姉さん
目の下にくっきりと隈を携えた私は、肌寒い休日の朝から猫砂の片づけに勤しんでいた。直人のメッセージは未読のまま、重蔵の世話をするために身体を動かす。
重蔵は窓際から階下をじっと見下ろし続ける謎の任務についており、比較的大人しくしている。
いつ暴れ出すかわからないので、今のうちに部屋にこもった猫の匂いを一掃するためにてきぱきと重蔵の寝床を整える作業をする。
もし、重蔵がいなかったら、今も私はベッドの中で丸まっていただろう。
強制的に世話がかかる存在がいると、私の都合だけで暮らしを止めるわけにはいかなくなる。どんなに気力がなくても、重蔵にはご飯が必要で、トイレを片づけなくては私が匂いに苦しめられる。
共同生活にはこんな利点があったのかと、皮肉で小さく笑ってしまう。
重蔵のトイレを掃除し終わって、部屋に清浄な空気が流れ始めると私は少しほっとした。部屋の状態は自分の心を映しているような気がする。
重蔵は長らく外を見つめる監視業務を終了したらしく、私が整えたばかりのトイレにやってきて用を足した。替えたそばから汚されるのは私への嫌がらせとしか思えない。
私がはぁと肩を落とすと、重蔵は私をぎろりと睨んだ。そして後ろ足で猫砂をしゃっしゃと私にかけ始めた。
「ちょっと!やめてよ重蔵!」
「シャー!」
「もう知らない!あんたの粗相を全世界に言いふらしてやるから!」
口を横に広げて牙を出してシャーシャー言う重蔵の様子を写真に撮ってから、私は重蔵から避難してソファに逃げた。ソファに身体を沈めてSNSに撮りたての重蔵をアップする。
猫砂をぶちまける行為は、猫にとってトイレを綺麗にしているという感覚だと聞いている。人間には理解不能な美意識だ。
『をかしきもの。猫トイレ掃除。終了すると猫が来る。綺麗にしたらすぐ使用。砂をぶちまけ、綺麗好き。人間の綺麗と相容れぬ。』
ルーティンをこなして息をつくと、お腹が鳴った。直人にすっぽかされようが、猫の世話、姉さんのためのSNS、私の空腹は止まらない。私はお腹を撫でて、生きてるなと思う。
私は立ち上がり、トーストを焼いて濃くバターを塗って、キッチンで立ちながら食べた。
トーストにはバターの他にも、しょっぱい味がしたような気がしたが気にしない。私は手の甲でぐいと目元を拭いてから、トーストをコーヒーの苦みで押し流して飲み込んだ。
お腹がいっぱいになったら、次々とLINEが鳴った。直人かと思ってびくりとするが、相手は違った。キッチンで残りのコーヒーを立ったまま飲みながら一通ずつ確認する。一つ目は姉さんだ。
『佐和ちゃ~ん!今日もシャーシャー重蔵が可愛い~!お姉ちゃんも猫砂かけられた~い!実はね、お姉ちゃん最近はすごく調子が良いの。だから近いうちにお見舞いに来て欲しいな!』
私はスマホの文字を追いながらくすりと笑った。いつものテンションで姉から言葉が届くと、脳内で声が再生される。
距離が近すぎるとうんざりする姉さんだが、私が落ち込んでいるとタイミング良く連絡をしてきたりする。そういうところが、姉さんのすごいところだ。
やっと会えると思うと胸が明るくなった。行くよと返信してから、次のLINEを確認する。
「あ、穂香」
穂香が補習はどうだったかと気にかけてくれて、良かったらお疲れ様会で飲まないかとの誘いだった。旦那さんが今日は出張でいないので、一人ご飯もつまらないからと理由も添えてあった。
私もひとりでいると直人のことばかり考えて、確実につまらない日になる予定だったので、穂香の誘いに飛びついた。
その夜、穂香といつもの待ち合わせの駅で会い、肩を並べて向かったのは焼肉屋だ。
飲み屋が連なるビルが立ち並ぶ通りの一角、地下階段を下りた先にあったのは大人女子の焼き肉屋と書かれた店だった。
接客意識の高い女性のビジネススマイルに導かれて、間接照明がふわりと照らす狭い個室へと案内された。向かい合ったソファ席の間に、肉を焼く網が埋め込まれたテーブルが設置されている。こじんまりしているが品が良い店だ。
