表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
だから、猫なんて嫌い。  作者: ミラ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/8

SNS


 夏休み前の期末テストを終えて、弾ける生徒たちを野に解き放った。私は涼しい職員室で採点に勤しむ。


 最近は中学校でも画像読み取りの採点が取り入れられているというのに、この高校は手動採点だ。


 優秀な生徒が来ないこの高校に予算は多くない。諦められた生徒たちとも思える対応が痛々しい。だが、授業をティックトック配信時間だと思っている彼らにも否はある。


 私の隣のデスクに座る太った数学教師、辻野先生も同じように採点をしていて、彼がふと漏らした。


「あー猫田、また欠点だよ。これはキツそうな感じですね~滝本先生」

「そうですね、見えてきた感があります」


 猫田君は私が担任を勤めるクラスの生徒であり、欠点常習だ。私は辻野先生を見返すことなく、同じく猫田君の答案に点数をつけた。十五点。


 これは留年、その先の自主退学すら視界に入って来たなと思う。私は答案を見つめて授業中の猫田君を思い返す。


「私の存在を無視するのがあたり前の授業の中で、猫田君は少しだけ……板書を見ているんですよね」

「あ~たしかに。それ何の暗号?とかたまに言うのは猫田ですよね。まあチラ見するだけで身になってないんですが!」


 笑い飛ばす辻野先生の言う事は正論で、実を結ばないことが多い教師という職業人として適切な態度だ。


 けれど、その猫田君の一瞬の興味を継続して引けていないのが、私の力量なのではないだろうか。けれど、あの猫田君にどうやって授業を聞かせるのか、まるで思い浮かばないまま午前中は過ぎた。


 昼休みに、買って来たサンドイッチを自分のデスクでかじっていると、スマホが鳴る。姉さんからだろうと思いつつ、一瞬でも直人かなと思ってしまった自分を穴に埋めたくなる。


 スマホの通知を開くと、やはり姉さんからだ。


『今日も更新、楽しみにしてるね!』


 姉さんのメッセージを読むと、柔らかい卵サンドに殻が混入されていたかのようなガリっと感が口に広がった。


 重蔵皮肉アカウントを開設してから、姉さんからは毎日のようにメッセージが来る。姉さんは私を心から応援しているつもりなのだろう。だが、私には催促にしか思えない。


 しかし、その催促と期待に私は添ってしまう。私のスマホは重蔵の写真に圧迫され始めていた。


 姉さんには家に帰ってから返事をしようとスマホを閉じかけたとき、ポンと見慣れない通知がスマホに写る。


「ダイレクトメッセージ?」


 Xアプリからの通知だった。ダイレクトメッセージが来たという通知は初めてで、ついぽちと押してしまった。姉さんがLINEアプリだけではなく、Xアプリでも催促を送ってきたのかもしれない。


 ダイレクトメッセージを開くと、送って来た相手は姉さんではなかった。


 送信元は「猫男」というアカウントだ。

 ダイレクトメッセージを読んでみる。


『重蔵とサワさんの毎日はまさしく「をかし」ですね』


 ここにも私の皮肉投稿を面白がる人がいるらしい。姉さんは投稿にコメントを付けるが、この猫男はダイレクトメッセージ。


 妙にねちっとした距離感と、私の投稿を真似した古典語混じり。奇妙な相手だと直感する。現代で知らない人に向かっていきなり「をかし」だ。こんなことを言う人は、絶対にどこか、ずれている。


