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だから、猫なんて嫌い。  作者: ミラ


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7/8

猫は世界を救う


 仕事を終えて最寄り駅に着くと、もう夜が訪れている。冬は日暮れが早いのでせわしいと思いながら帰り道を歩く。


 今日もきっと直人が重蔵の様子を見に来てくれるから、牛丼でも買って帰ろうと道すがらの牛丼チェーン店に入った。


 自動ドアをくぐると寒さから打って変わって、暖房のむっとした温かさに包まれた。見慣れた牛丼チェーン店の券売機の前で財布を取り出す。


「私は牛丼並みで、直人はカレー牛丼だな」


 私は特に迷うことなくメニューを選び、滞りなく商品をもらってまた寒い帰り道を歩き出す。牛丼たちを入れたビニール袋を胸に抱えると、ほのかに温かさと鼻をくすぐる砂糖醤油の汁の香りが伝わってくる。


 冷める前に家に帰り着こうと寒空の下を足早に歩く。急いで帰ると、私のマンションの、部屋の前で直人が立っていた。直人がマフラーに顔を埋めながら私に軽く手を上げた。


「おかえり、佐和」

「ただいま、遅くなってごめん。牛丼買って来た」

「……僕も食べていいってこと?」

「じゃなきゃ二つも買わないでしょ」


 私は牛丼の器が二つ入ったビニールをかかげて笑った。あいかわず直人は、ずれたことを言う。二人で家へ入ると、リビングでは重蔵がソファで丸くなり、毛布と暖房でぬくぬくしていた。


 寒い中、帰って来た人間にちらりと蔑んだような視線を向けてから、わざわざぷいと顔を逸らす。こちらもあいかわず、可愛くない。


「佐和、これ見て」


 重蔵の寝床あたりに屈んだ直人に呼ばれて足を向ける。エサの皿は空っぽで、水もしっかり減っていた。にんまりと口角が上がる。直人は私の顔を見上げた。


「もう僕の世話はいらなそう。重蔵、完全復活だよ」

「ふてぶてしさもね」


 私がそう言って眉をひそめると、直人はあははと口を開けて笑った。


 直人がこんなに笑っているのを見るのはいつぶりだろうか。ふわふわの鳥の巣頭が揺れると、私も揺れる。


 直人が重蔵のトイレを掃除したり、赤いボトルの消臭スプレーを振ったりしてくれる間に、私はレンジで牛丼を温め直した。ぼんやりと灯る淡いレンジの光を見ながら、直人とこの部屋にいる時間まで温め直している気がした。


 重蔵が本棚の上に上ったり、カーテンを引きちぎろうとし始めていたが、もう注意する気が起きなかった。風邪であんなにぐったりされてヒヤヒヤさせられるくらいなら、元気にイタズラに精を出してくれていい。


 その方がずっと楽だ。きっと明日には怒ると思うけど、今日は許す。


「いただきます」

「はい、どうぞ」


 重蔵が悪さをする横で、私と直人は牛丼を食べ始めた。直人のカレー牛丼の香りが強いのか、重蔵がやってきて、じろじろ直人を見ていて可笑しかった。


 私たちが座るテーブルの周りを重蔵がうろつく。私は牛丼を食べながら直人に笑った。


「狙われてるね、直人」

「重蔵はカレー嫌だったのかも。匂いキツイから」

「直人カレー好きなのにね」

「重蔵に嫌われそう……」


 しょんぼり眉を斜めに下げる直人は、本気で悲しそうだ。猫に嫌われるのがショックなのだろう。猫の影響力がすごい。重蔵に包囲されて、牛丼を口に運びながら、私はつぶやいた。


「私この前……直人の好きなものがわからないって言ったけど」


 直人に「しんどい」と告げて逃げ去った居酒屋での出来事を思い出しながら、私は甘辛い牛丼を噛みしめた。


「今日、カレー牛丼を自然と選んでて。直人がカレー好きって知ってるなって気づいた」


 直人は食べる手を止めて、私をじっと見つめる。私も顔を上げて直人の重めな前髪の奥を見返した。


「私は直人が猫好きって知らなかったけど。直人は車の運転が上手で、美術館と博物館なら博物館に行きたくて、映画を見るならホラーで。私が横でぎゃあぎゃあ言うのを見るのが好き。私、直人の色んなことを……知ってたよね」


