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だから、猫なんて嫌い。  作者: ミラ


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6/8

直人


曇天の寒い朝を迎えて、浅い眠りでだるい身体の私はしぶしぶベッドから抜け出した。さすがに重蔵のエサを用意しなくてはいけない。


 暖房を一日中かけっぱなしのリビングに入ると、重蔵は寝床の毛布入り段ボールで丸くなってまだ寝ていた。寝ているなら無理して起きなくて良かったなと思いながらエサの皿を確認すると、まだエサが残っていた。


「……お腹空いてないのかな」


 定量にするために皿にエサを少しだけ足して、猫砂を掃除して簡単に世話は終了した。重蔵は私ががさごそ作業していることに気づいているはずなのに、私を睨まなかった。ラッキーだ。さすがの重蔵も寒い朝はケンカを売るより、寝ていたいのだろう。


 私も重蔵と同じく食欲がなく、食パンを一口かじっただけで朝食を終えた。窓の外は暗い冬空で寒く、外に出るのも億劫だ。


 だが、今日は穂香と会う約束をしていた。同人誌をどのイベントで発表しようか相談する予定だ。


 会う時間も場所も決めてある。約束は夕方なのでまだ時間があった。執筆を進める気力もなく、私はソファに身体を預ける。


 昨日は身体が冷えきって、眠りも浅く足りていない。疲れの取れないだるい身体がずっと重い。出かける時間まで寝ようと置きっぱなしのブランケットにくるまって、私はソファに沈み込んだ。


 何度も思い返す姉さんの笑顔が重くて動けない。きっと私が何を言っても、もう考え直してくれないのだろうなという予感がある。


 溜まった疲労に吸い込まれるように意識を奪われて、ふと気がつくと時計は三時を回っていた。ソファで長時間寝てしまったせいか、みしみしする体を起こすと、ふと違和感。


 私はきょろりと部屋の高い所を見回す。動くものの気配がない。


 重蔵がいない。


 朝はゆっくり寝ていたのだから、今頃はうろうろして遊ぶ時間だ。けれどパッと見てどこにもいなくて、私は立ち上がって寝床の段ボールを覗き込む。


 重蔵がまだ、段ボールで丸まったままだ。今朝と体勢が変わっていない。


「うそ……」


 幼い頃、私の家に一晩だけいた子猫。


 翌朝、もう動かなくなった姿と重蔵が重なる──血の気が引いた。


 私は段ボールの前に両膝をついて、段ボールを激しく揺らす。


「重蔵?重蔵、どうしたの?!」


 大きな声で呼びかけるが、いつもの三白眼が睨んでこない。けれど、少しだけ耳がぴくりと動いた。良かった、生きてる。


 でもどう見てもいつもの重蔵ではない。何か異常が起きている。


 私は毛布ごと重蔵を胸に抱きかかえてリビングを飛び出した。上着も鞄も何も持たずに廊下を走り抜けて、重蔵の重さと温かさだけを抱いて玄関を押し開ける。寒い風がびゅうと私の顔に吹きつけると、玄関ドアががつんと何かにぶつかった。


「痛ッ!」

「え!」


 玄関ドアから身体を出すと、ドアの前には直人が立っていた。今日も鳥の巣のような黒髪をした直人は額を手で押さえている。


「直人、どうしてここに」

「あの……」


 額に手を当てたままの直人がもごもごと何か言いかけたが、待っていられなかった。連絡を無視し続けた私に直接会いに来たのだろうとあたりはつく。けれど私は今、それどころではなかった。


