凄愴
『デバイズ』の視界、HUDの隅、滝のように流れるコメントの奔流。世界中の裏社会、スラムの吹き溜まり、あるいは高層ビルのペントハウスから、この狂った闘争を見物する有象無象の言葉たち。
『イカ女バカすぎで草 脳みそまでゲソかよ』
『デイムじゃねぇよデイヴだろ? 知らんけど』
『閃光のデイヴ(笑)』
『ルビアズ様踏んでください』
『オッズ1.1倍とか賭ける意味ねー、烏賊がんばれー(棒)』
『さっさとぶち殺せ! 俺の全財産がかかってんだよ!!』
『あ、俺の車が映ってる。壊された、訴訟だなこれ。くたばれエグジスト』
野蛮で、無責任で、刹那的な愉悦に浸る文字の羅列。ルビアズはそれらを一瞥し、鼻で笑うと、意識の外へと追いやった。ノイズだ。だが、この世界を構成する必要不可欠な塵芥でもある。
意識を目の前の獲物へ戻す。
軽く膝を屈め、跳躍する。しかし。
ズプッ。
不快な音と共に、ルビアズの全身が拘束された。
動けない。空中で固定された。
ピメリーとの距離は十メートル以上あり、眼前の彼女は何もしていない。
ルビアズの『魔眼』が、状況を高速で解析する。周囲三百六十度、廃ビルの陰、マンホールの隙間、看板の裏。
そこには、二十メートルほど離れた位置に、本体から切り離され、自律行動をとる「小型の烏賊」────ピメリーの細胞分裂体たちが潜んでいた。それらが一斉に、不可視に近い極細の触腕を伸ばし、ルビアズの身体に絡みついていたのだ。
「しまったな」
ルビアズは舌打ちする。
油断、慢心。
配信のコメント欄という下らない余興に気を取られていたこと。そして何より、対峙する相手があまりにも弱く、知性を感じさせない獣であったため、無意識のうちに『第六感』の感度を最低レベルまで下げてしまっていたこと。
殺気なき攻撃。ただの捕食行動に近い本能的な接触を、危機回避本能が「脅威」として認識しなかったのだ。
肌に張り付く吸盤の感触。生理的な嫌悪感を催す、冷たく、ぬらぬらとした粘液の質量。それが、高価なナノ服の上からでも伝わってくるようで、ルビアズの眉間に深い皺が刻まれる。
そこへ、さらに不快な声が追い打ちをかけた。
「ギャハハハハハッ! どうだッ! 捕まえたぞ、『シー・フィーバー』! バカめ、気づけなかッたか? 私の可愛いイカちゃンたちにッ!」
ピメリーが得意げに叫ぶ。
どうやら彼女は、先の戦闘でイカスミを撒いた際、ドサクサに紛れて自身の肉片を周囲にばら撒き、それらを独立した生物兵器として配置していたらしい。その程度の知恵は回るのか、とルビアズは感心するよりも呆れた。
「このまま締め上げて圧殺してやる。内臓を口から吐き出して死ね、『疾風の下衆』!」
……ネイヴ。
ついに性別すら消え去り、原型すら留めていない。しかも、攻撃を成功させた瞬間に即座にトドメを刺すのではなく、わざわざ勝利宣言をして時間を浪費する愚かさ。あまりの悠長さに、ルビアズは怒りを通り越して虚無感すら覚えていた。この程度の拘束、本気を出せば筋力だけで引き千切ることは容易い。
だが。
『デバイズ』のウィンドウに、新たな通知がポップアップした。
『キャハハ! ルビアズ捕まってるー! ダサーい! こりゃ次のボスは私かな? あ、ちなみにこっちの巨大アナコンダは今、私の手作りサラダになりましたー』
クルクスからの煽りワイプ。周りのアマゾン川に、散乱した巨大ピラニアや大蛇の死骸。
それに呼応するように、コメント欄も加速する。
『うわ、ルビアズ落ちたな』
『烏賊の逆転あるで』
『触手責めか。これは上級者向けだな』
癪に障る。
実に、癪に障る。
あの烏賊女ごときに、一瞬でも「勝った」と思わせたこと、そしてクルクスにナメられたこと。ルビアズの瞳が、冷徹な殺意で凍りついた。彼女は拘束された右腕を、まるで泥水から引き抜くように、ヌルリと、しかし抵抗不可能な力で引き抜いた。
