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だから、猫なんて嫌い。  作者: ミラ


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猫嫌いの佐和

 テーブルの上に乗った不細工なデブ猫が、シュガースティックを手に持った私をじとりと睨んだ。茶トラ猫の太い前足が、コーヒーカップのソーサをすーっとテーブルの端へと運んでいく。


 猫は不愛想な三白眼で、私の顔をじっと睨み続ける。


 猫は手元を見ていないのに、その凶行は止まらない。コーヒーカップがテーブルの崖へ向かう。


「重蔵、やめ……!」


 ガシャンという無情な音とともにコーヒーカップは猫に崖から突き落とされてご臨終した。猫は自分が立てた盛大な破壊音に耳をピンと立てた。


 きょろきょろしてから、また私をぎろりと睨む。うるさいぞ人間、みたいな顔をされて心底から解せない。


「もう……だから、猫なんて嫌い……」


 私はコーヒーカップの破片を集めながら、ぐっと奥歯を噛みしめる。テーブルの下に跪いた私をテーブルの上から、猫の重蔵じゅうぞうが見下している。


 でっぷりした巨体がまさに、重蔵だ。


 重蔵は姉さんの飼い猫で、もう十二歳になる老体だ。けれどその態度はまるですべてを従える殿様。


 この部屋の主は自分だとばかりに夜中に駆け回り、賃貸の壁で爪を研ぎ、私のマグカップを崖から突き落として睨む。どこにも可愛い要素がない。


 私は生理的に猫が嫌いだ。どうしてかと聞かれてもそうだからとしか言えない。猫なんて、ただの獣だ。


 私は重蔵に見下されながら床を拭き終えた。


 一人暮らし用のマンションの一室、1LDKのリビングの中央。そのリビングテーブルの上で殿様猫がふんぞり返る。先日、この殿様猫が急に私の暮らしに入り込んだ。


 姉さんのせいだ。


 先日の姉さんは、今そこで重蔵がシャー!と威嚇の声を上げるテーブルの椅子に座っていた。姉さんの声は五十歳にしては妙に高くて、甘ったるい。


 四十五歳の私よりよほど若い振る舞いができるのが、姉さんの特技だろう。


「お願い、佐和ちゃん!検査入院の間だけ重蔵を預かって!」


 私は姉さんの前でコーヒーを口に運びながら、苦い顔をしていた。明るい色の花柄ワンピースを華やかに着こなした姉は、茶色のふわふわロングの髪を整えて眉を綺麗なハの字にする。


「佐和ちゃんしかいないの!佐和ちゃん、お願い~!」

「姉さん、私は猫が嫌いだって知ってるよね?」

「お姉ちゃんは、佐和ちゃんのお姉ちゃんなのよ?それくらい知ってるわ」

「じゃあ嫌がられるのはわかってるよね?」

「でもね~」


 姉さんは大荷物を従えて私の部屋を訪れていた。ピンク色の猫用キャリーケースの中で毛玉が丸まっているのが見えている。


 私の答えなど聞く前に、もう私の部屋に重蔵を置く準備をしてから来ているのだ。


 姉さんは私が、姉さんの頼みを断らないと決めきっている。


「重蔵は、お姉ちゃんの大事な家族なのよ」

「姉さんには友だちがいっぱいいるでしょ」

「友だちはいるけど、重蔵を適当に扱われたら困るの。でも佐和ちゃんのことはお姉ちゃんが一番知ってる。佐和ちゃんは誰より信頼できるから!ね、お願い~!」


 姉さんは私を信頼していると言いながら、私の気持ちにはいつも無頓着。姉さんは私が折れることを知っていて、私は思い通りに折れる。


 私たちは元から父親しかいない家庭の姉妹だった。ちょうど姉さんが成人したころに父が病気で亡くなった。


 私はまだ学生だったので、姉の助けを受けて暮らし、私が成人したあとも姉妹二人で支え合ってきた。


 姉さんはいつも朗らかで明るく、されどちょっとお節介に私を気にかけてくれていた。姉さんが私をかわいい妹だと認識しているのは間違いない。


 けれど姉さんは、私をどこか都合の良い使いだと思っているところがある。私はそう感じていても、どうしても姉に逆らえない。だって私と姉さんはたった二人っきりの姉妹。これほど唯一な相手もいない。


