決着
エヴィミス・ロドリゲスの脳裏には、六百年という途方もない悠久の時間を闘争のみに捧げてきた己の血塗られた半生が、走馬灯のように駆け巡っていた。
かつて、陰鬱な空が支配するアイルランドの地にて、当時絶対的な地位を誇り、恐怖の象徴たる組織ルキフェルのオメガクラスのエグジストと衝突し、己の命の残滓すら燃やし尽くすような死闘を繰り広げた記憶。そして、今日に至るまでその剛腕で屠り去ってきた、数多の強敵たちの顔ぶれ。彼女は現在、デュミドラ・フォッツが主導するリ・ワールドにおける「非異能者抹殺計画」などという、大義名分を掲げた狂気の計画に加担してはいる。だが、彼女の魂の奥底にある本心としては、そのような崇高な理念や新世界の創造などというものは、どうでもいい些末な事象に過ぎなかった。
彼女の渇望はただ一つ。己の限界を引き出してくれる、圧倒的な強者と命の取り合いがしたい。ただそれだけの、純粋にして原初的な闘争本能のみが彼女を突き動かしているのだ。だからこそ、全知的生命体が超常の力を持つ異能者、すなわちエグジストへと進化、あるいは非異能者が淘汰されれば、この退屈な世界は自身の望む果てしない闘争の螺旋へと変貌を遂げる。弱者が駆逐され、強者のみが喰らい合う血の狂宴。それこそが、エヴィミス・ロドリゲスという狂戦士が夢見る理想郷であった。
その視線の先では、白髪の女、ゼノヴィアが、両手に万物を死滅させる白き死のオーラ〝アシッド・アングスト〟を禍々しく纏い、獲物を屠る猟犬の如き冷酷さで再び駆けようとしていた。
ゼノヴィアの瞳には、エヴィミスのような闘争を楽しむ熱狂など毛頭存在しない。ただ眼前に立ち塞がる不快な障害物を、最も効率的かつ凄惨な手段で即座に排除し、この忌々しい巨女の存在を世界から完全に消し去るという、絶対零度の殺意だけが撒き散らされていた。
その氷のような視線と、絶対的な死を強いる圧倒的なプレッシャー。それは皮肉にも、エヴィミスの奥底に眠る闘争の炎に、大量の油を注ぐ結果となっていた。
「面白いッ! ここから小細工は一切無しでいこうッ!! エヴィミス・ロドリゲス、推して参るッッ!!」
大気を震わせ、周囲の崩落したビルの硝子を粉砕するほどの咆哮を上げ、エヴィミスは歓喜に顔を歪ませた。先程のように、距離を取って安全圏から光線を放つようなちゃちな遠距離戦術は、やはり彼女の生まれ持った性分には全く合わない。己の肉体と肉体が激突し、骨が軋み、血肉が飛び散る。正々堂々、正面から互いの命を天秤にかけて殴り合うことこそが、エヴィミスの血肉に刻み込まれた絶対の信念であり、至高の喜びなのだ。
「〝オープン・グレイヴ〟ッッ!!」
彼女は眼前に形成し、浮遊させていた無数の超高密度灼熱圧縮体たる赤玉に向け、残された左腕を激しく振るい、まるでビリヤードのブレイクショットのように弾き飛ばした。
弾かれた無数の灼熱の球体は、空間に赤い尾を引きながら、凄まじい速度でゼノヴィアの華奢な肉体へと殺到する。だが、ゼノヴィアは表情一つ変えることなく、自身の異能を色濃く纏わせた両手で、迫り来る必殺の熱量を次々と払い除けていく。シュー、という微かな蒸発音すら立てず、赤玉は白き死のオーラに触れた瞬間に概念ごと溶解し、虚無へと還っていく。
そして、ゼノヴィアはその防御の勢いをそのまま前方への推進力へと変換し、滑るような神速でエヴィミスの懐へと迫り、死をもたらす白き指先で巨女の首元へと掴みかかった。
エヴィミスはそれを、本能的な勘による紙一重の背向回避で躱す。同時に、近距離の周辺空間に無数に再形成した赤玉から、ゼノヴィアの死角となる背面や足元、頭上を正確に狙い、四方八方から〝オープン・グレイヴ〟の光線を至近距離で乱れ撃った。
