中断させて立ち上がった。重蔵の顔がしゃっと変わり、お得意の威嚇声が出た。


「シャー!」

「シャー!じゃないよ、匂いするからあっちで食べて!」

「シャー!」


 私は重蔵のシャーを逃れてエサの皿に突っ込んでから、赤いボトルの消臭スプレーを振り撒き始めた。重蔵はちゅるちゅるを一時中断された恨みから、私を睨みつけていた。私はぷいと無視して風呂へ逃げた。

 

 私と重蔵はずっと、こんな感じだ。







 夏の盛りに姉さんは無事に退院して、秋が深まった頃、姉さんの誕生日を迎えた。


 今日は姉さんが重蔵を引き取りに来る予定だ。姉さんの誕生日を祝うために、私はケーキや手料理を用意して待っていた。


 約束の時間を十五分ほど過ぎたころ、姉さんは騒がしく私の部屋へやってきた。きっちり化粧を施して、地毛のショートヘアになった姉さんは肌の艶も取り戻していた。


 派手な花柄のシャツを着こなしたパンツスタイルの姉さんが、ソファで寛ぐ重蔵の前に両膝をついた。


「あぁ~!!重蔵!会いたかった会いたかった~!もう大好き!ママでしゅよ~!!」


 猫飼いは自分のことをママだと言ったりするらしいが、姉さんがそれをするのを目の当たりにするのは少々痛々しかった。


 けれどもう重蔵にでれでれする姉さんと、それを三白眼で見下す重蔵の構図がおかしくて私はさっそく写真を撮っていた。重蔵はうるさい姉さんの声から逃れるように自らキャリーケースに入って行った。


 以前の風邪騒動があってから、キャリーケースを玩具のように配置している。そこが安全な場所だと刷り込んであるのだ。直人に教えてもらった方法だ。


 あれから重蔵は三か月に一度くらいは風邪をひく。もう老猫なので、仕方ないと獣医の先生はいつも言っていた。


 姉さんは重蔵が自らキャリーケースに入って行ったのを確認して、ちゃっかりドアを閉めてしまった。今日は重蔵を連れて帰るのだから、それが良い。さすが飼い主だ。しっかりしている。しかし、私は首を傾げる。


「姉さん、まだキャリーケースに入れるの早すぎるんじゃない?一緒にご飯食べるでしょ?」


 姉さんはすっくと立ちあがって短い髪をさっとかき上げてから、きらめく笑顔で私をふり返った。


「佐和ちゃん!お姉ちゃん、今から重蔵と猫旅に出ます!」

「え?!そんなの聞いてないけど?!」

「ふふっ、お姉ちゃんからの誕生日、逆サプライズよ!」


 姉さんはデカいサングラスをかけて、重蔵のキャリーケースを片手に持ち上げた。姉さんは手術後から口を開けば、猫旅と言い続けていた。


 退院するとすぐにキャンピングカーを購入してしまい、私は行動力に驚いていた。だから、姉さんが猫旅に出るのは不思議ではない。


 けれど、一言、前もって言ってくれたらいいのにと思わずにはいられない。姉さんのために買ったケーキや手作りの料理はどうするんだ。


 私は大ため息をついて肩をすくめた。姉さんはこういう人で、私は姉さんのために料理作って待ってたのに、なんて言い出せない妹だ。私はキッチンの棚から、今日のために買って来た重蔵の猫缶を持って来た。


 きょとんとする姉さんに私は猫缶を渡す。


「これ、姉さんの誕生日を重蔵も祝いたいかなと思って。奮発して買っておいた猫缶。持って行って」

「わあ!ありがとう佐和ちゃん!すっかり重蔵がお世話になっちゃって!」


 姉さんは重蔵のキャリーケースを床に置いて、猫缶を受け取った腕で私をぎゅうと力強く抱きしめた。姉さんから花の匂いがする。ふくよかだった姉さんはすっかり平べったくなってしまったが、その細い背中を私もぎゅうと抱きしめる。私は姉さんの耳元で小さく告げた。


「誕生日おめでとう、姉さん」

「ありがとう、佐和ちゃん」

「気をつけて行って来てね」


 姉さんはぎゅっと私を抱きしめてから、ぱっと離れてスマホをふりふりして見せた。


「お姉ちゃんと重蔵の猫旅っていうSNSを始めちゃうから!フォローよろしくね!コメントも!」

「はいはい」


 姉さんは快活に笑いながら重蔵のキャリーケースだけを抱えて廊下を歩き出した。姉さんの意識はもう玄関の外を向いたまま、口だけが私に向いていた。


「佐和ちゃん、重蔵を大事にしてくれてありがとうね!佐和ちゃんの家にある猫ちゃんグッズはもう捨てておいて。旅は身軽に行くから!」


 姉さんは玄関で一度だけ立ち止まり、キャリーケースを私に見せつけた。


「ほら、重蔵。佐和ちゃんにいってきますは?」


 私がお別れだなとキャリーケースの中を覗くと、重蔵はちらりと私を見てぷいとそっぽ向いた。笑ってしまうくらい素っ気ない。私と姉さんは顔を見合わせてぷっと笑った。


「重蔵らしくてカワイイ!」

「最後までふてぶてしい」


 姉さんは明るく「いってきます」と告げ、重蔵はふてぶてしい顔のまま姉に引き取られて旅に出た。私はマンションのベランダから、姉さんがキャンピングカーに重蔵を乗せて出発するのを見送った。