「今忙しいからまた今度にして」


 重くてずり落ちそうになる重蔵を抱え直す。私は直人に言葉を投げつけて横を通り過ぎた。


「待って、佐和!」


 肩を掴まれて引き止められた。背の高い直人をふり返ると首が上を向く。直人の涙目が真剣に私へ向いていた。直人が私の胸元へ向けて指をさす。


「重蔵、どうかしたの?風邪?病院連れて行くならキャリーケースに入れないと。重蔵は激しそうだから、逃げたら絶対捕まえられないよ」


 直人がはきはきと話して、鍵もかけずに開けっ放しだった私の部屋のドアを開ける。私は口を半開きにしたまま、ずり落ちる重蔵を抱き直す。


「そ、そうなの……?」


 直人は猫背を伸ばしてすっと立って、私を中へ促すように頷いた。私は直人の声で少しだけ平静を取り戻して、もう一度部屋に入った。


 直人も部屋に入って、キャリーケースに重蔵を入れるのを手伝ってくれて、私に上着を着るように言った。私は言われてやっと気づいて動くのを繰り返した。


 指示がないと何もできないくらい私は混乱していた。上着を着て貴重品も持った私が玄関へ向かうと、直人は片手に重蔵のキャリーケースを軽々と持って待っていた。


「休日にやってる病院は少ないから、僕の知ってるところに連れて行っていい?」


 直人はまるでこんな状況に慣れているかのようだった。直人の相談のような決定の言葉に、私は頷いた。こういうときは決めてくれるのが楽なことなのかと初めて知った。


 直人はスマホでどこかへ短く電話をかけてから、病院へと車で連れて行ってくれた。私は直人が運転する車の助手席で、重蔵が入ったキャリーケースを祈るように抱きしめていただけだ。



 まるでオシャレなカフェかと見間違うような外観の動物病院に到着した。待合室は明るい光に満ちて、開放的な窓が印象的だった。大きな窓の外がどんどん暗くなり、重蔵を診てもらうことができたのは日が完全に暮れたころだった。


 やっと診察室に呼ばれて立ち上がると、直人も何も言わず一緒に立ち上がって付いて来てくれた。診察室に向かう途中で、なぜか看護師さんが直人に声をかけた。


「あら、日野さん?どうなさったんですか?」

「あ、その……今日は違う猫を診てもらいに」

「そうだったんですか。そちらも心配ですけれど……日野さんもご自分を労わってくださいね」

「ありがとうございます」


 直人と看護師さんが交わした会話の内容が聞こえていたが、私は重蔵のことしか考えられなくて足早に診察室へと入った。直人も半歩遅れて一緒に診察室へ入ってきた。


 色黒でがっしりした獣医の先生が診察台に乗った重蔵を診てくれて、私に診断を伝える。


「簡単に言えば、風邪ですね」

「お、大きな病気とかでは」

「今のところ大きな病気の所見はないですが……」


 先生は渋く眉を顰めながら、私が重蔵の情報を知っている限り書き込んだ紙をじっくり眺めた。


「十二歳ですか……」


 言葉を選ぶような間があってから、先生の黒い瞳が私を見つめる。


「全体的に年を取った体の疲れという感じですね。どこが、というより、全体的に少しずつ限界が来ていると思ってもらうといいと思います」

「し、死期が近いとか……」

「高齢の猫はいくら健康に気を使っても、突然の別れがありえます。けれど……」


 肌の色が濃い先生がちらりと重蔵に視線を移すと、重蔵がぎろりと鋭い視線を返す。先生はにっと白い歯を出して大きな口で笑った。


「重蔵くんは強そうですので、がんばってくれるだろうと思います!」


 重蔵は先生を睨みつつ処置を受けて、私はほっと胸をなでおろした。直人はずっと何も言わずに私の横に立っていてくれた。


 必要な処置を終えてから、また直人に車で送ってもらって家に帰った。もうすっかり夜を迎えた玄関前でキャリーケースを渡そうとする直人に私は言った。


「上がっていって。何にもないけど……その、お礼にラーメンでも作る」


 私は重蔵のキャリーケースを受け取らずにいた。すると、直人が重い前髪に隠れそうな目を細めて、ありがとうと微笑んだ。


 直人が重蔵を部屋の中に運んでくれて、寝床の段ボールに移してくれている。私はその間にキッチンで、病院で勧められたウェットフードに薬を混ぜる。ウェットフードは水分が多めのエサで、味が濃く、風邪のときに良いエサだという。


