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ゴールデンフラワーの一着  作者: 乾為天女


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第7話 優歌、宣戦布告は丁寧に

 六月の神楽坂は、雨が降るたび石畳が黒く光り、晴れた日は急に汗がにじんだ。工房の窓を開けると、坂の上から湯気みたいな熱が流れ込み、布の匂いに混ざってパン屋の甘い香りが一瞬だけ鼻をかすめる。


 茉子は朝一番に届いた角封筒を、手のひらでそっと押さえた。紙が厚い。表に、押し型の小さな花。金でも銀でもない、目立たない光り方だった。

 「……これ、宛名、うちだ」

 茉子が読んだ瞬間、遼の視線が封筒へ滑った。遼は机の端で電卓を伏せ、封筒の角を指でつまむ。開け口は、のりが丁寧に塗られている。爪を立てるのがもったいなくて、遼は定規で端をそっと切った。


 中から出てきたのは、薄い冊子と一枚の案内状だった。紙の上に「若手向けオートクチュール審査会」の文字が並び、提出締切と搬入の時間が、太い線で囲まれている。

 「審査……会」

 茉子が声にすると、口の中が乾いた。針を動かす音と違う緊張が、首の後ろに立ち上がる。

 芽吹はトルソーの脇でリボンを結びながら、ちらりと紙を見て言った。

 「見られるやつ?」

 「見られるやつだね」

 博宣が、まるで散歩の話をするみたいに頷いた。どうして、そんなに軽い顔ができるのかと、茉子は思う。


 遼は案内状を机に置き、鉛筆で日付の下に線を引いた。細い線なのに、そこだけ空気が変わる。

 「一点勝負」

 遼が短く言った。

 「え……出すの?」

 茉子が訊くと、遼は答える代わりに、帳簿を開いてページをめくった。紙がこすれる音が、返事の代わりみたいだ。

 「出さないなら、鍵を渡した意味が薄い」

 茉子は喉が鳴った。鍵。あの古い鍵。受け取ったときの冷たさが、今また指先に戻ってくる。


 そのとき、玄関のベルが鳴った。芽吹のリボンが、指の間で一度ほどける。

 「……いらっしゃいませ」

 茉子が立ち上がるより早く、遼が靴を揃えに行った。遼が先に動くと、茉子の心臓も、遅れないように動き出す。


 入ってきたのは優歌だった。濡れた傘の先を外へ向け、工房の床を一歩も濡らさない距離で折りたたむ。傘袋を持参していて、床に水滴を落とさない。

 「おはようございます。今日は、お伝えしたいことがあって」

 優歌はそう言って、挨拶の角度をきっちりそろえた。声が大きいわけじゃないのに、工房の隅まで届く。


 優歌の手が、机の上に一枚の名刺を置いた。白地に、細い黒文字。上に、見慣れない屋号。

 「メゾン・ルリエ。今月から、こちらでお世話になっています」

 「……転職?」

 芽吹がぼそっと言い、博宣が咳払いで笑いをごまかした。


 優歌は芽吹の一言に眉ひとつ動かさず、次の紙を出した。あの審査会の募集要項を、赤線が引かれた状態で。

 「ゴールデンフラワーさんも、出品されますよね」

 茉子は息を吸い、針山の底の五文字を思い出した。負けないで。あれは、誰の言葉だったんだろう。

 優歌は続けた。

 「僕も、同じ審査会に出ます。期限はここです。搬入はここ。提出書類は、これとこれ。審査会当日までに、仕上げの工程を残さないこと」

 淡々と、でも一つも曖昧にしない言い方だった。宣戦布告なのに、椅子を引く音まで丁寧で、茉子は逆に背筋が伸びた。


 茉子は慌ててメモ帳を開いた。鉛筆の芯が紙に触れた瞬間、手の震えが文字になって落ちる。期限。搬入。提出物。必要な布量。仕上げ工程。

 書けば書くほど、自分が小さくなる気がして、茉子は一度ペン先を止めた。


 そのとき、遼が茉子の横へ紙を一枚滑らせた。真っ白な紙に、横線が等間隔で引かれている。遼が作った作業表だった。日付の欄、工程の欄、費用の欄。余白も、ちゃんとある。

 「これ使え」

 遼はそれだけ言って、優歌の赤線入りの要項を受け取った。優歌の視線が遼の指先へ落ち、ほんの一瞬、止まる。次の瞬間、優歌は名刺をもう一枚取り出して遼の前に置いた。

 「必要なら、仕入れ先の情報、共有します。条件は、僕のほうが先に搬入すること」

 「条件がつくんだ」

 博宣が口の端を上げた。芽吹は「へえ」と短く言い、リボンの結び目をきゅっと固めた。


 茉子はメモ帳の端を握りしめた。優歌の「先に」という言葉が、胸の中で針みたいに刺さる。先に。遅れるな。置いていかれる。

