惢眼-アガット- と 漆黒黒刃-シャドウ・イン・クラウド-
マンハッタン、ヘルズキッチン広場の倉庫街。一瞬にして死体の山が出来上がったその凄惨な戦場の一角において、三つの異質な影が交錯していた。
イライジャは、先程クラロワーによって無惨に消し飛ばされた両腕の断面から醜悪な肉芽を泡立たせ、それを複数に枝分かれした長大な触手の刃へと瞬時に作り変えていた。自らの肉体を自在に改変する変異型特有の、質量保存の法則や生命倫理を嘲笑うかのような自己改造である。水色の渦巻き模様を描く異形の眼球が、前後に立つ二人のエグジストを狡猾にねめ回す。
正面に立つのは、金髪ウェーブに瞳のない真紅の双眸を持つ女、クラロワー・ナーナ。
背後を塞ぐのは、灰色の長髪に青い蛍火のような光球を纏う女、ダーラ・ウェルズエ。
両者は呼吸を合わせるまでもなく、完全にイライジャを挟撃する絶対的な死の陣形を取っていた。
「〝惢眼〟」
クラロワーの薄い唇から、静かに言葉が紡ぎ出された。
その瞬間、彼女の視界を覆う世界が一変する。真紅の眼に、対象たるイライジャの深層心理────どろどろと煮え滾るような強烈な「殺意」の感情が、無数の真っ赤な線引きとなって視覚化されたのだ。
エグジストの能力系統において、精神型、すなわちサイキックに分類される能力。敵の感情、思考のベクトル、攻撃の軌道、そして悪意の指向性が、事象が起こるよりも早く手に取るように理解できる絶対的な先読みの力である。
『見えてる? ダーラ』
『うん。視界良好だよ』
音波を介さない、デバイズの機能を使用した思念会話が二人の間で交わされる。
ダーラの網膜。
すなわちデバイズ。
その拡張視界には。
クラロワーが見ている〝アガット〟の殺意を実体化させた赤い線が、寸分の狂いもなくリアルタイムで共有されていた。
これは昨年、あの天才児である呉内みほよが、クラロワーからの依頼で独自に開発した「感覚領域同調機構」の恩恵である。人知を超越したエグジストの超常的な視界すら、科学の力で無理やり共有させてしまうみほよの技術力は、もはや魔術すら凌駕する異次元の領域に達していた。
彼女がみほよという人間に敬意を払う、大きなきっかけがこれだ。
対象者はただ一人に限定されるという制約はあるものの、この機能が実装されて以来、クラロワーとバディを組むエグジストの死亡率は劇的に低下していた。絶対的な先読みの共有は、戦場において何よりも勝る強固な盾となるからだ。
その必須システムを確認し合う二人であったが、中央に立つイライジャはまだ動こうとしない。
クラロワーとダーラは共に、強者特有の威圧的な気配を意図的に断ち切ってはいるものの、空気を重く沈ませるプレッシャーは、彼女たちが間違いなくベータクラスであることを物語っていた。特にイライジャが警戒の比重を置いているのは、正面に立つクラロワーである。
先程、自身の触手をいとも容易く相殺し、手刀一つで掻き消してみせたその底知れぬ実力。恐らく、自分と同じハイグレードの中でも、さらに上位に位置する規格外の存在であろうことは本能で理解していた。
イライジャは基本的に怠惰な性格であり、自ら進んで戦闘に身を投じる意欲は極めて乏しい。普段であればゲームに没頭するしか能のない彼女だが、目の前の強者を前にしては気を引き締めざるを得ない。手を抜いて勝てる道理など存在しない。しょっぱなから、出し惜しみ無しの本気で蹂躙する。
「〝漆黒闇刃〟」
イライジャの口から、粘り気のある声が発せられる。
ドロリ、と不気味な音を立てて、彼女の肉体から伸びる無数の触手が、底なしの沼のような漆黒の影に覆われていく。
次の瞬間。
圧縮された暴力が弾けた。全方位へ向けて、刃と化した触手の波状攻撃が放たれたのだ。
