第6話 節約男の差し入れ
夕方の工房は、昼の熱が抜けきらず、布の匂いが甘く重なっていた。仮縫いで使ったトルソーの首元には、芽吹が“ついで”に結んだリボンがまだ残っている。ほどいたはずの糸が、机の角でちいさく光り、茉子の視界の端に引っかかった。
「……まだ、ここに」
茉子が指先で糸をつまむと、遼の鉛筆が止まった。遼は帳簿の端に線を引き、無言で小さな紙袋を押し出す。紙袋は、スーパーのロゴがそのまま。取っ手の折り目だけが、妙にきっちり揃っている。
「差し入れ」
遼はそれだけ言って、また電卓を叩いた。カチ、カチ、と乾いた音が、針の音より正確に刻まれる。
「え、これ……菓子パン?」
「安い。二個で百円」
言い方が、買い物メモみたいで笑いそうになるのに、茉子は笑えなかった。胸元が苦しいと顔を曇らせた客の表情が、まだ頭の奥に貼りついている。茉子は紙袋を抱えたまま、うまく息を吐けない。
「……ありがとう」
「糖分。作業速度、上がる」
遼は淡々と言い、針目の間隔を測るように目を細めた。励ます言葉を探しているのか、探していないのか。茉子には判断がつかない。だから、紙袋の中身を確認するふりをして、視線を逸らした。
そのとき、袋の底で、硬いものが指に当たった。
「……これ、なに?」
茉子が取り出したのは、手のひらに収まる小さな針山だった。白い布地に、金色の糸で花の輪郭が刺してある。中心の縫い目はわざとらしくないのに、花びらの曲線は丁寧で、角がない。底のほうは、古い制服の裏地みたいな丈夫な布。余り布を寄せ集めたのに、まとまりがある。
「捨てるの、もったいないから」
「遼くんが、作ったの?」
「余り布。針、散らかると危ない」
危ない、の言い方が、誰かに怪我をさせたくない、の裏返しに聞こえた。茉子は針山をそっと指で押す。中の綿がふわりと戻り、針を受け止める弾力がある。
「……きれい」
「縫い目、見なくていい。使えれば」
見なくていい、と言いながら、遼は茉子の手元を見ていた。茉子は針山を握ったまま、胸の奥がふっと軽くなるのを感じた。言葉が出ない。ありがとう、だけでは足りない。足りないのに、足りない分をどう形にすればいいのか分からない。
「……明日、早く来る」
「は?」
「掃除。全部、やる」
遼は眉を少しだけ上げた。芽吹が奥から顔を出し、針をくわえたまま言う。
「茉子、明日も真面目だねぇ。朝の神楽坂はパン屋がいい匂いだよ」
「……パン屋、危険」
遼の口から“危険”が出たせいで、芽吹が吹き出した。
「なにそれ。パン屋に財布を吸われるって?」
「……吸われる」
遼が一拍おいて頷く。茉子は笑いそうになって、やっと笑った。喉が少し開いて、息が通る。針山の金色の花が、工房の灯りで柔らかく光った。
夜、帰宅してからも、茉子は針山を机に置いたまま何度も見てしまった。花の刺繍の端に、わずかな段差がある。指でなぞると、そこがポケットのように開いている。
「……え?」
糸を引っかけないようにそっと開くと、折りたたまれたメモが入っていた。紙は小さく、角はちゃんと揃っている。遼の癖だ。
『負けないで』
たった五文字なのに、茉子の目の奥が熱くなった。さっきまで“危ない”とか“糖分”とか、そんな言い方しかできなかった人が、ここにはちゃんと、茉子に向けた言葉を隠していた。
茉子はメモを握りしめ、声にならない声を吐く。涙が出そうで、出したくなくて、布巾を取りに台所へ向かった。冷蔵庫の扉を開けたまま、しばらく立ち尽くし、結局、何も取り出せなかった。
翌朝、茉子はまだ薄暗い神楽坂を上った。路地の先の工房の鍵穴は冷たく、鍵を回す音が小さく響く。扉を開けると、昨日の布の匂いが残っていた。
「よし……」
茉子は袖をまくり、ほうきを握った。床には、糸くずが星座みたいに散っている。昨日、芽吹が鼻歌で落としたリボンの切れ端。優歌が置いていったメジャーの端の糸。茉子はそれらを一つずつ集め、丁寧にゴミ箱へ落とす。ほうきの先が、木目の隙間に引っかかるたび、心の引っかかりも少しずつ取れていく気がした。