今は穂香と楽しい時間を過ごしにきている。だから今日は直人の話はしないでおくと決めてきた。
私たちは向かい合って座り、肉を焼き始めた。肉の煙がテーブルの上に設置された大きな換気口に吸い込まれていく。穂香がビールジョッキを持って軽やかに笑った。
「佐和ちゃんの補習成功を祝ってかんぱーい!」
「待って、待って、私だけ悪いよ。なんか穂香にも祝うことないの?」
「えーそうだなーじゃあ自治会役員として防災委員のイベントが無事終わったことを祝して乾杯!」
「ふふっ、そうなんだ。お疲れ様!乾杯」
穂香の生活感あふれる乾杯にくすくす笑いながら、私は穂香とビールジョッキを打ち付け合った。響いた感触を手に、ごくごくと喉にビールを流し込む。ぶはーと息をつくと、穂香も同じタイミングで息を吐いていて、けらけら笑いあった。
穂香が率先してトングを取って肉を焼いてくれる。私は穂香が焼いてくれた肉を口に運びながら聞いた。
「自治会の防災委員なの?」
「そうなの。役員は持ち回りでね。今年は防災委員をやってて、地域の防災イベントを企画して消防署と連携したりするの」
「すごいね、もはや仕事じゃない?」
「まあ主婦が片手間にできる程度だから、佐和ちゃんみたいにかっこよくないよ」
穂香が肩を竦めて主婦だからというと、少しだけ自信のなさが滲むようだった。私は脂身がさっぱりした肉を噛んでレモン味タレを堪能しながら首を傾げた。
「防災訓練する人がいないと困るよ。主婦はかっこいい仕事じゃないの?」
穂香も口に肉を運んで同じように首を捻る。
「私は好きな仕事?っていうか、役割だよ。主婦。本当はもう一人子どもが欲しかったけど、一人しかできなくて。一人息子を溺愛して育てちゃった。学校から帰ってくる子どもを絶対迎えたくてね。短時間パートしながら主婦やってたの」
「信念あってやってたんでしょ」
「でもやっぱり肩身狭いよ?ネットニュースとかSNSとかで主婦は遊んでるだけとか、時代遅れみたいなご意見はよくあるから。隠れなくちゃいけないのかなって」
穂香はぐいっとビールを飲みながらへへっと誤魔化すように笑った。穂香は子どもといたくて家に長くいる選択をした。穂香の家族はそれで問題なく回っているのだから、外から誰かが咎めるようなことではない。
けれど、社会から自分がどう思われているのかはやはり誰だって気になる。きっと穂香は自分の判断と、社会からの認識のずれが痛く感じるのだろう。
「穂香、トング貸して」
穂香からトングを受け取って、今度は私が肉を焼き始めた。ありがとうと穂香が笑う。私は肉が火であぶられていくのを待ちながら口を開く。
「穂香がばりばり外で働いてたとしたら、人を嫌な気持ちにさせない、良い人材だと思うよ」
「えーほんと?嬉しい」
「穂香は主婦を選んだだけ。それを社会の損失だとか、主婦は社会のお荷物だとかまとめて断じるのは変だよ」
私は良い感じに焼き目のついた肉を、穂香のお皿に丁寧に置いた。私を見つめる穂香の焦げ茶色の瞳に、私は笑みを渡す。
「そういう社会現象としての一角はあったとしてもね。それは穂香っていう個人の評価じゃないよ」
私は自分のお皿にもお肉を置き、トングの代わりに箸を持った。肉を箸で持ち上げて、私はきぱっと言い切った。
「穂香は家庭だけじゃなく、地域の防災のためにまで働いてかっこいい。そして補習をやりきって、猫の世話もやってる私も、かっこいい!」
私はぱくっとお肉を食べてふふっと笑った。穂香もぱっと顔を明るくして肉を頬張り、二人で大らかに目尻に皺を入れて笑う。
「そうだね!私たち、やることやって、かっこいいよね!なんか楽しくなってきた!もっとビール飲んじゃお!」
「いいね!飲もう!」
二人でビールも肉もおかわりしてたらふく食べた。
