第1話 神楽坂、ゴールデンフラワーの鍵
神楽坂の石畳は、雨上がりの朝だけ、靴音を少し丸くする。五月の終わり。坂を上がり切ったところで、茉子は息を整え、ポケットの中の古い鍵を指先で確かめた。金属は冷たい。けれど掌の汗で、ゆっくり体温を覚えていく。
路地へ入ると、二階建ての古民家が見えた。軒先の小さな看板には、金色の花が一輪だけ彫られている。派手ではないのに、雨粒を残したまま鈍く光って、目が離せない――ゴールデンフラワー。
昨日、面接の帰りに「明日から」と言われた。採寸テープの持ち方も、縫い代の癖も、まだ体に入っていない。それでも鍵だけは渡された。茉子は、その事実にすがるように鍵穴へ差し込んだ。
鍵穴は素直じゃない。右へ回して、戻して、もう一度。かちゃり、と小さな音がして扉が開く。茉子は、誰もいない工房へ「おはようございます」を落とし、返事がないのを分かってから、慌てて咳払いした。
中は布の匂いと、木の匂いが混ざっていた。窓から差す朝の光に、細かな糸くずが舞う。作業台は角が丸く、針山は布の柄で顔つきが違う。ここで、世界に一着を作る人たちがいるのだと思うと、背中が少しだけ伸びた。
エプロンを結び、まずは掃除。ほうきで床を撫で、端に溜まった糸くずを集め、古い作業台の脚を雑巾で拭く。布を扱う場所の汚れは、布に移る。頭では知っている。指先でも、そうしたいと思った。
作業台の下を拭こうとして、木箱に指が当たった。棚の奥から引きずり出すと、布でくるまれた小箱が出てくる。端が少しほつれていて、そこから金色の糸がちらりと見えた。
茉子は喉が鳴るのを感じながら、そっと布をほどいた。中には、花の刺繍が施された布切れが畳まれていた。濃い生成りの地に、金色の花。刺繍糸は重たいはずなのに、針目が軽い。まるで息を止めて縫ったみたいだった。
「……きれい」
声が小さく漏れる。触りたい。でも触ったら、なにかが変わりそうで、指を宙で止めた。布の角に、小さな紙片が挟まっているのに気づく。鉛筆で書かれた数字と、短い言葉。
――「花は一輪で、十分」。
その意味が分からないまま、茉子は紙を戻し、布を元の形に畳んだ。きれいに畳むほど、自分がここにいていいのか不安が増える気がして、最後だけ少し雑になる。そんな自分に、また焦る。
階段の上で、足音がした。軽いのではない。重いのでもない。一定のリズム。茉子が振り向く前に、誰かが「おはよう」と短く言った。
背の高い男が、帳簿を抱えて立っていた。腕時計の革は年季が入っているのに、文字盤はよく磨かれている。視線は茉子の手元――布の箱――へ一瞬だけ落ちて、すぐに戻った。
「鍵、開いたんだ。よかった。俺、遼」
名乗り方が、レシートの合計を読み上げるみたいに端的だった。茉子は慌てて頭を下げる。
「茉子です。本日から……よろしくお願いします」
「よろしく。で、まず確認。掃除、助かる。けど、その箱は……」
遼は言いかけて、言葉を飲み込んだ。代わりに帳簿を作業台へ置き、表紙を指で叩く。
「在庫を数えよう。糸、布、ボタン、芯地。まず現状を知る。知らないまま縫うと、あとで困る」
困る、と言いながら、遼の目は困っていない。計算ができる人の目だ。茉子は頷きながら、胸の奥がきゅっとなるのを感じた。数字は嫌いじゃない。でも、数字の前では嘘が通らない。
そのとき、奥の部屋の扉が少しだけ開き、女性が顔を出した。髪は無造作にまとめ、指先に糸の色が残っている。茉子の存在を確認すると、無言で小さく会釈して、すっと引っ込んだ。
「今の人は……」
「芽吹。ここの仕立て。話すときは話す。必要なときだけ」
遼の説明はそれだけだった。芽吹の会釈が、なぜか胸に残る。茉子は、工房に“前からいる人たち”の空気を吸い込みながら、糸棚の前に立った。