 三年も一緒にいたのだ。そんな些細なことならいくらでも知っていたではないか。なのに、直人がわからないだなんて、直人がつまらないだなんて、一緒にいいるのがしんどいだなんて言い始めてしまった。


「私、直人にしんどいなんて言って……ごめんね。なんか全部を嫌な方向で見ちゃってた」


 するりと「ごめん」が自分の口から出てきたことに、私が驚いてしまう。こんなの言い訳だが、あの時の私は全てに追い詰められているような気がして、疲れていたのかもしれない。


 直人は居住まいを正して、私に澄んだ声を返してくれた。


「佐和にそういうこと言わせたのは、たぶん僕のせいで……僕が考え事ばっかりしてたから。不安にさせたんだろうなって……だから、僕こそごめん」


 直人が鳥の巣頭をこちらに向けて深く下げる。


 そういえば、直人が私と会うたびに気もそぞろだったことを思い出す。その態度が私のとげとげした感度を上げたのは事実だった。私が黙っていると直人の重い口が動く。


「こ、これは言い訳だけど……佐和にしんどいって言われた少し前から、もう飼い猫の調子が悪くて……ずっと心配で」


 直人は声を詰まらせながら、たどたどしく話していく。


 私といる時間より猫を心配していたのかと以前の私なら怒っただろう。けれど今はわかるのだ。命が家で待っているという重圧。私は直人の気もそぞろだった理由に納得できた。


「もういつ、何があってもって獣医の先生からずっと言われてて……」

「そう、だったの……今は、大丈夫なの?」


 直人の猫の調子はずっと前から悪かったようだ。なら、今はどうなっているのだろうか。直人は落ち着いているように見える。


 顔を上げた直人は、眉間に皺を寄せて沈んだ声を出した。


「もう……亡くなったんだ」

「え……」

「佐和と待ち合わせした日に急に悪くなって……一週間後にそのまま」


 直人の沈痛な面持ちと震えるような声に、直人が受けた喪失の味がする。


 直人が連れて行ってくれた動物病院で、看護師さんと直人は顔見知りのようだった。よくあの病院に通っていたのかもしれない。なんと声をかけたらいいのか考え込んでいると、直人がスマホを持ってきて写真を見せた。


「あの、びっくりさせるかもしれないけど……これ、僕の猫」

「……これって、まさか」


 私は直人が見せてくれた写真に食い入った。初めて見る顔ではなかった。


 その写真に写っていたのは、モスグリーンのハンモックに揺れる、後ろ足のない白猫だった。私は写真と直人の顔を何度も見比べて、混乱する。


「え、え?直人がこの白猫の飼い主なの?」

「そう……」

「直人が猫男なの?!」

「黙ってて……ごめん」


 直人がしゅんと猫背を丸くして肯定する。私は唖然としてしまう。


 私が重蔵SNSを始めた当初から、猫男はずっとダイレクトメッセージを送り続けていきていた。妙に近い距離感の人だった。それはそうだ、だって彼女へのメッセージなのだから。


「ど……どうしてそんなことするのよ……」


 私の振り絞った声はどうにも小さかった。だが、直人の声はさらに小さかった。


「……佐和と、つながりを切らせたくなくて」


 直人の背中はどんどん丸くなる。重蔵はそんな直人を見ているのが面白いのか、なぜか直人が座る椅子の下で丸くなっていた。


 私は両手で顔を覆って頭をぐるぐる巡らせた。


 私がしんどいと突き放したから、直人は私の気を惹こうと、猫男として清少納言風のメッセージを送ってきたということか。


「なんて、回りくどいことを……」

「ごめん……」


 直人が深く項垂れてしまい、私にはもう彼の頭頂部しか見えなかった。けれど、直人ならそういうことをやりそうだと思ってしまった。


 私に名前を覚えてもらおうとして、名札をわざとつけっぱなしにするようなところがあるのだ、この男は。


 だが、策士のようにしたたかなのに、押しきれない不器用さを兼ね備えている。


 猫男も結局、私にはブロックされてしまった存在だ。けれど思い返してみれば、重蔵が風邪をひいたあの日。


 タイミングよく直人が部屋の前に立っていた。


 あれは猫男に、私が初めて返信した翌日だ。私が猫男に送ったメッセージが、直人をあそこに来させるきっかけを与えたのかもしれない。


 私は直人に言いたいことがたくさんあるような気がした。もっとやりようはあっただろうと言いたかった。けれど、私は飲み込んだ。


 だって思っていたよりも私はずっと、直人に想われていたようだから。


 しかし、あまりの不器用さ。これからも直人とやっていくのは大変そうだと確信する。彼といる限り、私はやきもきし続けるのだろう。そんな予感は濃い。それに気になる点はまだある。


