クルクス・ノイベルグという女
ニューヨークの摩天楼を見下ろす遥か上空。
重力という絶対的な楔から解き放たれ、物理法則を嘲笑うかのように虚空を蹴り、大気を踏みしめて疾走する三つの影があった。
彼女たちの周囲には、けたたましいサイレンを鳴らす市警の武装エアカー部隊や、世紀末的な改造を施した荒くれ者たちの飛行バイク、そして次元の裂け目から漏れ出した魔獣、合成獣、さらには大気圏上層部を生息域とする空中棲息生物の群れが殺到している。
爆炎が花火のように炸裂し、衝撃波がビル風を乱す。
眼下には、蟻の如く密集した大量の人間、異形人、そして無原形人たちが、極彩色のネオンの海に渦巻いている。
政府による「オメガ現出警報」が発令され、避難指示が出ているにも関わらず、野次馬たちはデバイズやカメラを空に向け、この世の終わりのような光景を一種のエンターテインメントとして消費していた。
強大なるエグジストの顕現と戦闘は、彼らにとって恐怖の対象であると同時に、退屈な日常を破壊する極上のイベントですらあるのだ。
「はぁ……オメガかぁ……。しかも、みほよちゃんがもし死んじゃったりしたら、ルビアズに半殺しにされる……。憂鬱だ……」
陰鬱とした声で独りごちるのは、先頭を駆けるクルクス・ノイベルグだ。
その愛らしい顔には焦燥感と、中間管理職特有の悲哀が張り付いている。彼女は空気を足場にして跳躍しながら、何度も後方の方角を振り返っていた。
「ボスのそこは同意。……クルクス、もしみほよが死んだら、あたしもお前を殺すから」
その横並びで、低いハスキーボイスが鼓膜を震わせた。
ゼノヴィア・カンノーロである。
彼女の瞳。白目は病的なまでに薄い黄色に染まり、紅玉のように赤い瞳孔の中心に向かって、黒い線が一点透視図法のように集中線を描いている。その凶悪な超越瞳孔が、射殺さんばかりの眼光でクルクスを見つめていた。
無表情かつ声色も一定だが、そこには明確な殺意と、冗談では済まされない凄みが込められている。
「や、やめてよぉ……。私、今一応ボス代理なんだけど……。さっきのことはもう気にしてないから、ね? 仲良くしよ……?」
クルクスは頬を引きつらせ、媚びるような微妙な笑みを浮かべた。
先程、ルキフェルの事務所内でゼノヴィアに向けられた「殺すぞ」という言葉。あの時、肌を刺した本物の殺気は、今でも彼女の脳裏に鮮烈に刻まれている。数百年生きる彼女であっても、戦闘狂であるゼノヴィアの純粋な暴力性は脅威なのだ。
「ゼノヴィア、またなんかやったの?」
ゼノヴィアの反対側を並走するのは、クラロワー・ナーナである。
彼女はバージニア州に拠点を置く人気ロックバンド「Deadly Dream」のギタリストであり、本来はルキフェルバージニア支部の所属だ。今回はルビアズの鶴の一声により、宇宙災害級オメガへの対応戦力として、わざわざニューヨーク現地まで招集されたのである。
風になびく紫煙のような金髪の隙間から、彼女の異形の双眸が覗く。
深海魚────洞窟魚のブラインドケーブ・カラシンのように退化し、瞳孔が存在しないのっぺりとした眼球。白目は血管が浮き出たように真っ赤に染まっている。その目が、正確にゼノヴィアを捉えていた。
「事務所で勝手な行動するなって喚くこいつを、少し脅しただけ。……そしたら、それでみほよが怒っちゃったの。大袈裟だよね。雑魚のくせに何偉そうにしてるんだって感じ」
ゼノヴィアは悪びれる様子もなく、つまらなそうに返した。
眼前に迫った下級の魔獣を、視線一つ動かさずに裏拳で粉砕しながら続ける。
「今はルビアズさんの命令で、この人がボス代わりだから仕方なく従ってるけどさ。同じ上位存在とはいえ、中級の雑魚に従わなきゃいけないなんて、正直屈辱的」
あからさまな侮蔑の言葉に、クルクスは肩を縮める。
エグジスト社会は完全なる実力主義だ。階級こそが絶対的なヒエラルキーであり、そこに情状酌量の余地はない。
「まぁまぁ。確かにクルクスさんは、純粋な戦闘力で見れば私たちからしたらクソザコかもしれないけど、技術者としては優れているじゃん? ね、クルクスさん」
クラロワーが、慰めにもなっていない言葉を投げかける。
「あ~、いやまぁ……どうも……? 雑魚ってとこ、否定してくれないんだ……」
クルクスは力なく礼を言ったが、内心は複雑極まりない。
