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だから、猫なんて嫌い。  作者: ミラ


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授業



 猫田君との話し合いをへて、私は猫田君を受け持つ各科目の先生たちに補習授業の相談を持ち掛けて回った。


 猫田君が古語を使った話をすると、先生たちはみんな目を丸くして快く協力して補習をしようと言ってくれた。


 隣の席の辻野先生は「猫田のためにもちろんやります。滝本先生がそうやってみんなに説いて回るの見てて、若い頃を思い出しました」と額に皺を寄せて笑った。


 辻野先生の向こうから、藤先生もきりっと顔を覗かせて「腕の見せ所です」と細くてしわしわの腕を腕まくりした。


 私が深々と頭を下げると、やめてくださいよと二人の軽やかな笑い声が聞こえた。横並びのデスクの私たちが、初めて同じ方向を向いた気がした。


 この高校に優秀な生徒は来ない。けれど、先生たちはみんな、誰かに何かを教えたくてこの職についたのだと感じ取れた。


 同じ職員室の中で、ただ無難に仕事をこなしていると思っていた。けれど、生徒のために誠意を尽くして補習をする。こんなに根源的なところで結び合えて、また胸が熱かった。


 いつまでも熱さを失わない胸を抱えた休日の昼過ぎに、私は穂香と待ち合わせをした。時間通りに落ち合った私たちは、駅前から少し歩いて路地を入った静かな純喫茶店を選んだ。


 昭和レトロなステンドグラスが窓一面を埋め、ジャズが流れる店は古いながら雰囲気だけは上々だ。二人でコーヒーとケーキを頼んで、ボックス席で向かい合った。私は穂香に近況を語る。


「それでね、各教科で補習が決まって、久しぶりに職員室にやろうかみたいな雰囲気が生まれたの」

「わー……先生たちの連帯感良い……!」


 白いシャツに細くてシンプルなシルバーネックレスをつけた穂香が、苺タルトにフォークを突き立てた。私はニューヨークチーズケーキを口に運んで笑った。


「今まで一回もなかったけどね」

「回数の問題じゃないよ佐和ちゃん。そういう熱い瞬間ってのは、あったかどうかが、粋なんだから」

「穂香のそういう考え方好き」

「ありがと。それでそれで?その子にどういう授業をするつもりなの?聞きたいなー佐和先生の授業!」

「本当に?お世辞じゃなく?」

「うんうん!だって佐和ちゃんの先生姿とか想像するだけでかっこいいよ」


 穂香の興味津々な瞳がきらりと輝く。子育てに心血を注いできた穂香は、近所のスーパーでレジ打ちのアルバイトを長年続けているという。穂香にとって先生という職業は特殊なのだろう。私は鞄の中から手帳を取り出した。


「じゃあさ、私が考えてる授業案について意見聞かせてくれない?」

「なにそれ楽しそう!でも、ド素人の意見なんかでいいの?」

「もちろん。相手は勉強なんて全くしない高校生だから、知らない立場の人の方が良いの。私はついわかってる前提で話しちゃうから」

「へぇ、知らないことが役に立つなんて嬉しい。聞かせて?」


 穂香は苺タルトの底を食べ切って笑った。私もチーズケーキの最後の一口を食べてから手帳を広げた。書き留めてあるアイデアを話し始める。


「猫と古典を掛け合わせた授業はどうかなと思ってるの」

「え、斬新。猫授業……?猫好きには嬉しいけど、それを佐和ちゃんが提案するなんて驚いた」

「でしょ。私もそう思う」

「猫は獣、が口癖の佐和ちゃんなのに」

「今でもそう思ってるけど」


 私たちはお互いを見合ってしばらく沈黙してから、同じタイミングでふっと噴き出した。ステンドグラスから差し込む彩りの光が、私と穂香の笑顔を染める。


「ずっと真面目に授業はやってきたつもり。けど、私は私の思い通りに学ばない生徒を放置してた。生徒は私を透明人間にするって思ってたけど、私が彼らを透明扱いしてたのかも」