 どうやって重蔵SNSを見つけたか。でも実は、もう私の中に答えはあって、答え合わせをするだけだ。おそらく、重蔵SNSの存在を教えたのは姉さんだ。姉さんと直人はLINEでつながっていると言っていた。


「もしかして、姉さんは直人が猫好きって知ってた?!」

「……うん。入院してるのも、今の病状も聞いてる」

「もう姉さんったら!」


 私は姉さんの存在感の大きさに大ため息をついて天井を見上げた。そして全部飲み込んで、息をついて、たった一言、直人に感想をぶつけた。


「……をかし」


 直人はますます背を丸めて項垂れた。重蔵はもう直人に興味を失くしたのか、さっさと寝床へ帰っていった。





 猫男が直人だったと、彼が告白した次の日。

 直人は私の部屋に来なかった。


 仕事を終えて、真っ暗で寒い冬道を歩いて帰ってきた私は、誰も待っていないドア前で白い息をついた。今日は弁当を二人分買って来たというのに、どうしてくれるんだと思いながらも、実は今日は来ないだろうと予想していた。


「そういう男だよね、直人は」


 私はははっと乾いた笑いをこぼしながら部屋へ入る。


 重蔵がだらんとして毛皮の座布団のように溶けているリビングで、弁当を置いてマフラーを外した。直人が来なくなった理由はわかる。ここに来る名目がなくなったからだ。


 重蔵は私を一瞥しただけで、暖房の風が一番あたたかいところでくつろぎ続けている。重蔵が回復したので、重蔵の世話という名目でやってきていた直人は来れなくなったのだ。


 つまらない男だ。正面切って何も言えず、ちょっと知恵を使ってみたかと思えばすぐ逃げる。私は二つ分の弁当を見つめて唇を噛みしめた。


 私に会いに来たと言ってくれたなら、ドアを開けるというのに。


 私は直人を選ぶ限り、こうやって何度でも煮え切らない想いを抱えることになるだろう。わかっている。直人は変わらない。私もそんな直人の不器用なところを全部受け取れるほどの度量はない。


 きっと何度だって嫌な気持ちになって、つまらない男って叫びたくなって、しんどいって言い続ける。堂々巡りだ。人は変わらない。


 私がコートを脱ぎかけたまま手を止めていると、重蔵がでぶい体でぴょんとテーブルの上に乗った。なぜか私の顔をじろりと睨んだまま、すすすと前足で弁当をテーブルの崖へと突き落そうとする。


 重蔵が睨む。私に止まれと圧をかけてくる。弁当が奈落へ進む。


「じゅ、重蔵やめ……!」


 すすすと進んでいく弁当が転落する寸前で、私は弁当のビニールをひっつかんでを弁当を救出した。


 ハッとでも言うように重蔵は三白眼でぎろりと私を睨んでから、華麗にテーブルを飛び降りて行った。確実に私の弁当を始末しに来ていた。一体何がしたいんだ。


 私は危機一髪だった弁当をぎゅうと抱きしめた。


「いやだ……」


 私はその弁当が飛び降りるのが嫌だった。食べられなくなるのが、嫌だった。その二つの弁当を、一人で食べるのが、嫌だった。


 重蔵はただこの弁当を落とす遊びをしたかっただけだ。なのに、私にそんなことを気づかせた。


 これだから、猫なんて嫌いだ。


 直人とまたやり直す道は、良いことばかりではない。

 また、ままならない彼との時間が待っているのがわかる。


 けれど、私は今、この弁当を直人と食べたい。


 私は弁当の袋を持ったまま、脱ぎ掛けのコートをまた着て外に飛び出した。外に出ると一気に冬の風が吹きつける。


 冷たい現実が私を迎えているようだ。けれど私は寒さに身を投じ、マンションの廊下を駆け抜けた。エレベーターを待っていられなくて、階段で駆け下りる。


 駅前の居酒屋に行ってみよう。もしかしたら、直人がいるかもしれない。


 そう思いながらマンションの玄関を抜けて、痛いくらい寒い風の中を駅前へ向けて走り抜けようとした。その時、私を呼び止める声が響いた。


「佐和?!」


 振り返ると、マンション前のガードレールに寄りかかっていたらしい直人が私を見つめていた。マフラーに顔を埋める鳥の巣頭は、街灯の光に照らされている。光の下で私に一歩一歩と近づいてくる直人の頬も鼻も耳も、寒さであかぎれていた。