 そんな姉さんが体調を崩して仕事を休み、ついには検査入院だ。


 猫は嫌いだが、姉さんの頼みとあらば引き受けるしかない。私はコーヒーカップを置いて姉さんを見つめた。


「……検査入院の間だけね」

「ありがとう佐和ちゃ~ん!じゃあさっそく重蔵のお世話をレクチャーするわね!重蔵はお世話しがいがあって退屈しないわよ?」


 姉さんは屈託なく朗らかに笑った。


 彼女は明るくてお節介で──ときに残酷だ。


 その日からこのふてぶてしい猫は、猫嫌いの私の部屋に居座り始めた。


 重蔵が転落死させたコーヒーカップの片づけを終わっても、いまだにテーブルの上を大きな茶トラ猫が占拠している。


 潰れた鼻。鋭い三白眼。ウーと唸る低い声。


 可愛い要素など一つもなく、姉さんの役に立つどころかお荷物なこの猫が、今では姉さんの最愛の家族の座に君臨している。


 私より姉に優遇される猫。

 私の頭上にいるような猫。

 私は重蔵に向かって指を差した。


「重蔵!テーブルの上からどきなさい!」


 重蔵は私を一瞥してから、ハッと鼻を鳴らしてまた丸まった。重蔵のエサを用意し、トイレを毎日整えて、コーヒーカップの片づけをしたこの私に、重蔵が与えたのはこの無視だけ。私は重蔵を睨みつけて歯噛みする。


 だから、猫なんて嫌いだ。






 夏休みの予感が高校生たちを浮つかせる日差しが、教室の中に満ちている。


 クーラーだけは効いた古い教室には、整然と並ぶ机たちと、乱れた制服を着こなしと呼ぶ生徒たちが混在していた。日本人らしからぬ金髪をした生徒とその仲間たちが騒ぐ。


「おい猫田~朝イチティックトックやれよ」

「おっけ、猫田いきまーす!古典の授業を体で表す俺なりダンス!今どき古典の意味って何!誰が読むんだこの古典!YO!YO!」

「ギャッハハ!表現が昭和なんだけど!」

「うまいだろ?!この前ティックトックで見た昭和あるあるのYO!YO!」

「お前なんでも取り入れ過ぎな~」


 高校の国語教師を務める私は、教壇に立って黒板に垂らしたスクリーンに画面を投影する。生徒たちはティックトック狂いをしていようが、化粧中だろうが、おやつ中だろうが、私は授業を行う。


 それが仕事だ。スクリーンには「をかし」の文字が映る。


 私の敬愛する清少納言のをかしさを生徒に伝える。それが私が教師を目指したころの志だった。私はもう四十五歳、教師を志したころなど、もう遠すぎる。


「先生ー!字が間違ってまーす!」

「それでも国語教師ですかー!」


 金髪をした猫田君がスクリーンの「をかし」を見て大笑いする。こっちが大笑いしたいところだ。私はうるさい中でも聞こえるように声を張る。


「良い質問です。猫田君。この『を』は間違いではなく、『をかし』という古語であり、清少納言がかつて枕草子という本の中で多く用いた意味深い言葉です」

「せっしょーな、ゴン!まくら喪失で、記憶喪失!ってこと?!」

「おま!天才の発想だろそれうまい!」


 高校生の生徒たちは小学生よりもふざけきっているが、まだ聞いているだけましだ。私はスクリーンをステンレスの差し棒で差して、説明を重ねた。


「『をかし』は本来「趣がある」「美しい」「かわいらしい」などの意味が中心ですが、時には「ちょっと変で笑える」「妙におもしろい」というユーモラスなニュアンスでも使われることがあります」