 私はそっとダイレクトメメッセージを閉じた。


 夏休みに入り、学校は生気を失った。だが夏休みは生徒だけではなく、教師も待ち侘びる長期休暇だ。


 教師は夏休みでもそれなり仕事があり出勤する。だが、生徒がいないのでやはり大型の休みを取るにはうってつけなのだ。


 私も盆休みに重ねて休暇を取り、連日、姉さんの見舞いをしていた。もうすぐ姉さんの検査結果が出る予定だ。重蔵との暮らしもやっと終わりが見えてきた。


 けれど姉さんは結果を不安がっているので、顔を見に行くようにしていた。


 姉さんの病院からの夕暮れの帰り道、最寄りの駅近くにある居酒屋の前を通った。まだ蝉の声はうるさくて、強烈な西日が居酒屋の暖簾を突き刺していた。


 私はその暖簾を横目に、居酒屋を通り過ぎる。この店によると、直人と顔を合わせるかもしれない。


 直人から、いまだに連絡はない。私から連絡する気力も湧いてこなかった。また私に興味なさそうにされるのは堪える。


 涼しく快適温度な家に帰ると、重蔵がリビングで大運動会中だった。でっぷり重量級の重蔵であるが、急に何かに憑りつかれたように駆け回り始めるのだ。


「フー!」


 重蔵の重低音な声が響く。上へ下へと高く跳び回り賃貸の壁を傷つけ、私のテーブルと観葉植物を容赦なくなぎ倒す。


 見えない敵を追いかける様がすさまじく、そんなに俊敏に動けたのかと驚いたのは最初のことだ。この大運動会はなぜかよく夜に開催されるので、今日は夕方に起きて幸運だ。


 私は廊下からこそっとリビングを覗き見る。


 あとで散らかった部屋を片付けるのが私だと思うと怒鳴りたくなるのだが、大運動会が終了するのを静かに待つ。


 捕まえて止めようとすると引っかかれるので、関わらないことにしたのだ。しかし私は当然気に入らない。


 私はリビングを駆け回る猫をカメラに収める。重蔵の残像しか写らないが、もう今日はこれで良いだろう。


 私は蒸し暑い廊下でぽちぽちとスマホを打つ。リビングではガンガンと謎の破壊音が鳴る中、SNSに投稿した。


『をかしきもの。猫の大運動会。涼しいリビングにて開催。暴君猫の反撃はおそろし。蒸す廊下。立ち尽くす人間の背中』


 重蔵の残像写真を更新すると、猫男からダイレクトメッセージが送られて来た。送って来られると、つい見てしまう。


『重蔵とサワのをかしな日々。毎日楽しみにしています。私のフォロワーにも紹介しますね』


 猫男は更新するとすぐに反応する。私が更新すると通知でも来るようにしているのだろうか。その粘着がまた少し怖い。もちろん今日も、返事はしない。


 ついスマホに見入っていると、リビングの音が収まっていることに気がついた。きっと一番涼しい場所で重蔵が毛玉になっているだろうと予想しながら、私はやっとリビングに帰宅した。





 翌朝、私が起きて着替えて朝食を食べ終わるまで、なぜか重蔵は部屋の隅から全く動かなかった。あまりに動かないので気になって、私も重蔵が見つめる壁を見てみる。だが何もない。


「重蔵……怖いから、もうそれやめてよ……」


 重蔵が見つめるその先に、何か人間には見えないものがいるのではないかと思ってしまう。壁の虚空を見つめ続ける置物のような重蔵の写真を、スマホで撮っておいた。


 姉さんのためにSNSにアップしようと思っていたら、電話がかかってきた。直人なわけはなく、姉さんからだ。


 スマホを耳に当てると耳が吹っ飛びそうな大きな声で呼びかけられた。


「佐和ちゃん!すごいのよ!重蔵がバズっちゃった!」

「バズ?バズっちゃったって何?」

「すごい人気者になっちゃったってこと!SNS見た?!重蔵の残像写真に1万いいねもついてるの!」


 姉さんは大興奮してわめいているが、1万いいねがすごいというのは理解できた。バズというのはよく言う炎上というやつだろうか。


 重蔵のあの偉そうな態度が世のお叱りを受けたのだとしたらわかる。そういえば、猫男が彼のフォロワーに重蔵を紹介すると言っていた。そういうのがきっかけになったりするのだろうか。