「どうしたの、そんな慌てて」


 直人が首を傾げる。私には聞かなくても、直人がなぜこんなところに立ち尽くしていた理由がわかってしまった。


 私の家に来ようとして、ここまで来たくせに、拒否されるのが怖くてインターホンを押せなかったんだ、この男は。


 不器用もここまでくると、笑えるではないか。


 でもそれでも、ここまで来てくれていた。


 それが胸をあったかくした。今一歩、足りないところは、私が見方を変えたらいいではないか。待ち合わせ場所はきっと、最初からここだったのだと。


「……何かあった?」


 私は直人の白い息と、あかぎれた鼻先を見つめた。


 私の欲しいかたちではないのだけれど、直人は直人なりに私を想っている。きっと直人から見ても、私から欲しいかたちのものは受け取ってないのだろう。


 私は直人が望むように変わるべきだろうか。

 直人は私が欲しいかたちで伝えるよう努力すべきだろうか。


 しかし、そうして互いに背伸びを要求し続けるとまたきっと、期待が裏切られて歪む予感がある。


 直人は私に猫を好きになって欲しいとは言わない。こんなにかわいげない私に直人は一度だって「変われ」とは言わなかった。


 ここへ来てくれた。それが全て。


 だからたぶん、私と彼の間に必要なのは「これでいいか」の懐ではないか。


 どうやってもずれる私と直人を一歩引いて「をかし」と皮肉る。ずっとSNSでやってきたことだと気づいた。


 完全には重なりあえない。

 すれ違う。ずれる。ままならない。


 でもそれでも、一緒にいようよ。それが私と、直人だ。


「佐和?」


 直人の顔を見て黙り続ける私に、直人が何度も呼びかける。私は寒風に吹かれてなぜか少し目頭を熱くしながら、首を振った。


「何もない。直人が来るのが遅いから、迎えに行こうと思っただけ」

「佐和……」

「弁当二つ買ったんだから、来てくれなきゃ……困るじゃない」

「……うん、ごめん」


 私は寒さと熱さで零れそうになる鼻をすすりながら、直人に笑いかける。直人も目を少し潤ませて、微笑んだ。


「僕も佐和と、ご飯食べたい」


 冬の夜に冷え切った私たちは、重蔵が待つ部屋に帰って一緒に弁当を温め直した。


 二人で向かい合って、あったかい弁当を食べた。のり弁の海苔がすっかりくたくたなのが、どこも完璧ではない私たちみたいで笑えた。





 一緒に弁当を温めて食べた日から、直人は毎日私の家に顔を見せるようになった。仕事帰りに待ち合わせをしたり、直人がご飯を買って来てくれたりしている。


 そうして一緒にご飯を食べたあと直人は、私の部屋で猫を愛でる。


 今日は私が作ったカレーを二人で食べた。夕食が終わったカレーの残り香がするリビングの端で直人は椅子に座って缶ビールを飲む。


 重蔵の寝床段ボールからやや距離を取って置かれたその椅子に直人はじっと座って、たまに動いてビールを飲む。直人いわく、猫の距離感を大事にした仲良くなる方法らしい。


 直人は本当にビールを飲むだけで、重蔵に呼びかけたりは全くしない。だが、重蔵はやはり異物の直人が気になるようだ。


 直人の周りをくるくる回ってみたり、直人の椅子の下を通ってみたり、今は本棚の上に乗って、上から直人をシャーと威嚇している。そうやって直人という置物が無害なのか試し続けていた。直人はふふっとにやついている。


 愛猫を亡くしたばかりの直人は一人の家に帰るのが切ないらしく、重蔵に素っ気なくされても威嚇されても、ふふっと笑むだけだ。猫好きの気持ちはわからない。


 私はその滑稽な直人を、遥かに離れたリビングテーブルに座って眺めていた。あんなにリラックスした直人を見ることはなかなかない。私は直人の横顔をスマホで撮影した。


 緩んだ直人の横顔写真を保存する。真っ青のビール缶とノートパソコンを置いたテーブルに頬杖をついて、本棚から下りてきた重蔵が直人にちゅるちゅるのおやつをもらうところをスマホで撮影した。