事実、この場における戦力差は明白だった。
クルクスはベータ級のミドルレンジ。
対して、クラロワーは同じベータ級でも、頭一つ抜けた上級に位置する。
クルクスの能力「植物を愛する志」。
エグジスト四つの能力カテゴリ上では、精神感応発露型────通称精神型に分類される。
虚空より土壌を生成して自在に操り、硬質化した土の刃で攻撃したり、あるいは対象を土で包み込んで生命力を吸い取るという、攻防一体の強力なものだ。
しかし、クラロワーは根本的に「格」が違う。
彼女の能力カテゴリは、クルクスと同じ精神型。
その能力は、他者の感情や視線を色彩として可視化し、知覚すると言った、直接的な物理破壊力を持たない、知覚特化の能力だ。
だが、恐ろしいのは、そんな非戦闘系の能力を持ちながら、彼女の「素の身体能力」が、戦闘特化能力のクルクスを遥かに凌駕している点にある。
エグジストとしての器の大きさ、生命力の密度、肉体の強度が、桁外れなのだ。
「と言っても、その自慢のITスキルも、みほよって人間に遠く及ばないんでしょ?」
クラロワーが、その眼で虚空を見据えながら言った。
「正直、あの子が人間……ただの虫じゃなければ、ルビアズさんに続く次席指揮官になっても良いと思ってるよ、私は。あの知性は美しい色彩をしてる」
その口調には、みほよ個人への純粋な敬意と、無意識下とはいえ、それを上回るほどの、種族としての「人間」への底知れぬ侮蔑が含まれていた。
「バグズ……かぁ」
クルクスが苦笑いする。
「は、ははは……お手柔らかに頼むよぉ~っ」
彼女としては、極めて居心地が悪い空間だった。
戦闘狂だが単純なゼノヴィアはまだ扱いやすい。
問題はクラロワーだ。
彼女は平時において、バンド活動などを通じて人間社会に溶け込み、ファンとも対等に接しているように見える。
だが、いざルキフェルの業務として命のやり取りが生じる場面になると、彼女の態度は豹変する。いや、本来のエグジストの物に戻ると言った方が正しいか。
戦闘に巻き込まれた市民や、共に戦う人間の構成員────彼女が呼ぶところの虫達を庇う素振りすら見せない。
それどころか、死体が転がっていれば、たとえ先程まで共に戦っていた仲間でさえ、「汚らわしい」と顔をしかめ、潔癖症の彼女は靴が汚れるのを嫌って、その死体を軽く衝撃波を放ちゴミのように蹴飛ばし、「これだからバグズは脆くて役に立たない」と罵るのだ。
そして、それに対してボスのルビアズも特に咎めることはない。エグジストという上位種にとって、それはごく自然な感性だからだ。
だが、クルクスは違う。
彼女は「元人間」なのだ。
数百年以上前にエグジストへと昇華したが、非力な人間として生き、悩み、苦しんだ記憶を、彼女は今も大切に保持している。
だからこそ彼女は、抗争に巻き込まれた市民や、か弱い人間の構成員を可能な限り庇い、助けようとする。
その優しさは、エグジストとしては「甘さ」であり「弱さ」として映る。
クラロワーやゼノヴィアが放つ、冷徹な強者のオーラの中で、クルクスは自分の半端な立ち位置を改めて痛感させられていた。
「元人間の気持ちが未だに残っているのですか? 悪いことは言いません、早々に捨てた方が身のためですよ。貴女が守ろうとしている虫共など、貴女が手を差し伸べたコンマ数秒後には、呆気なく潰れて死んでいるのですから」
クラロワーが、血管の浮き出た不気味な紅き瞳でクルクスを見据えながら淡々と言い放った。その双眸は物理的な光を捉えていないはずなのに、クルクスの表情筋の僅かな震えさえも見透かして、鋭かった。
どういう訳か、彼女の視力は正常に機能している。
エグジストの知覚能力は、人類の解剖学的常識など遥か彼方に置き去りにしているのだ。
「ほんと同感。意味わかんない。クルクスが同じルキフェルのメンバーじゃなかったら、あたしが真っ先に捻り殺してたかな。見てるだけでイラつくんだよね。弱者同士で傷の舐め合いしてるのとかさ、吐き気がする」
ゼノヴィアもまた、容赦のない言葉を浴びせる。
彼女はベータ級の中でも最上級に位置する戦闘狂だ。彼女の価値観において、力なき者は存在価値を持たない。路傍の石ころにも等しいクルクスが、さらに脆い人間ごときを気にかける行為は、弱者が弱者に縋り付く醜悪な図式にしか見えていないのだ。
うんうん、と空中で頷き合う二人の生粋のエグジスト。