だが、その猛威に反して、周囲の建物が破壊される轟音は一切鳴り響かない。エグジストのみが習得可能な、音も含めたあらゆる衝撃の余波を抑え込み、無駄な破壊を防ぐ物理法則を完全に無視した超絶技巧────〝衝撃相殺術〟。一定以上の実力を持つエグジストであれば皆が習得必須とされるこの技術により、ただ空気を切り裂く僅かな風切り音だけが、不気味に静寂を保ったまま響き渡る。
「おっと」
真後ろに位置していたダーラは、羽虫のように軽く後方へ飛び退き、死の舞踏から逃れる。
そして、その凶刃は当然のようにクラロワーの喉元にも迫った。しかし。
(雑だな)
クラロワーは内心で冷笑する。
イライジャの相殺術は平凡の域を出ておらず、無駄な余波が随所から漏れ出している。精密さや技術的な練度だけで言えば、自身の術理の方が遥かに高みに達していることは明白だった。
だが、その余裕を嘲笑うかのように、クラロワーの脳裏にけたたましい警報が鳴り響いた。数百年の闘争を生き抜いてきたエグジストの第六感が、目の前に迫る脅威の「本質」を察知したのだ。
シュッ、と黒い刃が彼女の肉体をすり抜けた。
能力そのものに直接的な物理破壊力を持たないクラロワーは、それを補うために極限まで武術を修めている。武における先の先を読み切り、本来であれば紙一重で躱すところを、彼女は第六感の警告に従い、大きく身を翻して回避を選択したのだ。
彼女をすり抜けた刃が、背後にあった堅牢な倉庫街の壁を豆腐のように斬り裂き、運悪く退避中だった異能者や他組織の構成員たちを、悲鳴を上げる間もなく綺麗に切断していく。クラロワーからすれば、有象無象のバグズがどうなろうと知ったことではなかったが。
「……!」
完全に避けたつもりだった。しかし、プシュッ、という微かな音と共に鮮血が宙を舞い、クラロワーの肩の肉の一部が薄く削ぎ落とされた。
ベータ特有の異常な再生力によって即座に肉芽が膨らみ、血は一瞬で止まったものの、クラロワーの表情に微かな驚きが走る。
「ダーラっ! 引力だ! この刃に近づくな!」
クラロワーは次々と迫り来る触手の刺突を紙一重で避けつつ、即座にイライジャの能力の正体を看破し、ダーラへと叫んだ。
イライジャ・セバスチャンの能力。それは、触手を覆う漆黒の闇そのものが強力な「引力」を持ち、周囲のあらゆるものを刃の中心へと引き寄せるという悪辣な性質を持っていたのだ。彼女は相殺術を応用し、その引力の対象を目の前の二人だけに限定することで、その精密性と引き寄せるパワーを極限まで高め、集中させている。
単純なギミックだが、絶対的な切断力を持つ刃と合わさることで、回避困難な処刑兵器と化す強力な能力だ。
「……らしいね。やられたよ。見てこれ」
ダーラもまた、優れた第六感によって危機を感知し、クラロワーからの視界共有を利用して完璧に攻撃を避けていたはずだった。だが、〝シャドウ・イン・クラウド〟の引力の干渉を完全に振り切ることはできず、左手の四指が根元から失われていた。
「こういう時、ミューはいいよねぇ。手足が飛んでも、直ぐに再生するんだもん」
ダーラは空中で身を捻り、虚空の足場を蹴って次の攻撃を避けつつ、血の滴る左手をひらひらと見せびらかす。
ミューのような即時再生を持たない彼女だが、それでもベータとしての強靭な生命力により、指の断面の血は即座に止まり、骨と肉がゆっくりと時間をかけて再生を始めている。
二人は見えない引力の渦を警戒し、あえて大回りの軌道を描いて触手の雨を避け始めた。
「チッ。仕留め損なったかー」
イライジャは面倒くさそうに舌打ちをし、言葉を吐き捨てる。