 穂香は私の話をじっと聞いてくれた。私の穂香の間に静かなジャズが流れていった。


「ままならないなら……ままならないなりに、彼らへのアプローチを模索すべきだった」


 私は手帳に書かれた「猫田君は猫が好き」の文字をそっと指でなぞる。


「生徒のおかげでやっと、みんなの好きなものを入口にするのが効果的なのかって気づいた……遅いよね。もっと早く気づけたらよかったって思ってる」


 私が手帳を見つめてわずかに俯いていると、穂香がくくっと笑う声が聞こえた。顔を上げると、真正面の席で穂香が朗らかな声を響かせた。


「佐和ちゃんはさ、その子が学ぶことを遅すぎるって思ってる?」


 私は穂香の問いに即答した。考えるまでもない質問だった。


「いや、そんなことは全くない。これからやればいいと思う」

「じゃあそういうことだよ?」


 私は目の前がぱっと開く感覚。思わず息を忘れた。穂香がコーヒーを一口こくりと飲んで、目尻に皺を寄せて微笑む。なんて滑らかに気づきへと導くのだろうか。


 あらゆるものに柔軟な眼差しを向ける彼女は、真っ直ぐ相手に寄り添う。そうして、自ら顔を上げさせる。


 穂香がそんなことを自然とできるのは、家庭の中で、真摯に深く、子どもと向き合ってきたことの証だと思う。私はきゅっと顔を引き締めた。


「そうだね。反省してる時間がもったいない」

「そうそう!猫授業なんて楽しいに決まってる。どんなのか教えて?」


 にっと笑い、わくわくした瞳を私に向けてくれる穂香に、私は授業を話す。


「内容の軸は『をかし』を学ぶことなの。スクリーンで猫動画を見て、をかしなところを言うの」

「いいなそれ。私もやりたい」

「本当?それでね生徒と令和の『枕草子』を作ってみようかなって」

「楽しそう!それって佐和ちゃんと生徒君、一対一でやるの?」

「そうだけど、ダメかな」

「ダメじゃないけど、みんなでわいわいやりたいかも。『クラス枕草子』みたいな。でも補習だったよね、ダメか」


 穂香はコーヒーカップを持ち上げて素人でごめんねと、軽やかに笑う。私は手帳にメモを取った。クラス枕草子、名案だ。猫田君は友だちと盛り上がるのが好きだ。猫田君は周りに人がいた方がのめり込む。


「ありがとう、穂香。クラス枕草子、いただくよ」

「えー本当?!なんか一緒に作ったみたいで嬉しい!あ、こんな楽しい話をしているのにケーキがないなんてわろし」

「それはわろし」


 二人で笑いながらケーキをおかわりした。コーヒーとケーキを並べた栗色のテーブルで、一緒に授業で使うをかしな猫動画をスマホで検索した。ステンドグラスの光がきらきらと照らす店内で作った授業案は、とても輝いて見えた。




 猫田君の補習の日の朝、私はリビングで赤いボトルのスプレーを振りかけていた。今日の授業の流れを何度も頭の中で確認して、よしとつぶやく。


 するといつも寄って来ない重蔵が私の背後にぬるりと立った。背後の気配に振り返った瞬間、私の口から大きな声が飛び出た。


「キャア!重蔵やめて!」


 重蔵が太い足先で踏みつぶしているのは、家のヒエラルキーの底辺でありながら最強の黒い生物。ゴキブリだった。


 重蔵は私の声が不快だったようで耳をピンと立て、三白眼で私を睨みつける。重蔵の気が散ったせいか、黒い生物がするりと重蔵の足の下をすり抜けた。私の足元をタタタタとゴキブリが這いまわり始める。


「キャアア!重蔵!捕まえて!ゴキブリ!早く!」


 重蔵は私の求め通りに、いつもの俊敏性を発揮して獲物を捕らえようとリビングを飛び回った。重蔵がゴキブリを追い回している間に、私は殺虫剤を取りに行って重蔵の元へ向かう。