逃げ場のない光の檻。だが、ゼノヴィアはその包囲網の中にあって、極めて鬱陶しそうに眉を顰めながら、手に纏わせたオーラを瞬時に背面、頭上、肩口、足元へと自由自在に移動させ、その全ての光線を完璧に防ぎ切ってみせた。
「そこだッッ!!」
エヴィミスの真の狙いは、光線による熱殺ではなかった。光線を防ぐために、ゼノヴィアがオーラを背面へと移動させたその刹那の隙。完全に防御が剥がれ、がら空きとなったゼノヴィアの右脇腹へ向け、エヴィミスの巨大な拳が、大気を圧縮するほどの威力を伴ったボディーブローとして叩き込まれたのだ。
ゴシャッ、という鈍い音が体内に響き渡り、ゼノヴィアの身体がくの字に折れ曲がる。
「……まじでうぜぇな、お前」
彼女は煩わしく呟いた後、ザザッ、とアスファルトを削りながら数歩後退し、追撃の光線をオーラで防ぎつつ、忌々しげに毒づいた。痛む右脇腹を、白い指先で軽く摩る。
まるで超高密度の魔力鋼線を幾重にも束ね、極限まで圧縮したかのようなエヴィミスの強靭な肉体。そこから放たれる打撃は、極級の肉体をもってしても無視できないほどの破壊力を秘めている。あの強力な打撃をこのまま貰い続けるわけにはいかない。屈辱的で忌々しい事実だが、純粋な肉体の強度と格闘の出力においては、目の前の脳筋女の方が明確に上回っているのだ。
そして、あの赤玉から放たれる光線を四肢ならともかく、胴体の中心や頭部へ直接食らえば、汚染箇所を切り離す間もなく、遺伝子レベルからの崩壊が全身に回り、そのまま完全なる敗北へと直結する。ゼノヴィアは極めて冷静に状況を分析しつつも、その美しい真紅の瞳には、底なしの泥沼のようにどす黒い殺意を込めて、眼前の巨女を冷酷に見据えていた。
「いい目だッ!! それにその隠しきれない闘争心! お前という極上の獲物に勝利すれば、私は必ずや更なる高みへと登ることができるだろうッッ!!!」
大気を震わせ、周囲の瓦礫を吹き飛ばすほどの雄叫びと共に、エヴィミスもまた本気で地を蹴り、ゼノヴィアへと肉薄する。〝衝撃相殺術〟が備わっていなければ、間違いなくこの地球の地殻は愚か、太陽系周辺の惑星軌道にまで深刻な余波をもたらし、全てを吹き飛ばすであろう彼女の絶大な脚力。その天文学的な運動エネルギーを、ただ前方へ進むという一つのベクトルのみに完全なる一点集中を果たす。
それにより、エヴィミスの巨躯は爆発的に加速し、相対性理論すらも無視して光速を容易に超える、常軌を逸した神速の突撃が生み出される。
しかし、ゼノヴィアの極限まで強化された動体視力は、その光の束となったエヴィミスの動きを完全に捉え切っていた。近づいてきた瞬間に、その白き死のオーラをカウンターとして浴びせ、今度こそ巨女を全身からドロドロに溶かしてやろうという冷酷な腹積もりだ。
だが、エヴィミスは決して猪突猛進の馬鹿ではない。彼女は今までの苛烈な攻防の中で、ゼノヴィアの持つ異能の本質を、完全ではないにせよ確実に見抜き、特にその致命的な「隙」を発見していたのだ。
ゼノヴィア・エヴァンス・カンノーロの操る〝アシッド・アングスト〟という凶悪極まりない能力。
観察したところ、自身の〝オープン・グレイヴ〟のような、空間を制圧する超広範囲攻撃や、遠距離への投射能力は持ち合わせていないようだ。だが、直接的な殺傷能力、対象を死に至らしめる確実性においては、間違いなく向こうの方が何段階も上である。先程、ゼノヴィアは自身の光線を耳に受けた際、その熱波の感染が周囲の組織へ広がるまでに僅かなタイムラグがあったのに対し、自分は彼女のオーラにほんの一瞬触れただけで、須臾のうちに右腕全体が溶解し、自ら切り落とす羽目になったのだ。触れれば終わりという、絶対的な死の領域。
だが、それは決して無敵で全能な力ではない。
現に今も、ゼノヴィアはエヴィミスの放つ全方位からの光線を防ぐために、オーラの塊を自身の身体の周囲に激しく移動させ続けている。もし、あのオーラを球体のように広げ、自身の全身を隈なく覆うことができるのであれば、初めからそうしているはずなのだ。防御の手間も省け、最強の鎧となるのだから。