彼女は本来、この〝シャドウ・イン・クラウド〟の引力による初見殺しで、数多の強敵を葬り去ってきたのだ。だが、その怠惰な性格ゆえに自身の能力の余波を完全に隠蔽しきれず、ベータクラスである二人の鋭敏な第六感に探知されてしまった。
引力の出力は既に最高潮に達している。コンマ数秒でも早くこの厄介な二人のエグジストをミンチにすべく、イライジャはその長い髪の毛すらも数十本の触手へと変異させ、狂い咲く花のように襲いかからせた。しかし、クラロワーの〝アガット〟による完全な軌道予測の前に、その全てが空を切り続ける。
忌々しげに二人を追っていたイライジャだったが、ふと、二人の姿に既視感を覚えた。
「あれ、アンタたち知ってるよー。……DDのギターとボーカルだよねー? 私、結構ファンなんだよね」
殺戮の最中だというのに、イライジャの口調はひどく呑気なものだった。
無駄口を叩くことで相手のペースを乱し、僅かな油断を誘発する。怠惰な彼女が、物理的な実力差を埋めるために多用する盤外戦術の一つだ。
「残念だなー。アンタらの新しいアルバム、作業用BGMでよく聴いてて好きだったのに。こんなとこで殺さなきゃいけないなんてさー」
猛攻の嵐を一切緩めることなく、イライジャは言葉を紡ぎ続ける。
「なんでアンタらルキフェルみたいな強者が、羽虫みたいなバグズ共の肩を持つわけー? それと、あの弱っちい異能者の蛆虫共もさ。私たち新世界と一緒に来ようよー。目障りな人類共は皆殺しにして、選ばれた者だけの理想郷を────」
その言葉が、最後まで紡がれることはなかった。
────ドンッ。
大気が悲鳴を上げる暇すらなかった。
クラロワーが、ナノ秒というあらゆる生命が認識できない時間の隙間を縫い、イライジャの真横を通り過ぎたのだ。
イライジャの口が不自然に止まる。
彼女の首から上が、分子レベルの衝撃によって完全に消し飛ばされ、血の霧となって空中に散華したのだ。通り過ぎたクラロワーが放った、正確無比かつ絶大な破壊力を秘めた一撃────極限まで練り上げられた武術の正拳突きが、引力の壁を強引に突破し、イライジャの頭部に直撃していたのである。
だが、相手はベータ級ミューである。
首の断面からドロドロと肉が沸き立ち、即座に新しい頭部を再生させたイライジャの渦巻き状の瞳が、背後に着地したクラロワーを憎悪を込めて見つめ返した。
「お前の言う狂った思想は、別に否定しない。バグズがいくら死のうと、私からすればどうでもいいことだ」
クラロワーは、返り血を一滴も浴びていないにも関わらず、ひどく汚いものに触れたかのように、パッパッと自身の拳を払いながら冷徹に言い放った。
「でもね、あのバグズ共は私らの大切な金づるだ。私らの音楽に金を落としてくれるファンや、愛用しているギターをメンテナンスしてくれる優秀な楽器職人たちまでまとめて消し去ろうとするなら……お前を、殺す」
「同感っ。君、ファンの風上にも置けないな。私らの音楽活動、邪魔しないでくんね?」
ダーラもまた、再生途中の左手を軽く振りながら、冷ややかな笑みを浮かべて同意する。
交渉の余地は完全に断たれた。
首をすげ替えたイライジャの瞳から、先程までの怠惰な色が完全に消え失せる。
「……残念だよ。本当に、残念だ」
ズズズ、と地鳴りのような音が響き、イライジャの全身が漆黒の闇に深く沈み込んでいく。
そして、人間の原型を留めないほどに膨張した彼女の肉体中から、無数の刃と触手がおぞましい産声を上げて無尽蔵に湧き出した。
「〝漆黒闇刃〟。……せめてもの慈悲だ。骨くらいは残して墓を立ててやるから、残りのバンドメンバーによろしくねーっ!」
大気を喰らい尽くすほどの質量を持った何十本もの漆黒の触手が、死の引力を伴って、二人のエグジストへと雪崩のように襲いかかった。