穂香には穂香の、私には私のままならなさがある。
何が変わるわけでもないけれど、自分が自分をどう思うかを決めることはできる。むしろそれが、人生ってものを乗り切るコツなのではないだろうか。そんなことを考えながら私はビールをこくりと飲み込んだ。
お肉に飽きた口にバニラアイスクリームを入れながら、耳先を赤くしたほろ酔い穂香がつぶやく。
「子どもが巣立って立派に社会人やっててね。すっごく嬉しいけど、やることなくなっちゃったなって最近思ってるんだ」
「なんかやってみたいこととかあるの?」
私は苺アイスクリームを口に運びながら穂香に訊ねた。穂香はぐいと火の消えた網の上に顔を寄せて囁いた。
「笑わない?」
「笑わない」
私も網の上に顔を寄せて耳を傾けた。穂香はぼそりと言った。
「また昔みたいに文芸を書きたいって思ってるの」
「え!」
「あ、笑った!」
「笑ってない笑ってない!驚いただけ!」
「本当かな~」
穂香は訝し気に目を細めてからからりと笑った。私と穂香は高校時代の文芸部つながりの縁だ。あの頃の穂香は紫式部に憧れて、いろんな物語を部誌に綴っていた。
「部誌に書いてたみたいな?」
「そうそう、ああいうのまたやれたらなと思いつつ。思うだけ」
「やろうよ!同人誌づくり!」
ふふっと恥ずかしそうに笑った穂香にぶつけた私の声は、思ったより大きかった。私もほどほどに酔っているようだ。
「え、佐和ちゃん一緒にやってくれる?!」
穂香がスプーンを置いて、焼き肉の網の上にぱっと両手を差し出した。私は穂香の手を迷いなく両手で握り締めた。きゅっとお互いに手を握り合う。
私は穂香が差し出してくれた昔のきらめきを勢いよく握り締めた。私が今、一番欲しかったものかもしれない。言葉が飛び出てしまう。
「やるやる!なんかもう人のためばっかり動くの嫌になってきてたの!自分の好きなことしたい!」
「わかる!佐和ちゃんが一緒なら私もやれるかも!」
「私、清少納言の考察文をずっと書きたいと思ってたの。卒論以来書いてないもの。もっと自由に書きたい!」
「私はじゃあ恋愛小説!光源氏よりカッコイイ男を書く!旦那なんて私の目にも入らないくらいの男!」
「えー旦那さん泣くかもよ?!」
「泣かしちゃお!」
穂香と私は両手を握り合って二人でぽんぽん言葉を交わし合って、大笑いした。こじんまりしたオレンジ色の個室の中に、私と穂香の光がいっぱい詰まっていた。
遅くまで二人で飲んで、穂香と終電ぎりぎりに別れた。
私は帰りの電車でも、帰宅して珍しく重蔵がすでに丸まっていたリビングでも、ベッドに沈んだ寝室でも。ずっと同人誌に何を書くか考えていて、直人について考える暇は持たなかった。とても、助かった。
深まった秋が足早に過ぎ去り、急に冷え込みがきつくなった。仕事を終えて、一気に冬が訪れた道を歩いて帰宅する。リビングでは夏は冷房、冬は暖房で快適に暮らすお猫様が私を無視しながら迎えた。
「ただいま、重蔵」
ソファの上で重蔵用の毛布にくるまっている重蔵は、毛布なのか毛玉なのか一瞬わからない擬態をしている。
「重蔵、一緒に暮らす以上、挨拶くらいすべきだよ。好きだろうと、嫌いだろうと。そういうところ見直してくれたらいいのに」
私はぶつぶつ言いながらも温かいリビングでさっそく赤いボトルの消臭スプレーを撒き、重蔵の世話を作業として手際よくこなす。トイレを整え、エサと水を用意してた。さっさとやることを済ませて、やりたいことがあるのだ。
スーパーの割引シールお惣菜の食事を済ませた私は、リビングのテーブルの上にノートパソコンを運んで来た。私がいない間、パソコンは寝室に収納してある。重蔵に襲撃されないためだ。
ノートパソコンを広げて、ぱしゅっと缶ビールの蓋を開けてごくごく飲み干した。ぶはっと息をするこの瞬間。今日の疲れが一瞬消える。やめられない炭酸と苦みだ。