そのまま、頭部に飾られた深紅の花────アマリリスの髪飾りへと手をかける。
「『葬花の彼岸花』」
紡がれたのは、死刑宣告。
その瞬間。
世界が、紅く閃いた。
ザンッ。
音速を超えた斬撃音が遅れて届く。
ルビアズを拘束していた無数の触腕が、瞬時にして数千の肉片へと変わり、紙吹雪のように散った。
「……あ?」
ピメリーが間の抜けた声を漏らす。
だが、認識する間もない。
次の瞬間、ピメリーの首が、滑るように胴体から離れ落ちた。続いて、頭部そのものが、賽の目状に細切れに解体される。
それでも、彼女の肉体は地面に落ちない。手足の吸盤が壁に食い込んだまま、首を失った胴体が痙攣している。
ルビアズは、右手に握られた「それ」を振るった。ブンッ、という風切り音と共に、二十メートル先に潜んでいた分裂体の烏賊たちまでもが、一斉に爆ぜた。
ルビアズは空を蹴った。
重力を無視した機動で、ピメリーが張り付く廃ビルの壁面へと着地する。壁を破壊することなく、コンクリート表面のミクロ単位の僅かな突起に指先をかけ、重力に逆らって直立する。
その手には、アマリリスの髪飾りを鍔とした、西洋の細剣を彷彿とさせる長剣が握られていた。刀身は、血を吸ったかのように禍々しく、しかし宝石のように透き通った深紅の輝きを放っている。
美しくも恐ろしい、死の芸術品。
ピメリーは右腕に形成した巨大な眼球で、ルビアズの手にある剣を見据える。『変異型』にとって、視覚器官が頭部にある必要などない。
「あァ、『具現武装型』かよ」
ピメリーの触腕部の口が忌々しげに吐き捨てる。
『エグジスト』の能力分類の一つ、『具現武装型』。通称、『具現型』。
それは、自身の生体エネルギーや精神力を質量へと変換し、物理的な「武装」あるいは「式神」として無から有を生み出し、この世に定着させる能力者たちの総称だ。
魔術師が杖を触媒にするように、彼らは何らかの物質────ルビアズの場合は剣────を媒体として発動する。熟練度が高まれば複数生み出したり、ものによっては自立させる事も可能だ。
彼らが生み出す武器や物質は、既存の物理法則に縛られない特性を帯びることが多く、現代兵器すら凌駕する破壊力を秘めている。ルビアズの『バス・アマリリス』もまた、その理外の武器の一つであった。
首を失ったピメリーの胴体から、ボコボコと肉が盛り上がり、新たな頭部が再生する。再生したばかりの口で、ピメリーが喚く。
「じゃあさッきのすり抜けたのはなンだよ!? 透過に具現化、複数能力か!? ズルすンなこンのクソボケが!!」
当然、誤解である。
『エグジスト』において、一人の個体が有する能力は「一つ」というのが絶対的な理だ。先ほどの回避は、単にルビアズの体術がピメリーの動体視力を上回っていたに過ぎない。
だが、説明する義理もない。
「お前、マジでそろそろ黙れ」
ルビアズは冷たく吐き捨て、無造作に剣を薙いだ。
距離は十メートル。
剣の長さは一メートル強。
物理的に届くはずのない間合い。
しかし。
「がはッ……!?」
ピメリーが苦悶の声を上げ、大量の血を吐いた。外傷はない。服も破れていない。皮膚に傷一つついていない。なのに、彼女の内側から、何かが致命的に「断たれた」。
これが、ルビアズの能力『バス・アマリリス』の真髄。
彼女が放つのは、物理的な刃ではない。
指定した空間座標そのものを切断する、不可視の概念斬撃である。三次元空間の座標軸に干渉し、そのライン上にある物質を、硬度も、耐久性も、距離も無視して両断する。本来触れることのできない光や、自然現象、あるいは空間そのものさえも切り裂く、防御不能の魔剣。
今、ルビアズが切断したのは、ピメリーの胸郭内部にある「心臓」のみ。皮膚や筋肉、骨格を透過し、原子レベルで心臓の組織だけを寸断したのだ。心臓を破壊された『基本存在』の『変異型』。 本来であれば、全身の機能が停止し、再生に全エネルギーを注がねば動くことすらままならないはずの致命傷。