 私がずっと世話をしているというのに、重蔵は私の手からおやつなんて食べたことがない。重蔵はちゅるちゅるを奪うものだと思っていたわけではなく、ただ私と仲が悪いだけらしい。


 最近ずっと休んでいたSNSに投稿する。


『猫は客人を威嚇す。されど客人は怒りを知らぬ。ようよう猫も折れたり。手づから菓子を食す。懐きたる様、いまだ見ぬものにて、いとにくし。』


 姉さんはきっとこの投稿を見て、重蔵の回復を喜ぶだろう。投稿を済ませると、すぐにいいねがたくさんついて、コメントも盛況だ。


 世の猫好きたちは今日も元気そうだ。画面上はただの数字なので実感はないのだが、いつのまにかフォロワーは三万を超えている。もうしばらくしたら、姉さんのコメントを掘り出す作業をしようと思っていると、ダイレクトメッセージが届いた。


 なんと、猫男からだ。


 私は片眉を上げながらちらりと直人を見ると、いつの間にか重蔵を膝に乗せて撫でながらスマホを片手にしている。ダイレクトメッセージを開いてみる。


『佐和が重蔵と暮らして猫好きになってくれなかなって、最初は期待したんだけど。絶対に猫嫌いがブレなくて僕おどろいたよ』


 どうして今そこにいるのにダイレクトメッセージを送るのかわからないが、これも直人なりの遊びだと解釈する。


 そういえば、猫男が本当に猫が嫌いなんですねと言っていたことがあった。直人は私が猫嫌いだと知っていたが、あまりに芯が通っていて驚いたとそういう意味だったか。私もダイレクトメッセージを返信する。