パソコンが立ち上がる間、深い息とともに職員室での出来事を思い出す。私と隣の席の辻野先生、さらに隣の席の藤先生で猫田君の補習テスト答案を見せ合った。
「うわーある意味才能があるな猫田!」
「どれも合格ラインぎりぎりですね」
「私らは腕があったのかなかったのか、微妙な結果でしたね」
補習を終えた猫田君は、他の教科でもぎりぎり合格ラインを取って職員室の先生方を笑わせた。辻野先生も藤先生も私も、渾身の授業がこの点数と嘆いたあとで一緒に笑い飛ばした。老年の女教師、藤先生は眼鏡をくいと持ち上げて瞳の奥の炎を見せつけた。
「今度はもっとうまくやりますよ、私は」
私と辻野先生はぽかんとしてから、ふふっと口元を緩めた。
「もちろん俺もです」
「私も」
藤先生が燃えているのを見て、私も辻野先生も、互いに新しい教材作りについて相談し合った。職員室は以前より、いやすい場所になった気がする。
私は一日をふり返るビールを飲みながら、立ち上げたパソコンでファイルを開いた。仕事は学校で存分にやってきた。明日も学校で精を出すつもりだ。
「よし、やるか」
だから今はこれ、同人誌づくりだ。
穂香と盛り上がった次の日から書き始めた。穂香も書き始めたと報告をもらって、進捗を報告しあっている。この共同感にわくわくが持続する。
私は枕草子を読み直して、各章についての私の持論と考察と資料を集めている。この作業に向き合っていると時間が溶けていく。
私はパソコンに向かってキーボードをカチャカチャと打ち始めた。このカチャカチャという音は何かを作り出す音として、耳に好ましい。
私は清少納言と対話するように文字を連ねて行く。ふとビールに手を伸ばすと、その横に置いたスマホが振動した。通知は直人からのメッセージだ。
「またか……」
直人からは何度かメッセージが届いていたが、通知だけを見て内容は見ていなかった。中身を見るのが億劫で、未読のまま置いていた。
今回もさっと横に滑らせるだけで通知を消した。私はまだ直人と話せる段階にないと思う。今会っても、私は直人の話に耳を傾けることができない。そういう、判断だ。
私は穂香との関係で、断絶したと思った関係が元に戻る可能性があるとするならば、それにはタイミングがあると学んだのだ。
私はまた清少納言との対話に戻る。集中していると、いきなり目の前にぬっと毛玉が入り込んだ。
「重蔵!?」
重蔵がなぜか私とパソコンの間に入り込んで、キーボードに猫の手をぎゅっと押し付けた。
「だめだめだめあー!え、消えた?!」
重蔵が私をじっと睨む。なぜ私とパソコンの間なんて小さな場所にそのでぶい体を押し込もうとしたのか、まるで理解できない。そしてなお三白眼で鋭く睨み、ウーと低い声で唸る。
敵意を向けるなら来るなよ。それより、書いていた文章の行方だ。
私は重蔵の重たい体を無理やりどけてパソコンに食い入った。私はきゅっと唇を噛みしめた。
「消えた……今日帰ってきてから書いた分……全部!ありえない!もう、いや!重蔵バカ!もう!」
私は地面に放り落とされた重蔵に向かって、きーきー声を投げつけた。
どうして邪魔をするのか。私がやっと自分の時間を持とうとしているのに、どうして。
私の甲高い声に腹を立てた重蔵が、また私のパソコンの上に飛び乗った。そこに乗れば私を攻撃できると的確に理解している行動に、はらわたが煮えくり返る。
私はスマホを手に取った。私の武器はスマホだけだ。私はパソコンの上でなお私を睨みつける重蔵の凶悪顔を撮影した。
「許さないから」
前にもこんなこと言いながら、SNSに投稿したなと情けない想いをひと匙加えながら、私はスマホの上で指を滑らせる。
私の感情が乗ったのか、一歩間違えば指名手配犯かと思われるような重蔵写真が撮れていた。迷いなくSNSにアップだ。
『邪魔なるもの。パソコンの上に舞い降りたり。肉球で押すにはキーボードのボタンが小さき。画面に写るは「あ」の嵐。猫の凶悪な三白眼。かたはらいたし』