だが。
「死ねェェェッ!!」
ピメリーは倒れるどころか、さらに触腕を肥大化させ、ルビアズへと殴りかかってきた。
「お?」
ルビアズはわずかに目を見開き、迫りくる触手を剣で一閃する。触手は斬られた断面から塵のように崩壊し、消滅した。
「ギハハハハッ! バカめ、これで勝ッたつもりか! 烏賊の心臓は三つあるンだ!!」
吐血混じりの笑い声が響く。
「そういや、そうだったな」
ルビアズは納得したように頷いた。
頭足類の生物学的な特徴。彼らは全身に血液を送る「主心臓」に加え、左右の鰓に血液を送る二つの「鰓心臓」を持つ。つまり、一つを潰されたところで、残りの二つがフル稼働すれば、一時的に活動を継続することは可能なのだ。ピメリーの生命力は、その異形の肉体構造に支えられていた。
だが────普通、そんな自身の弱点とも言える生理機能を、わざわざ敵に教えるバカがどこにいる?
ルビアズは静かに耳を澄ませた。
視覚情報ではなく、聴覚による探知。
ドクン、ドクン、ドクン……。
不規則に、しかし力強く脈打つ二つの鼓動。
位置は特定した。肺の裏側、左右対称の座標。
「終わりだ」
ルビアズの手首が返る。
神速の二連撃。
キィン。
高周波のような音が鳴った瞬間、ピメリーの体内にある残りの二つの心臓が、同時に、原子レベルで微塵切りにされた。この間、ナノ秒にも満たない。
「あ……?」
ピメリーの動きが停止する。
反応できるはずもない。
脳がそれを認識するよりも早く、循環器系の全機能が喪失した。手足の吸盤から力が抜け、重力に従って体が傾く。ピメリーは糸の切れた操り人形のように、ビルの壁面から剥がれ落ち、真っ逆さまに地面へと落下していった。
ドン、と肉が落ちる音。
動かなくなった肉塊を見下ろし、ルビアズもまた、ふわりと空中に身を躍らせる。
音もなく。
衝撃もなく。
『衝撃相殺術』によって物理的な余波をゼロに抑え込み、彼女は羽根のように地表へと降り立った。
硝煙と潮の香りが混ざり合う、戦場の跡地。
ルビアズがふと視線を巡らせれば、そこには既に新たな狂乱の宴が形成されていた。何処から湧いたのか、瓦礫の山をステージに見立て、歪んだギターを掻き鳴らす女がいる。即興で紡がれる歌詞は、先刻までの殺し合いを英雄譚、あるいは滑稽な喜劇として歌い上げるものだ。
その横では、ド派手なストリート・ファッションに身を包んだ黒人の男────『ファニー・ゲーム』の惨劇を嬉々として報道していたアナウンサーのラッパーが、自律飛行するホログラム・カメラに向かって、唾を飛ばしながら何やら喚き散らしている。
「Yo! 見ろよこの惨状! 赤き死神とジャパン・アニメ、イカ娘のガチバトル、ニューヨークは今日も平常運転だぜメーン!」
さらに異様な光景は続く。
散らばったピメリーの触腕の残骸を、「極上のネタだ」と言わんばかりに嬉々として空間を切り裂く威力の包丁で切り集め、保冷ケースに詰め込んでいる日本人────白衣姿の寿司職人。触腕を貪り食う魔獣群。
あるいは、制御を失って暴走する二十メートル級の自律分裂烏賊に対し、片手でスマホの通話を続けながら、肥大化させた異形の右腕で頭蓋を粉砕しているスーツ姿のサラリーマン。
「あー、はいはい部長。ええ、今ちょっと「害虫駆除」してまして。はい、直帰します」
分離体とは言え、『エグジスト』の肉を軽々と粉砕する力。彼もまた、『エグジスト』なのだろう。
日常と非日常の境界が融解した世界。
『デバイズ』の配信画面は、スパチャと興奮のコメントで埋め尽くされ、視聴者数は爆発的に跳ね上がっている。ルビアズは、内心で深い溜息をついた。
(我々はあくまで裏社会の組織、『ルキフェル』だぞ。なぜこうも毎回、表のエンターテインメントとして消費される?)
