表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ゴールデンフラワーの一着  作者: 乾為天女


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/6

第5話 芽吹の脱線、そして神技

 五月の最初の土曜日、神楽坂の路地は昼でも少しひんやりしていた。工房の窓を開けると、どこかの店の出汁の匂いと、古い木の匂いが混ざって入ってくる。茉子は肩に残った眠気を振り落とし、机の上で丸まったメジャーを伸ばした。


 昨夜の仮縫いの直しは、どうにか朝方に形になった。針山は針で黒く見え、床には糸くずの雪が降ったみたいに散っている。ミシンの横には、切り落とした縫い代の細い帯が丸めて置かれ、まるで戦い終わりの包帯だ。遼が電卓を叩きながら、コーヒーの湯気越しに言った。

 「今日の午後二時。綾乃さん、最終の着付け。遅れたら舞台スタッフの入りに間に合わない」

 茉子はうなずいた。うなずいたのに、指先が勝手に震えた。昨日の「胸が苦しい」の言葉が、まだ皮膚の内側に刺さっている。


 芽吹は、いつもより早く来ていた。上着も脱がずに作業台へ向かい、布箱を一つ開けて、残り布を指でなぞる。昨日まで、あんなに胸元の余白をどう作るか、針を進めていたはずなのに――彼女は、ぷつりと糸を切るみたいに顔を上げた。

 「リボン、いる」

 「え?」

 茉子が聞き返す間に、芽吹は引き出しからリボン用の木型とアイロン台を引っ張り出した。細長い布を切って、端を折って、指で押さえて、熱いアイロンを当てる。ふわりと蒸気が立ち、工房に甘い焦げの匂いが広がった。折っては当て、当てては折る。机の上に、細い布が蛇みたいに増えていく。


 「芽吹さん、今日は直しの仕上げが……」

 茉子が言い終える前に、芽吹は鼻歌を鳴らした。音程のない、でも妙に楽しげな鼻歌だった。針を通すときの指の動きだけは、昨夜と同じ速さで迷いがない。布は、芽吹の指の間で、するりと形を変える。

 「ほら、ここの段差。隠れる」

 「段差?」

 茉子はドレスの胴のあたりを見た。直したばかりの縫い目が、わずかに波打っている。綾乃の体の動きに合わせるため、細かな調整を重ねた場所だ。見た目は整っているのに、光が当たると、どうしても「ここを触りました」と言い出しそうな影が残る。


 遼が背後で小さく息を吸った。視線は電卓の液晶から動かないのに、声だけが鋭い。

 「……芽吹。いま何分使う」

 「三十分」

 芽吹はきっぱり言った。遼は電卓の「C」を押した。

 「二十五分にしろ。綾乃さんが来るまでに、縫い直しの確認も要る」

 「二十五分で三本」

 芽吹は眉ひとつ動かさず、布を切る。三本? 茉子は喉の奥がきゅっとなった。一本でいいなら一本でいい。けれど芽吹の手は、最初から「三本」を前提に動いている。


 遼が台所のタイマーを回した。カチ、カチ、と機械の音が、工房の緊張を刻む。

 「鳴ったら、終わり」

 「知ってる」

 芽吹は言いながら、アイロンの蒸気をもう一度噴かした。茉子は、思わず笑いそうになった。芽吹の「知ってる」は、たぶん「私の手を見てて」という意味だ。


 そのとき、入口の鈴がちりんと鳴った。博宣が入ってきた。いつもの無表情のまま、紙袋を作業台に置く。中から、金色に近い細いリボンがいくつも出てきた。芽吹が鼻歌を止め、袋の中を覗く。

 「……あるじゃん」

 博宣は頷いただけだった。遼が「領収書」とだけ言うと、博宣はポケットから紙を出して机に置く。言葉が少ない分、動きが妙に完璧だ。


 茉子は思わず笑いそうになって、口を手で隠した。笑ったら遼に睨まれそうで、でも、泣きたいほど助かった。芽吹は金のリボンを一本つまみ、光に透かしてから首を振った。

 「金、強い。顔が負ける」

 遼が鼻で息を吐く。否定でも肯定でもない音で、茉子にはそれが「聞いてる」の合図に聞こえた。


 タイマーが鳴る前に、芽吹は自分で作った淡い色のリボンを三本、机に並べた。折り目は均一で、端はふわりと丸い。茉子が触れると、布は指先で小さく跳ねた。まるで生き物みたいだ。


 午後二時ちょうど。綾乃が工房に入ってきた。黒いキャップを深く被り、マスクの奥の声が少し掠れている。

 「昨日、ありがとう。あのあと、呼吸がちゃんとできた」

 茉子の胸の奥が、ふっと緩んだ。遼が無駄のない動きで、着付け用の鏡を角度調整する。芽吹は出来上がったリボンを三本、机に並べたまま、針山を綾乃の近くに寄せる。博宣の袋の金リボンも、横に置く。