重蔵とマウント合戦をした翌週は冷たい雨が降っていた。久しぶりに姉さんの見舞いが許可されたので、私は寒い中、コートにお土産のプリンを抱きかかえて病院へ訪れた。
「佐和ちゃん~!久しぶり~!元気だった~?」
いつもの狭苦しい面会室で、透明板を挟んだ向こうに姉さんが着席する。花柄のパジャマ姿で、ばっちり化粧をして甘ったるい声を出して笑うところは以前と変わらない。
けれど、姉さんの髪型は一変していた。
ナチュラルな栗色のショートヘア。
姉さんはいつだってウェーブのついたロングヘアが定番だ。だから、その髪型はウィッグなのだとわかる。
ややふくよかだった姉さんの頬も身体もしゅっとシャープになっていて、変わらない姉さんの態度と闘病の奮闘が滲む変化に胃がきゅっと縮む。
もしかしたら姉さんはこのウィッグができあがるまで、私に会いたくなかったのかもしれない。私は元気だったよと告げながら姉さんに紙袋を渡す。
姉さんは紙袋をがさがさ鳴らして中身を見た。小さな瓶詰めが目に入ったはずだ。
「プリン嬉しい~!あとで食べるね!」
姉さんはプリンの箱を胸に抱えてほくほく笑った。私は姉さんの容姿には触れず、目を細めて姉さんを見つめた。
「お薬が終わってね、ずっと気分が悪かったのが晴れて。最近はすごく気分がいいんだよ。プリンも美味しく食べられちゃう!」
細部に痛みが見える姉の姿になんと声をかけるのが正しいのか、わからなかった。面会時間は十五分だ。私と姉さんがふと見つめ合うと、ぴりっと時間が張り詰めたのがわかる。
「あのね、佐和ちゃん」
姉さんが笑顔をしまって、八の字眉で静かに言った。
「お姉ちゃんこの度、死んじゃうことになったみたい」
「……はい?」
姉さんの冗談交じりな声は普段通り甘いが残酷なことを言い放った。耳を呆然と言葉が通り過ぎようとする。けれど素通りなんてできなくて、捕まえて飲み込んで、心臓が痛い。
姉さんは胸に抱いたプリンの箱をぎゅうと抱きしめて、私に八の字眉を向けた。
「お薬が効かなくてね。悪いところが小さくならなかったの。お姉ちゃん頑張ったんだけど……」
姉さんは指先が白くなるほどに紙袋に力を込める。茶色の紙袋が私の代わりにぐしゃりと悲鳴を上げた。
「お医者さんは成功率は低いけど、手術で悪いところを取ろうよって言ってくれてる」
「も、もちろんやるんだよね?」
私は姉さんの八の字眉に嫌な予感がして、姉さんの話を最後まで聞けなかった。姉さんはうっと言葉をつまらせて、俯いた。
「お姉ちゃんもう……手術はやめようと思ってるの」
「どうして?!」
姉さんの細い声が重くて、私は声を荒げてしまう。治療をやめるなんて選択肢がどうして浮かんでくるのかわからなかった。まだ手段があるのなら飛びつくのが当然のはずだ。
姉さんはゆっくり顔をあげた。よく見れば、化粧を施した顔と、化粧をしていない首筋の色がまるで違う。姉さんの首筋は真っ青で生気がない。
その首筋こそ、姉さんの今の状況なのだ。
顔を上げた姉さんは冷たい雨が降り注ぐ窓の外をふと見やる。
「大変だったんだ、お薬。もう、疲れちゃった。それに……あまり長生きもしたくないと思ってて」
私が唇を噛み締めて姉さんを見つめると、姉さんは私に視線を向けて微笑んだ。
「私は独り身でしょ?私が長く病んだら、それだけ佐和ちゃんの迷惑になっちゃう」
姉さんは私を都合よく使って甘えて、重蔵を押し付けて、SNSをやらせて、それを甘えた声でありがとうと言って済ませる。それを疎ましく息苦しく思っていた。
けれど、そうであり続ければいいではないか。
なのに今、どうしてこんな土壇場で。
妹を守ろうとする姉らしく振る舞うのか。
だが私は姉の本質がそうであることを、ずっと知っていた。いざという時、姉は私を守る。
「姉さんは勝手。ずっと勝手」
私はバンと、姉さんと私を隔てる透明の板に手を当てて低い声で呟いた。姉さんの目がぱちくりと瞬く。