「猫田、昭和ギャグやって~」

「いつまでたっても甘えんぼ!」

「ギャッハハ!何だそれ~」


 猫田君を中心に男女が集って輪ができる。私がスクリーンを見ていた視線を教室へ向けると、まるで私の声など最初からそこにいないような空間があった。クーラーの効いた教室に無機質なチャイムが響いて、授業は終わる。


 職員室に戻れば隣の太った職員もまたSNSをスマホで見ながら「この学校って誰も授業聞いてませんよね~」とクッキーをかじっている。


 それでも私は、次の授業時間に「をかし」を説明した。


 透明人間の仕事を終えて、重い気持ちを抱えたまま電車に揺られた。最寄り駅を下りて、じっとりと湿度が高い夜を歩いて家の近所の本屋を訪れる。


 広くて品揃え豊富な本屋ではない。だが、昔ながらのみちっと狭苦しく本棚が並んだ街の本屋。店主の本選びのセンスが光る店だった。そう、かつては。


 私は店内の涼しい空気の中で汗を拭きながら、本の香りがする棚の間をそろりと歩く。本棚の間を歩くこの瞬間は、疲れが癒えるときだった。だが、新刊の文庫本が並ぶ棚の前で、私は大ため息をつく。


「……また猫本ばっかり」


 私は棚に平置きされた本のタイトルをざっと眺める。新刊の表紙タイトルは全部確認したいのだ。高校生のころからずっと生粋の文芸部である私の習慣だ。


『黒猫がいるならこんな恋も』

『猫と私の土鍋暮らし~四季のおすそわけ~』

『白猫館の殺人─その猫なぜやら名探偵─』


 どのジャンルであっても猫を絡めておけば、客が釣れると思っている。馬鹿にしているのだろうかと、私は思う。だが、これが売れるからこうなるのだとも知っている。


「本屋が猫に侵食されてる……」


 私はどっと疲れが増して、何も買わずに本屋を後にした。どの文庫を手に取ってみようかと、心弾んだあの時が懐かしい。


 ここでもまた、私を追いつめるのは、猫なのか。


 重い足取りで四階建てのマンションに帰り、エレベーターを昇って玄関を開ける。姉さんの指示通りに、部屋の電気もエアコンもつけっぱなしだ。


 お猫の重蔵様のためだ。


 入院中の姉さんから猫のエサ代は受け取っている。だが、電気代は私が払う。姉さんはそこまで気が回らなくて、私はそれを姉さんに請求して、心の狭い妹だと思われることに耐えられない。


 靴を脱いでいると廊下の奥で、でっぷりした重蔵がのしのし横切った。ちらりと私を見たのに、道端の石でも見たかのようにするりと無視して、私の視界から消えて行く。


「ぶさ顔……」


 授業でうっぷんを溜めて帰る家に待つのは嫌いな猫。


 重蔵は玄関に出迎えたりしないばかりか、エサを用意してもこちらを見もしない。私がスーパーで買って来た売れ残り割引総菜を細々と食べたあと、スマホが鳴った。姉さんからのメッセージだ。


『佐和ちゃ~ん!重蔵のシャンプーの日だからお願いね~!』


 姉さんの甘えた声で再生されたメッセージにため息をつく。


 仕事お疲れ様の一言でもあれば、やる気も出るというのに。


 姉さんは私を傷つけたりはしない。

 なのに私は勝手に、傷だらけだ。


 私は食事の片づけをシンクに放り出したまま、まず重蔵を洗うことになった。風呂でシャワーを出し始めると、重蔵がふてぶてしい顔のままのっしのっしと現れる。


「猫のくせに水が好きだなんて、変わり者すぎる」

「ウー」


 猫はにゃーと鳴くものだと思っていたが、重蔵はウーとかフーとかグーとか、低い音しかでない。私は服を着たまま、袖をまくって風呂の洗い場にしゃがみこんだ。


 姉さんにレクチャーされた手順を踏み、泡で洗う。意外と抵抗しないなと思っていたら、重蔵が急にびくんと動いた。急だったので、重蔵の顔にばしゃりとシャワーをかけてしまった。


