新世界-リ・ワールド-
ニューヨークの喧騒から完全に隔絶された、座標すら定かならぬ、異次元空間の一角。
そこに、物理法則をあざ笑うかのような隠れ家が存在した。
空間全体には、非ユークリッド幾何学に基づいた不可思議な装飾が浮遊し、虚空を漂う半透明のオブジェクトが、存在しないはずの光源を受けて虹色に輝いている。
天井からは恒星模倣香と呼ばれる、光そのものを香りとして放つ特殊な芳香が焚かれ、壁面には極光投影機が、現世の北極圏ですら観測不能なほど鮮烈かつ幻想的なオーロラのカーテンを映し出していた。
煌びやかでありながら、どこか神経を逆撫でするような、病的なまでに洗練された豪奢な空間。
その中心に置かれたマホガニーのテーブルで、一人の女が優雅にコーヒーカップを傾けていた。
漂う香気は、最高級のキリマンジャロ。豆の選別から焙煎、抽出に至るまで、全てにおいて完璧な手際で淹れられた至高の一杯である。
「デュミドラ、手に入れたんだな」
野太く、しかし張り詰めた弦楽器のような響きを持つ女の声が、空間の静寂を破った。
壁の幾何学模様にもたれ掛かり、逞しい腕を組んで立っていたのは、燃え盛る炎のような赤髪を持つ女、エヴィミス・ロドリゲスである。
彼女は、獲物を前にした肉食獣のような獰猛な笑みを浮かべ、声を弾ませながらテーブルの女に問いかけた。
「ええ。ニュースを見て、居ても立っても居られず飛んできましたから」
コーヒーを飲んでいた女────デュミドラ・フォッツと呼ばれた人物は、ゆっくりとカップをソーサーに戻し、エヴィミスの方へと振り返った。
その声は、春の小川のせせらぎのように透き通り、聴く者の心を無条件に安らげる慈愛に満ちていた。
漆黒の修道服に身を包み、黄土色を基調としつつも所々に不吉な黒髪が混じるウェーブのかかった長髪が、彼女の動きに合わせてさらりと揺れる。
彼女の両目は、閉じられていた。
いわゆる糸目という形状ではない。完全に瞼を閉じ、外界の視覚情報を遮断している。その顔には、聖母像を思わせる穏やかで柔和な微笑みが常に張り付いていた。
一見すれば、教会で孤児たちに無償の愛を注ぐ、心優しき聖職者にしか見えないだろう。
だが、彼女の卓上には、その聖性とはあまりにかけ離れた、禍々しくも神々しい輝きを放つ物体が鎮座していた。
黄金色に輝く、十字架を模したペンダントトップ。
その中央には、大人の拳ほどの大きさがある巨大な宝石が嵌め込まれている。
それこそが、光の心臓。
そう、この敬虔なシスターのような風貌の女、デュミドラ・フォッツこそが、アイオン・ダイナミクス社本社ビルを単身で襲撃し、厳重なセキュリティとベータ級含めたエグジストの防衛部隊を無力化────という名の殺戮をして、至宝を強奪した張本人。
正真正銘の、高位存在級エグジストである。
特筆すべきは、彼女からは「強者」特有の威圧感やオーラが微塵も感じられないことであった。
通常、上位のエグジストであれば、隠そうとしても隠しきれないエネルギーの余波が漏れ出るものだが、彼女はそれを完全に内包し、あたかも「ただの非力な人間」であるかのように振る舞っている。
真なる強者は、自身の存在証明たる覇気すらも完全に掌握し、環境に同化する。
しかし、それでも彼女が残したわずかな痕跡、空間に残存する微粒子の揺らぎから、エグジスト特有のスペクトル波長を観測し、オメガ級の等級にまでの特定に至った呉内みほよの分析能力は、改めてエグジストの常識すら凌駕する異常なものであると言わざるを得ない。
デュミドラは、白魚のような指先で、ひょいとエードラムをつまみ上げた。
重量を感じさせない軽やかな仕草で、その黄金の輝きを照明にかざす。
「これは、上位存在の中でも極級に位置する個体が、その命尽きる刹那、魂と肉体の全ての生命エネルギーを凝縮し、それと引替えに生み出した、この世でただ一つの宝珠です。……美しいですね」
彼女はうっとりと宝石を見つめ、吐息混じりに続けた。