「そうだね。ごめんね、佐和ちゃん。だからお姉ちゃん、最期くらいはかっこよくキメようと」
「それが勝手だって言ってんの!」
私の口から姉を責める言葉が滑り出すのを止めることができなかった。
「いくら姉さんの世話が大変になったって、そんなのがんばるに決まってるでしょ!」
「佐和ちゃんはそう言ってくれるって知ってるよ?だからお姉ちゃんは甘えちゃうじゃない」
「それでいいじゃない!」
「私はそれがいけないと思ってるの」
どんどん声が大きくなってしまう。透明の板の向こうへと私は抵抗する。
「姉さんがいなくなったら私だって一人なんだよ?!一人にしないでよ!」
「佐和ちゃん……」
「私を一人にするわけにはいかないから生きるって言ってよ!どうしてそんな簡単なことわかってくれないの!姉さんいなくなるなんて……やだ」
私は私の中にあるものを全部吐き出したつもりだった。自分の大きな声が耳に痛くて目頭が熱くなって、姉さんの花柄パジャマがにじむ。
目元をぐいと乱暴に拭いたあと、姉さんのやわらかくてすっきりした笑みが私の目に飛び込んだ。
「そんな風に言ってくれてありがとう、佐和ちゃん。大好きだよ。だからこそ、一か八かの賭けをした手術までして、無理に長生きしたくない」
「違うの、姉さん。違うよ、わかってよ」
「佐和ちゃんは大丈夫。お姉ちゃんいなくてもしっかりやるって、お姉ちゃん誰より知ってるから!」
姉さんは花柄パジャマの無邪気な色のように明るく笑った。
「佐和ちゃんに泣いてもらえると、お姉ちゃんちょっと嬉しいと思っちゃった。お姉ちゃん、だめだね」
面会時間の十五分は溶けていって、面会室のドアが開いだ。看護師さんが姉さんを迎えに来る。姉さんは看護師さんに従ってドアヘ向かい、愛想よく私に手を振った。
「佐和ちゃん、重蔵のお世話だけはお願いね!」
姉さんは鉄壁の笑みでそう言い残して、先に面会室を出ていった。
看護師さんが私を見て痛ましそうに一つ頷いたのが、目にこびりついた。あの看護師さんは姉さんが私に何を告げたのか、知っていたのだろう。
私はいつまでもパイプ椅子から立ち上がれなかった。
姉さんは自分のお願いばかり通して、私のお願いを通してくれない。それは姉の意地悪ではなくて姉の好意で、どこまでいっても交われない。
姉さんの笑顔は決して私を受け入れず、私の存在は、姉さんを生かす理由にはなれないと突きつけられた。
私が姉さんの妹でいる意味は一体、何だろう。私こそ、意味がないなら、いなくていいのではないか。ぐるぐると回り続ける思考に気分が悪くなる。
もうどうすればいいのかわからないまま、私はいつの間にか薄暗く冷たい雨の帰り道を歩いていた。看護師さんに面会室からの退出を促されたような気はする。傘はどこに置いてきたのだろう。覚えていない。
雨でびしょ濡れで重いコートを体に貼り付けたまま、自宅マンションに帰りついた。
家に入って短い廊下を歩くと、私の後に水の道ができる。暖房をつけたままのリビングに帰り着いた。
部屋の一番温かい場所を陣取って丸まっていた重蔵が私にちらりと三白眼を向けた。その重蔵の無粋な視線とかち合った瞬間、私はなんとか立っていた足の力が抜けて、その場にぺたんと座り込んでしまった。
「重蔵……ね、姉さんが……姉さんがぁ……!」
私はその場に崩れ落ちて、フローリングに額をくっつけて現実の重さにひれ伏した。床に縋りついた私はリビングの端で水たまりを作った。
そのままどれくらい水たまりに沈んでいただろうか。私自身が水たまりになりそうなほど、目から鼻から、コートから水を滴らせた。
寒さを感じてふと顔を上げる。すると沈み込む私のそばに茶トラの毛をふわりと揺らした重蔵が座り込んでいた。私の作った水たまりの水を、重蔵が舐め始める。私は鼻声で注意する。
「重蔵、汚いから……そんな水は飲んじゃだめ」