「ウー!」

「重蔵どいてどいて!あんたにかかっちゃう!」


 私は重すぎる重蔵を無理やり抱き上げてから、這いまわる黒い魔物に殺虫剤を振りかけ回した。死の霧を浴びた黒虫はピクピクと動きを止めた。


 やっと黒の強襲が終わった。殺虫剤の匂いのせいか私の腕で珍しく大人しくしていた重蔵が、飛び降りてそれを咥えようとする。


「ダメダメ重蔵!汚いから!口に入れないで!」


 私は病原菌から重蔵を守るために金切り声をあげた。だが、重蔵は私が獲物を奪ったと思ったらしくシャー!と怒る。私はゴキブリを手袋とティッシュで処理しながら重蔵の威嚇を甘んじて受けた。


 片づけを終えた私は、ぶすりと私を睨み続ける重蔵にちゅるちゅるのおやつをあげた。


「共闘ってことで……お疲れ」


 重蔵は私を下から睨みながら、ちゅるちゅるの液状おやつをぺろぺろ舐めた。


「……睨まないでよ」


 その様をスマホで撮影してから、私は立ったままスマホ画面で指を滑らせる。ちゃっちゃと文面を考えてさっとSNS投稿を済ませた。


『おそろしきもの。朝から現れる黒の魔物。猫とともに追い回す。不本意な共闘なり。勝利の菓子を与えても、なお鋭く睨む猫。』

「これでよし、朝のやることは終了」


 姉さんが重蔵の様子報告を楽しみにしている。投稿は欠かせない。投稿を確認してから、重蔵の食事とトイレとおやつの片づけもして、完璧だ。


「あ、急がないと!」


 寝床の段ボールでくつろぎはじめた重蔵の横で、鞄の中身を再度確認した。


「重蔵、いってきます!イタズラしないでよ!」


 私は慌てて用意を済ませて部屋を飛び出た。別に重蔵とは仲良くはない。けれど家の侵入者を一緒に追い出し、挨拶はする。やるべきことは、きっちりやる。それが私の暮らしだ。


 仕事も一緒。別に生徒と仲良くはない。けれど教師として、やるべきことはきっちりやる。補習だって、共闘だ。


 朝の襲撃のせいで吹っ飛びそうになった補習内容を、通勤の電車の中で反芻しながら出勤した。


 放課後を迎えて、淡い西日が差し込む教室には四人の生徒が残っていた。私は黒板前にスクリーンを下しながらその面々を観察していた。


 放課後の教室にいるのは猫田君と、ふだんから彼と仲が良い子たちだ。いつも一緒にティックトックをやって盛り上がっている男女グループの子たち。私が友だちに一緒に補習授業を受けてくれないか声をかけてみて欲しいと猫田君に頼んだのだ。