 でも、遼が滑らせた作業表の線は、落ち着いていて、そこに鉛筆を乗せると手が少しだけ静かになった。


 茉子は顔を上げ、優歌の目を見る。優歌は逸らさない。遼も逸らさない。三人の間に、見えない布が張られる。

 茉子は口角を持ち上げた。緊張で頬が引きつるのに、笑う形を作る。

 「……勝負、ですね」

 言ってしまったあと、胸が少し軽くなった。優歌は小さく頷き、名刺入れをしまった。

 「はい。丁寧に、勝ちます」

 「丁寧に……」

 茉子はその言葉を噛みしめた。丁寧に縫えば、針目は嘘をつかない。丁寧に採寸すれば、体は嘘をつかない。丁寧に向き合えば、気持ちも、たぶん。


 優歌が帰ったあと、工房に残ったのは紙の匂いと、赤線の緊張と、窓から入る湿った風だった。遼は作業表の一番上に「審査会」と書き、横に小さく「一点」と付け足した。

 「……一点で、何を作る?」

 茉子が訊くと、遼は鉛筆を置き、茉子の針山を見た。底の五文字は見えないのに、見えているみたいな目だった。

 「君が、作りたい形」

 それだけ言って、遼は窓を少しだけ閉めた。外の熱が、ほんの少しだけ遠くなる。


 茉子は作業表の余白に、最初の一行を書いた。まだ形は決まらない。布も決まらない。けれど、針を落とす場所だけは決まった。

 「……丁寧に、負けない」

 声に出さず、鉛筆で書いて、茉子は針に糸を通した。糸が穴を抜けた瞬間、胸の奥で小さなときめきが動いた。怖さの隣に、ちゃんとある。世界に一着へ向かう、最初の鼓動だ。


 案内状は、工房の壁のコルク板に留められた。遼が押しピンを二本、一直線に刺す。左右が一ミリでもずれると気になるらしく、遼は目を細めて押し直した。

 「そこまで……?」

 茉子が呟くと、遼はピンの頭を指で軽く叩いた。

 「ずれると、あとで全部ずれる」

 「……裁断みたい」

 「裁断」


 芽吹はコルク板の前に立ち、腕を組んだ。リボンの端を指でいじりながら、期限の数字だけを見ている。

 「赤線、嫌い」

 「要項の赤線?」

 「遼の赤ペンも」

 「……じゃあ青にする」

 遼が引き出しから青いペンを出して渡すと、芽吹は受け取って、あっさり期限の下に大きな丸を描いた。丸は少し歪んで、でも勢いがある。

 「これなら見える」

 「見えすぎない?」

 博宣が笑うと、芽吹は鼻で短く息を出した。


 茉子は作業台の端に置かれた金色の花の布箱へ目をやった。棚の奥から引っ張り出すと、蓋の刺繍が光を受けて、ほんの少しだけ明るく見える。茉子は指で花の輪郭をなぞり、ゆっくり蓋を開けた。

 中には、端切れと古い糸巻き、それから、親指の爪ほどの飴色の石が一つ入っていた。石はつるんとしていて、光を吸って、返す。

 「……これ、何だろ」

 茉子が掌に乗せると、ひんやりして、すぐ体温に馴染んだ。握りしめると、心臓の音が少しだけ落ち着く。


 遼が近づいて、石を見る。遼は触れずに、目だけで確かめる。

 「飾りじゃない。留め具にできる」

 「留め具……」

 茉子は石を布の上に置いてみた。薄い布の上で、石の色が少し深くなる。芽吹が覗き込み、指先で布の端を揃えた。

 「金。悪くない」

 博宣が頷き、作業台の角に置いた古いサンプル帳を開いた。布の名前が小さな字で並び、触るだけで違いがわかる厚みがある。

 「一点勝負なら、触ってわかる勝ち方がいい。写真で終わらない勝ち方」

 博宣の言葉に、茉子は石を見つめた。触る。わかる。針目。布の重み。


 遼は作業表の次の行に、青いペンで「留め具候補」と書いた。自分で青を選んだのに、字は相変わらず角ばっている。茉子は思わず笑いそうになり、慌てて口を押さえた。

 遼がちらりと見る。茉子は、押さえた手を下ろして言った。

 「ごめん。なんか……頼もしい」

 遼は返事をしない。ただ、作業表の余白に定規を当て、次の線を引いた。その線が引かれた分だけ、やることが見える形になる。


 窓の外で、風鈴が鳴った。どこかの家の、涼しい音だ。工房の中では、針が布を抜ける音と、紙に鉛筆が走る音が重なる。

 優歌の名刺は、遼の机の端で白く光っている。宣戦布告の紙切れなのに、ただの紙切れじゃない。

 茉子は石をそっと布箱に戻し、蓋を閉めた。花の刺繍が、今度はさっきより少しだけ近くに感じる。



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