 「今日は、踊るときの光を想定して見たいの」

 綾乃が言う。舞台袖の狭い通路、照明の熱、汗の匂い。茉子は頭の中でそれを描きながら、背中のファスナーを上げた。布が肌に沿い、昨日の苦しさはない。けれど――胸元に目をやると、やはり、縫い目の影が微かに見える。


 遼が作業用のスタンドライトを持ってきて、角度を変えた。白い光が胸元に当たると、影が一瞬濃くなる。綾乃が肩を回す。腕を上げる。息を吸う。布がついてくる。呼吸は大丈夫。けれど影は、やっぱりそこに残る。


 「これ、客席から見えるかな」

 綾乃の声が小さく揺れた。茉子の喉が鳴る。見える。見えるかもしれない。言えない。言いたくない。そんな茉子の背中を、芽吹の指が軽く叩いた。

 「見えるなら、隠す」


 芽吹は、なにも言わずにリボンの一本を取る。残り布のリボンだ。淡い色で、光を吸う。彼女は綾乃の胸元に当て、指でふわりと形を作った。中心を少しだけずらし、花びらみたいに重ねる。縫い目の影を、花の影の下に入れてしまう。

 「金じゃないほうが、顔が明るくなる」

 芽吹がぽつりと言った。博宣の金リボンを見ないで、あえて淡い色を選ぶ。遼が鏡越しに綾乃の表情を確認する。綾乃は瞬きを一度して、口角を上げた。

 「……かわいい。これ、私がつけても子どもっぽくならない」

 「花じゃない。花の影」

 芽吹の言い方が独特で、茉子はその場で笑いそうになった。綾乃も、肩を揺らして笑った。

 「影、いいね。舞台って、影がいちばん美しいから」


 茉子は、針を持ち直した。リボンの留めは、たった数針でいい。でも、その数針が、綾乃の息を守る。縫い目の影も、そっと覆う。茉子の針先が布をすくい、糸がすべる音が工房に小さく響いた。遼は黙って、綾乃の胸元が引きつれない角度を指で示す。芽吹は押さえを替えるように、リボンの端をほんの少しだけ持ち上げた。


 「ねえ、茉子ちゃん」

 留め終わった頃、綾乃が鏡の中で目を合わせてきた。

 「昨日、『天国みたい』って言ったの、半分は本当だったの。もう半分は……怖かった。あなたが真っ青になってたから」

 茉子は返事を探した。言葉が遅れて、遼が代わりに口を開く。

 「怖いなら、直す。それだけだ」

 綾乃が笑う。

 「うん、知ってる。だから今日、ここに来た」


 芽吹は机の端に座り、余った布でさらに小さなリボンを作り始めていた。遼が眉を寄せる前に、芽吹が言う。

 「これは予備。舞台で取れたら、すぐ替える」

 遼は電卓を閉じた。閉じる音が、いつもより静かだった。

 「……予備は、いい」

 その言い方が照れ隠しみたいで、茉子の喉の奥が熱くなった。


 着替えを終えた綾乃は、玄関で一度だけ振り返った。胸元のリボンが、呼吸に合わせて微かに揺れる。

 「今日の夜、舞台の袖から見える空って、たぶん一個だけ星が見えるの。神楽坂より暗いから」

 茉子が目を見開くと、綾乃は手を振った。

 「その一個を、あなたたちにあげる。私がちゃんと立てたら、ね」


 扉が閉まると、工房の中は急に静かになった。針の音も、電卓の音も止まっている。茉子はリボンの留め糸を指で撫で、芽吹に向き直った。

 「芽吹さん、さっき……どうしてリボンだって思ったんですか」

 芽吹は針穴に糸を通しながら、鼻歌を戻す。目線は布のまま。

 「縫い目、頑張ってる顔してた。隠して休ませる」

 茉子は、胸の奥で何かがほどけた。直線で進めない日もある。道を外れたみたいに見える手もある。でも、その手が、誰かの息を楽にするなら――それは遠回りじゃない。


 遼が窓を少しだけ開けた。外の光が、糸くずの空気を照らす。博宣が黙って掃除機を引っ張り出し、コードを伸ばした。

 「……次の客まで、片づける」

 遼の声は短い。けれど、茉子には「次もやれる」と聞こえた。


 芽吹の鼻歌が、針の音に混じる。茉子はそのリズムに合わせ、もう一度、針を持った。胸元の小さな花の影が、工房の未来の形に見えた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