「ごめんな、重蔵。知らないおっさんでごめんなー」


 ウェットフードを持ってリビングに戻ると、直人が先に用意した蒸しタオルで重蔵の鼻周りを温めていた。こうすると鼻詰まりが一瞬解消されて鼻が利くようになり、エサを食べられるそうだ。


 病院で説明は受けたが、できるかどうか不安だった。直人が対応してくれて助かった。


「もうすぐご飯食べられるから、そんな睨むなよーごめんって」


 重蔵は病院で点滴を受けたおかげか、いつものふてぶてしさを多少取り戻しており、鼻周りに触れる直人をぎろりと睨みつけていた。完全に下手に出ながらやわらかい声で謝り続けつつ、処置は続ける直人は手慣れていた。


「重蔵……ご飯だよ。食べて」


 私は直人の隣に膝をついて座り、重蔵の前にそっとエサを置いた。直人が重蔵からタオルを離すと、重蔵はゆったりとエサを食べ始めた。私はうっかり上がった口角のまま、直人と顔を見合わせる。直人は目を細めてうんと頷いてくれた。


 思ったよりもよく食べてくれた重蔵の三白眼に光が灯ったことに苦笑いしながら、私はキッチンでラーメンを作り始めた。


 私は火にかけた鍋にぷつぷつと気泡が立ち始めるのを見つめながら、ふうと深く息をついた。今の今まで息すら忘れていたような気がする。


「重蔵ちゃんと食べてえらかったなーほら毛布で暗くしてやるから、ゆっくり寝ろよ」


 直人があれやこれやと重蔵に話しかけているのが、キッチンにいる私の耳に届いた。ついふふっと笑ってしまう。直人の声が、姉さんの甘い声と被って聞こえたからだ。


 私はいつも重蔵に低い声しか出さない。だが猫好きが、猫をあやす声はああやって高くなるのが通常なのだろう。


 沸騰した湯に味噌ラーメンを投入しながら、私は直人が猫を飼っているのだと確信した。


 私は味噌の香りがする湯気を立ち上らせたラーメン鉢を二つ、リビングテーブルへと運んだ。重蔵の側から離れた直人もテーブルについて、二人で向かい合った。ここでこうして一緒に何か食べるのは久しぶりだ。


「いただきます」

「はい、どうぞ」


 私は普段、袋ラーメンは塩味しか食べない。けれど直人が私の部屋に泊まる日は、夜に二人で夜食に味噌ラーメンをすするのがお決まりだった。直人は味噌ラーメンが好きだから、買い置きしてあるのだ。


 濃い味噌ラーメンは、私たちがこの部屋で一緒に朝を迎えようという合図みたいなものだった。


 重蔵は段ボールの中で静まり返っていて、私たちは向かい合って静かにラーメンを口へ運ぶ。会話はない。それがいつも通り。


 なのに私はどうして、直人がつまらないなんて言い出したのだろう。直人が気が利いた話をしたことなんて、なかったのに。


 この沈黙でも居心地が悪くないのが、気に入っていたのではなかったか。そうやって味噌ラーメンの濃い味が私に、問いかけているようだった。


 二人でラーメンを食べ切って、ふとお互いに顔を合わせる。直人が何か言いたそうにごくりと喉仏を上下させたが、私が先に口を開いた。


「猫、好きなの?」

「え……あの……うん。ごめん、ずっとその、佐和が猫嫌いって知ってたから。猫が好きっていうと嫌われると思って、言えなくて」

「私は姉さんが猫好きだって、姉さんを嫌ったりしないでしょ」

「いやでも、お姉さんは特別だよ。僕はこんなだし……嫌われるかもしれないから」


 背が高い直人の背中がしゅんと丸くなる。付き合ってる男が猫好きだからと言って、デートが猫カフェばかりとか猫三昧にならなければ嫌う理由にはならないではないか。どこまで自信がないのかとため息が出る。