 姉さんはとにかくSNSを見てと言って、電話を勝手に切ってしまった。


「もう……炎上がどうしたっていうんだか」


 私はソファに座り直してからSNSを開いた。すると今まで見たことのないほど大きな数字のいいねと、読み切れないほどのコメントが届いていた。


「これが炎上?」


 私は重蔵が炎上しようが少しも痛くない。猫にとっても炎上などどうでもいいだろう。だが、姉さんは炎上が嬉しいようだ。


 爆発的に反応がついているのは、昨日の大運動会中の重蔵の投稿だ。俊敏すぎる重蔵の残像写真。これの何が面白いのか。


 私はコメントを一つずつ読んでみる。


「ちょ、残像wをかしの皮肉りに飼い主さんの猫ラブがたぎってる」

「あはれ、あはれ、飼い主の背中」

「猫の可愛さは目にも止まらぬ速さですよね!躍動感伝わるありがたし!」

「あきらめて廊下で待ってるのあるある~をかしってあるあるってこと?」

「AIに聞け」

「猫殿が、領土を乗っ取り、暴れん坊。戦国時代か、いとをかし」

「大運動会ありますよね。うちは夜のが多いですけど。猫はつれなし、おもしろしです」


 私は読みながら目を瞬いてしまった。


 授業でも、直人にも、をかしを語っても誰も反応してくれなかった。なのに、こんな匿名の場所で、こんなに古典語を気軽に交わそうとする人たちがいるのか。


 先日、猫男に「をかし」を使うなんて変な人だと思っていた。だが、私が知らなかっただけで、ここはそういう場所のようだ。


 もしかして猫男の反応は標準的なものだったのかもしれない。私が古典語を使ったから、自然と真似した。そういう言葉遊びがある空間なのか。


「……しかもわりとセンスある」


 少し感心してしまった。しかし、届いたコメントはどれも猫礼賛の立場に立ったものばかりだ。私の皮肉に「そう、本当に猫って不躾で嫌い」と共感してくれる人はいない。


 読み進めるうちに、このバズという現象の根本は「私たちがテンション上がるネタを投下してくれてありがとう」だと感じた。けれど、ついコメントを読みふけってしまった。


 コメントを読みながらうっかり昼を迎えてしまったが、コメントをほぼ読み終えた私は立ち上がって伸びをした。


「ウー」


 やっと窓辺から移動した重蔵は、本棚の上に君臨して私に向かって低い声で唸り始めている。この部屋の中で一番高い場所からエサの催促だ。


 しかめっ面で私を睨む重蔵にスマホを向けて写真を撮った。猫の高みからの見下し顔。


 一切の加工をほどこさない、素でぶさいく偉そうな重蔵をSNSにアップしてコメントを付ける。


 バズをしていろんな人が私の真似をして古典語を使ってくれたのは、正直少しだけ気持ち良かった。


 けれどそれは、世が持っている猫を愛らしいとする視点から生まれた反応なのだ。重蔵は私にとって愛らしくない。それを姉さんに伝えたかっただけ。偶然にも多くの人の目に触れたようだが、結局、誰にも伝わっていない。


 だから私の感想はこうだ。 


「猫に支配された世界、私は嫌」


 私はぽんと投稿ボタンをタップした。私の言葉が、重蔵の見下し顔とともに世間へと流れる。


『バズれども、猫の不遜さ不変なり。猫に支配され褒めそやす人間のさま、をかしからず』


 私はスマホをソファの上にポイと投げ捨てた。立ち上がって、キッチンへ責務を果たしに向かう。重蔵のエサを用意するのだ。


 猫に支配された世界を揶揄する私は、猫に支配されている。






 夏休み中は私も家にいることが多くなり、不本意ながら重蔵という支配者と過ごす時間が増えてしまった。


 姉さんは私が休みなのを知っているので、絶え間なくメッセージを送って来る。入院中で退屈なのはわかるが、相手をするのも大変だ。


 そんな姉さんをご機嫌よく黙らせるには重蔵SNSを更新するのが一番手っ取り早い。SNSを更新したあと、しばらくは黙っていてくれる。


 私は重蔵への不満なら文庫本一冊分は書ける。


 太って肉が垂れている重蔵が冷たい床でダレている写真はいくらでも撮れるので、更新に手間取ることもない。これくらいの手間で姉さんが泣きまねしながら「姉さんって迷惑よね」と電話をかけてくるのを阻止できるなら安いものだ。


 毎日頻繁に更新しているSNSには、あのバズ以降フォロワーが増えすぎた。


 コメントが毎日読み切れないほど届き、猫男からもダイレクトメッセージが来る。ダイレクトメッセージはやはりつい読んでしまうのだが、全部無視している。猫への共感はもう欲しくない。


 一日家の中で文庫本を読んで過ごした夏の夜に、重蔵のエサを用意してから、冷凍パスタをあたためた。重蔵がいつも通りエサの器をひっくり返して、散らばったキャットフードを一つずつ拾って食べていく。その非合理な様子をスマホに収めた。