隠匿こそが美徳であるはずの闇の住人が、白日の下で喝采を浴びる矛盾。
だが、それがこの街の歪んだ理なのだ。
視線を足元へ戻す。
そこには、もはや再生すらままならず、肉塊のように地面にへばりつくピメリー・バルドーの姿があった。心臓を全て失い、全身の細胞が壊死しかけている。
「まだ生きてんのか」
ルビアズは冷たく言い放つ。
『平均的個体』クラスにしては、無駄にしぶとい生命力だ。ゴキブリ並み、と言っても過言ではない。ピメリーが、憎悪に濁った瞳でこちらを見上げ、血泡と共に絶叫した。
「なンなンだよ……クソがッ! 私が何したッてンだよ!? ふざけンなよ、ただ生きてただけだろうがッ! 死ね、全部てめェらが悪い、全員死ンじまえッ!!」
見苦しいまでの他責思考。
この期に及んで、自らの行いを省みることもなく、ただ世界を呪詛するだけの矮小な精神。
ルビアズは、冷徹な観察眼で彼女を見下ろす。この女には戸籍がない。情報網にも引っかからない。そして、力の使い方が粗暴で洗練されていない。それらが示す事実は一つ。
こいつは、最近になって『エグジスト』に「成った」個体だ。
この宇宙において、『エグジスト』が誕生する経緯は大きく二つに大別される。
一つは、ルビアズのように生まれながらにして『エグジスト』の「先天性」。
もう一つは、後天的な要因による変異、「後天性」である。
高濃度の『暗黒物質』汚染区域への曝露。あるいは、科学実験の事故。もしくは、死の淵に瀕した際、生存本能が遺伝子のリミッターを粉砕し、細胞や遺伝子が変異し、強制進化させるケース。要因は様々だ。
ピメリー・バルドーは後者だろう。
おそらくはスラムの掃き溜めで、誰からも顧みられることなく、泥水をすするような過酷な人生を送ってきたに違いない。人間の身一つ、その生活は想像を絶する。この世の全てを憎んでも仕方の無いことである。その怨嗟と執着が、何らかの切っ掛けで彼女を異形へと作り変えたのだ。
だが。
だからといって、ルビアズの心に同情の二文字が浮かぶことはない。力に溺れ、弱者を蹂躙し、己の欲望のままに暴走した結果が、今の無様な姿だ。
『エグジスト』は、元が人間であった者ほど、その強大な力に振り回され、精神を破綻させやすい。
全ては、彼女の自業自得である。
『デバイズ』の配信へ流れるコメント。
『殺れ! トドメ刺せよ!』
『なんだよ、口ほどにもねぇな烏賊女』
『ざまぁみろ、ゴミが』
さらに、無責任な野次馬たちからの声。
「死ね! 『エグジスト』野郎!」
「何やってんだ、さっさと細切れにしちまえ!」
「早く殺して! 私のバックがぶち壊れたのよ!?」
「見窄らしいスラムのゴミが!」
殺せ、殺せの大合唱。
その嘲笑が、ピメリーの耳に届く。
人間だった頃の、虐げられてきた記憶がフラッシュバックしたのか。彼女の瞳が、恐怖に激しく震え始めた。
「やめろ……見るなッ! 私を、その目で見るなッ! 罵るンじゃねェ!! ふざけンな、やめろ、やめてくれッ!! うわぁぁぁぁッッ!!!」
獣の咆哮ではない。
ただの、怯えきった少女の悲鳴。
『エグジスト』の聴覚は、百メートル先の硬貨の落下音すら聞き分ける。烏賊の特性も相まって、周囲の罵詈雑言、嘲り、侮蔑の言葉が、何倍にも増幅されて彼女の鼓膜をレイプする。プライドを剥ぎ取られ、裸にされた魂が泣き叫んでいる。