『直人は私の部屋に遊びに来ているのに、猫を愛でるだけ。だから、猫なんて嫌い。』


 メッセージを送ると、ぱっと既読がついて、直人がぱっと顔を上げて私を見る。


「あ、あの僕、ごめん」


 直人は不躾なことをしたと今更気づいたらしく、私はふふっと笑ってしまった。


「冗談。本当に怒ってないから気にしないで。直人が猫見てるのを見てるの、悪くないよ」

「ほ……本当に?嫌になるなら、先に言って欲しい……嫌なことしたくない」

「はいはい、言うから。重蔵と遊んでて」

「ウー」


 重蔵は直人の撫でる手が止まったのが不服らしく、低い声で唸った。もっと可愛い声でおねだりすればいいのにと思うが、直人は笑う。


「よしよし、撫でるから唸るなって」


 直人の爽やかな笑顔。私にはなかなか見せない顔だが、別に私に向いていなくても私はその顔を愛でればいいではないか。


 そう、全部、私の思い通りになんていかない。でもそれでも、彼の笑みと缶ビールは、美味い。


 缶ビールをぐいっと飲み干して私も笑う。私はご機嫌な重蔵と彼氏を目の端に入れながら、懐かしい猫男とのダイレクトメッセージを遡っていった。


 直人からだと思い直すと、どのメッセージも笑えて仕方なかった。


 そうやってメッセージを一つずつ読み直していくと、ずっと前に埋まっていたひとつのメッセージを掘り当てた。


 私は缶ビールを片手に、その文面を何度も読み直した。直人以外に私に届いたダイレクトメッセージは、この一通だけだ。


『出版のご相談』


 ビールを喉でこくりと鳴らす。出版の字が、猫田君たちが学校で大いに騒いでいた声を思い出させた。


『写真集出して欲しい!』

『猫は世界を救うんだよ?!』


 直人がまたダイレクトメッセージを送ってこなければ、見ることがなかっただろうその一通を見て私は閃いた。もしかしてこれは、使えるのではないだろうか。


 私は重蔵とじゃれる直人に声をかけた。


「ねぇ直人……」

「ん?」

「猫は世界を……救うと思う?」


 私の途方もない問いに、直人は首を捻った。それから重蔵を撫でた彼は深く丁寧に頷く。


「僕、ずっと後ろ足のない猫を飼ってきて、健気に生きる様に勇気をもらってきた。あの子がいたから、佐和と隣に座ったりできたんだと思う」

「応援してもらったってこと?」

「僕はそう思ってる。それに重蔵にも、佐和との仲を取り持ってもらったと思ってるから」

「偶然よ」

「そうだね。でも猫は……僕の世界を、本当に救ったよ」


 直人はゆっくりとした手つきで重蔵の喉をごろごろ鳴らした。猫好きにとってそれは真実らしい。私はダイレクトメッセージをもう一度見つめて、頷いた。


「直人、私もやってみる」

「何を?」

「猫で、世界を救うってやつ」


 私はさっそくダイレクトメッセージに返信をした。猫なんて嫌いだ。でもきっと猫にしか、姉さんの未来は救えない。






 寒凪のほの暖かい晴れの日に、私は直人の車に乗せてもらって、姉さんの病院を訪れた。道中の車の中で緊張しっぱなしだった私の隣で、直人は静かにうんうんと話を聞いてくれた。


 何の面白みも、気の利いた言葉もない。けれど私は、直人が一緒に病院まで来てくれて助かった。


 駐車場に車を止めて、直人と一緒に病院のエントランスへ入った。私は足を止めて直人に向き合った。


「ここで待っててくれる?」

「一緒に行こうと、思ってたけど」

「ありがとう。でもこれは、私と、姉さんの勝負って言うか。意地のぶつけ合いだから。一人で行って来る」

「……わかった」


 直人が静かに頷いて、両手をきゅっと拳にして気合を入れる私を見つめた。


「ここで待ってる」


 直人の澄んだ声に私はふっと笑って肩の力が抜けた。


「直人がそう言うと、明日の朝までも待ってそう」

「待ってるよ」


 直人は私の冗談を受け止めたのかわからないくらいまっすぐ返事をくれた。そういうところがあったかい。


 直人とそこで別れて、私は一人で姉さんの病棟へと向かった。


 今日こそ私は、姉さんに、わがままを突き通す。


 狭苦しい面会室に入って透明の板の前に座る。するとほどなく姉さんが看護師さんに付き添われてやってきた。今日も姉さんは花柄のパジャマが眩しくて、ばっちり化粧をしていた。姉さんはつけ慣れたウィッグを揺らして華やかに笑った。


