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ルベライト  作者: Paracoccidioidomicosisproctitiss
一章

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18/18

現出


 ニューヨークのどこか、隔絶転移術式により、次元の狭間に隠匿された『ルキフェル』本部のエントランス・ホール。

 そこは、物理法則を嘲笑うかのような『自己相似集合空間(フラクタル・スペース)』によって構成されていた。

 見上げれば、エッシャーの騙し絵のように無限に連なる回廊と階段が螺旋を描き、数千、数万という扉が虚空に浮かんでいる。上下左右の概念は希薄で、重力の方向さえも区画ごとに異なるこの広大な異界は、現在、昼時の喧騒に包まれていた。

 空間の中央、地上換算で言えば三十階層ほどの高さの空中に、巨大な厨房が島のように浮遊している。

 そこから漂うのは、食欲を暴力的に刺激する濃厚な香りだ。

 厨房を統べるのは、六本の剛腕を持つ『異形人(ニア・ヒューマン)』の巨漢、『美食鬼(グルメ・オーガ)』のシェフ長である。元は冥界のさらに深層、焦熱地獄の出身である彼は、現世の食材と冥界の未知なる動植物を魔術的に掛け合わせ、唯一無二の味を創り出す錬金術師でもあった。

 彼の六本の腕は、それぞれが別の調理器具を神速で操る。右上の手で中華鍋を振り、左下の手で繊細な飾り切りを施し、中央の手でソースの味見をする。

 構成員たちの『デバイズ』から送信される無数の注文データは、空中にホログラムとして表示され、次々と処理されていく。

「オーダー! 『虚空海老(ヴォイド・シュリンプ)』のチリソース炒め、三丁! 『魔界茸(ヘル・マッシュルーム)』のポタージュ、追加だ!」

 シェフの号令と共に完成した料理は、皿ごと光に包まれ、厨房に設置された転送ポータルへと吸い込まれる。そして次の瞬間には、空間内のあちこちに点在する浮遊テーブル席の、注文主の目の前へと「配膳」されるのだ。

 その空間の遥か上空、九百フィート地点に浮かぶ二人掛けのテラス席。

 レフィーマは、目の前に現れた湯気を立てる皿にフォークを突き立てていた。

 本日のメニューは、『牛の赤ワイン煮込み(ブフ・ブルギニョン)』と、『宇宙ナマズスペース・キャットフィッシュ』のフライ。

 ブフ・ブルギニョンは、フォークで触れるだけでほぐれるほど柔らかく煮込まれており、濃厚なデミグラスソースの香りが鼻腔をくすぐる。宇宙ナマズのフライは、サクサクの衣の中に、白身魚と鶏肉の中間のような弾力のあるジューシーな身が詰まっている。

 一口食べれば、その絶品さに頬が自然と緩む。過酷な労働環境における、数少ない癒やしの時間だ。

「Pero mira, Refima, no creo que tengas que enojarte tanto《でもさレフィーマ、そこまで目くじら立てることはないんじゃないかな?》」

 くぐもった、しかしどこか知性を感じさせる声が対面から響いた。

 レフィーマの食事相手は、人間ではない。

 全長九フィート九インチ(約三メートル)に達する、黒光りする甲殻に覆われた巨体。無数の脚を波打たせるその姿は、太古の地球を闊歩していた巨大ヤスデ、『アースロプレウラ』そのものである。

 彼はその多足を器用に使ってナイフとフォークを操り、皿に盛られた『冥界羊歯(グランド・オッズ)』のサラダを、貴婦人のように上品に口へ運んでいる。紫色の葉野菜が、シャクシャクと小気味よい音を立てて咀嚼されていく。

「Hoy es el peor día. Porque, de todas las personas, tengo que estar con esa persona y Mihoyo《今日は最悪なの。だって、よりにもよってあの人とみほよが一緒なんだから》」

 レフィーマは不満げに答え、宇宙ナマズのフライにガブリと齧り付いた。

「Mmm, bueno, ¿no se puede evitar? 『Exist』 es así, y si vamos al caso, yo ya soy un bicho, ¿no?《んー、まぁ仕方ないんじゃない? 『エグジスト』ってそんなもんだし、それ言ったら僕なんてもう虫だよ?》」