ギャラリーたちは、そんな彼女の姿を見て、さらに嗜虐的な笑い声を上げた。
ルビアズの眉が、不快げに歪む。
見るに堪えない。
相手がどんなクズであろうと、自分と同じ『エグジスト』という種が、有象無象の人間どもごときに嘲笑され、見世物にされているという事実が、彼女の矜持を逆撫でした。
(……不愉快だ)
無意識のうちに、人間を虫けらのように見下す『エグジスト』特有の思考回路が頭をもたげる。これ以上、同族の恥を晒させるわけにはいかない。介錯してやることが、せめてもの慈悲だろう。
真紅の女は静かに、髪飾りの剣を構えた。
追い詰められたネズミが猫を噛むように、ピメリーが最後の力を振り絞る。
「シー・フィーバー……ッ! 野次馬共も、全員、皆殺しだァッ!!」
バキバキバキ、と音をたて、彼女の肉体が爆発的に膨張した。もはや人の形など微塵もない。
巨大な軟体動物の躯体、まるで神話に語られる海の怪物そのものへと変貌し、無差別の破壊を撒き散らそうとする。
「『バス・アマリリス』」
ルビアズの声は、静寂そのものだった。
居合。
一歩踏み出した瞬間、彼女の姿が揺らぎ、ピメリーの巨体をすり抜けて背後へと移動していた。
斬撃の軌跡は見えない。
だが、結果だけが世界に刻まれた。
ズ……ッ。
ピメリーの巨体が、まるで砂の城が崩れるように、微細な粒子となって崩壊していく。細胞の一つ一つ、遺伝子の螺旋に至るまで、全てが等しく切り刻まれたのだ。
断末魔すら上げる暇もなく。
跡形もなく。
哀れな『エグジスト』は、大気に溶けるようにして消滅した。
ルビアズの手元から、紅い剣が霧散する。
残されたアマリリスの髪飾りを、慣れた手つきで髪に挿し直す。
「ウオオオオオオオッ!!」
「最高だぜルビアズゥッ!!」
沸き返るギャラリー。加速するコメント欄。
仕事として害虫を駆除しただけだというのに、胸に残るのはどす黒い不快感だけ。ルビアズは無言で配信を切り、ただ陽炎のようにその場から姿を消した。
♥
『ルキフェル』ニューヨーク支部、事務所。
ルビアズはデスクに座り、思考操作の『デバイズ』で、モリス・ジョーンズ宛てのメールを作成していた。
件名は『請求書』。
本文は『片付いたぞ』の一行のみ。
添付ファイルには、ピメリーが死ぬまでの一連の戦闘の高解像度映像と、DNA反応が消失したことを示す解析データを添えて。
送信ボタンを念じ、押すと同時に、みほよがホットコーヒーを差し出してきた。
「お疲れ様です、ルビさん。今日も圧勝でしたね! あーあ、もっと賭けとけばよかったなぁ」
みほよは屈託のない笑顔で、いつものように能天気な声を上げる。
「今回は、雑魚を片付けただけで莫大な報酬だ。あの男なら名誉もあるし、トンズラこきはしないだろう。いつもこう楽だと良いんだがな」
ルビアズはタバコに火を点けながら、ぶっきらぼうに返す。
だが、みほよの表情に、ふと影が差した。
「……でも」
「あん?」
「彼女、最期……すごく苦しんだ目をしていました」
みほよは、モニターに映し出された静止画、ピメリーの怯えた表情を見つめていた。
「もっと早く、私たちが……あるいは誰かが手を差し伸べてくれれば、結果は違ったのでしょうか。彼女も、あんな怪物にならずに済んだんでしょうか」
