第3話 糸一本、値段の話
六月のはじめ。神楽坂の路地は、昼前になるとパン屋の甘い匂いが漂ってくる。ゴールデンフラワーの二階では、窓から入る風が、裁ち台の上の薄紙をふわりと持ち上げた。
茉子は薄紙を押さえ、ノートの端へ素早く書き込む。昨日、遼に「半分は数字じゃない」と言われた言葉が、まだ耳の奥で跳ねていた。今日こそ、数字をきちんと口に出す。針目と同じで、揃えるまで繰り返す。
「舞台衣装の糸、これでいけると思うんです」
糸棚から選んだのは、細くて光を吸う白。触れると、指先に冷たい滑りが残る。茉子が糸巻きを持ち上げると、窓の光が糸の撚りを一本ずつ照らした。布が呼吸するみたいに、糸も呼吸している――そう感じてしまう。
「それ、値札見た?」
遼は作業台の端で帳簿を開いていた。端が少し擦れたレシートを、折り目で揃えて財布に入れる癖がある。今も、領収書を四つ折りにしてから、手のひらで軽く押さえて真っすぐにしている。
「見ました。……でも、舞台って照明が強いから。糸が負けると、縫い目が負ける気がして」
茉子の言い方は、理屈というより願いに近かった。綾乃の肩が走る、回る、転ぶ。そんな動きに、糸がついていけるか。糸一本が、役の人生を支えてしまうかもしれない。
遼は返事の代わりに、電卓を叩いた。小さな電子音が、工房の静けさに点を打つ。
「一本、二千八百。必要数、最低六本。予備入れて八本。二万二千四百。糸だけで」
数字が並ぶと、急に空気が固くなる。茉子は糸巻きを握ったまま、喉が乾いた。
「……でも、布がいいのに、糸だけ妥協したら」
「布、何メートル?」
「三・二です」
「それは数字だ」
言われて、茉子は悔しいのか嬉しいのか分からない顔のまま、ノートへ「3.2m」と書き足した。遼はペン先を少しだけ止めてから、また帳簿の欄を埋める。
「布もいい。だけど、全部『いい』で揃えると、工房が先に倒れる」
言い方は淡々としているのに、遼の指は帳簿の端を丁寧に押さえていた。倒れないように、紙がめくれないように。守りたいものがある手つきだった。
「倒れないようにするのは、私も同じです」
茉子は口に出してから、少し驚いた。反論より先にメモを取る癖はあっても、意見を言うのは、いつも一拍遅れる。なのに今日は、糸が先に口を引っ張った。
奥の作業台で、芽吹が縫い針を指先で転がしていた。音もなく、糸通しに糸を通し、また抜いて、違う色を通す。集中しているのに、ふっと視線が糸巻きの棚へ泳ぐ。そのまま棚の下段に手を伸ばし、古いリボンの束を引っ張り出した。
「芽吹さん、それ、今は――」
茉子が言いかけたところで、芽吹は無言でリボン束を棚へ戻した。戻す速度が早すぎて、逆に目立つ。
遼が咳払いをひとつして、話を糸へ戻す。
「糸はね、嘘つかない。値段も嘘つかない」
「嘘、って……」
茉子が眉を寄せると、遼は帳簿の上の小さな石を指で転がした。黄みを帯びた透明な石が、光を受けて金色に揺れる。工房の机にいつも置かれている紙押さえだ。
「その石みたいに、光り方は大事。でも、石は拾えばある。糸は、買わないとない」
言い方が妙に現実的で、茉子は思わず笑ってしまった。
「例えが……ずるいです」
「ずるくない。……財布が泣くんだ」
遼が「泣く」という言葉を使った瞬間、芽吹が小さく肩を揺らした。笑っているのか、ため息なのか分からない揺れ方だった。
階段の軋む音がして、工房の入口が開いた。
「……ここ、まだ鍵が重いな」
低い声。振り返ると、背の高い男が立っていた。薄手のジャケットのポケットから、何かを探すように手を入れている。顔を上げると、目が合ったのに、すぐ視線を外す。来た理由を言葉で飾らない人だ、と茉子は直感した。
「博宣」