「あ、ごめん」

「シャー!」


 重蔵は歯と歯茎を目いっぱい見せて威嚇して、ぶるんぶるん身体を震わせて水をまき散らした。


「ギャ!重蔵、やめてよ!」


 重蔵のせいで私はずぶ濡れ。重蔵は風呂から逃げ出して、怒りを叫びながらリビングを走り回る重蔵のせいで、風呂からリビングの床まで水びたしだ。


「あぁ……もう水の道やめてよぉ……」


 私はまた床を拭いて這いつくばって、重蔵の後を追いかけながら嘆く。私がちょっと愚痴を言うと、さらにぎろりと三白眼で睨まれる。


 文句も言えない。自分の部屋さえも憂鬱な場所と化していた。






 何もかもがずれている暮らしの中、仕事終わりに最寄り駅前の小さな居酒屋の入口をくぐった。


 古びた趣きある居酒屋はカウンター席がメインだ。ざっと見回してすぐに待ち人がまだ来ていないことがわかる。私は入口に一番近いカウンター席に座った。


 すると、カウンターを挟んだ向こうの調理場で、目尻の深い皺が印象的な店主が愛想よく私に挨拶した。


「おう、いらっしゃい。久しぶりだな。日野くんと約束かい?」

「はい」

「順調で嬉しいねぇ。うちの常連同士のアベックは珍しいから!」


 あははと笑い飛ばす高齢のご主人に苦笑いを返す。


 アベックなんて言う人がまだいるのだなと思って引きつってしまう。けれど、私が生徒に「をかし」を語るのも同じようなものなのかと思ってうんざりした。


 店主は私が一人で時間を持て余していると思うのか、あれこれ話しかけてくる。


「女房はずーっと不機嫌なんだよ」


 店主はいつも奥さんとケンカしているので、その話ばかりでこちらは飽いている。


「大変ですね」

「ああもう、人生なんて思い通りいかんよ。でもまあ、ままならねぇまま、今日も酒を飲む!そんなもんだ!さあ飲んで飲んで!」


 笑い飛ばす店主にビールを勧められる。ままならない人生の手触りについては、私も詳しいつもりだ。でもそうやって笑い飛ばせるものだろうか。こんなに、息苦しいというのに。


 ざわつく店内で、マグロのユッケをあてにビールを飲んでいると、やっと待ち人が現れた。


 引き戸の入口を開けて、ふわふわ黒髪の鳥の巣頭をした長身の彼が私の恋人である日野直人だ。私より二つ年上だと聞いている。


 鳥の巣頭は右にも左にも分けられず、前髪は重めに垂れている。目尻も垂れていて、表情は乏しい。だがどこか放っておけない優しい顔立ちだと私は思っている。


 だが今日も直人はくたびれた顔をして、猫背のまま私の隣に腰を下ろした。


「久しぶり」

「うん。名札がついたままだよ」

「あ」


 直人は首から垂れたままだった仕事用の名札ストラップを慌てて外した。


 直人とは今座っているこの場所で出会って、付き合って三年目。出会った日にも直人は名札を取り忘れていた。そのおかげですぐ名前は知れたなんて思い出もある。


 直人はビールと枝豆を頼み、二人で並んで食べる。直人がぼんやりしながら独り言みたいにぽつぽつ話す。


「標本箱の端っこに、たまに細い繊維が溜まるんだ。猫の毛みたいなやつ。あれ、どこから湧いてるんだろう」


 知らん、と切って捨てたくなる。どこを切っても直人の話はつまらない。博物館の裏方として働く直人が話すのは、面白みの欠片もない職場の断片だけだ。


 化石を相手にするような仕事なので、直人もまるで化石のようだとよく思う。


 私は清少納言について熱く語ったりするのに、直人は好きなものを語ることもしない。仕事に情熱があるようにも感じられないのに、直人は話題に困っているかのように仕事の話しかしないのだ。