 机に軽く腰かける猫田君の周りに彼らは集う。猫田君が両手を合わせて彼らに頭を下げていた。


「ガーチで付き合ってくれてありがとうみんな!」

「まあバカすぎ猫田の留年危機だし?」

「猫田いないとつまんないからね。しっかり進級しろよバカ」

「俺、バイト休んだんだから、あとでバイト代払えよ」

「体で?」

「誰がお前の身体なんているかバカ」

「先生!みんなが俺のことバカバカっていう!」


 机を四つくっつけてグループ学習の形を取らせていると、猫田君が私に話を振る。驚いたが、そういえば以前から、猫田君は教師を透明人間あつかいしない唯一の生徒だった。


 私はくすりと微笑みながら、席に座った彼らに資料を配る。


「猫田君はバカではありません。私の生徒にバカはいませんから」

「え、先生激熱……」

「努力がやや足りない方ばかりですが」

「わりとヒドいこと言うね、せんせ!」


 四人の生徒たちがカラカラと笑う。教師と生徒は慣れ合う必要はない。けれど、視点と関わり方は模索すべきだ。私は教壇から下りて、席に座る彼らの隣に立った。


「では授業を始めます。今日は皆さんで『クラス枕草子』を作りたいと思います」

「あー俺覚えてる!まくら喪失で記憶喪失!」


 猫田君が授業で発したダジャレを繰り返す。おかしな形で記憶しているように思うが、ダジャレで暗記は勉強の基本だ。私は手を上げてふざける猫田君に頷いた。


「猫田君、正解です。枕草子とは、清少納言という女性が書き溜めた、好き、嫌いのカタログだと思ってください」

「カタログって何?」

「バカ猫田、商品とかいっぱい載ってる雑誌のことだよ」

「そのような感じです。平安時代には写真がありませんでしたので、枕草子には文字のみ」

「文字なんて読む気にならない、俺」

「アタシもー!カワイイがないと!」


 私は黒髪をサイドでぱちんと切りそろえた女生徒、南風さんにぐいと顔を寄せた。彼女は猫田君とハイテンションで浮かれていることが多い。だが猫柄の筆箱を持っているので、猫好きだと見た。今日の授業に入ってくれて助かる。


「それです。枕草子の中には令和風に言えば、カワイイとエモいが詰まっています」

「先生がエモいとか言い始めるとちょっとヒくわ」

「わかる、生徒寄せました的がにじみ出てて冷めるみたいな?」

「そうです、寄せました。歩み寄りが教師の務めなのです。ではみなさん、これを見てエモいところを教えてください」


 生徒の冷笑など痛くもかゆくもない。透明人間として授業をしてきた。鋭いレスポンスは大歓迎だ。私はスクリーンに猫の動画を流し始めた。


 ティックトックで大人気の「猫の反応集」というやつだ。猫の魅力がいっぱい詰まった動画だと穂香が教えてくれてた。四人の生徒たちから次々と声が上がる。


「カワイイー!この狭いところ入っちゃうとこ!」

「自分のくしゃみにびっくりしてるの何回見てもジワるよな」

「あー!このゆっくり瞬き最高に好き!猫のキスっていうの知ってる?!」

「うわ、猫田からキスとか言われたらヒく。私はこのふわふわ感と、んなーんって鳴き声たまらん」


 生徒たちが自ら自分の言葉で、自分の感覚を発していく。ここまでで授業はもう八割方成功だと思う。言葉を選び、自らに添う言葉を使う。それが国語だ。


 動画が終わっても、生徒たちの猫のどこが好きか談話は止まらなかった。私はぱんと手を打って注目を集める。


「皆さんの感性が素晴らしいことがよくわかりました。では次はそれを『をかし』という言葉で表現してみましょう」

「をかしって何?」

「誤解を恐れずに言えば『エモい』です」

「エモいって平安からあんの?!すごくない?!」

「そうです。日本人はエモいが大好きなのです」


 猫田君の反応を受けて、他の生徒たちもうんうんと頷き合っている。


「言葉はずっと、形を変えて続いてきました。それが古典です。古典がなければ今の言葉はありません。さあ今皆さんが今口にしたように、をかしを使って、猫への感想を書いてみてください」