悲しげな声。どんな悪党にさえも、人としての可能性を見出し、同情心を寄せる。それが、呉内みほよという女だ。
『エグジスト』の思考回路、倫理観、価値観は、人間とは根本的に異なる。特に生存競争に関しては、野生動物のようにドライで、弱肉強食を絶対の理としている。
生まれついての『エグジスト』であるルビアズには、みほよの抱く感傷の意味を、言葉として理解できても、心で共感することはできない。
だが。
この甘さこそが、人間の────いや、彼女の美徳なのだろうとも思う。
紫煙を吐き出し、ルビアズは告げた。
「どんな事情があろうと、ヤツはただのクズだ。同情なんてしなくていい。……道を踏み外した時点で、遅かれ早かれこうなる運命だったんだよ」
「……そう、でしょうか」
「……それより、今日は私らは戸締りだ。お前も休んでいいぞ。ポンウィパとクルクスのバカが戻ったらBBQでもしたいところだが、どうだ?」
少し強引に話題を変える。
みほよが顔を上げ、パァっと表情を輝かせた。
「行きます! ええ、もちろん行きますとも! あー、やっと休める! こちとら昨日から徹夜してたんですからね。あの後、ルビさん直帰しちゃったから、FBPCの対応とか被害額の精算とか、全部私がやる羽目になったんですからっ」
「すまん」
悪びれもせず、短く謝る。
「もう限界です、二人が戻ってくるまで仮眠します。あと、タバコ吸うなら『空気清浄機』つけといてくださいね。毎回言わせないでください」
そう言い残すと、みほよは自身のデスクから、『圧縮宝珠』を取り出した。ビー玉を空中に投げると、ポン、幾何学模様の光が展開し、ふわりと一台のベッドが出現する。高価な『マーブル・ケース』特有のエフェクトだ。
空間位相をずらした特殊な寝具。
ベッドの一部がデスクや壁に重なっているが、まるで幽霊のようにすり抜けて干渉しない。みほよはメガネを机に置くと、靴を脱ぎ捨て、そのまま、重力から解放されたように浮遊するベッドへといそいそと潜り込み、数秒もしないうちに安らかな寝息を立て始めた。
静寂が戻った事務所。
ルビアズは深く椅子に背を預け、『空気清浄機』を稼働させ、天井に向かって煙を吐き出した。
ピメリー・バルドー。
もし、彼女が畜生の身に堕ちず、誰かの導きを得て、ここ『ルキフェル』に所属していたのなら。
あの救いようのない馬鹿さ加減も、ムードメーカーとして機能したかもしれない。世話は焼けるだろうが、張り詰めた殺伐とした現場の空気を、その単純さで和ませてくれていただろう。
それに、あの能力『シー・フィーバー』。
再生力、攻撃範囲、分裂体の自律行動。高い汎用性。素材としては一級品。鍛え上げれば、すぐにでも『上位存在』級へと至り、組織の優秀な戦闘要員になっていたはずだ。
「くだらん」
そんな「もしも」を考えても、何の意味もない。
ピメリーは死んだ。
自らの愚かさと、世界の残酷さに押し潰されて。彼女は、吸いきったタバコを灰皿に押し付けると、不敵な笑みを浮かべた。
とりあえず、クルクスのバカが帰ってきたら、あの大穴狙いの賭けが外れたことを盛大に嘲笑い、ドヤ顔をしてやろう。
そう思うと、少しだけ気分が晴れた気がした。