つまり、あのオーラには明確な体積の限界があり、全身を同時に覆うことはできない。ならば、移動するオーラの隙間を潜り抜け、生身の肉体を直接叩けばよい。先程見舞った痛烈なボディーブローも、その法則を見切り、防御が薄くなった瞬間を狙い澄まして放ったものであった。
そして何より、エヴィミスは遠距離からの能力の撃ち合いなどという無粋な手段ではなく、鍛え上げた己の拳と蹴り、自身の肉体そのものでこの強敵を打ち倒し、勝利の美酒を味わいたいのだ。
神速の突進でゼノヴィアの懐へと飛び込むエヴィミス。対するゼノヴィアは無表情のまま、絶え間なく降り注ぐ光線の雨をオーラで的確に防ぎつつ、その空いた手で何度もエヴィミスの肉体へと掴みかかろうとする。触れられれば即死の恐るべき白き指先。エヴィミスはそれを、己の優れた直感と体術によって紙一重で躱しつつ、オーラが移動して生じる一瞬の隙間を的確に狙い、必殺の蹴りや拳を怒涛の連撃で放っていく。
ゼノヴィアもまた、エヴィミスの非常識な威力を誇る打撃を極度に警戒しているのか、強引に肉弾戦へ持ち込もうとはせず、オーラを巧みに盾にして弾き返したり、防御が間に合わなければ最小限の動きで躱すという、綱渡りのような回避を続けている。
ゼノヴィアの白き指先による攻撃は、次にまともに貰えば、一気に戦況が覆り、今度こそ命を落としかねない絶対の死を孕んでいる。エヴィミスの脳裏には、先程から第六感がけたたましい破滅の警鐘を鳴り響かせ続けているが、彼女はそんな生存本能からの警告など一切気にも留めず、狂気を孕んだ笑みを浮かべながら超高密度の攻防を継続する。
(素晴らしい。本当に、最高だと思わないかッ!)
これほどのヒリつくような強敵と相見えるのは、あのアイルランドの暗雲の下で、ルキフェルのオメガクラスというバケモノと死闘を演じた時以来であった。一瞬の判断の遅れ、一手の選択の間違いが、即座に自身の死へと直結する極限の緊張状態。それは、常に冷静さを装っているゼノヴィアにとっても同じであるはずだ。
そのギリギリの命の削り合い、魂の激突こそが、悠久とも呼べる途方もない時間を生きるエヴィミス・ロドリゲスという存在に、鮮烈な「生」の実感を与え、歓喜の絶頂へと導いていたのだ。
だが、千日手にも思えたその極限の均衡を破ったのは、皮肉な偶然が生み出した、ほんの些細な事象であった。
ゼノヴィアが顔面へと迫った赤玉を、纏ったオーラで激しく払い除け、かき消したその瞬間。超高密度の熱量が溶解する際に生じた、極めて微小な火花の瞬き。その僅かな光の乱反射が、ほんの一瞬、十分の一秒にも満たない時間だが、エヴィミスの視界を照らし、遮ってしまったのだ。
周囲の環境情報のほとんどを視覚に依存している脆弱な人類種とは異なり、エグジストの研ぎ澄まされた感覚器官は、音の反響や大気の微細な振動、果ては人類には感知不可能な微細なエネルギーの流動によって、視界が奪われようとも周囲の状況を完全に感知できる。さらに、常に眼球は自律的に分泌される最適な成分の涙で潤っているため、瞬きもしない。そして強烈な閃光によって網膜が焼かれ、目が眩むなどという現象も通常は起こり得ない。
このような微細な火花の光など、普段の彼女であれば瞬き一つせず、気にも留めないはずの事象であった。しかし、ナノ秒単位での命のやり取りが交錯するこの極限の戦いにおいては、その極小のノイズが、致命的な命取りとなってしまったのだ。
視界が白く染まったその刹那の硬直。
ピッ、と風を切る音すらせず、蛇のように滑り込んできたゼノヴィアの白き指先が、エヴィミスの残された生命線である左腕の肌に、僅か数ミリだが、確かに触れてしまった。
