第2話 採寸テープの戦い方
六月のはじめ、神楽坂の路地は昼でも影が涼しい。工房の窓を開けると、遠くのラーメン屋の湯気と、花屋の水の匂いが混ざって入ってきた。
「十時。最初のお客さま、ね」
茉子は壁の時計を見上げ、指先でエプロンの紐を結び直した。結び目を強くしすぎて、ほどくときの自分が泣く未来まで見えそうで、慌てて力を抜く。
作業台の上には、白い採寸メジャー、鉛筆、メモ帳。遼は帳簿を閉じ、客用の椅子を少しだけ窓際へ寄せた。光が当たる位置。鏡が見える角度。数字を見ているはずの人の手つきが、やけに丁寧だった。
階段の下で、扉の鈴が鳴る。
「こんにちはー。……ここ、合ってる?」
声が、舞台の袖から飛んできたみたいに張っていた。現れた女性は、背筋が一本の糸みたいに伸びている。髪はきれいにまとめ、首もとに細いスカーフ。手袋を外しながら、周囲を一目で把握して、にこっと笑った。
「ゴールデンフラワー、初めてです。榊原綾乃。舞台に立ってます」
名刺を差し出す指が、踊るみたいに軽い。茉子は受け取ろうとして、指が空を切った。緊張で手が震えたのだと分かって、なおさら熱くなる。
「は、はじめまして。茉子です。……えっと、よろしくお願いいたします」
遼が間に入った。
「遼です。ようこそ。階段、滑りませんでした? 雨上がりの石畳、油断すると靴の裏が泣きます」
綾乃は吹き出した。
「泣くんですか、靴の裏。今日の台詞より面白い」
笑い声が工房に落ちて、空気が少しだけ柔らかくなる。茉子は息を吸い直し、メジャーを手に取った――つもりだった。
指から、するり。
白いテープが床へ落ち、ほどけた端が、するすると逃げる。まるで生き物。茉子は追いかけようとして足がもつれ、作業台の角に膝をぶつけた。
「っ……!」
そのとき、床に影が落ちた。芽吹がしゃがみ、逃げたメジャーの端を親指で止める。ためらいのない動き。拾い上げたメジャーを、無言で茉子へ差し出した。
茉子は受け取りながら、口が勝手に動いた。
「……ありがとうございます」
芽吹は首を少しだけ傾けた。返事の代わりに、綾乃のスカーフの端を見て、針で留めた小さな跡を指先で示す。そこだけ、糸が違う色だった。
「……自分で、直した?」
芽吹の声は小さいのに、耳へまっすぐ届いた。綾乃は嬉しそうに目を細める。
「分かる? 急にほつれて。自分で縫ったら、舞台で見えちゃうかなって心配で」
遼が、椅子へどうぞ、と手を差し出す。
「見えるかどうかの話なら、ちょうどいい。茉子、距離は一メートル。そこから見える糸は、だいたい舞台でも見えます」
数字が、茉子の頭の中で整列する。膝の痛みも、恥ずかしさも、少しだけ後ろへ下がった。
「はい……一メートル。分かりました」
採寸は、呼吸と同じだと聞いたことがある。止めると苦しくなる。茉子は、綾乃の肩へメジャーを当てる前に、一度だけ息を吐いた。
「……お体、触れます。失礼します」
綾乃は頷き、背筋をさらに伸ばす。舞台の中央に立つときの、あの姿勢。茉子の指先は、肩先、鎖骨、胸の位置、腰のくびれを追い、数字を拾っていく。
「胸囲、八十二。ウエスト、六十一。……えっと、ヒップ……」
言いかけて、茉子の声が裏返った。言葉の響きが急に生々しく感じて、頬が熱い。
綾乃は笑いをこらえるように唇を噛み、遼はさらりと言った。
「綾乃さん、次の舞台は何日から?」
「六月二十日。ミュージカル。走るし、回るし、転びます」
「転ぶ前提なんですね」
「転ばないと、役の人生が始まらないの」
綾乃の言葉に、芽吹が小さく「ふうん」と息を落とす。茉子の肩から力が抜け、メジャーがぴたりと肌に沿った。遼の雑談は、糸の端を整えるみたいに、場をほどよく締めていく。
採寸が終わると、茉子はメモ帳を見せた。
「動きが多い……回る……転ぶ……。胸元は、息がしやすいほうがいいですよね。袖は……」
