第8話 共犯者の布探し
翌朝の空は、まだ藍色が残っていた。神楽坂の坂道を下りる石畳が、街灯の名残で薄く濡れて見える。茉子は眠い目をこすりながら、工房の前で腕時計を確かめた。午前四時四十五分。普段なら、針山より枕の方が近い時間だ。
「来た」
角から現れた遼は、肩に小さなリュック、手には紙袋を提げていた。紙袋から、湯気が漏れている。
「……それ、何ですか」
「熱い。落とすな」
渡されたのは、蓋つきの紙コップが二つ。片方には油性ペンで「糖なし」と書いてある。もう片方には、丸の中に小さく「ミルク」とだけ。
茉子は、胸の奥がふっと緩むのを感じた。自分の好みを一回で覚えられる人は、少ない。受け取って、息を吹きかけ、少しだけ飲む。苦いのに、目が開く。
「ありがとうございます。……でも、こんな早く」
「審査会に出す一着、布が足りない。予算が足りない。両方足りない。だから早い」
遼は簡潔に言い切り、歩き出した。早朝の神楽坂は、パン屋の仕込みの匂いと、ゴミ収集車のブレーキ音だけが漂っている。
茉子は小走りで追いつきながら、昨日コルク板に丸を付けた期限の数字を思い出した。優歌が置いていった名刺の角。遼の青いペンの線。布箱の金色の花刺繍。どれも、逃げ道を狭くしてくるのに、足だけは前へ向く。
都営大江戸線の始発に乗り、浅草橋で降りた。改札を出ると、まだ店のシャッターは半分しか上がっていない。けれど路上には、台車とロール状の布が並び、車のライトがそれを照らしている。問屋街の朝は、眠気より先に商売が起きていた。
「ここ、慣れてるんですか」
茉子が訊くと、遼はリュックから小さな電卓を出し、親指で叩いた。
「慣れてない。だから数字で守る」
守る、という言葉が、妙にやさしく聞こえた。
最初の店は、入口に「端切れ」と書かれた段ボール箱が山積みになっていた。布の端がはみ出し、まるで色と柄の波だ。茉子は思わず立ち止まる。
「……宝箱」
「宝箱は高い。端切れは宝くじ。引きが弱いと雑巾」
遼の現実が、朝の冷気みたいに頬に当たる。茉子は口を尖らせかけ、すぐに引っ込めた。ここでむくれるより、拾う。拾って縫う。昨日、鏡の前で採寸テープを握り直した手が、今は布の山へ伸びる。
遼が紙袋から、軍手を二組出した。
「指、切るな」
「……気をつけます」
軍手をはめると、指先の感覚が少し鈍くなる。けれど鈍い方が、怖がらずに掘れる気がした。
茉子が布の山をかき分けると、奥から、金糸がちらりと光った。呼吸が止まる。引き出してみると、深い紺のサテン地に、ほんの少しだけ金の糸が混ざっている。星屑みたいな細い線が、布の表面で瞬く。
「遼さん、これ……」
遼は目だけで布を見て、電卓の画面を見て、店主へ顔を向けた。
「これ、端切れ扱い?」
店主は眠そうにあくびを噛み殺し、布を持ち上げて光に透かした。
「その色、人気あるんだよ。端切れと言うには……まあ、長さ次第だな」
遼はすぐに巻き尺を出し、布を床に伸ばした。茉子も手伝って、端を押さえる。息が合うというより、間違えないように無言で合わせる感じだ。
「一・二……」
遼が数え、茉子がメモを取る。二メートルちょっと。足りる。足りるけれど、裏地も、補強も、飾りも必要だ。
遼が小さく息を吐いた。
「これだけで勝つつもりなら、無理する」
「勝つつもり……です」
茉子が言うと、遼は一瞬だけ口元を動かした。笑ったのか、噛んだのか、判断がつかない。
「じゃあ、もう一枚」
二軒目、三軒目。茉子の軍手がだんだん灰色になっていく。遼は値札を見ては電卓を叩き、店主と短い会話を交わす。言葉は少ないのに、最後に「ありがとうございます」をきちんと置く。置き方が丁寧だと、相手の声色が少し柔らかくなる。