 ざわついた居酒屋のカウンターで、私はマグロユッケの最後の一口を口にした。


「三年も付き合ってるのに、直人の好きなものっていまだにわからない」

「え……」

「直人が一番、時間をかけてるものって何?」

「あー……うーん」


 うんうんと悩む直人がまどろっこしくて、私は残っていたビールをぐいと飲み干した。直人とは出会いが遅かったので、結婚する気もない。今さら、直人の親の介護をさせられる未来などが来ては困る。


 だが結婚はしないにしても、好きなものくらい語ってくれたらいいはずだ。直人は私の顔を見てから息をついて酒をちびちびと飲む。最近の直人は特に気もそぞろだ。旅行に誘っても拒否されて、会う日も間隔が空いてきている。


 他に気がかりがあるのがすぐわかる。


 直人は好きなものがないのではなく、私に語れない好きなものがあるのだ。


 たとえば、家庭とか。


 私は直人の部屋に呼ばれたことがない。直人には家庭があって私が浮気相手なのでは、と常々思っていた。


 別れようかと思うけれど、これから先また彼氏なんてできるはずもなく、切り出せもしない。結局、直人は答えられず沈黙が流れ、私は立ち上がった。


「もう……直人といるのしんどい」


 私はそう言い捨てて直人を残して店を出た。

 直人の顔も見なかった。


 別れたいとは言えなくて、曖昧にしんどいと言い残してから音沙汰がない。私は休日のリビングで、ソファに横になりながら、鳴らないスマホを見ては閉じる。


 重蔵が猫砂をまき散らした匂いがする中で、天井に向かって大ため息をついた。


 直人はいつも通り、つまらなかっただけなのに。


 どうしてあんなこと言ってしまったのだろうか。猫がカシャンカシャンと音を立てる。カーテンを引っ張るような不吉な音がしている。なのに、立ち上がれない。


 直人を突き放して、「そんなこと言わないで」と私への気持ちを見せて欲しかったのかもしれない。でもスマホは鳴らない。


 やっぱり、私には追いかけてもらえる価値なんてなかったようだ。カーテンレールがカシャンカシャンと悲鳴を上げている。


 私の暮らしには「こうあってほしいのに、そうはならない」ばかりが降り積もる。


 すべてがすべて、ままならない。


 何かを変える活力もなく、このまま何の変わり映えも無い日々を死ぬまで生きるのだろうと予感する。もう天井が滲んで見える。本当にもう、私は猫の面倒など見ている場合ではないのだ。


 鼻の奥でしょっぱい味がしたと思ったら、ガシャンとカーテンレールが限界突破した音。どしんと重蔵がフローリングに転落した鈍い音。見なくてもわかる。


 カーテンを上ろうとした重蔵の重みに耐えきれず、この度はカーテンがご臨終だ。絶対、カーテンも裂けている。お気に入りの、カーテンだったのに。


 私は鼻をすすった。鼻に部屋の香りがぐっと刺さる。


「猫臭い……」


 猫の匂いがする部屋にもう耐えられない。






 異常に蒸し暑く鬱屈とした曇天の休日に、私は電車とバスを乗り継いで姉さんの入院する病院へと足を運んだ。


 昨今の病院は面会ルールが厳しい。完全な予約制で病棟の入口に設けらえた面会室で十五分、しかも透明の板を挟んで会うだけだ。


 患者を不用意な病原菌から守るためであるが、うっかり刑務所かと勘違いしてしまう。


 狭い懺悔室かと思われるような面会室で、姉さんと透明板を挟んで向かい合う。面会室には窓があるのだが、あいにくの曇天のため、光量は少ない。


 透明板の向こうに着席した姉さんは花柄のパジャマを着ていた。きちんと化粧をしていて、どこでも明るい彼女らしいと安心してしまう。開口一番、姉さんの大きな声が面会室に響いた。