 猫田君と、その隣に座った南風さんが、そろってきゅっと眉をひそめた。


「えー、をかしがエモいはわかったけど……書くのめんど」

「あたし書けって言われると急にヤダ」

「そうですか……」


 私は書くのが苦ではないので、そこでひっかかるのかと意外だった。けれど彼らは席を立つのではなく、文句を言った。それは私への信号だ。受け取ろう。私は提案した。


「あなたたち四人にグループラインがありますか」

「もっちろん、あるよ先生」

「ではそこで猫の感想を、今ここで話したように送り合ってください」

「なにそれ」

「そしてそのスクショを私のメールアドレスに送ることを、この補習の課題形式とします」


 猫田君と南風さんはお互いに顔を見合わせながらふはは!と笑い声をあげた。


「補習でライン打てとか、先生おもろいね」

「おもしろそう!やってみよーよ!あたしからね!をかし~っと」


 南風さんがをかしを打ち込むと、猫田君が続き、他の二人も笑いながらスマホの上で指を滑らせた。


「ふは!キタキタをかし~!」

「猫の、んにゃーんがをかし~」

「自分のくしゃみに驚いてるのをかし~」

「とてもエモいを、いとをかしと言います。使ってください」

「ただのまばたきのくせに猫のキスとかいうの、いとをかし!」

「うお~猫田使いこなすじゃん!俺も使う!」


 生徒たちの瞬発力と柔軟性には驚かされる。彼らは遊んでいるだけで、ふだんの彼らと何も変わらないのだろう。


 勉強嫌いでままならない彼らはそのままに、変わったのは私の視点と関わり方だけだ。


 無理に相手に変わることを望まず、それでも同じ教室にいることを選び、少しだけ目線を変える。それが心地いい在り方なのかもしれない。この補習で学ぶことが多かったのは、むしろ私の方だった。


「では次の動画を見てください」

「次も猫動画?」

「そうです」


 提出物をメールにて確認した私は次の課題へと進む。授業はクラス枕草子だ。「をかし」だけでは終われない。


 この授業のあとで、猫田君は確認テストを行うのだ。そこで相応の点数を取るためには内容が足りなかった。次の動画を再生すると、すぐに女生徒たちが声を漏らした。


「あ……後ろ足ない……」

「……病気かな?事故?」

「でもああやって生きたりできるんだ」

「ちょ、俺、こういうの見てらんない!」


 生徒たちに見せたのは、猫男が飼っている後ろ足のない白猫だ。この白猫の生きる様は、ただの愛らしいでは語れない。


 私は生徒たちの隣で言葉を与える。


「この白猫の生き方はエモいで語れるかもしれません。ですが、皆さんが感じているのは『をかし』ではありません。どのような感じですか猫田君」


 猫田君は唇をへの字にして頭を抱えながら、言葉を絞り出した。


「えー?なんかもうかわいそうなのに可愛いって感じ」


 私は深く頷いて言葉を受け止めた。素直な彼の感性が言葉にきちんと宿っている。


「それを『あはれなり』と言います」


 私の返答に、猫田君の前に座っている男子生徒がつんと口を出す。


「憐れって見下す感じじゃないの?せんせ」

「今の時代ではそうとも取れます。けれど、古典では『あはれなり』には愛しさというものが切っても切れません。他にもたくさん、この猫を語る言葉があります」


 私がプリントを配ると、生徒たちはプリントの文字に目を走らせる。今の子たちはSNSのおかげで字を読むという機会自体はとても多く、読む面に対しては抵抗が少ない。


 私は文面を静かに読みあげる。その間もスクリーンでは白猫がモスグリーンのハンモックに揺られていた。柔らかく鳴く音が響く。


「あはれなり、しみじみと心惹かれ可哀想で愛しい。うつくし、小さいものや幼いものがかわいらしい。こころぐるし……」


 言葉を得た生徒たちは私の声と白猫のいじらしい生き様を、心の中で編んでいった。心を編む間、騒がしかった生徒たちに集中が訪れていた。


 ひとりひとりが編んだ言葉をスマホに打ち込み始める。


 西日が満ちる教室で「あはれなり」とスマホで打ち込む生徒たちは、現代的でありながら古典的で、美しかった。


 授業を終えて、猫田君だけは確認テストを受けた。彼は真剣に取り組み、教壇に立つ私にテストを提出して笑った。


「先生、補習ありがとね!」


 茶トラ色の髪が西日に照らされてふわりと揺れた。猫田君のやりきった笑顔が私の目にくっきりと焼きついた。私がこくりと頷くと、廊下から彼を呼ぶ騒がしい声がいくつも飛んだ。