玄関のベルが鳴った。遼だ。茉子は胸が跳ねて、慌てて姿勢を正す。
「早いね」
「……君が早い」
遼はいつものように無表情で、靴を揃えた。そこから先、茉子が“全部やる”と言った意味がないほど、遼は黙って動いた。床に落ちた糸くずを指で拾い、針を一本ずつ針山へ戻す。机の角に残った白い粉を布で拭い、ゴミ袋の口をきっちり結ぶ。
「……遼くん、やらなくていいのに」
「手が空いてる」
「でも、帳簿とか」
「あとで」
遼はそう言って、茉子のほうきを一瞬見た。ほうきの柄が、茉子の手汗で少し濡れている。遼は何も言わず、棚から予備の布手袋を取り出し、茉子の前に置いた。
「……これ」
「手、荒れる」
「……ありがと」
茉子は手袋をはめる。布が指に馴染み、さっきよりほうきが軽く感じる。言葉にしたいことは山ほどある。針山のこと。メモのこと。胸が熱くなったこと。けれど、それらを今ここで言ってしまうと、工房の空気が壊れそうで、怖かった。
だから茉子は、掃除の途中で、わざと小さくつぶやいた。
「……負けないで、って」
遼の手が止まった。ほんの一瞬。遼は視線を上げずに、糸くずをゴミ袋へ落とした。
「……見たんだ」
「うん」
「……捨てるなよ」
「捨てないよ」
その返事に、遼の口元がほんの少しだけ緩んだ。笑った、というほどではない。けれど、数字の間に咲く小さな花みたいな隙間が、確かにあった。
工房の窓から朝日が差し込み、針山の金色が一段明るくなる。茉子は、針を持つ手の震えが、昨日より小さくなっているのを感じた。
「遼くん」
「ん」
「今日も、縫う」
「……当然」
当然、の言い方が少しだけ優しく聞こえた。茉子はほうきを立てかけ、針山を作業台の一番手前に置く。針先がそこへ吸い込まれていく感覚が、なんだか心強い。
掃除が終わるころ、芽吹がふらりと現れ、欠伸をしながら言った。
「おはよー。床、ぴかぴか。……え、二人でやったの?」
「……吸われる前に終わらせた」
「なにそれ、またパン屋の話?」
芽吹の笑い声に、茉子も笑ってしまった。針山の底に隠された五文字が、笑いの芯を支えている。茉子は布を持ち上げ、光に透かした。布の繊維が、朝の空気を通して柔らかく揺れる。
この場所で作るのは、ただの服じゃない。誰かの背中を、そっと押す形だ。茉子は針に糸を通し、遼の電卓の音と並べて、今日の一針目を落とした。
工房へ来る途中、坂の下のパン屋はもう開いていて、焼き立ての匂いが路地にこぼれていた。ショーケースの前で足が止まりかける。遼の「吸われる」が頭の中で鳴って、茉子は思わず自分の財布を握りしめた。
「……今日は、縫うために来たんだから」
そう言い聞かせて通り過ぎたのに、戻りたい気持ちがついてくる。茉子は歩幅を少しだけ早め、工房の扉にたどり着いた。鍵が回った瞬間、匂いも気持ちも、布のほうへ切り替わった。
掃除のあと、遼は紙袋の菓子パンを机に置いた。袋の口は相変わらず折り目が揃っている。茉子が手を伸ばすと、遼は先に一つを割って、半分を差し出した。
「朝は食う」
「……命令?」
「効率」
茉子は半分を受け取り、口に入れた。甘い。甘さが舌の上でほどけると、昨日の重さが少しだけ軽くなる。遼はもう片方を黙って食べながら、机の上に針山を置いた茉子の手元をちらりと見た。
「それ、そこがいい」
「うん。ここなら、迷わない」
茉子が針を置くと、針山が小さく沈み、すぐ戻った。その感触が、励ましを受け取った証みたいで、茉子は思わず呼吸を整える。遼は電卓を一度止め、布の端を指でつまんで言った。
「次の仕事、端切れも出すな。型紙、詰める」
「うん。……私も、詰める」
“詰める”が、布の話なのに、心の話にも聞こえた。遼はそれ以上何も言わず、計算を再開した。カチ、カチ、と数字が進む。茉子は針を進める。針山の底の五文字が、見えないところで同じ速度で背中を押している気がした。