 けれど、私に嫌われたくなかったと三年も猫好きを隠し続けた強い意志が伝わった。それほど私を手放したくなかったと感じても、いいのだろうか。


「猫、飼ってるの?」

「……うん。佐和と付き合う前から」


 返事が遅く、なぜか直人が揺らいだ気がした。だがそれよりも、私は直人が付き合うという言葉を使ってくれて気が緩んだ。


 付き合っていると思ってくれていたと確信できて、にやけてしまいそうだ。私はゆるむ口元で続けた。


「猫がいるからずっと、私を家に呼んでくれなかったってこと……?」


 直人がこくりと頷く。猫好きを隠し通すために、私はやきもきし続けたわけか。けれど、直人の家に待っていたのは奥さんや子どもではなく、猫だったと知って可笑しみも湧いて来た。


 この男、私に嫌われるのが怖いというただ一点のみで、猫好きを隠し続けたあげく、彼女を部屋に三年も呼ばなかった。


 ここまでくると不器用を通り越して、笑えてくる。私はふふっと笑ってから空っぽになったラーメン鉢を持って立ち上がった。


「そういうところが、直人だよね」


 直人はぽかんと口を開けたまま私を見ていたが、私はその間抜けな顔にまた笑いながらキッチンで片づけをし始めた。


 直人が、私との関係を壊さないために守り続けていたものを知って。私の疑心は勘違いだったと知って。私は鼻歌まで歌ってしまう。


 直人が私との約束をすっぽかしたことで、私は大事ではないと通達されたと思っていた。けれど、そうではなかった。そこまで考えて、私ははたと気づいた。


「あ!」


 泡だらけのスポンジを握りつぶして大きな声を出した。


「今何時?!うわあ!穂香との約束!すっぽかした!」


 慌てた私は泡だらけの手でリビングに戻り、ソファの上に放置しつづけたスマホを手に取ろうとした。だがソファに座っていた直人に手首を掴まれる。


「その手じゃスマホ壊れるよ。ちゃんと拭いてからにしたら」

「もうどうしよう!」

「落ち着いて、佐和」


 私はまた走ってキッチンに戻り、手を拭いてから舞い戻った。スマホには着信とメッセージが一件ずつ入っている。両方、穂香からだ。思ったより通知は少ない。


 すぐにメッセージを開く。着信は待ち合わせ予定時間から十五分後、メッセージが送られてきたのは三十分後だ。メッセージを読む。


『佐和ちゃんから連絡がないなんて、何かあったのだろうと思うので、今日は帰ります。落ち着いたら連絡ちょうだいね、心配してる!』


 穂香の文字からは怒りがまるで感じられなかった。しかも待ちぼうけさせたのは少ない時間で罪悪感が和らいだ。穂香の大人な対応に私は目頭がぐっと熱くなるのを堪えながら、すぐに返信を書く。


 ソファの前でフローリングに座り込みながら涙ぐんでいると、直人が私を覗き込む。


「何かあった?」

「今日、友だちと会う約束をしてたのをすっかり、忘れて……重蔵の風邪でパニックになっちゃってたから」

「……ああ、それは」


 仕方ないと言ってくれるのかと思ったが、直人はそこで言葉を切った。フローリングに座り込んだまま、ソファに座った直人の顔を見上げる。直人は口を引き絞っていた。どうしてそこで言葉を飲むのか。


 手に握っていたスマホがぽんと鳴り、事情を説明して謝った穂香からすぐ返信があった。


『大変だったね……でも重蔵が大したことなくて良かった!私のことは気にしないで。私も猫飼ってたから慌てる気持ちわかる。佐和ちゃんもゆっくり休んで!』

「穂香~」


 私は、今言って欲しかった言葉を惜しげもなくくれる穂香に祈りたい気持ちでありがとうと返信した。収拾がついて良かったと思って顔をあげると、まだ直人は口を引き絞ったままだ。私はその唇の奥にしまい込んだものが気になってしかたない。