重蔵は私をちらりと見てから、無視して水たまりを舐め続ける。誰も私の言うことなんて聞いてくれない。
私は姉さんの生きる理由にはなれない。
その冷たさをまとったまま、私は重蔵がこれ以上水を舐めないようにタオルを持ってきて床を拭き始めた。
けれど私はずぶ濡れのコートをまとったままだから、いくら拭いても床は濡れた。私は夜が更けるまでずっと、濡れたまま、濡れた床を拭き続けて、重蔵は私が垂らす水を追いかけて回っていた。
濡れたコートを脱ぐことに思いいたったのは日付が変わったころだった。
重蔵の餌入れを確認すると珍しく餌を残している。なので、私は餌をつぎ足さず、服を着替えてそのままベッドに潜り込んだ。もう何もしたくなかった。
暗くした部屋のベッドで寝返りをし続ける。目が腫れて頭痛がするのに、なかなか寝付けない。そのとき、ベッドの端でぽんと音が鳴った。
ベッドの上に放り出していた鞄の中からスマホの音だ。私はしばらく考えてからゆっくり起き上がってスマホを確認する。
直人でも姉さんでもなく、猫男からのダイレクトメッセージだった。そういえば、久しぶりな気がした。
真っ暗な部屋のベッドの真ん中にぺたんと座る私は、スマホのブルーライトを浴びながらメッセージを読んだ。
『サワさんへ。私事ですがご報告させてください。長年ケアしていた僕の猫が亡くなりました。別れ前の一週間は仕事を休んで見守りました。大きな喪失感がありますが、やりきったと思う気持ちもあります』
手から力が抜けて膝の上にスマホをぽろっと落としてしまった。スマホから別れの気配が立ち上っている。
今まさに永遠の別れを経験する猫男の心情に共鳴してしまい、彼がどう思っているのか、どう感じているのか、最期はどうあれば後悔がないのか聞きただしたくなってしまった。
私は膝の上に落としたスマホを再び手に持って、彼のメッセージを何度も読んだ。しかし、不躾に質問を繰り出すこともためらわれて、彼のアカウントを覗きに行ってしまう。
彼のアカウントでは、猫が死んだ報告が投稿されていて、その投稿にたくさんの哀悼のメッセージが寄せられていた。
その投稿と一緒にアップされていたのは、私にとっても補習で引用させてもらった思い入れが深い、あの動画だった。
後ろ足のない白猫が、モスグリーンのハンモックの上でゆらりゆらりと穏やかに揺れながら、囁くようにみゃあと鳴く、短い動画。
私は光無い部屋の中で、その動画を幾度も繰り返して見てしまった。私はその動画を見ながらぽつぽつと、画面の上に雨を降らせてしまう。
軽い頭痛を覚えながら、私は何度も目元を拭いた。ブルーライトの頼りない光の中で、私は画面の中に言葉を紡ぐ。
猫なんて嫌いだ。けれど、私は猫男の胸にある痛みに、どうしても言葉を届けたかった。
お悔やみ申し上げますと打ってから、私は全ての文字をかき消した。
猫男がメッセージを送って来てる相手はSNSのサワだ。このむき出しの私ではない。だから私はサワらしく、一呼吸置いて、言葉を織り直す。
『モスグリーンの布。猫が揺れてよう遊びたると聞く。今は布も動かさず。されど、君こそ、なお揺れにけり』
私はぐずぐずと鼻水の音を立てながら猫男に、初めての返信をした。猫男は投稿への哀悼のコメントに返信していなかった。
だが、私のダイレクトメッセージにはすぐに、猫男から反応があった。
『あの子が乗っていた布はもう揺れないけれど。サワさんの言う通り、僕はずっと……あの子を思って心を揺らされ続けるんでしょうね』
私はしばらくブルーライトとにらめっこしたあと、そっと設定の画面に移動する。指を滑らせて、猫男をしっかりとブロックした。これでもう、猫男と連絡はとれない。
これ以上、彼と近づきたくなかった。
彼の痛みはあまりに生々しい。彼の痛みをこれから私も得るのかと思うともう、触れられない。触れたくなかった。私はスマホから目を逸らして、逃げるようにベッドに潜り込んだ。