「お願い佐和ちゃん!重蔵の写真を毎日見せて……!」


 姉さんは透明板に前のめりになった。


「お姉ちゃんわかってるけど、もうこんなところに長いこといて、たくさん検査しているのにまだ出してもらえなくて!癒しがないとやってられないのよ~!」


 散歩さえろくにさせてもらえなさそうな堅牢な病棟だ。夏空の下でサングラスをかけて、ビアホールをはしごするような奔放な姉には、この夏のクーラー責めも辛かろう。


 気持ちがわかるが、私は姉をため息交じりに見つめた。


「私だって、仕事があるから忙しいよ姉さん」

「そうよね……お姉ちゃんこんなこと言って迷惑よね……ごめんね、佐和ちゃん。でもね、佐和ちゃん、お姉ちゃん……寂しいのよ。重蔵に会いたいの」

「私が会いに来てるじゃない」

「も、もちろんそうよ?佐和ちゃんが来てくれてすっごく嬉しいの。でも、重蔵が……」


 くすんと泣きまねさえする姉さん。私が遠路はるばるたった十五分のためにお見舞いに来ているというのに、姉さんの口からは重蔵、重蔵だ。


 姉さんは見事に徒労感を植え付ける。姉さんは重蔵とお揃いの茶色髪をかき上げた。その仕草には妙な色気があり、五十になっても姉さんは綺麗だ。


 若い頃から猫に傾倒し続けた姉さんは、何度もあった結婚の兆しを全て素通りして独身を貫いている。無邪気な素直さを残したまま大人になった姉さんは憎めない。


「佐和ちゃん……本当にダメ?」


 ただでさえ重蔵の世話は重荷なのに、さらに乗せてくる姉さんの屈託ない面倒なお願い。私は重蔵の匂いが充満する部屋でぐったりしているのだ。当然、切り捨てたい。


 けれど私は、姉さんに逆らえない。


 私はしょんぼり見せるのが抜群にうまい姉さんの八の字眉に目が行く。私が姉さんに逆らえなくなった決定的な出来事があったのは小五、十歳の夏だ。


あのとき、姉さんは中三で受験を控えて塾でたくさん勉強をしていたのを覚えている。


 私は姉さんと遊びたい盛りで、遅く帰宅する姉さんのために動物番組を録画して帰りを待ち侘びていた。姉さんが帰ると飛びついて、私が録画したことを自慢して、一緒に見るのを楽しみにしていたのだ。


 そんな私たち姉妹を見ていた父が夏の日に、知り合いから子猫を引き取ってきた。


 子どもでも軽々と持ち上げられるほどの生後半年くらいの子猫だった。


 子猫はクリーム色と薄茶色と白い毛が混ざった雑種で、私にも触らせてくれるくらい気性の穏やかな子だった。私は目を輝かせて段ボールの中の子猫をずっと見つめていた。


「子猫かわいい~!」


 今日みたいに蒸し暑い曇天の日だった。


 私は姉さんが塾から帰るまで子猫にエサをやってかいがいしく世話をして、子猫のふわふわの毛をたくさん撫でた。塾から帰った姉はセーラー服のまま、私と一緒に段ボールを覗きこんだ。