瞬時に、脳髄を焼き切るほどの激痛と共に、エヴィミスの強靭な細胞が悲鳴を上げ、腕の表面からどろどろと白濁した溶解が始まった。
「────ッッ!!」
激痛に顔を歪める暇もない。エヴィミスは即座に決断した。
彼女は、ゼノヴィアを包囲するために周囲に展開していた〝オープン・グレイヴ〟の全ての赤玉を、自らの意志で強制的に一点へと束ねた。そして、その数千本にも及ぶ致死の光線を、目の前の敵────否、自らの身体そのものに向けて、至近距離から全方位掃射したのだ。
ゼノヴィアはその常軌を逸した自爆行動の意図を即座に察知し、溶解を早めるために手を深くねじ込もうと伸ばすが、エヴィミスの決死の覚悟と光線の発動速度の方がナノ数秒勝った。
灼熱の光の奔流が、もつれ合う二人をドーム状に包み込む。
星の生誕並の熱線がエヴィミス自身の肉体に容赦なく浴びせられ、ゼノヴィアのオーラによって溶解が始まっていた彼女の左腕を、汚染された細胞ごと一瞬にして灰燼へと帰し、完全に消し飛ばした。それにより、全身への腐敗の進行という最悪の結末を、自らの腕を焼き切ることで強引に防いだのだ。
だが、その光の暴風雨の中にあって、ゼノヴィアもまた、即座にオーラの全てを背面へと展開し、自身の背中を庇うようにして光線の直撃を防ぐことしかできなかった。防御に全てのリソースを割かれ、攻撃の手が完全に止まる。
今が、唯一にして最大の勝機。
「ウッシャアアアッ!!」
両腕を完全に失い、自身の放った熱線によって全身の皮膚が炭化し、焼け焦げる激痛に苛まれながらも、エヴィミスは血を吐きながら狂獣の如き雄叫びを上げ、ゼノヴィアへと猛然と肉薄した。
ズン、と大気を叩き潰すような重い軌道を描き、彼女の残された最大の武器である、強靭極まりない丸太のような右脚の蹴りが、ゼノヴィアの胴体を真っ二つにへし折るべく迫る。
ゼノヴィアの〝アシッド・アングスト〟は、背後から迫る膨大な光線を凌ぐために固定されており、前面への防御には使えない。頼れるのは、己の生身の肉体のみ。彼女は即座に華奢な両腕をクロスさせ、絶対防御の構えをとってその凶悪な蹴りを真正面から受け止めた。
しかし、全霊を込めたハイエンドの蹴りの威力は凄まじく、ゼノヴィアの身体は防いだ両腕の骨を軋ませながら、砲弾のように大きく後方へと弾き飛ばされ、空中で完全に無防備な体勢を晒した。
苦痛と屈辱に、ゼノヴィアの端正な顔が激しく歪み、煩わしげな表情を浮かべる。
エヴィミスの放った光線の嵐が通り過ぎ、灼熱の余波が収まり、お互いの身体が自由になったとほぼ同時であった。
エヴィミスは、体勢を崩したゼノヴィアに息をつく暇も与えず、とどめと言わんばかりに虚空を踏み砕いて追撃し、その白髪の頭部をスイカのように消し飛ばすべく、渾身の力を込めた本気の右上段回し蹴りを放った。
ゼノヴィアの死のオーラは、つい先程まで彼女の背面に展開されていた。それを前面に移動させ、この神速の蹴りに合わせることは物理的に不可能である。
完璧なタイミング。完璧な一撃。
勝った。
エヴィミスが己の勝利を確信し、歓喜の笑みを浮かべようとした、その瞬間。
ぞぶっ。
背後で、泥沼に巨大な岩を沈めたような、極めて不快で鈍い音がした気がした。
直後、エヴィミスは自身の視界が、本来あるべき高さから急激に落下していくのを感じた。全く力が入らない。全身の神経が唐突に切断されたかのように、彼女の誇る屈強な肉体が、支えを失った操り人形のように重力に従って崩れ落ちていく。
「………は?」
何が起きたのか全く理解できず、崩れ落ちるエヴィミスが、掠れる視界で信じられない光景を見上げた。
なんと────吹き飛ばされたゼノヴィアの身体の背面に展開されていたはずの〝蝕骸の白忌〟のオーラ。それが、主の肉体から完全に分離し、独立した意思を持つかのように空間を滑空していたのだ。