「おーい、猫田ー!行くぞー!」

「もうお腹ぺっこぺこ!」

「猫田のおごりでスタバ行こう」

「おいおい!せめてマックだろ!」


 テストが終わるのを、ずっと廊下で待っていた友だちの元へ猫田君は走って行った。猫田君は仲間たちの間に飛び込んで、じゃれながら歩いて行く。


 彼らはいつも騒がしく、迷惑で、瑞々しい。




 猫田君たちを見送り、一人になった教室で、私は猫田君の席に座って採点を始めた。きゅっきゅとペンの音が走る。


「五十点……」


 私は点数を書き込みながら苦笑いだ。教師の理想としては、もう少し上を狙っていた。だがやはり何事も、思い通りにはいかない。


「遠慮せず、もっと点数を取ってくれても良かったんですよ、猫田君」


 皮肉の一つもこぼしてしまう。決していい点数ではない。だが、いつも欠点の猫田君が補習テストで五十点。功績と言って間違いない。


 真面目に伝えても誰も聞かなかった。けれど猫を用いることによって、私の言葉は確かに彼に届いた証だ。


 嫌い続けている猫だというのに、私を少し持ち上げるのも、猫なのか。教師としての成果とプライベートな忌避感がない混ぜで複雑である。


 けれど、猫授業の手法は、これからも活用することとする。嫌いな猫だが、生徒のためならば私の好き嫌いは脇に置いておく。教師としてまだやれることがあると知った私は充足を噛みしめながら、一人きりの教室でテスト用紙に向かって呟いた。


「猫授業。騒がしく笑う生徒の声。そこに静かな学びあり。されど、五十か……ままならぬ」


 私はバツが半分並ぶテスト用紙を両手で持ちながら、くすくすと微笑んだ。西日が沈み、高揚に満ちた授業は終わりを告げた。


 私は帰り道にペットショップに寄って、重蔵が好きだと姉から聞いた高級猫缶を買って帰った。


 帰宅すると重蔵は今日もキャットフードをまき散らしたリビングのソファで丸くなっている。重蔵が私をちらりと一瞥してからわざわざぷいと無視をする。


「ただいま、重蔵」


 私はキャットフードを拾い集めて、高級猫缶の肉厚な中身を皿に乗せて餌場に置いた。私が離れると重蔵はそろそろと足音を立てずにやってきて、皿の上の肉を吟味し始めた。


 口に合ったらしく、食べる勢いは良い。だが、食べながらウーウー低い声で唸っている。美味しい時くらい可愛い声で鳴いてくれてもいいのに。


「重蔵、これからも猫を授業に利用させてもらうから」


 重蔵は近くで突っ立っている私を無視して、肉厚のエサに顔を突っ込んで貪っている。今日もぶさ猫は安定して可愛くない。慣れ合うわけではないが、義理は果たす。でないと気持ち悪いからだ。