人間という種から昇華した経緯を持つクルクスとは違い、生まれつきこの世界の理の外側で発生した純正なる彼女たちにとって、クルクスの抱く人道的配慮や思惟思想は、理解不能なノイズ、あるいはシステムエラーのような異物でしかなかった。
「い、いいでしょっ! これは善行だよ、善行っ。死んじゃったあと、天国で神様にうんと褒めて貰えるように徳を積んでるのっ!」
クルクスは頬を膨らませ、何とか反論を試みる。
彼女もまたエグジストである以上、二人の言い分を論理的には理解できる。力こそが正義であり、脆弱な定命の者は淘汰されるのが自然の摂理だ。
ゼノヴィアはともかく、クラロワーの言葉には、中途半端な実力で戦場に立つクルクスを案じるニュアンスも僅かに────本当に僅かだが────含まれているのも分かる。だが、それでもこの絶対的な実力差のある三人の空間において、クルクスが強烈な居心地の悪さを感じているのもまた事実だった。
「うぅ……レフィーマちゃん助けてぇ……」
クルクスが涙目で、留守番をしている人間の少女の名を呟く。
「こんな時にも人間の話かよ。お前、根っからの博愛主義者だね。反吐が出る」
ゼノヴィアの辛辣極まる返答。
クルクスはどんよりとした表情を隠そうともしないが、ゼノヴィアはそれを気にも留めない。彼女にとって人間寄りのクルクスの感情など、道路脇の雑草が揺れている程度の関心事なのだ。
「ほら、見えて来ましたよ。アイオン・ダイナミクス社本社ビル。こんな近場に行くのさえ、八ナノ秒もかかるなんて。移動速度の遅い貴女に合わせて差し上げたんですから、感謝してくださいね」
その恐ろしい血塗られた目、白目のない異形の瞳で、ジトっとクルクスを見つめるクラロワー。
そう、この一連の会話劇は、時間にしてわずか八ナノ秒の出来事である。
物理法則を無視した亜光速機動。相殺術により、衝撃波が周囲のガラスを粉砕し、ソニックブームが遅れて地上に降り注ぐことも無い。その中で行われていた超高速会話。
人間など知覚することすら敵わず、認識すらできない領域で行われる、エグジストならではの情報伝達。
「と、とりあえず行こう! ほら、依頼人を待たせちゃうといけないからっ」
クルクスが、逃げるように話題を変える。
「よし。オメガ野郎は絶対ぶっ殺す」
ゼノヴィアが拳を握りしめ、獰猛な笑みを浮かべた。
クルクスは憂鬱な気持ちを無理やり切り替え、目的地の上空へと到達し、重力を感じさせないよう軽やかに着地した。
アイオン・ダイナミクス社本社ビル前。
そこは、近代的な摩天楼の足元に広がる、地獄の様相を呈していた。
野次馬と、事態の収拾に追われる政府の部隊、そしてメディアのドローンが入り乱れる混沌の坩堝。
新世界のデュミドラによる襲撃は、建物そのものには驚くほど被害を出していなかった。ガラス一枚割れていないほどの精密な相殺術による衝撃緩和。
だが、その代わりに────本社ビルのエントランス前には、おぞましい「オブジェ」が築かれていた。
死体の山である。
それも、ただ乱雑に積み上げられたものではない。
政府の対異能者・エグジスト特務機関連邦保安局特殊鎮圧隊の精鋭たちや、アイオン社が民間軍事会社から雇用していたベータ級エグジストを含む私設警護部隊、それらの遺骸が、幾何学的な美しささえ感じるほどの精度で積み上げられ、巨大な塔を形成していたのだ。
襲撃したデュミドラの、悪趣味な悪戯心と、圧倒的な力の誇示。
その周囲で、デバイズや義眼の録画機能を起動し、ワイワイと騒ぎ立てる野次馬たち。
「うわ、グッロ! マジかよっ!」
「これFSSSの隊員じゃね? 装備すげえっ!」
「ベータが死んでるっ! オメガパネェ!」
「映え確定だわ~、これ」
NYPD・重装機甲師団の重武装警察隊が、「失せろっ! ここは封鎖区域だっ!」と怒声を上げ、構えた高出力レーザーライフルで威嚇射撃を行っているが、恐怖よりも好奇心が勝った群衆は一向に散ろうとしない。
彼らにとって、他人の死や不幸は消費すべきコンテンツでしかないのだ。
クルクスはその光景に、思わず顔を背けた。
かつて人間だった彼女の倫理観が、この冒涜的な光景に悲鳴を上げている。
だが、クラロワーとゼノヴィアは眉一つ動かさない。