「このような至高の結晶を、人間ごときが保有し、見世物にするなど……神への冒涜に他なりません。本来あるべき場所へ還してあげなくては」
彼女の声色はどこまでも穏やかで、慈愛に満ちている。
だが、その言葉の端々には、エグジストという種族が根源的に持つ、人間に対する絶対的な侮蔑と、彼らを「ノミ」と呼んで憚らない冷徹な選民思想が滲み出ていた。
彼女にとって、人間は対話の相手ではない。駆除すべき害虫か、あるいは踏み潰しても気づかない路傍の石ころと同義なのだ。
「違いないねー。これで、アンタのずっと言ってた理想郷ってやつが、ようやく完成するってわけだ?」
そうごちったのは、部屋の隅にあるビーズクッションに身を沈めていた、また別の女だった。
彼女の手には、この時代の最新鋭携帯ゲーム機、PSD5────ポータブル・スフィア・ドライブ・ファイブが握られており、画面の中のキャラクターを巧みに操っている。
イライジャ・セバスチャン。
下半身にまで届く長い茶髪は、背中のあたりから不自然に脱色されたような白へと変色しており、強烈なコントラストを描いている。彼女もまた、この場にいる以上、タダモノではない。
「ええ。永かったですが……もうすぐ生誕するでしょう」
デュミドラは、掲げたエードラムを胸元に抱き寄せるようにして、陶酔した表情を浮かべた。
「人類は全て死に絶え────選ばれしエグジスト、そして異能者たちだけが生きることを許される、新世界が」
そう宣言すると、彼女は冷めかけたコーヒーを一気に飲み干した。
カフェインの入った漆黒の液体が、彼女の狂気を潤していく。
「あぁ、違いない。最高だ」
エヴィミスが深く頷く。彼女の表情には、大量虐殺への忌避感など微塵もなく、ただ純粋な達成感への期待だけがあった。
「よーやく、目障りな非異能者のゴミ共を見なくて済むようになるわけか。最高じゃん。マジで、あの羽虫共が視界に入るだけで不快度マックスだったからなー」
キャハハ、と無邪気かつ残忍な笑い声をあげるイライジャ。
ゲーム画面の中で敵を倒すのと同じ感覚で、現実の人間を排除することを喜んでいる。その声色には、人間や異能を持たない異形人に対する、底なしの嘲笑と嫌悪が込められていた。
そう、この部屋にいるエヴィミスとイライジャの二人もまた、エグジストである。
それも、世界など単独で壊滅させられるベータクラスの実力者たちだ。
彼女たちが所属し、デュミドラが率いるテロ組織、新世界。
その名の通り、彼女らが掲げる思想はシンプルかつ極悪だ。
この地球上から、全ての「力なき者」────すなわち、人類、異形人、無原形人を含めた、異能を持たない非異能者を根絶やしにし、異能者とエグジストだけが支配する純粋な楽園を創造すること。
それが、この最悪なテロ組織の目的である。
リーダーである狂気のシスター、デュミドラ・フォッツ。
彼女の外見は二十代の美女だが、その実年齢は六百を優に超えている。
歴史の闇の中で生き続け、常にこの歪んだ思想を抱き続けてきた生ける亡霊。
数百年前に技術的特異点が発生し、隠匿されていた異能や超常の存在が世間に露見した際、彼女は「時は来た」と確信した。
当時から彼女の思想に共鳴していたエヴィミスとイライジャの二人を幹部に据え、この組織を立ち上げると、裏社会で暗躍を開始したのだ。
彼女たちは、世界中の急進的な異能者を扇動し、非異能者を対象とした無差別テロや虐殺を繰り返してきた。
だが、特筆すべきは、彼女たちの目的が「世界の破滅」そのものではないという点だ。
デュミドラたちは、自分たちが住まう地球環境そのものを破壊することは望んでいない。
故に、彼女たちは高度な衝撃相殺術を常時展開し、テロ行為においても建物や自然環境への被害を最小限に抑えつつ、生命体のみを効率的に破壊するという、極めて悪質かつ技術的に洗練された手法を取っている。
当然、そんな暴挙を世界が許すはずがない。