「これは全猫を代表したあんたへの報酬。いい?貸し借りはなしだから!」


 私は重蔵にきっぱりと言い捨ててから、冷蔵庫へと向かい、ビールを取り出した。


 冷蔵庫の扉が開いたままだが待ちきれず、真っ青な缶ビールをぷしゅっと開けた。小気味いい音が美味しそうだ。天井を見上げるほどに顎を上げて、喉でごくごくと飲み続ける。


「かー!おいしい!」


 喉越しと炭酸と苦みを全部まるっと飲み干した爽快感を、身体全部の感覚で感じ取る。ぷはーと深い息をして美酒を感じていると、ふと居酒屋の主人の言葉がふっと蘇る。


『ままならねぇまま、今日も酒を飲む!』

「ははっ、ほんと……そうだね、ご主人」


 あの日は全く理解できなかった主人の言葉に、私は今さら共感する。


 精魂込めた授業でも生徒は五十点で、高級猫缶を与えても重蔵は可愛さの欠片も見せない。


 これをままならないと呼ばずに何と呼ぶ。


 けれど、やりきった後のビールは、格別に美味しい。もしかして、結果どうこうよりも、私が私でやってやったと思える。そう思えることが、何より意味があるのではないか。


 そんなことを考えながらビールをまた一口飲む。この喉越しに甘さなんてない。けれどしゅわっとした刺激と苦みが、何より痛快で美味いのだ。


 久しぶりに、あの居酒屋のマグロユッケを肴にしたくなった。冷蔵庫の扉をばんと閉めてから、重蔵が肉に顔を突っ込んでいる写真を撮ろうとスマホを手に取る。


 するとタイミング良く、スマホの通知がぽんと鳴った。姉か、穂香か、猫男かと思っていると、LINEの相手は意外な人物だった。


「直人……」


 おそるおそるメッセージを開く。字を認識した瞬間にぱっと目に入る光が増えた。


『会いたい』


 待ち侘びていた直人からの連絡。私はスマホの字を見つめて深く考え込んだ。今さらな連絡。短い文面。私は都合の良い女あつかいされているのではと、不審な気持ちが頭を駆け巡る。


 けれど今日の補習のように、私が視点を変えることで、直人と今までと違う付き合いができる可能性があるのではないだろうか。


 私は今、そんな糸口を掴みかけているような気がした。私は一文字一文字、丁寧に文字を打った。


『私も』


 LINEを打ってから、私はぐいっと缶ビールを最後まで飲み干した。






 金曜日の仕事終わりに、最寄り駅前の小さな居酒屋を久々に訪れた。


 古びた居酒屋の正面にある赤提灯は健在で、店内に入ると焼き鳥のタレの匂いが充満していた。きょろりと十数席の狭い店内を見回す。直人がまだ来ていないことを確認してからまた、入口に一番近いカウンター席に座った。


「おう、久しぶりだな!元気にしてたか!」


 カウンターを挟んだ向こうの調理場で、せわしなく働く店主が私に声をかけてくれる。訪問の間が開いても、ご主人の歓迎する態度は微塵も変わらない。


 一度離れるとつい断絶した気になるのは、悪い癖だと思う。関係性にも休みがあると、穂香に教えてもらったのだ。ビールとマグロユッケを注文すると、ご主人が勝手に話し始める。