「俺が数字、茉子が棚。二人だと早い。今日だけじゃなく、しばらく。……どうする?」
遼が差し出したのは、針でも布でもなく、役割だった。茉子は一瞬だけ迷い、すぐに頷いた。
「やります。……えっと、二人で、って」
「共犯者みたいだね」
遼がさらりと言って、ペンを握る。茉子は「共犯者」という言葉の軽さと重みの間で、変な笑いが込み上げた。
「共犯者、やります」
返事をしたあと、自分の声が少し弾んだことに気づいて、茉子は頬を押さえた。遼は見ないふりをして、帳簿の次の欄へ線を引く。その線が、工房の今日を区切った。
窓の外で、遠くの商店街のシャッターが上がる音がした。神楽坂の一日が始まる。工房の中では、針の代わりに、まずペンが動き出す。
茉子は糸棚の前で一本一本、色を見て、触って、残りを確かめる。遼のペン先が、紙の上で小さく鳴る。芽吹は奥で、布を裁つ音を立てている。
糸棚は虹のように並んでいるのに、数えるとなると急に無表情だ。茉子は糸巻きを一つずつ手に取り、ラベルの番号を読み上げた。
「二〇一、残り……三本。二〇二、二本。二〇三……えっと、これは半分くらいで……」
「半分は数字じゃない」
遼のペンが止まり、鉛筆の芯が紙に軽く当たった。
「……すみません。じゃあ、残量を量れば」
「量るのはいい。けど、量り方を統一しないと意味がない。ほら、これ」
遼が棚の下から小さな秤を出した。料理用みたいな簡素なものだが、表示はきっちりしている。茉子が「こんなのまで」と思わず口にすると、遼は肩をすくめた。
「昔、糸が足りなくて泣いた。だから泣かないようにした。……あと、特売の日に買うとき、グラムが分かると強い」
最後の一言で、茉子の緊張が少しほどけた。泣かないために、特売で強くなる。言葉は変なのに、妙に筋が通っている。
茉子は秤に糸巻きを乗せ、表示を読み上げた。遼はそれを帳簿の欄へ移し、単価の列まで埋めていく。糸一本の値段が、数字の針で胸を刺すみたいに現実的だった。
「これ、こんなに……」
「高い。だから、端を捨てない。短い糸でも刺繍には使える。芽吹は特に捨てない」
奥で裁ち鋏が鳴った。芽吹が、まるで返事の代わりに切っているみたいだった。
布棚に移ると、茉子は反物の端に貼られた小さな札を読み、遼はその札を写真みたいに正確に帳簿へ写す。途中で茉子がくしゃみをして、糸くずがふわりと舞った。
「す、すみません……!」
「大丈夫。鼻は正直。むしろ掃除の続き、助かる」
遼は言いながら、床に落ちた糸くずを指でつまんで捨てた。自分の袖口が汚れることを嫌がる仕草ではない。汚れる前に拾う、という動きだった。
ひと区切りついたところで、遼は帳簿を閉じ、茉子の視線の先――棚の奥の小箱――を見た。
「さっきの金の花の布。見つけたんだね」
茉子は胸に手を当てた。
「勝手に開けました。ごめんなさい。でも、すごく……」
「怒らない。けど、触るときは手を洗ってから。あれは先代が残した端切れで、うちの“目印”みたいなもの。客が見ると、妙に心が動くらしい」
心が動く。茉子は昨日、自分も動いたことを思い出し、黙って頷いた。遼は視線を外し、照れたように帳簿の角を指で揃える。
「今日は鍵が開いた日。だからまずは、工房の中身を正確にする。正確にすると、余計な怖さが減る」
怖さ。茉子の胸の中で、なにかがほどける音がした。
金色の花の布箱は、棚の奥で静かに息をしていた。花は一輪で十分――その言葉が、なぜか胸の奥で何度も反芻される。
天国でも地獄でも、ここに戻って縫い直せる。そう思えたのは、鍵が開いたからじゃない。いま、同じ部屋で誰かが手を動かし、数字を刻み、布を裁っているからだ。茉子はメモ帳を胸に押し当て、今日の匂いを覚えた。