「えー!可愛い!やったー!」

「ふわっふわなんだよ、お姉ちゃん!」

「え~ほんとだ~もふもふだ~!」


 私たち姉妹は顔を合わせて興奮して喜びあった。子猫の名前を何にしようかと一緒の布団に入って夜中まで考えた。


 けれど次の日の朝、段ボールを覗き込むと、子猫はあっけなく死んでしまっていたのだ。姉さんの一言が蒸し暑い朝に溶けた。


「え、どうして?」


 私と姉さんは、段ボールの前でパジャマのまま、呆然と立ち尽くした。姉さんは動かなくなった子猫を抱き上げて、胸に抱きしめる。私は目から涙をぼろぼろ落とした。


「……佐和のせいだ。佐和が昨日、いっぱい触ったから」


 私が両手で目を覆ってそう言うと、姉さんは即座に否定した。


「違うよ、佐和ちゃん」

「だって、動物番組でやってた。触り過ぎたらびっくりして死んじゃうこともあるって」

「あれは生まれたての赤ちゃんに、たまにあることで。この子はもう半年だからきっといきなりの心臓の病気か何かで」

「佐和のせい……佐和のせいだぁ!」


 姉さんが抱いていた子猫がどんな体温だったか、私は知らない。もう命が消えた猫の形に触れることは怖くてできなかった。


 泣きじゃくってフローリングの床に座り込んだ私に、姉さんはいろんな慰めをしてくれたのだろうけれど、覚えていない。


 花柄のパジャマを着た姉さんは子猫を段ボールにそっと寝かして、今度は私を抱きしめた。姉さんからは猫の匂いがした。


 姉さんが私の背をとんとんと叩いたあのリズムと、あの声を、私は忘れられない。


「佐和ちゃんが寝てからね。実はお姉ちゃん夜にも子猫に触ったの。お姉ちゃんが触り過ぎたせいで……この子は死んだんだよ。だから佐和ちゃんは悪くない。お姉ちゃんが悪いの」


 姉さんの甘ったるい声。八の字の美しい眉。花柄のパジャマと、猫の香り。あの時のことは、あれから三十五年たった私に、今もまだ鮮明に刻まれている。


 姉さんの言い訳は、苦しい嘘だった。姉さんはそういうことが下手だ。


 けれど罪悪感を幼い身に宿した私は、その嘘に縋った。


 姉さんは下手くそで真に私を救いはしない。だが、私を守ろうとした。あれからずっと私は姉さんに逆らえない。だから私は、猫なんて嫌い。


 そんなことを思い出していると、透明板の向こうで、花柄のパジャマを着た五十歳の姉さんがケロッと言う。泣き真似は止めたらしい。


「そういえば直人くんとケンカでもしてるの?」

「どうして知ってるの」

「直人くんとお姉ちゃんはLINEでつながってるからね!」

「……直人のことは放っておいて」

「はーい、ごめんなさーい」


 姉さんは一番触れて欲しくなかったところを不躾に撫でる。姉さんは的確に私をちくちくさせる。十五分しかない面会時間の終わりが迫り、姉さんの八の字眉がさらに険しくなる。


「ねぇ、佐和ちゃん……お願い」


 私はどんなに負担だとしても、姉さんのためになるなら折れる。私は静かに頷いた。


「わかった。重蔵の写真撮ればいいのね」

「わー!ありがとう佐和ちゃん!やっぱり佐和ちゃんは優しい!それでね、実はやり方があって!」


 面会時間の残り数分で、姉さんは自分の要求をまくし立てた。


「重蔵の写真をSNSにアップして欲しいの!お姉ちゃんSNSに猫友だちいるから重蔵を見せたいし、世の猫好きたちに重蔵を自慢しちゃいたいからね!一石二鳥のすごい良いアイデアだと思うでしょ?!」


 面会時間に終わりが来て、面会室に看護師さんが迎えに来た。姉さんは言いたいことだけ言って、さっと軽やかに立ち上がって病室へ戻って行った。


「え、私がアカウント作るってこと?」


 取り残された私の口は半開きだったが、次の人が来て面会室を追い出された。私は姉さんからの重い宿題を抱えて、長い家路についた。


 汗をたっぷりかいた不快な状態で部屋に帰ると、重蔵がいるおかげでリビングのクーラーだけはばっちり効いていた。


 私は汗を拭きながら冷蔵庫からビールを取り出して、とりあえず一口喉を潤した。夏には熱すぎる毛皮をまとったでっぷり重蔵が、部屋の端っこで私に興味なさそうに腕を舐めている。