「普通に食べてよ……」


 あとで食べ残しキャットフードを拾うのは私だ。げんなりしながら、ほかほかの明太子クリームパスタを食卓に置いて席に座り、真っ青の缶ビールをぐびっと飲む。


 クーラーの風に撫でられて一息ついてから、パスタと缶ビールとスマホを嗜む。


「うわぁ今日もコメント多いな……探すの大変……」


 スマホでSNSをチェックする。今日の朝への投稿への反応が追いきれない。誰のコメントにも反応しない。


 だが、姉さんからのコメントだけはどれだけ埋もれても発掘して必ずチェックして返信しているのだ。明太子パスタを少しずつ口に運びながら画面をスクロールする。


「あ、姉さんのコメントあった」


 ビールをぐいっと飲んでから、スマホを両手に持ち替えて返信する。


『サワちゃ~ん!今日も今日とて重蔵が可愛い~!寿命伸びる~!』

『重蔵のふてぶてしさのどこが可愛いかわからない。けど、姉さんのために写真は撮り続ける。明日お見舞い行くね』


 私は毎日続けている姉とのやりとりが完了した。よしとつぶやいてスマホを脇に置いてからやっと、明太子クリームパスタの味が濃すぎることに気づいた。


 翌日は夏のじっとりとした雨の日で、私は蒸れるショート雨靴を履いて電車とバスを乗り継いで姉さんの病院へ向かった。たった十五分しかない面会のために、私は一時間かけて姉さんに会いに行く。


 透明板を挟んだ向こう側に着席した今日の姉さんは、薄黄色の花柄パジャマだった。


「佐和ちゃん忙しいと思ったから、お姉ちゃん一人で結果を聞いたの」

「え、そうだったの……?」


 もうすぐ検査結果が出るとは聞いていたが、もう医師からの説明は終わったあとだったようだ。


 私は予期せぬ方向から殴られたように呆気にとられた。姉さんの口から検査の結果が語られる。


「お姉ちゃん悪い腫瘍があるみたいで……これから長いこと入院して腫瘍を小さくするお薬?みたいなのをしましょうって話になったの」


 姉さんは一人で検査結果を聞いて、治療方針も私が知らないうちに決まっていた。きちんと結果を受け止めて私に説明する姉さんは、自立しているというのだろう。


 でもどうして、同席させてくれなかったのだろうという思いが湧いてしまう。


 姉さんが私の負担にならないようにとしたことが、私にとってはどうしてもずれていると思ってしまう。大事なときに一緒にいたかっただけなのに。姉さんは明るく微笑んだ。


「でも治療をがんばれば大丈夫だって!」


 私は苦いものが喉にあるが、飲み込んだ。姉さんが私に医療的な情報を開示しないと決めたのであれば、私が医者に掛け合っても教えてもらえない。守秘義務だ。


 私が病状を医師から説明されていようがなかろうが、病気に立ち向かうのは姉さん自身。一番大変なのは姉さんだ。私の幼い感情なんてどうでもいい。私は頷いた。


「そっか……大変だと思うけどがんばろうね」

「お姉ちゃんがんばっちゃうから見ててね!」

「……うん、私ができることは協力するから」


 大きな病を前にして、両手をきゅっとにぎって朗らかさを失わない姉さんはすごいと思う。でもまた、一緒にがんばろうねと言ってくれなかったことに傷が増えた。もうこんな感情に振り回されるのはしんどかった。


 姉さんは一度も私に暗い顔を見せずに、スマホを取り出してにっこり笑った。姉さんはしなやかで無邪気で、そしてしたたかだ。


「だから悪いんだけど……重蔵のこと、お願いね?SNSもいっぱい更新して欲しいな~!」


 姉さんの検査入院が終わって退院したら、SNS活動も終了できると思っていた。


 だが、長期入院の決定だ。


 そろそろやめたいと思っているとも言い出せずにいると、姉さんがスマホのある画面を見せてきた。にんまり笑っている。


「佐和ちゃん、これ見た?みんな佐和ちゃんのことよく見てるのよ。ふふっ」

「私を?」

「見て見て、コメント欄」


 画面にはコメント欄が映っていた。私はコメント欄を読んでおらず、いつも姉さんのアイコンだけを探している。なので、じっくり読むのはバズった日以来だ。コメント欄を読んでいく。


『バズってから相当毎日コメント数ついてるのに、絶対に姉のコメントだけ掘り出すサワ強くない?』

『仮飼い主のサワ、姉以外の他アカはフル無視を選択!』

『ふてぶてしさ重蔵レベルのサワw』

『サワはガチ猫嫌い「設定」。俺にはわかる』

『サワの嫌がり芸が癖になる。いとをかし』

『重蔵に塩なのに姉に甘いサワ。要観察』


 読んでゾッとした。


「設定?嫌がり、芸?」


 ネット民と呼ぶらしい、SNS上に現れる一般市民の彼らは、重蔵のみならず、私までキャラクターとして娯楽消費していると直感した。嫌がって見えるサワが実は猫好きだと理解しているという文脈もあって、唖然とした。