連邦超常現象対策局をはじめ、世界の均衡を守るべく活動するあらゆる組織から、彼女たちは最重要排除対象としてマークされている。
その危険度は、最大級の「AAAA」クラス指定。
発見次第、問答無用で即時殲滅が推奨される、歩く災害指定である。
オメガ級を含むエグジストの抵抗勢力も存在したが、立ちはだかる者は全て、デュミドラの手によって音もなく葬り去られてきた。
これまで彼女たちは、無抵抗な怪物や魔物等の超越生物や、彼女たちの思想に賛同する異能者・エグジストとの衝突は避け、極めて慎重に、ある意味で非効率な殺戮を続けてきた。
だが、状況は変わった。
あろうことか、「アイオン・ダイナミクス社」の愚かなCEOが、全世界中継で「光の心臓」という、彼女たちの悲願を一度に成就させうる「鍵」の存在を公表してしまったのだ。
それは、隠れ潜んでいた魔を、世界へ解き放つ合図となってしまった。
「……で、肝心の術式の構築状況はどうなんだ?」
エヴィミスが腕を組み直しながら尋ねた。
「例の姉妹と、その他有象無象の異能者たちが、地下の祭壇で鋭意作業中です。このエードラムを炉心とした世界規模の術式……一週間もすれば完成するでしょう」
デュミドラは、明日の天気を語るような穏やかさで答えた。
「あー、あの姉妹ね」
イライジャがゲームの手を止めずに口を挟む。
「確かにアイツら、異能者としては優秀だけどさー。なんか鼻につくんだよねー。内心、私らエグジストに対して「野蛮な怪物」とか思ってるよね。軽蔑心が透けて見えるっつーか。気付いてないとでも思ってるのかな」
彼女は画面の中でボスを倒したのか、勝ち誇ったように鼻を鳴らした。
「エグジストは、人類共がこねくり回して作った貧相な呪術とか魔術なんて使えないから、今は見逃してやってるけどさー。……仕事が終わったら、殺処分していいー? アイツらも所詮、元は人類ベースの蛆虫じゃん」
イライジャにとって、純粋なエネルギー生命体であるエグジスト以外の種族は、等しく虫以下の存在なのだ。利用価値があるうちは生かしてやるが、用が済めば即座に廃棄する対象でしかない。
「いけません、イライジャ」
デュミドラが、諭すように首を横に振った。
「あのようなノミ以下の存在でも、私たち高貴なエグジストには真似のできない、細々とした手作業が出来るのです。適材適所という言葉を知りなさい。良い面も悪い面も見て、その分相応の役割を与え、慈しみ、管理してあげるのが、最上位種である私たちの勤めではないでしょうか」
そう言いながら、デュミドラはまた新しいコーヒー豆を挽き始めた。ガリガリと、豆が砕ける音が静かな部屋に響く。
その言葉は一見、部下を庇う慈悲深いリーダーのそれのように聞こえる。
だが、その本質はイライジャ以上の傲慢さに満ちていた。
彼女もまた、エグジスト特有の思考回路────人類や異能者を、対等な生命体ではなく、家畜や道具としてしか認識していないのだ。
新世界において、異能者を生かすのは慈悲ではない。あくまで、エグジストの手足として働く奴隷としての利用価値があるからに過ぎない。
部屋には、挽きたてのコーヒーの香ばしい香りと共に、彼女たちの忍び笑いが反響していた。
それは、これから訪れるであろう大量の死を予感させる、無邪気で残酷な、捕食者たちの宴の始まりだった。
♥
その空間は、物理的な広さを超越し、視覚的な情報の氾濫によって構成されていた。
ニューヨークの喧騒から切り離された異次元空間の地下深奥に位置する、巨大な祭壇────儀式の間。
天井などという概念は存在せず、見上げればそこには偽りの星空と、幾何学的に明滅する魔力光の奔流が渦巻いている。
部屋の空気を埋め尽くすのは、無数の魔法陣と、空中に墨で殴り書きされたかのような漆黒の呪言。
それらは意思を持つかのように蠢き、複雑怪奇な文様を描きながら明滅を繰り返している。
極彩色の光芒と、耳鳴りのような重低音を伴う詠唱の残響。