綾乃が指で自分の肘を触りながら、笑った。
「袖は、私の腕を短く見せないで。舞台って、残酷なの。光が味方でも、敵でも」
茉子は、うなずきながら線を引く。遼が帳簿の端へ、納期の欄を作る。六月二十日。今日が六月三日。残り十七日。頭の中で針が走る。
「……間に合いますか」
問いは、綾乃へ向けたようで、実は自分へ向いていた。
遼が、メモ帳の角を指で押さえた。
「間に合わせるために、今日がある。まず、仮縫いの日を決めましょう。七日、十一日、十五日。三回」
綾乃が目を丸くする。
「そんなに? 前のところは一回だった」
「一回で決めると、後で泣きます。靴の裏じゃなく、人が」
綾乃は声を上げて笑った。笑いの中に、少しだけ安堵が混ざっている。茉子はそれを見て、胸の奥が温かくなるのを感じた。――泣かせない。泣かない。今日は、まず呼吸を続ける。
見送りのとき、綾乃は看板の金色の花を見上げた。
「ここ、いいね。花が、派手じゃないのに目が離れない」
茉子は、昨日見つけた刺繍布のことを思い出し、喉の奥がきゅっと鳴った。
扉が閉まると、工房は急に静かになった。
遼は棚から小さな缶を取り出し、湯呑みを三つ並べた。高そうな茶葉の袋ではない。裏に「特売」と手書きされたシールが貼ってある。
「こういうのでも、湯を丁寧に入れると香りは立つ。綾乃さん、喉を酷使するから、渋いのは避けた」
茉子は湯気を吸い込み、思わず「いい匂い」と漏らした。芽吹は湯呑みを両手で包み、温度だけ確かめてから一口飲む。評価の言葉はないのに、眉間のしわがほどけていくのが分かった。
遼は、メジャーを手のひらでくるりと巻き、端を親指で押さえた。
「逃げない巻き方。端を外側に出すと、床で走る。内側にしまうと、大人しい」
茉子が真似をすると、端がぷいっと飛び出した。遼が笑いそうになって、口元を手で隠す。芽吹は黙って、茉子の指の位置を一ミリだけずらした。すると、今度はぴたりと収まった。
「……おお」
茉子の声に、二人の湯呑みが同時に揺れた。工房の静けさの中で、その小さな音が、やけに嬉しかった。
芽吹は糸棚へ戻り、短い鼻歌の代わりみたいに、糸巻きを指で弾いた。遼は帳簿を開き、鉛筆で納期の欄へ線を引く。
茉子はメジャーを巻き直しながら、ぽつりと言った。
「落としました……」
遼は顔を上げずに言う。
「落とすのは、メジャーだけでいい。針は落とすと危ない」
「はい……。でも、心も、落ちました」
そこで遼の手が止まり、芽吹が糸巻きを弾くのをやめた。茉子は慌てて続ける。
「……落ちたけど、拾ってもらいました。芽吹さんに。遼さんの話にも」
遼は帳簿を閉じ、茉子へ視線を向ける。言葉は少ないのに、そこだけ熱を持っている。
「じゃあ、次は自分で拾えるように。夜、練習する?」
その一言が、茉子の背中を押した。
夜。茉子の部屋の鏡は、工房の鏡より小さい。蛍光灯の光は舞台のスポットみたいに優しくない。それでも、茉子はメジャーを首にかけ、鏡の前に立った。
「胸囲、八十二……じゃなくて。自分のは……」
数字を言いながら、メジャーがずれて、斜めになる。鏡の中の自分が、どこか他人みたいに見えた。茉子は眉を寄せ、もう一度巻き直す。呼吸を止めない。息を吐いて、当てて、読む。
机の上のメモ帳には、綾乃の言葉が残っている――「転ばないと、役の人生が始まらない」。
茉子は、鏡の中の自分へ小さく言った。
「転んでも……立てば、始まる」
メジャーを巻き直す手が、さっきより落ち着いていた。窓の外で、神楽坂の灯りが一つ、また一つと点る。工房の金色の花も、同じ夜を見ているはずだ。
明日、また採寸をする。落としたくない。でも、落としてもいい。拾って、巻き直して、数字を読む。その積み重ねが、世界に一着へ近づくのだと、今夜は信じられた。




