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ゴールデンフラワーの一着  作者: 乾為天女


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第4話 天国と地獄の仮縫い

 仮縫いの日の朝、工房の窓はいつもより早く開け放たれていた。木の床に風が走り、裁ち台の上の薄い布が、ふわりと浮いては落ちる。茉子はそれを押さえながら、胸の奥に同じ動きがあるのを感じた。


 鏡の前では、昨日の採寸メモが開かれている。数字は正しいはずだった。茉子は鉛筆で丸をつけ、消しゴムで消して、また丸をつける。丸が増えるほど、自分の心だけが落ち着かなくなる。


 「その丸、増えると服が大きくなるの?」


 博宣がカメラのレンズを拭きながら言い、茉子は慌てて首を振った。


 「増えません。……増えたら、困ります」


 「じゃあ、丸じゃなくて、呼吸を増やしたら」


 博宣はさらりと言って、階段を上がっていった。遼がそれを聞いて、帳簿の角を指で軽く叩く。


 「呼吸は無料。使っていい」


 茉子は思わず笑いそうになった。遼の冗談は、いつも一円玉みたいに小さく転がって、気づくと足元にある。


 「深呼吸。二回」


 遼が、帳簿を閉じる音と一緒に言った。茉子は言われた通りに吸って、吐く。吐いた先で、芽吹が無言で針山を置き換える。針の向きが全部同じになって、茉子はそれだけで背筋が整った。


 扉の鈴が鳴った。


 「おはようございます。今日、私、天才になる日よね?」


 榊原綾乃が入ってきて、笑いながら両手を広げた。手袋の白が朝の光を拾い、舞台の袖が開いたみたいに工房が少し明るくなる。


 「今日は、仮縫いです。天才は……仕上げの日に取っておきましょう」


 遼がさらりと返すと、綾乃は肩を揺らして笑った。


 「けち。節約の人って聞いたけど、台詞も節約してる?」


 「必要なところは、惜しみません」


 遼の返事に、茉子は思わず喉を鳴らした。今の言葉は、布のことにも聞こえる。


 綾乃が仮縫いの服に腕を通す。裏地のない軽い布が、体の線に沿って落ちていく。鏡の前で綾乃がくるりと回った瞬間、茉子の肩がふっと下がった。


 「……すごい。天国みたい」


 綾乃が小さく息を吐いて言った。鏡に映る自分を見つめる目が、舞台の上より柔らかい。茉子の胸の奥が、きゅっと丸くなる。


 「よかったです。ここから、細部を――」


 言いかけたところで、綾乃の表情がふっと曇った。胸元に手を当て、指先が布をつまむ。


 「ん。……ここ、苦しい。息を吸うと、つっかえる」


 茉子の指から、待ち針が落ちた。金属が床を跳ね、石みたいな音が一回だけ鳴る。拾おうとして、手が空を切った。


 芽吹が、いつの間にか足を出していた。針はその靴の縁で止まり、ころころと転がらずに済んだ。芽吹は拾って針山に戻し、何事もなかったみたいに綾乃の脇の線を見た。


 遼が一歩前へ出た。


 「どの動きで苦しいですか。腕、上げられます?」


 綾乃が腕を上げる。胸元の布が引っ張られ、縫い目が少しだけ叫ぶ。茉子はその叫びが、さっき自分の胸で鳴った音と同じだと気づいて、顔が熱くなった。


 「ここ、ダーツが――私、計算、間違えました」


 茉子の声は細かった。言葉にした途端、涙の気配が目の奥に集まる。針穴が滲む未来が見えて、必死に瞬きを我慢した。


 遼が、茉子の横に立つ。綾乃には聞こえないくらいの声で、短く言った。


 「いま地獄でも、直せば戻る」


 それだけで、茉子の足が床に戻った。遼は綾乃へ向き直り、手帳を開く。


 「榊原さん。今日、稽古の前に三十分だけ、時間をください。胸元を楽にします」


 「三十分で天国に戻る? 魔法使いじゃん」


 綾乃が笑おうとしたが、苦しさを思い出したみたいに眉が寄る。遼は迷わず携帯を出し、綾乃のマネージャーへ短く話した。言い回しが丁寧で、でも必要なことだけがすっと入っていく。茉子は、数字以外でも人の時間を守れる人がいるのだと、妙なところで感心してしまった。