たとえ積み上げられているのが同胞のエグジストであろうとも、敗北し、死を晒している時点でそれは「弱者」であり、哀れむ価値すらない肉塊に過ぎないからだ。
その時、クルクスたちの姿を認め、「やっと来たのかっ!」と怒鳴りながら駆け寄ってくる一人の男がいた。
五十過ぎの、恰幅の良い男。最高級のナノ・カーボン繊維で織られたスーツに身を包んでいるが、その顔には爬虫類特有の鱗が浮き出ており、瞳は縦に割れている。
異形人の男、今回の依頼主であるアイオン・ダイナミクス社の副CEOだ。
辺りには、ルビアズがダウンタウンから派遣した暇を持て余していたルキフェルの構成員や、クルクスが招集した提携組織の傭兵たちが屯していたが、明確な現場責任者が不在だったため、指揮系統が寸断され、ただ立ち尽くしていたようだ。
「遅いっ! あまりにも遅すぎるぞ、ルキフェル! 我々がどれほどの顧問料を支払っていると思っているんだっ!」
副CEOは、開口一番に唾を飛ばして喚き散らした。
「すみません。……ただいま到着致しました」
ルキフェルボス代理として、事務的な口調で答える。
「お前らルキフェルの構成員が何人死のうが知ったことではないが、光の心臓だけは絶対に、無傷で取り返せっ! あれには我が社の……いや、私の将来がかかっているのだっ! さっさとあのテロ組織を壊滅させてこいっ! ぐずぐずするな、無能どもめっ!!」
死体の山を前にして、犠牲者への追悼の言葉など一つもない。
あるのは保身と、金と、失態への苛立ちのみ。
「申し訳ありません。迅速に対応します」
クルクスは、感情を押し殺した極めて事務的な口調で答えた。
ふつふつと、腹の底から黒い感情が湧き上がってくるのを感じる。
これが、自分が守ろうとしている人間(正確には異形人だが)の本性なのか。
クラロワーたちが人類を「虫」と呼んで蔑む理由が、この瞬間だけは痛いほどに理解できてしまった。
徐々に、彼女が抑制してきたエグジスト本来の思惟が脳内を擡げる。
「………」
クルクスは、目の前の男を冷徹に見つめた。
その楕円形、右斜めに歪んだ黄金色の瞳から、普段の慈愛や温かみが消え失せ、エグジスト特有の、下等生物を見る侮蔑に染まった冷ややかな光が宿る。
その背後で。
ゼノヴィアとクラロワーが、人間には聴取不可能な超高周波帯域の声で会話を交わしていた。
「ねえ、この虫、殺処分していい? 今すぐ首ねじ切ったらいい音しそうなんだけど」
「賛成。殺し方はどうしようか? 私が精神的に脳を焼き切る? それともゼノヴィアが物理的にミンチにするとか?」
「どっちも楽しそう。クルクスに許可取らなきゃ」
クルクスにもその会話はクリアに聞こえている。
普段なら全力で止める場面だ。だが、不本意ながら、彼女もまたその冷血な思想が脳を支配し始めていた。今は依頼主であるという事実だけが、かろうじて彼女の理性を繋ぎ止めていた。
「おい、聞いているのかっ! そのエグジストのテロ組織は既にここにはいないのだっ! 早急に奴らのアジトを特定して、依頼をこなしたまえっ! 私の顔に泥を塗るなよ!!」
副CEOが、クルクスの沈黙に苛立ち、さらに声を張り上げる。
「承知いたしました」
クルクスは無表情で一礼し、踵を返して背を向けた。
そして、彼女もまた、人類には到達できない周波数帯で、背後の二人に語りかけた。
「二人とも、早く行こ? ……私、このままここに居たら、この異形人を殺しちゃいそうだから」
その言葉に、ゼノヴィアとクラロワーの表情がパッと明るくなった。
「おっ! クルクスもようやく改心したか? 見直したじゃん」
「その意気ですよ、クルクスさん。バグズごときに感情など向けるだけ、脳のメモリの無駄遣いです。ようやく貴女も、こちら側の思考になれましたね」
嬉しそうに鼓舞する二人。
クルクスの殺意が、彼女たちにとっては「成長」の証として受け取られたようだ。
「あー、うん。……そうだね」
上機嫌になった二人に、クルクスは適当に話を合わせた。
今はこれが一番都合がいい。これ以上、あの男の醜悪な精神に触れていたら、本当に「ガーデン・オブ・ラブ」で苗床にしてしまいそうだったからだ。
三人は一斉に地を蹴った。
衝撃音もなく、アスファルトが壊れることもなく。次の瞬間には彼女たちの姿は掻き消えていた。
風すらも残さず、三人のエグジストは獲物を狩るべくニューヨークの闇へと溶けていった。