ゼノヴィアは、光線を防いだ直後、蹴りで吹き飛ばされるその一瞬の間に、オーラを自身の肉体から切り離し、エヴィミスの背後へと密かに滞空させていたのである。
そして、勝利を確信して無防備に上段蹴りを放ったエヴィミスの背面へと、その死の塊が音もなく直撃し、通り過ぎた。
強靭無比を誇ったエヴィミスの胴体。
背骨から内臓、極厚の筋肉に至るまで。
そのオーラに触れた箇所。
瞬時に溶解・消滅。
上半身と下半身。
綺麗に泣き別れとなった。
絶対的な死の質量を孕んだ白きオーラが、エヴィミス・ロドリゲスの屈強な背面を音もなく通り過ぎたその直後、彼女の誇る鋼鉄の如き下半身は、細胞の結合組織はおろか、遺伝子情報の配列に至るまでが瞬時に概念的崩壊を引き起こし、原型を留めぬ白濁した泥濘となって即座に溶解したのである。
無惨にも切断された残る上半身の断面からは、肉が焦げるような白煙を吹き上げる間すら与えられず、〝アシッド・アングスト〟の絶大なる腐敗の呪いが急速に伝播していく。強靭な筋肉繊維が、内臓器官が、そして頑強な骨格までもが、ぐずぐずと音を立てて無惨に崩れ落ち、虚無の淵へと呑み込まれていく。
己の肉体が致命的な崩壊を迎えたことで、エヴィミスのその絶大なる異能の制御を司る脳機能もまた致命的な機能不全に陥った。結果として、彼女が周囲の空間に展開し、絶対的な死の領域を構築していた〝オープン・グレイヴ〟を維持する余力は完全に失われ、空を焦がしていた無数の赤玉は、陽炎のように揺らめいた後に全てが音もなく消滅し、夜の闇へと還っていった。
「死ね」
氷点下の絶対零度を思わせる、ゼノヴィアのハスキーな低音が、静寂を取り戻しつつある空間に冷酷に響き渡った。
一切の情けを容赦しないその言葉と共に、彼女は虚空を蹴り飛ばし、崩れ落ちるエヴィミスの残骸へと迫る。その右手には、死の光が禍々しく纏われており、彼女は無慈悲にも、地面に叩きつけられようとしていた巨女の頭部へと真っ直ぐに掴みかかった。両腕を自ら切断し、剛脚を誇る下半身までも喪失したエヴィミス。残された僅かな肉体も連鎖的な溶解の過程にあり、もはや数秒後には完全なる死が訪れるのみである。如何なる奇跡が起きようとも、最早なすすべもない絶望的な状況であった。
だが。
「あ゛──────ッッッ!!!」
突如として、死の淵にあるはずのエヴィミスの口から、天地を揺るがすような絶大なる咆哮が放たれた。それは、敗北の絶望から来る悲鳴ではなく、最期まで戦士としての矜持を貫こうとする、純粋にして原初的な魂の叫びであった。
極限まで圧縮された大気が激しく震え、物理的な破壊力を伴った衝撃波となって、眼前に迫っていたゼノヴィアの全身に容赦なく浴びせられる。まともにその音波の直撃を受けたゼノヴィアの側頭部から、ブチッという微かな断裂音が鳴り響き、彼女の白く美しい耳の穴から鮮血が勢いよく飛び出した。
超常の力を宿すエグジストの鼓膜は、脆弱な人類のそれとは根本的に異なる異形にして極めて強靭な構造体を有している。ミクロン単位の極薄の特殊な膜が、幾重にも、無尽蔵に重ね合わさることで構成されており、ゼノヴィアほどのベータ級ハイエンドともなれば、仮に地球という惑星そのものが滅び去るような超巨大隕石の衝突音を至近距離で聴いたとしても、微塵も損傷することはないはずの絶対的な器官である。
だが、死の瞬間に己の全存在を賭して放たれたエヴィミスの咆哮は、ただの音ではなかった。彼女の残存する全生命力を音波というベクトルに変換し、目前の敵であるゼノヴィアの聴覚器官のみを狙って一点集中させた、執念の物理的破壊攻撃であったのだ。その規格外の波動は、流石のゼノヴィアの強靭な鼓膜すらも容易く破り捨てたのである。
しかし、両耳から血を流し、脳髄が揺れるほどの衝撃を受けながらも、ゼノヴィアの冷徹な表情は一切動じることがなかった。彼女の死の指先が、遂にエヴィミスの顔面に触れる。