「遼さん、交渉うまいですね」
「無駄を減らすだけ」
「無駄、じゃなくて……」
茉子は言い直した。自分の言葉が軽くならないように、喉で一度冷やす。
「……一着を守るための、選び方」
遼は足を止め、茉子を見た。視線が、布を見るときと同じくらい真剣で、茉子は思わず背筋を伸ばす。
「……そう言えるなら、今日は共犯者だね」
遼が、ふっと言った。
共犯者。悪いことの響きなのに、胸の奥に灯りがつく。茉子は口角を上げかけて、慌てて真面目な顔を作った。
「何を盗むんですか」
「端切れの山から、時間を盗む」
「……難易度高い」
「だから早起き」
四軒目の店先に、麻袋に入った布の端が積まれていた。店主が「好きに掘っていいよ」と言う。茉子は膝をつき、麻袋に手を突っ込んだ。ざらり、と布の感触が指先に伝わる。軽い、重い、滑る、引っかかる。布は触れば、嘘をつかない。
その中に、薄い金色のオーガンジーがあった。光に当てると、透けて、でも輪郭だけが残る。花の刺繍はない。けれど、重ねれば花になる気がした。
「上にこれを重ねたら……胸元の圧迫感も減らせます。前の舞台衣装、ここが苦しいって言われたから」
茉子が思い出しながら言うと、遼はすぐに頷かなかった。布を指でつまみ、引っ張り、戻し、光にかざす。最後に、ほんの少しだけ頷く。
「補強は要る。けど、呼吸は戻る」
「はい」
遼の言葉が、裁断線みたいにまっすぐで、安心できた。
買い物袋が増え、肩が重くなった頃、東の空が白んできた。路地の向こうで、屋台のコーヒーが湯気を上げている。茉子は一息つき、袋の中の紺のサテンを撫でた。軍手越しでも、あの瞬く線だけは感じられる。
帰り道、電車の窓に朝日が差し込み、茉子の頬を温めた。遼は座席に座ったまま、レシートを並べて合計を出している。紙の上で、青いペンが走る音がする。
「……予算、どうですか」
茉子が恐る恐る訊くと、遼は電卓を叩き、最後に親指で数字を消してから顔を上げた。
「ギリギリ。だけど、足りる」
「ほんとに?」
「俺が言うときは、足りる」
その言い方が、妙に可笑しくて、茉子は笑ってしまった。遼は笑わない。けれど、レシートを揃える手が少しだけ速くなる。
「……遼さん」
「何」
「共犯者って、いいですね」
茉子が言うと、遼は窓の外へ目を向けた。朝の光で、まつ毛の影が薄く落ちる。
「単独だと、途中で折れるから」
その言葉に、茉子の喉が少しだけ熱くなる。折れる。自分のことだ。何度も、途中で手を止めた。けれど今、止める理由が減っていく。
工房の近くで電車を降り、神楽坂へ戻る坂道を上る。荷物は重いのに、足は軽かった。風鈴の音が、昨夜より澄んで聞こえる。
遼が、茉子の歩幅に合わせるように少しだけ速度を落とし、小声で言った。
「これで、世界に一着を作れる」
茉子は、紺の布の袋を抱え直し、頷いた。針ではなく、自分の喉で返事をする。
「はい。作ります」
工房の扉を開けると、木の匂いと布の匂いが迎えた。作業台の上には、昨日の青い丸が見える期限表。茉子は袋を置き、軍手を外した。指先が、布を触りたがっている。
階段の上から、芽吹の足音がした。眠そうに目を細め、袋の中身をちらりと覗く。
「……早い。匂いが朝」
「布の匂いだよ」
茉子が言うと、芽吹は鼻で息を吸い、リボンの端を指でいじった。
「金色、好き。花じゃなくても」
茉子はその言葉に、胸の奥の布箱を思い出した。花は一輪で十分。けれど、一輪を輝かせるために、重ねるものは必要だ。
遼は黙って、作業台に布を広げた。紺が朝日に沈まず、深く光る。金糸が、星屑みたいに瞬く。
茉子は、息を吸って、針山を手に取った。共犯者がいる。なら、縫い始められる。