 時間ができた。


 茉子は糸をほどき、縫い代を開く。針先が震える。芽吹が近づき、ほどいた糸を指に巻き取っていく。綾乃が鏡の前で立ち続けるのは大変だ。遼は椅子を差し出し、肩に薄いショールをかけた。綾乃が「こういうの、舞台じゃ自分でやるのよ」と笑い、遼が「うちは舞台裏も込みです」と返す。


 笑いながら、茉子は手を動かす。胸元の線を少しだけ逃がし、呼吸のぶんの余白を作る。布は人に寄り添うものだ。抱きしめて、締め付けない。


 けれど三十分では足りなかった。仮縫いの布は直せても、本番の布はもっと慎重に扱う必要がある。綾乃は稽古へ向かう時間になり、名残惜しそうに首を傾げた。


 「明日の朝、来る。天国の続き、見たいから」


 綾乃が去ると、工房に静けさが戻った。静けさの中で、茉子の頭だけがうるさい。遼は帳簿を開き、鉛筆を転がした。


 「徹夜は、嫌いです」


 遼は机の引き出しから小さな缶を二つ出した。ラベルは派手で、星の絵が描いてある。茉子が目を丸くすると、遼はわざとらしく咳払いした。


 「……眠気対策。一本だけ。二本目は、明日の自分が怒る」


 「節約って、そういうところにも……」


 「そういうところが一番高い。翌日の集中力、取り戻せないから」


 言いながら遼は缶を開け、半分だけ紙コップに注いだ。残りはラップで封をして冷蔵庫へ。茉子は、その丁寧さに、さっきの綾乃へのショールと同じ匂いを嗅いだ。


 遼が言う。茉子は顔を上げた。


 「……でも、やります」


 遼は返事の代わりに、レシートの束を一枚抜いた。近所の安いコーヒー豆の店。閉店前に買っておいたのだろう。芽吹が小さく鼻を鳴らし、博宣がいつの間にかカメラを置いて、湯を沸かし始めた。


 夜が深くなるほど、糸の擦れる音がはっきり聞こえる。茉子はほどいて、直して、また縫う。遼は横で布の長さを測り、余った端切れを折り畳んで箱に戻す。芽吹は袖の癖を直し、博宣は照明を少しだけ動かして影を消した。


 窓の外が白み始めたころ、茉子の指先は熱く、心は妙に静かだった。怖さは消えていない。けれど針が落ちても、拾えばいい。縫い目が叫んでも、黙らせればいい。人の息が苦しくなるなら、布をほどいて余白を作ればいい。


 朝、綾乃がまた来た。まだ眠っていない目で鏡の前に立ち、直した仮縫いに腕を通す。胸元に手を当て、息を吸う。


 「……入る。息が、入る」


 その言い方が、台詞よりも本物に聞こえた。綾乃はゆっくり笑い、鏡の中の自分に頷いた。


 「天国、戻ってきた。ねえ茉子ちゃん、今の私、舞台に立てる顔してる?」


 「……はい。昨日より、ずっと」


 茉子の声は震えなかった。遼が後ろで、小さく息を吐いたのが分かる。芽吹が袖口を一度だけ撫で、博宣がシャッターを切った。


 綾乃が玄関で靴を履きながら振り返る。


 「地獄って、舞台の直前にも来るの。でも、戻れるって分かったら、怖くなくなる。ありがとう」


 茉子は、胸の中央をそっと押さえた。針ではなく、指で確かめる。遼の言葉が、縫い目みたいに心に残っている。


 「……戻します。何度でも」


 綾乃が去り、金色の花の看板が朝日に鈍く光った。工房の中には、徹夜の匂いと、コーヒーの匂いと、少しだけ新しい余白が残っていた。茉子はその余白を忘れまいと、まぶたを一度だけ閉じた。



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