「どうしたの?」


 直人がソファから下りて私の前でフローリングにわざわざ正座し直して頭を下げた。


「……その、この前、行けなくてごめん」


 待ちぼうけした居酒屋での夜を思い返すとざらりとする。けれど、直人が何もなく、ああいうことをするとは思えなかった。私が穂香との約束を見失ったように、直人にも何かあったのかもと今は思えた。


 私はゆっくり問いかけた。


「来れなかった理由があるなら、教えて欲しい。もう、別れたいって意味だったんなら……そう言って」

「そうじゃないよ。僕はそんなこと少しも思ってない」


 直人がそれだけはというように、きっぱりと強く否定した。けれどそこからまた、しどろもどろしだした。


「その……あの日、僕の猫が……」

「猫?」


 私は先ほど、それは仕方ないと言ってくれそうな場面で直人が飲み込んだものに思い至った。


「もしかして、直人の猫もあの日、体調不良になったとか……?」


 直人がぱっと目を大きくして黒髪を揺らしながら、ゆっくりと丁寧に頷いた。


「……そう。でもそれで佐和を放りっぱなしにしたのを仕方ないとは、僕には言えなくて」

「私が今、そのまま同じことを穂香にやったじゃない。立つ瀬ないこと言わないでよ」

「でも」

「仕方ないよ、それは」


 私は仕方ないと言って欲しかった。だから私も直人にそう言う。


「……ありがとう、佐和」


 直人が喉から絞り出した声で、私の許しを噛みしめていた。穂香に許された私は、直人を許すしかない。だが、そうやって目尻が下がる様を見ると、許さないと片意地を張らなくて良かったと思う。


 私が重蔵を抱えて混乱していたときに直人がたまたま来てくれた。だから、手際よく事が運んで、穂香が起きている時間に連絡することができた。


 もし、病院に一人で猫を連れて行き、看病まで一人でしていたとしたら。


 あの午前三時に直人から送られて来たメッセージにも納得できる。中身は見ていないが、きっと何か、弁明があったのだろう。


 絡まった糸がまた一つ、解けた気がした。




 重蔵が風邪をひいて病院に駆け込んでから三日が過ぎて、重蔵の体調は着実に回復に向かっている。


 直人が毎晩、仕事帰りに私の家に寄ってくれて、エサを食べさせるのを手伝ってくれていた。蒸しタオルを鼻に当てられるのを嫌がり、振り払って逃亡をはかるようになった重蔵に、私と直人は顔を見合わせて笑った。


 重蔵はそうでなくてはいけない、なんて言いながら。


 今日の朝も重蔵にウェットフードを食べさせるために奮闘してきた。朝から重労働を終えた後でも、私は気力を振り絞って教壇に立った。


 補習で使った猫授業を、通常授業にも引き継ぐと、クラスの集中度は段違いだった。近頃は国語教師として、手ごたえがあるのだ。


 授業を終えて黒板にかけたスクリーンの片づけをしていると、教壇に頬杖をついた猫田君が話しかけてくる。猫田君は補習以降、私のことを猫好き仲間だと思っているようだ。甚だ遺憾である。