遼が名前を呼ぶと、男は「うん」とだけ答えた。博宣は作業台へ近づき、置かれた糸巻きを一瞥してから、ポケットから小さな紙片を出して、遼の帳簿の上へ置いた。紙片には、店の名前と電話番号と、手描きの簡単な地図。余計な説明はない。
「……同じ系統の糸。そこ、安い。品質は落ちない。昨日、見た」
遼の目が、紙片の上を滑る。次の瞬間、遼は椅子から立ち上がり、深く頭を下げた。
「助かる。……いや、助かりました」
言い直しが不器用で、茉子の胸が少しだけ温かくなった。遼は慌てて帳簿を閉じ、財布を握り、玄関へ向かう。
「俺、行ってくる。茉子、糸の番お願い。芽吹、仮縫いのしつけ、頼める?」
「うん」
芽吹が短く返して、針を持ち替える。遼は最後にもう一度、博宣へ視線を向けた。博宣は首をほんの少しだけ動かした。頷きとも、ただの癖とも取れる角度だった。
遼が出ていくと、工房は糸の音だけになった。茉子は糸巻きを棚へ戻し、ノートへ「店:○○(博宣)」「単価」「必要数」と書く。文字が増えると、気持ちが落ち着く。言葉にしてしまえば、怖さが薄くなる。
「……遼、頭下げるんだね」
茉子がぽつりと言うと、芽吹は針を動かしたまま「下げる時だけ、下げる」と返した。布の上で針が往復し、しつけ糸が等間隔に並ぶ。芽吹の手は迷わない。なのに、視線はときどきリボンの棚へ行ってしまう。
「リボン、気になりますか」
「気になる」
芽吹は即答した。即答のあとで、少しだけ口角が上がる。
「でも、今は糸」
言い切って、芽吹は針を進める。その背中が、妙に頼もしかった。
午後、階段がまた鳴った。遼が戻ってきた。紙袋を抱えている。袋の口からは、同じ白でも微妙に違う白の糸巻きが覗いていた。遼の額には、神楽坂を歩いた汗が薄く光っている。
「……あった。博宣の言う通り。単価、千六百。必要数、八本で一万二千八百」
数字が下がった瞬間、工房の空気がふっと軽くなる。茉子は思わず、紙袋へ手を伸ばしかけて、途中で止めた。触れたら壊れそうな気がした。
「助かりました」
言葉が自然に出た。遼は、その「助かりました」を受け止めるように一瞬だけ黙り、視線を床へ落とした。耳が少し赤い。
「……いや。俺が、行っただけ」
それでも遼は、紙袋を茉子へ差し出した。差し出す手が、ほんの少しだけぎこちない。袋の底がふくらんでいる。糸だけではない重み。
「……ついで。安かった」
茉子が中を見ると、菓子パンが二つ入っていた。値札のシールは剥がされているのに、袋の口の内側に、小さく折った紙が挟まっている。開くと、短い文字があった。
『糸が揃えば、縫い目も揃う』
茉子は、笑いそうになって、鼻の奥がつんとした。いまは泣かない。泣くと、目が滲んで針穴が見えなくなる。
「遼さん。……糸、嘘つかないんですよね」
「うん」
遼は、それだけ言って、博宣の方を向いた。
「……ありがとう」
博宣は「うん」と返し、もう一枚、別の紙片を机へ置いた。今度は糸の色番号のメモ。必要な色が、必要なだけ、無駄なく書かれている。
茉子は紙片をそっと押さえた。指先に、さっき遼が転がしたゴールデンクォーツの冷たさが残っている気がした。金色の花の看板の下で、今日も現実の数字が並び、その横で、たしかにときめきが縫い込まれていく。
菓子パンの袋を開けた瞬間、甘い匂いが工房に広がった。芽吹が針を止め、博宣が肩越しにちらりと見て、遼が咳払いで誤魔化す。
「……食べてから、続きやる。手、震えると危ない」
遼の言い訳は、不思議と優しかった。茉子は頷き、紙袋の縁を両手で持った。糸一本の値段の話は、ただの節約の話ではなく、ここで縫い続けるための話だと、胸の奥で少しずつ形になっていく。
その形が、いつか誰かの舞台の上で光る。そう思える午後だった。