そこでは、数百名にも及ぶ構成員たちが、蟻の如き規律と勤勉さで作業に従事していた。
彼らは皆、異能者である。
人間の姿をした者、獣の如き毛並みや角を持つ異形人、あるいは不定形の粘液やガス状、スライムの身体を持つ無原形人。
種族も能力も多種多様だが、共通しているのは、その瞳に宿る疲労の色と、最上位存在への絶対的な畏怖、そして歪んだ選民思想への熱狂だ。
彼らは、彼らのデュミドラが命じた「箱」を完成させるためだけに、己の生命力を削り続けていた。
「はぁー……。マジでいい加減にしてほしいわ。あれからずっとやらされっぱなしじゃない。ブラック企業も裸足で逃げ出すレベルだよ」
空間の一角で、苛立ちを隠そうともせずに吐き捨てたのは、鮮やかな青髪をなびかせる少女、ジャーナ・テイラー。
彼女は片手に樫の木で作られた古風な魔導杖を握りしめ、その先端から青白い光の軌跡を描き出し、空中に展開された三重の同心円魔法陣を維持し続けていた。
彼女は魔女。
それも、若くして神域に片足を突っ込んでいるとされる、現代でも稀有な実力者だ。
「ほとんど寝てないし、肌も荒れてきたし……。やっぱり、エグジストってのは人間のことを、電池か便利な道具としか考えてないのよね。あいつらには疲労って概念がないから、平気で無茶ぶりしてくるし」
ジャーナが杖を振るうたびに、魔法陣から抽出された魔力が、部屋の中央へと送られていく。
その横で、同様に複雑な手印を結び続けている少女がいた。
青みがかった銀髪をボブカットにし、姉よりも幾分か幼い顔立ちをした少女、スワルツ。
彼女はジャーナの実妹であり、高度な呪術を操る呪術師である。
「まぁまぁ、お姉ちゃん。そうカリカリしないでよ。シワが増えちゃうよ?」
スワルツは、手の中でどろりとした紫色の呪力を練り上げながら、諭すように言った。
その手つきは、粘土細工で遊ぶ子供のように無邪気だが、彼女が練り上げているのは触れれば常人の精神など瞬時に崩壊させるほどの高密度な呪いである。
「普通、私たち人間なんて、エグジスト様たちからしたら路傍の石ころか、踏み潰される虫けら並みの扱いしかされないんだよ? 殺処分されないだけ有難いと思わなきゃ。それに見てよ、新世界は衣食住も最高級のものが保証されてるし、外の世界でコソコソ隠れて生きるより、全然マシな方だって」
「それは……まぁ、スワルツの言う通りなんだけどさ」
ジャーナは渋々といった様子で頷き、杖を持ち替えた。
彼女たち姉妹は、このニューヨークの裏社会で生き抜くために、新世界という組織に身を寄せた。
その実力の高さゆえに、現在は数多くの異能者構成員を束ねる現場指揮官としての地位を与えられている。
だが、所詮は人間だ。
どんなに優秀な魔女であろうと、呪術師であろうと、組織の頂点に君臨するデュミドラや、幹部であるエヴィミス、イライジャといった上位のエグジストから見れば、脆弱な有機生命体に過ぎない。
指先一つ、視線一つで消滅させられる存在。
扱いは丁重だが、その本質は家畜か、あるいは高性能な道具と同義である。
かつて、組織の方針に異議を唱えた異形人がいた。
幹部のイライジャは、その場で彼をひねり潰そうとしたが、デュミドラがそれを止めた。
「殺してはいけません」と。
その言葉に、周囲は彼女の慈悲深さを称賛した。だが、ジャーナとスワルツは気付いてしまったのだ。デュミドラの声色に、慈悲などという感情は一切なく、ただ「まだ使える便利な道具を壊すのは勿体ない」という、冷徹な計算だけが浮かんでいたことを。
命の保証はされている。だが、それは利用価値があるうちは、という条件付きの契約だ。
彼女たちの心境は、安全圏にいるという安堵と、薄氷の上に立っているという恐怖が混在する、複雑なものであった。
二人は手を休めることなく、会話を続けながら、ちらりと部屋の中央へと視線を向けた。
そこには、祭壇のような高い台座が設置され、幾重もの呪術防禦壁と魔術防禦壁によって厳重に保護された、一つの物体が鎮座していた。