 爽やかな秋風が吹くベランダで、私は高い青空を見上げた。


「あー行っちゃったなー!」


 私の苦労はありがとうの一言で済まされ、私は姉さんの誕生日を祝う席を持つこともできず、重蔵の片づけは丸投げ。


 私は猫グッズの残った部屋でぽつんと取り残された。いっそ清々しいほど置き去りにされて、肩の力が抜けた。私は部屋に戻り、猫グッズをひとつずつ捨て始めた。重蔵がいなくなったのだから、もっと部屋を広く使えるようになる。


 さくさく片づけを進めて、重蔵の寝床段ボールや猫砂を全部ベランダに放りだした。猫グッズが消えた部屋で最後に、赤いボトルの消臭スプレーを手に取った。


「これ、重蔵との暮らしに必須アイテムだったね」


 私が眉をひそめて赤いボトルとにらめっこしていると、スマホがぽんとなって呼び出された。私は赤いボトルを手にしたままスマホを手に取る。


 スマホに送られてきたのは重蔵と姉さんがキャンピングカーでドライブ中ツーショット写真。サングラスをつけた姉さんの底抜けに明るい笑顔と、しかめっ面の重蔵が写っている。


 姉さんは旅の相手に重蔵を選ぶ。姉さんの一番ではないことを見せつけられているというのにざらつきはなく凪いでいた。スマホを見ながら小さくつぶやく。


「姉さん、長生きしてよね」


 姉さんはどこまでも迷惑。けれど、楽し気に生きていてくれるなら、それ以上、望むことはない。きっと姉さんはまた私に「お願い、佐和ちゃん~!」をしにくるだろう。


 そのときは「長生きするならやってやる!」と言ってやろうと思う。


 晴れた笑顔の姉さんの隣には重蔵の姿。写真に写る重蔵の潰れた鼻と媚びない三白眼を見て、これまでの重蔵との暮らしを思い返す。結局、重蔵とは最後まで相容れなかった。


 でもともに暮らしたことで、重蔵はもう老体で調子が悪いときがあると知っている。


 おそらく重蔵は、姉さんとの旅の中で亡くなってしまうのだろう。


 姉さんもきっとそれをわかっていて、重蔵を旅に連れて行った。私は送られてきた写真を見ながらスマホの上で指を滑らせ、SNSにアップした。


『をかしきもの。姉の誕生日。不遜な猫は飼い主の元へ。猫の匂いは消えされど、赤のボトルが残りけり。


 私と猫のままならぬまま。』


 これが、最後の投稿だ。姉さんは回復した。このSNSはもういらない。私はSNSのアプリを削除した。私は赤いボトルの消臭スプレーを、しゅっしゅと部屋に撒きながら下手に微笑んだ。


 重蔵は旅先で儚くなる。

 重蔵にはもう生涯会わない。

 私と重蔵の暮らしは終わった。

 寂しくはない。


 けれど、少し広くなった部屋を見回した。消臭スプレーの香りが舞う。


 彼はここにいたなと、佐和はじんわり思う。


 もういらないが、赤いボトルを一つだけ、引き出しにしまった。



 姉さんが旅に出た次の休日に、私はふんわりしたスカートをはいて家を出た。晴れた秋空の下、歩いて住宅街の坂を上っていると、道端で茶トラの若い野良猫を見かけた。野良猫が鋭い目で私をじっと見る。


 私はひらひらと野良猫に向かって手を振ってみた。だがぷいと無視される。


 そうそう、私と猫はそうなるよなと思いながら「いとをかし」とふと笑う。


 私は道を軽やかにスカートをひるがえして歩いて行く。


 直人にしんどいなんて言ってからどれくらいたっただろうか。やっと直人の部屋に招かれた。遅すぎる。結局、私は猫が嫌いなまま。直人はどうにもずれたまま。本屋は猫に侵食され続ける。


 だけどそれでも、ままならないままを、ままならないままに、ちょっと皮肉ったりして笑って、暮らしていく。


 今日は直人の部屋で、揺れないモスグリーンのハンモックを見ておこう。




〈了〉



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