その接触の瞬間、ほんの数毫秒という、人間の知覚を遥かに超越した極微小の時間の中で、エヴィミス・ロドリゲスの脳裏には走馬灯のように、たった今繰り広げられた死闘の全容が鮮明に想起されていた。
先程、自身が放った渾身の蹴りによってゼノヴィアが吹き飛ばされた際、彼女は自身の肉体に纏っていたはずの白きオーラを、その場に留め置いた。そして、自身の背後から奇襲をかけるという、全く予測不可能な軌道でそれを呼び戻したのだ。それはすなわち、ゼノヴィアが操るこの凶悪なオーラは、自身の肉体に付随させるだけでなく、完全に分離させ、独立した意思を持つかのように遠隔操作することが可能であったという、驚愕の事実を示している。
だが、これまでの苛烈な攻防において、彼女はそのようなトリッキーで致命的な戦術をただの一度も使用することはなかった。もし初めからオーラを分離させ、多角的な遠隔攻撃を仕掛けていれば、この戦いはもっと早く、より一方的にゼノヴィアの有利へと傾いていたはずなのだ。
つまり、彼女はこの恐るべき能力のポテンシャルをフルに活用していなかった。それが導き出した、たった一つの絶対的な結論。ゼノヴィア・カンノーロという女は、この死闘において、いまだ「本気」ではなかったということである。
自分はこれまでの六百年以上という膨大な闘争の経験、血の滲むような鍛錬によって培い、極限まで磨き上げた肉体の力、持てる全てを出し切り、死力を尽くして戦った。しかし、それでもなお、目の前に立つ底知れぬ深淵を抱えた女には、一歩も届かなかったのだ。正真正銘、言い訳の余地すら存在しない完全なる敗北であった。
ゼノヴィアの白き指先が、無慈悲にエヴィミスの顔面を捉えた。
即座に、致死のオーラが巨女の顔面を侵食し、頑強な皮膚が、極太の筋肉繊維が、そしてどんな魔力石をも凌駕する硬度を誇る頭蓋骨までもが、泡を吹いて溶け落ちていく。だが、崩壊していくその顔に浮かぶ、炎のように揺らめく真紅の瞳には、死に対する恐怖や、自分を殺す相手への敵意などは一切存在しなかった。そこにあるのは、底知れぬ力を持つ強者に対する、純粋で淀みのない敬意の光のみであった。
「すまなかった!」
肉体が泥のように崩れゆき、声帯すらも溶解しつつある中で、エヴィミスは魂そのものを震わせるように力強く叫んだ。
「ゼノヴィア・カンノーロ! 私は、君の全力を引き出すことができなかった! だが、悔いは無いッ! 君のような真の強者に敗れ去るのなら、戦士として本望だッ!」
仲間のデュミドラやイライジャとの永遠の別れも、彼女は悔いていない。新世界への未練もない。
自らの全力を出し切り、持てる全てをぶつけ、尚も敵わずに敗北し、死を迎える。それは、エヴィミス・ロドリゲスという生粋の狂戦士にとって、これ以上ないほどに誇り高く、美しき死の形であったのだ。
「あ? 知るか。ナノ秒の間に姑息な会話を要求してんじゃねぇよ。とっとと塵になって消えろ」
光の速さすらも超越した、人類の認識機能では決して聴き取ることのできない、精神波によるナノ秒の会話。ゼノヴィアはエヴィミスの誇り高き遺言を、路傍の石を蹴り飛ばすかのように冷酷に切り捨てた。
その言葉を最後に、エヴィミスの残された脳髄は完全に溶解し、彼女の巨大な肉体は、遺伝子の情報の欠片一つ残すことなく、この世界から完全に消滅した。
二人があの殺風景な倉庫街で遭遇し、殺し合いを始めてから、現実の時間にして二分に満たない寸刻しか経過していない。時計の針だけを見れば、あまりにも呆気なく、短期間で決着がついたように見えるだろう。だが、その実態は、ナノ秒単位で千日手にも等しい攻防と、極限の死の駆け引きが繰り広げられた、果てしなく濃密で凄絶な死闘であったのだ。