手乗りサイズの、白亜色の立方体。
月影の聖柩。
その表面には、満ち欠けする月の意匠が精緻なレリーフとして刻み込まれており、内側から漏れ出る淡い光が、呼吸するように明滅している。
部屋中を飛び交う魔法陣や呪言の奔流は、全てこの小さな立方体へと収束していた。
数多の異能者たちが紡ぎ出す膨大なエネルギーが、ブラックホールに吸い込まれるように、その小さな器へと貪婪に飲み込まれていく。
「ねぇお姉ちゃん。アレが完成したら、あそこに例の宝石……エードラムをはめ込むだけで、眩い浄化の光が地球を包むんだよね? 確か」
スワルツが、夢見るような声で呟いた。
その瞳には、残酷なまでの純粋さが宿っている。
「そう。あのルナ・アークは、エードラムの無尽蔵な出力を指向性の波動に変換するための増幅器兼変換炉。アレが起動すれば、地球全土を覆うほどの概念干渉波が放たれる」
ジャーナは淡々と説明しながら、空中の術式を書き換えていく。
「で、その波動に触れると、異能を持たない非異能者の肉体だけが、電子レベルで分解されて消滅する。建物も、自然も、そして私たちのような異能者も、他のものは一切破壊しない。ただ、力無き人類だけを選別して消し去る。……効率が良くていいんじゃない?」
ジャーナの声色は平坦だったが、そこには明らかに、非異能者を見下す冷ややかな響きが含まれていた。
彼女たちは、エグジストから見れば家畜や道具かもしれない。だが、彼女たち自身もまた、持たざる者である一般人を、自分たちより下等な存在として認識しているのだ。
「だねぇ。あーあ、早く非異能者が一匹もいない新世界が完成してくれないかな~! そしたらお姉ちゃん、こんな激務な職場なんて辞めて、どこか景色のいい辺境の地で二人でのんびり暮らそうねっ!」
「うんうん、そうだね。エグジストの支配下とはいえ……地球から存在意義のない無能なヤツらがいなくなるのは、清々しいことだもの。これも自然の摂理、淘汰ってやつよっ」
ジャーナは、ふっ、と口元を歪めて笑った。
彼女たちのこの感情は、レフィーマが持つような、過去のトラウマに起因する政府への憎悪や無意識の差別とは異質のものだ。
それは、明確な優越感に基づいた、弱者への嘲笑と排除の意思。
力を持つ者が持たざる者を踏みにじるのは当然の権利であるという、傲慢な思想。
皮肉なことに、彼女たちもまた、自分たちを家畜扱いするエグジストと本質的には同じ穴の狢だったのである。
その時だった。
「調子はどうですか?」
「────ッ!?」
心臓が亢進を打つよりも早く、全身の血液が逆流するような感覚。
部屋にいた全員が、弾かれたようにその声の主へと振り返った。
いつの間にか。
本当に。
音もなく。
気配もなく。
空間の揺らぎすら起こさずに。
二人の双眸。
視た。
居た。
ジャーナたちの背後に、デュミドラ・フォッツが立っていた。
黒い修道服を纏い、目を閉じたまま聖母のような微笑みを浮かべるその姿は、一見すればただの無害な女性にしか見えない。
だが、この場にいる全ての異能者は知っている。
彼女こそが、この組織の頂点。
人類とは異なる進化の系統樹にある上位種、エグジスト。
それも、ベータなど比較にならない、宇宙災害指定級のオメガであることを。
一瞬にして、構成員全員の顔色が蒼白を通り越して土気色に染まった。
恐怖。
根源的な、生物としての格の違いが生み出す、圧倒的な威圧感。
彼女自身は何もしていない。殺気すら放っていない。
ただそこに「在る」だけで、周囲の空気が鉛のように重く変質し、呼吸すら困難になる。
彼女がその微笑みの裏に秘めた狂気、あるいは本能的な捕食者としての側面を僅かでも露見させれば、上位存在クラスのエグジストですら震え上がり、ここにいる人間などはショック死してもおかしくないだろう。
ジャーナとスワルツの二人も、金縛りにあったように動けなかった。
心臓の鼓動が激しすぎて、肋骨がきしむ音が聞こえるようだ。