 私はテーブルの椅子に腰かけ、テーブルの上にビール缶と今日の夕飯を並べた。帰りの途中で寄ったスーパーで割引シールが貼られたマグロの刺身パックだ。


 毛づくろい中だったはずの重蔵が、いつの間にかじりじりと私と距離を詰めてきていた。私がいるところがクーラーが一番効く場所なので、縄張り争いに来たのかもしれない。譲つもりはないが。


「あ、お皿ない」


 私は重蔵を跨いで、醤油皿を取るためにキッチンへ向かった。皿を持って元の場所に座ると、すぐに違和感に気づいた。


 マグロの刺身が減っている。


「あ!重蔵、つまみ食いしたな!」


 私がバッと重蔵の住処である段ボールを見ると、マグロの刺身をかじる重蔵が私をじっとり睨みつける。


「私のごはん、それしかないのに!あんたのキャットフード残してるくせに何で私のを取るのよ!」

「シャー!」


 私が大きな声をあげると、重蔵はぴんと耳を立ち上げて大きな口を開けて威嚇し返してくる。


「なんであんたがキレるのよ!私が怒ってるのに!」


 私はがっくりとフローリングに崩れ落ちる。一瞬でもその場から離れたのが悪かった。今まで一度もつまみ食いなんてされたことなかったから油断していた。


 重蔵のキャットフード皿はひっくり返されて、あたりにはキャットフードがまき散らされている。そんな中、殿様猫はお刺身にかぶりついている。私はキッと重蔵を睨みつける。


「絶対に許さないから……!」


 立ち上がった私は鞄からスマホを取り出して、猛スピードでSNSアカウントを作った。姉さんがやっているSNSはXだけだ。


 私は迷いなくXのアカウントに入った。アカウント名を入力する。


『だから猫なんて嫌い。』だ。


 自己紹介文は簡潔に「姉が入院中の預かり主、サワ。預かり猫、重蔵。」と記入した。


 狩りに成功した重蔵は刺身を引きちぎりながら私を睨むことを忘れない。私は重蔵にカメラを向けて、肉を貪る野性味あふれる姿を撮影した。


 写真には獣としての本能がありありと写っていた。

 どう見ても可愛くない。

 よし。


 私はその写真を一切の加工ナシの不細工さでXに載せた。投稿文を入れなくてはいけないので私の憤りを勢いよく綴る。


 重蔵の果てしなく不細工な姿を世に晒して復讐してやる。けれど、私がこいつ嫌いだと世間に投げつけるのは品が良くない。


 清少納言を敬愛するものとしてあまりに露骨なことを言うのはよろしくない。だから私は清少納言を意識して古典語を使った。


『食事中。野性味あふるる盗み食い猫。注意したら激しく威嚇。明解なる逆ギレ。いとをこがまし。』


 私はテーブルにばんとスマホを置いてビール缶をぐいぐい飲んだ。


「ほんとにをこがましいよ、重蔵!」


 SNSに言葉を投げつけて、少しだけ気が晴れた。姉さんからもらった気の重たい宿題が意外とストレスのはけ口になって笑えた。重蔵への毒を吐く場所ができた。


 私は残った刺身をちまちま食べながら姉さんにSNSアカウントを開設した旨を連絡した。するとすぐに返信があった。


『重蔵ったらワイルドで可愛い~!それに、投稿の文章も佐和ちゃんぽくておもしろい!次も楽しみにしてるね!』

「もう、皮肉を受け取ってよ……!」


 私はげんなりしながらまた缶ビールを一本開けた。姉は懐が広くて困る。


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