「佐和ちゃん、この前は重蔵の看病ありがとうね~!大変だったでしょ」

「うん。でも直人が手伝ってくれて……なんとか」

「仲直りしたんだ!良かった!」

「直人から聞いてるくせに」

「あら?直人君そんなことも言っちゃうようになったの?うふふ、お姉ちゃん嬉しいわ」


 姉さんはふふふと笑いながらぺろりと舌を出す。無邪気に私に内緒ごとをする姉さんは、私といつも心配していてくれたようだ。


 勝手に直人と繋がって猫語りをしながらきっと、私をよろしくと何度も言っていたのだろう。


 そうやって終わりの準備をし始めている気配を、私だって察している。けれど私は、姉さんの思い通りの美しい終焉を許さない。私は息を整えてから真剣な声を出した。


「姉さん、この前の……もう手術はしないって話だけど」

「もう佐和ちゃん!せっかく会える短い時間に、楽しくない話はしたくないわ!それより重蔵の」

「そうよ、姉さん。重蔵の話をしよう」

「え、珍しい!佐和ちゃんから重蔵の話、聞きたい!」


 手術の話をしようとすると逸らそうとする姉さんだが、こっちには重蔵がいる。重蔵の話から、姉さんは逃れられない。


 姉さんはわくわくと生気のこもった瞳を私に向けた。私は姉さんの耳が疑いようもないように、はっきりと口にした。


「重蔵の写真集を出版することになった」

「え?!えー?!本当に?」

「本当。これを見て」


 私は姉さんにスマホでメール画面を見せた。姉さんは食い入るように透明の板のぎりぎりまで寄ってそれを読み込む。


 画面には「出版決定」の文字が躍っている。


 SNSのダイレクトメッセージでつながった出版社の編集さんと直接メールを使って話し合いをしたのだ。

 編集さんはずっと重蔵SNSを見続けていたらしく、重蔵SNSの人気ぶりと私の書く古文風投稿文の皮肉も絶賛だった。


 私が出版に乗り気だと聞くと、すぐに正式な企画を立ち上げて出版までの道筋を提示してくれた。


「ほ、本当に重蔵が本になるの?!嬉しい!ありがとう佐和ちゃん!」

「姉さんのためじゃない。これは私のための出版なの」


 姉さんはマスカラばっちりの目でぱたぱたと風を起こした。


「え?そうなの?でも佐和ちゃん、本屋に猫の本いっぱいあるの怒ってたじゃない。なのに頑張って出版してくれるってどう考えても……お姉ちゃんのため」

「違う」


 私は姉さんの甘ったるい声に、バシンと苦い声を重ねる。姉さんの言う通り、本屋が猫で侵食されていることに危機感を訴え続ける私にとって、この出版は不本意極まりない。


 けれど、そんな私の信念を曲げてもなお、私には欲しいものがある。


 私は姉さんの薄茶色の瞳を強く見つめた。もう睨んだという方が近いかもしれない。


「姉さん、手術をするって約束して」

「ど、どういうこと……?」

「一か八かの手術に挑戦するって約束してくれるなら、私が重蔵の本を出すから」

「さ、佐和ちゃん……どうしてそんなこと言うの。お姉ちゃん……」

「姉さんの気持ちはわかってる。長生きしたくないって言うんでしょ?でもね、私は違うの。私が欲しいのはそんなものじゃない」


 私は透明の板の向こうへと強く声を紡ぐ。強く伝えようと思うと、目頭にぐっと圧がかかって、視界が滲む。


 私はぐいっと袖で目を拭いてから姉さんをまた見つめる。だんだんと声が荒くなるのを抑えられない。


「私が欲しいのは、いつだってわがままばっかり言って!私に迷惑がられてもずっとふわふわ笑ってる姉さんだよ!迷惑かけないように気を使って死んじゃう姉さんなんて、欲しくないから!」


 私の声を受けた姉さんの顔がぐにゃりと歪む。いつだって、姉さんには私の気持ちなんてこれっぽっちも伝わらない。だからこそ、私は精一杯伝える努力をしなくちゃいけない。なりふり構っていられないのだ。


「こんなときばっかり潔くならないでよ。欲しがってよ、重蔵の本。欲しいでしょ?用意するから、私がんばって作るから……だから、生きてよ。生きようとしてよ」


 私が透明の壁にそっと手を当てると、姉さんの目からぽろぽろと雫が落ちた。姉さんが慌てて目をこすると化粧が滲んで、姉さんの顔は格好がつかないものになってしまった。


 けれど姉さんの目から落ちる粒は止まらなかった。ひっくと姉さんがしゃくりをあげる。


「佐和ちゃんの意地悪……お姉ちゃんもう、治療が嫌なのに」

「そう!私は意地悪な妹なの!手術を受けないなら、重蔵の写真集なんて一生見られないからね!姉さんの仏壇にだって供えてあげないんだから!」

「ひどいよ、佐和ちゃん……!」

「だから、わかるでしょ……?」


 姉さんが花柄のパジャマの袖で顔を拭うたびに、姉さんの化粧が剥がれていく。姉さんが肩を震わせるのを見ても、私は透明の板に手を置いたまま折れない。絶対に譲らない。


「重蔵の本を見たいから生きたいって言ってよ……!」


 私の目から大粒の雫がぼとりと落ちてしまった。私と姉さんを隔てる透明の板。私がその板に当てた手の平に、姉さんの手の平がゆっくりと重なった。姉さんの甘い声が、濡れていた。


「見たいよ!重蔵の本なんてすんごいものを、見ないと死ねないよ……!佐和ちゃんの意地悪ー!」

「お姉ちゃんだって、いっつもわがままばっかりなくせに!こういう時だからこそ誰より欲しがってよ!何でわかんないのよ!もう!めんどくさいなぁ!」

「佐和ちゃんの口が悪いよー!お姉ちゃん泣いちゃうから~!」

「いくら泣いたって、ここだけは譲らないから!」


 私と姉さんは透明の板を挟んで悪口を言い合った。でも、透明の板を隔てて重ねた手はいつまでも、離さなかった。


 面会時間の十五分を過ぎると、面会室のドアを開けて看護師さんが姉さんを迎えに来た。真っ赤な目をして、化粧がぐちゃぐちゃになった姉さんを見て、看護師さんはぎょっとしていた。


 けれど姉さんはふわりと笑った。


「主治医の先生とお話できますか?私、生きなくちゃいけなくなったんです。だからその……やっぱり手術受けたくて」

「え!本当ですか?!すぐ先生を呼んできます!」


 若い看護師さんはパッと表情を明るくして大きな声で返事をしてくれた。狭い面会室を一気に明るくしたその声に私と姉さんは顔を見合わせて笑ってしまった。


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