だが、デュミドラはそんな彼らの反応など、意にも介さない。
彼女にとって、異能者の恐怖など、足元で怯える小動物の震えと同程度にしか認識されていないのだ。
あるいは、地を這うノミが、巨人の足音に怯えている様子を観察するような、無感動な眼差し。
「じゅ、順調……です。ご要望通り、あと一週間……いえ、このペースならそれ以内に完成するかと……」
ジャーナは、横で恐怖のあまり直立不動で硬直し、口を開けなくなってしまった妹を背に隠すようにしながら、必死で声を絞り出した。
喉が張り付き、声が裏返りそうになるのを理性で抑え込む。
「ふむ」
デュミドラは、閉じた瞼のまま、部屋の中央で輝くルナ・アークへと顔を向けた。
満足げに頷く動作一つ一つが、優雅でありながらも絶対的な支配者のそれだ。
「……ですが、少々皆さん、お疲れが顔に出ていますね。生命力の循環効率が落ちています」
彼女は再び姉妹の方を向き、困った子供を見るような表情で首を傾げた。
「これだから人類という種は不便ですね。自律神経とかいう脆弱で面倒な機能があるせいで、少し連続稼働させただけで、すぐにガタが来て壊れてしまう」
それは労いの言葉ではない。
性能の悪い機械に対する不満の吐露だ。
瞬きを始めとし、疲労という概念も、食事も、睡眠も必要としない、完全なる生命体────エグジストである彼女からすれば、他種族の生理機能など設計ミスとしか思えない非効率の極みなのだろう。
「まぁ、良いでしょう。壊れてしまっては替えを用意するのが手間ですからね。……あと一時間程したら、本日の貴女たちの業務は終了とし、休息に入って構いませんよ。夜間は、別の異能者班に交代させますから」
にこっ、と。
デュミドラは花が咲くような美しい笑みを向けた。
それは慈愛に満ちた聖女の微笑みそのものだった。だが、その言葉の裏にあるのは、「道具のメンテナンス」以上の意味を持たない。
錆びつかないように油を差す。使い潰さないように休ませる。それだけの合理的判断。
「ありがとうございます……デュミドラ様……」
「感謝なさい。本来なら不眠不休で働かせても、文句を言える立場ではないのですよ? これは私の慈悲です」
そう言い残すと。
ふ、と。
世界から彼女の色が消えた。
音もなく。
風もなく。
デュミドラの姿がその場から掻き消えたのだ。
瞬間移動。
いや、正確には違う。彼女にとっては、単に「少し早く移動した」に過ぎない物理的な高速移動だ。
だが、オメガクラスのエグジストが繰り出す移動速度は、もはや時間と空間の概念を置き去りにする。ベータ級ですら動体視力で捉えることは不可能であり、ましてや人類である彼女たちの知覚速度では、魔法のような瞬間移動として認識されるしかない。
デュミドラの気配が完全に消滅したことを確認し、数秒の沈黙の後。
祭壇中にピンと張り詰めていた、窒息しそうな緊張の糸が、ぷつりと切れた。
他の構成員たちも、堰を切ったように荒い呼吸を繰り返し、今の恐怖を忘れるために逃げるように作業へと没頭し始めた。
「………はぁ~~っ……」
ジャーナが、肺の中の空気を全て吐き出すような、深く重い安息の溜息を漏らした。
杖を持つ手が、小刻みに震えているのが自分でも分かる。膝から崩れ落ちそうになるのを、気力だけで堪えた。
「スワルツ、大丈夫か?」
「………う、うん。大丈夫。……ありがとう、お姉ちゃん。私、怖くて声が出なかった……」
スワルツが涙目でジャーナの袖を掴む。
二人は互いの体温を確かめ合うように震える肩を寄せ合い、あの絶対的な捕食者が去ったという安堵感を共有した。
「……よし。あと一時間。頑張ろう」
「うん。……早く終わらせて、この世界を変えちゃおう」
二人は再び前を向き、術式の構築を再開した。
部屋の中央で、ルナ・アークがドクン、と脈打つように輝きを増した。
その光は冷たく、そして禍々しい。
着々と、確実に。
旧き人類を葬り去る、新世界の産声が近づいていた。