「ねぇ、先生。最近、重蔵の更新ないんだよ~」

「SNSの、あの不細工な猫ですね?」

「そう、そのブサさが良いんだけど。サワのかたはらいたし!も必殺技みたいでかっこいい!俺毎日、楽しみにしてんのにさ。止めちゃったのかな……」

「いろんな事情があるでしょうからね」


 私は重蔵は風邪なのでお休みですとは言えず、話を濁す。本日提出されたノートの束を猫田君に渡すと、彼はきょとんとしてそれを受け取った。


「猫田君、暇そうなのでそれを運んで下さい。お手伝いです」

「もう先生ったら!いつまでたっても甘えんぼ!」

「古いネタを知っていますね」

「昭和ネタ好きなんだよね!」

「猫田君は世渡り上手になりそうです」


 猫田君が就職した際に、昭和生まれが上司だったら強力な武器になりそうだ。私が荷物を持って廊下に出ると、猫田君は教室の仲間たちに挨拶を投げた。


「タッキーの召し使いしてきま~す!」


 私の苗字は滝本なのでタッキーだそうだ。安直なあだ名だ。教壇の前の席で、猫田君と仲の良い彼らはティックトックを見つめたまま猫田君に返事をする。


「ハイ、猫田の奴隷似合う~」

「タッキー推しの猫田ウケる~」

「あー!あたしも行くー!」

「行こ行こ!帰りにコンポタ買おうぜ!」


 私は猫田君と女生徒の南風さんを引き連れて、凍える廊下を歩き出した。猫田君はノートを抱きかかえてぶるぶる震えながら、先ほどの話の続きを繰り出した。


「そんでさ~重蔵がSNS止めるなら、写真集作って欲しいんだよ。俺としては」

「あ、わかる。SNSってすぐ消えたりするからさ。こっちは思い出として形にしといて欲しいんだよね」

「だよな~『ブサ猫重蔵、をかしで斬る!』とか売れそうじゃね?俺、センスあるくね?」

「えー『重蔵のをかしでかっわいい366日!』とかのが売れるよ!」


 私は彼らの前を歩き、コーヒーの香りがする職員室を目指しながら耳を傾ける。虚構のSNSが儚いものと身に染みて知っている彼らには、実物を手に残したいとそういう需要があるのか。


 職員室に入って、私のデスクにノートを置いてもらった。


「ありがとうございました。助かりました、猫田君」

「お礼は重蔵の写真集でいいよ!」

「あたしも!」


 そんな架空のものを引き合いに出して、変わった子たちだ。ビッと親指を上げてポーズを決める猫田君と南風さんに、デスクの席に座った私はため息交じりに訊ねた。


「そんなもの買ってどうするんですか」


 猫田君と南風さんはきょとんと顔を見合わせてから、二人でぐいぐい迫ってきた。


「タッキーちょっと何言ってんの?!」

「重蔵とサワのドタバタ毎日を見てたら癒されるだろ?!」

「私は癒されません」


 二人はとんでもないものを見たとでも言いたげに目を見開いて、悲壮な声を上げた。


「タッキーどうしたの病んでんの?!大丈夫??」

「猫は世界を救うんだよ?!」

「猫は世界を救いません」

「「救うよ?!」」


 なぜ私が猫で癒されないのか、必死で聞き出そうとするうるさい二人を職員室から追い出した。猫が嫌いな人間がいることを理解できないようだが、自分とは違う価値観の人間がいると認めて欲しいものだ。


 それに、猫が世界を救うなら──姉さんを救って欲しい。


 職員室で静かに昼休憩を迎え、デスクで卵サンドをかじっていると、姉さんからスマホにメッセージが届いた。


 あの面会室で話が決裂してから、連絡を取っていない。心の整理がつかないまま、重蔵の看病と日常に巻きこまれていた。


 私はごくりと卵サンドを飲み込んでからメッセージを開く。


『佐和ちゃ~ん!怒ってるからSNS更新してくれないの?重蔵の顔を見ないとお姉ちゃん、泣いちゃうよー!』


 もう早く死にたいとか書かれていたらどうしようかと、卵サンドで胃がキリキリしていた。だが実際は拍子抜けするほど明るい文面。これが姉さんのすごいところだ。


 私は重蔵が風邪をひいたことだけを端的に伝えた。スマホで文字を打ちながらぶつぶつ小声を漏らす。


「怒ってるの?だって?……怒ってるよ」


 怒っていないとは返信できなかった。姉さんが手術を諦めたのは姉さんの人生の選択だ。だが、私はまだあきらめられない。


 それだって私の選択だ。


 私は残りの卵サンドを口に放り込んで噛み潰す。姉さんが思い描く、美しい終焉を噛み砕いてやりたい。


 どうにかして姉さんを奮い立たせることはできないかと考えているうちにチャイムが鳴った。

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