 言葉を投げた側の認識と、受け取り手の反応は、こんなにずれるものなのか。


「佐和ちゃん自己紹介のところに本名書いちゃってもう~うっかりなんだから~」


 私は呆然としながらも姉さんの言葉を受け取る。


「重蔵もサワちゃんも人気者になって、お姉ちゃん嬉しい~!」


 きゃっきゃっと、面白かったコメントスクリーンショットを次々に見せてくれる姉さんの笑顔は明るかった。


 SNS上で猫嫌い芸人扱いされて驚いたが、実生活に影響のあるものではない。私も重蔵もSNS上での反応など意に介さない。


 だが、姉さんは私たちが人気ものだと喜んで目を輝かせるのだ。私は姉さんの笑顔を目に焼き付けた。


 私は今日も更新をすると約束して十五分の面会を終えた。


 雨の中をまた一時間かけて自宅マンションに帰った。家のドアを開けるとクーラーの冷気とともに、ふっと鼻を突く匂いがする。


「はぁ……猫臭い……」


 どうしても消えない猫臭さにため息をついてリビングへ行くと、重蔵は本棚から本を一部引きずり出していた。そして重蔵自身が、その本がかつて入っていた空間に丸く収まっていた。顔がどこにあるのかわからず、毛玉にしか見えない。


「何してんの重蔵……そこから出てよ……」


 狭い場所をわざわざ作り出し、そこに収まり愉悦を得る行動の意味がわからない。だが、とりあえず写真を撮っておいた。私の文庫本たちを床に散らかして毛だらけにしたことは許さない。


 私は本棚に収まる茶トラの毛玉を見つめながら、スマホをぎゅっと握り締めた。


 帰り道、ずっと我慢していた苦みがこみ上げる。


 姉さんは明言を避けたが、姉さんの病名はガンだろう。


 内服薬治療とは抗がん剤で、副作用がある可能性もある。そんな大変さが見えている中で、姉さんは気丈に笑っている。


 そんな姉さんを癒し支えるのは、私ではなく、重蔵だ。


 これからも重蔵のSNSでの活躍が、姉の病状を支えていく。確信があった。


 あんな皮肉ばかり綴ったSNSが大衆の目に晒され、私の存在までもがSNSの中で面白がられ娯楽として消費されていくのは居心地が悪い。


 だがもう、やるしかない。


 姉さんが無事退院するまで、どうやったってもうこのふてぶてしい猫を放り出すわけにはいかないのだ。姉さんのためにできることはやるに決まっている。


 本棚の隙間でもぞもぞしながら位置を変えた重蔵はわざわざ私の顔を見て、ぶすっと鼻を鳴らす。本棚の居心地が悪いことを、私に文句を言うかのようなしかめ面。そんな顔するなら入るなよ。


 重蔵を見ながら、私は決めた。姉さんのためだ。SNS撤退の道はない。やるしかないなら、嫌々するのはもう止めよう。


 どんなに不自由な中でも自分で選んだ実感があれば、何かが違う。


 私はSNSを徹底的にやる。姉に強要されたのではない。私が、姉のために、自らこの行動を選んだのだ。私はそう自分に釘を打った。


 重蔵への皮肉をSNSに書き綴る。着替えもしないまま、スマホを握り締めて指を滑らせる。書くことはいくらでもあるのだ。毛玉の重蔵をSNSにアップした。


『本棚は満員なり。されど猫が本を追い出し、狭さをわざわざ作りたり。我こそは本なりと収まりけり。毛玉となりて不服顔。かたはらいたし。』


 私は本棚でいらいらした顔をする重蔵に向かって、ハッと鼻を鳴らしてやった。


「重蔵、あんたの不貞腐れた性根を全部、書き綴ってやるからね!」


 冷蔵庫から冷えたビールを取り出してごくごく飲み干す。


 しゅわしゅわの泡に、きゅうと炭酸の爽やかな喉ごし。ぷはっと息をついて天井を見上げた。もう全部イヤ、全部しんどい。


 それでも、やることはやりきってやる。私が選んだ道だ。


 ビールからはほんの少し、勝利の味がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