「最近は日野くんしか来ねぇから、別れたのかと思ってたよ」

「まあ、似たような感じですけど。久しぶりに会うつもりで」

「そうかい。まあ、いろいろあるわなぁ」

「……ままならないまま、酒を飲む。ですよね」

「お!わかってるねぇ!それこそ人生だ!」


 ご主人はしわくちゃな顔で笑って、私にビールの中ジョッキを手渡した。


 ざわつく店内ではご主人の大きな声でちょうどいいくらいだ。私は艶々のマグロユッケの、酒が進む濃さを味わいながら、ビールの喉越しも堪能する。


 このざわつきが常の店内で、私が直人の声を聞くのは大変だった。直人は声が小さいから。


 直人と初めて話したのはこの席で、そういえば私はその時もマグロユッケを食べていた。


 店が混みあっていて隣に座った直人も、同じものを注文した。黒髪がふわふわの鳥の巣のような直人は猫背で俯いていて、首から名札を下げたままだった。


 個人情報漏洩が甚だしいこの時代だ。私はついその名札を指摘してしまった。


「あの、名札がついたままですよ。博物館勤務の日野直人さん?」

「え……あ、その」


 ぱっと顔をあげた直人は私の顔を見た。そして何度も言い淀んでから、この騒がしさのなか、消え去るような声で言ったのだ。


「あの……わざとです」

「え、そうだったんですか。すいません。余計なことを言ってしまって」


 これからまた仕事に戻るところだったのかもしれない。私がお節介をしたと思って軽く頭を下げると、直人は首をぶんぶん振った。


「いえ、余計なことではなくて、その」


 鳥の巣ふわふわ頭が大きく揺れていた。直人は擦れた小さな声で言ってくれた。あれが、最初で最後の直人のまっすぐな気持ちだった気がする。


「あなたに名前を、知ってもらえたらと思って……名札を、わざと……つけたままにしてました」


 口からマグロユッケがこぼれ落ちそうになった。


 私は彼が仕掛けた罠に、まんまとしてやられたわけだ。


 彼の言葉を信じるならば、おそらく彼は以前からこの店に通う私を知っていたのだろう。直人のお金に縁遠そうな小さな耳が赤く染まるのを見て、私はころんと笑ってしまった。


「策士ですね。はめられました」

「いや、その……前に名札で名前を指摘されたことがあって、同じ手が使えたらと、す、すみません」

「でも正直に言っちゃうところが可笑しかったです。良かったら一緒に飲みませんか。退屈してたので」

「あ、その……はい。お願いします」

「では、乾杯で」


 ビールジョッキをぶつけ合った感触は、私の心に響いていた。それが心地よくて、私は何度もこの店に通い、私たちは何度も一緒にお酒を飲んだ。そういえば、私が猫が嫌いだと力説したこともあった。


「私、動物の中で一番、猫が嫌い」

「え……」

「世の中は猫の奴隷だけど、猫なんてただの獣。そう思わない?」

「あ、ああ……獣の一種だよね」

「姉が猫を飼ってるんだけど、猫がいるせいで姉が一緒に旅行に行ってくれないのよ!」


 直人は口数こそ少なかったが、私の話を目を見てじっくり聞いてくれた。私が熱く猫嫌いについて語ると、真顔でそうかと頷く直人の顔が可笑しくて笑った日もあった。


 思い返してみると、私は直人の話で笑ったことなんてなかったかもしれない。私が勝手に話して、それを聞く直人の反応を見て面白がっていただけ。


 けれど私は退屈なんてしていなくて、直人といる時間を求めてこの店にやってきていた。


 近頃の私はどうだっただろうか。直人と出会った日と変わらぬ味のマグロユッケをひと欠片、噛みしめた。


 直人がつまらないと感じていた。


 いつからそんな風になってしまったのだろう。変わったのは直人ではなく、私ではないか。


 ビールを一口飲むと、苦みがきつかった。


 この店で会ううちに、直人と付き合うことになった。彼は付き合おうなんて言ってない。好きだと言われたことはない。けれど、私は付き合っていると思っていて、彼もそうだと思う。


 そうやって始まった私たちは今、関係を休憩中だ。


 私は空になったビールジョッキを上げて、カウンター向こうのご主人に声をかけた。


「ご主人、おかわり」

「おう、日野くん、遅いねぇ」

「そうですね。仕事が長引いているのかも」


 私はマグロユッケを食べ尽くして、もう焼き鳥も出汁巻玉子も食べ切ってしまった。お腹はいっぱいだが、ビールを頼む。


 けれど、苦しいお腹でビールを飲み干しても、直人は店に現れなかった。店仕舞いの時間を迎えて、私は席を立った。


 会計を済ませた私に、ご主人から気づかわし気な視線が送られる。


「大丈夫かい?何かあったのかねぇ、日野くん。約束破るような人じゃないけど」

「いえ、いいんです。きっと私が悪いので」

「あ……」


 私はご主人の言葉を聞かないまま、店を後にした。鳴らないスマホを握り締めたまま、私は冷たい秋風が吹きすさぶ夜道をとぼとぼと歩いて帰った。


 直人から連絡もなく、会う約束を無視されたのは初めてだ。


 しかも、仲直りできるかできないかの瀬戸際の大事な約束だった。


 直人に何かあったのかもしれない。けれど今の私は、私をないがしろにされたと、それしか感じられなかった。直人にとって私は、大事ではないのだ。


 マンションの自宅に帰ると重蔵が猫砂をまき散らしていて、リビングではまた猫の匂いがしていた。赤いボトルの消臭スプレーを撒いて戦う力もなく、私は寝室に引きこもった。


 午前三時。真っ暗な寝室でベッドに寝転ぶ私の頭元でスマホがぽんと鳴った。直人からメッセージが届いたが、私は未読のまま通知を消してまた眠った。

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