「Gizar, es bueno que seas tan despreocupado《ギザールはいいね、気楽そうで》」

「Sí, porque la comida de esta época es deliciosa《うん、だってこの時代のご飯美味しいし》」

 一人と一匹は、眼下に広がる超現実的なオフィス風景を眺めながら、穏やかなランチタイムを過ごしている。

 彼の名は、ギザール・ムド・ザナラカァス。

 なぜ、数億年前に絶滅したはずの古代節足動物が、流暢なスペイン語を操り、あまつさえ裏社会の組織でランチを楽しんでいるのか。

 その背景には、七年前に西海岸を震撼させた、ある狂気的な事件が存在した。


七年前、カリフォルニア州ロサンゼルス。

 発端は、典型的なマッドサイエンティストによる、無謀な実験だった。

 彼は自作の『時空穿孔接続機クロノ・ドリル・コネクター』を用い、過去へのタイムトラベルを試みた。だが、計算式のエラーか、あるいは神の悪戯か、装置は暴走し、ロサンゼルスのダウンタウン上空に直径五百メートルもの巨大な時空ゲートを固定してしまったのだ。

 接続先は、約二億九千年前────古生代ペルム紀。

 酸素濃度が高く、昆虫や節足動物が巨大化していた時代の生態系への扉が、一方通行で開かれた。

 ゲートからは、雪崩のように古代生物が降り注いだ。

 全長九フィート十インチの巨大トンボ『メガネウラ』が空を埋め尽くし、戦車のような『アースロプレウラ』がハイウェイを逆走し、肉食爬虫類の『ディメトロドン』やその他諸々の恐竜(ダイナソー)がショッピングモールを狩場に変えた。

 なお、件の科学者は、ゲート開通直後に現れたディメトロドンに頭から齧り付かれ、自身の偉業を見届ける間もなくこの世を去った。

 政府は即座に州兵と特殊部隊を投入し、「害虫&害獣駆除」に乗り出した。

 しかし、事態は斜め上の方向へ混沌化する。

 『生物保護局(バイオ・ガーディアン)』の過激派と、昆虫型の『異形人(ニア・ヒューマン)』、あるいは不定形の『無原形人(アモルファス)』たちが結成した市民団体が、「古代生物にも生存権を!」「これは虐殺だ!」「虫権侵害反対!」と叫びながら、軍の前に立ちはだかり大規模なデモ活動を開始したのだ。

 その隙に、保護されるべき(?)古代生物たちは、無力な市民を次々と捕食し、ロサンゼルスは物理的な意味で阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。

 当然、事態を重く見た州政府や富裕層から、『ルキフェル』カリフォルニア支部へ緊急依頼が殺到した。

 現地の構成員たちは、とりあえず巨大生物を生け捕りにし、魔術師班が構築した「逆送用ゲート」へ片っ端から放り込む作業を開始した。ここまでは、まだ良かった。

 だが、混乱に乗じて現れた野良の『魔法使い(マジシャン)』や、愉快犯の『呪術師(カース・ユーザー)』たちが、事態をさらに悪化させた。

「彼らに、愚かな人間に抗う力を!」

 そんな歪んだ正義感、あるいは単なる悪ふざけで、彼らは捕獲前の古代生物たちに、ランダムに強化術式や魔力回路を植え付け始めたのだ。

 結果、誕生したのは『異能』を持った巨大古代生物軍団である。

 火を吐く巨大昆虫の群れ。身体を鋼鉄化させて弾丸を弾くエダフォサウルス。ランダムな広範囲爆破魔法を使い、這いずり回るメソサウルス。大小様々な生物が、ロサンゼルスを蹂躙した。

 そして極めつけは、偶然にも濃密な瘴気を取り込み、『エグジスト』へと覚醒してしまった一匹のメガネウラだった。

 その『魔改造古代蜻蛉エルダー・ドラゴンフライ』は、四枚の羽から高出力の破壊レーザーを乱射しながら、マッハ二十を超える超音速で空を飛び回り、ソニックブームと共にロサンゼルスの高層ビル群を次々とチーズのように切り裂いていった。

 これに対し、世界中から「面白そうだから」という理由で集まった野次馬の『異能者』、血気盛んな一般『エグジスト』、「高く売れそう」と豪語する賞金稼ぎたちが嬉々として参戦。

 政府軍、虫権派デモ隊、異能古代生物、『ルキフェル』構成員、そして観光気分の乱入者たち。

 三つ巴どころか五つ巴の『第一次人虫大戦争』が勃発したのである。

 三日三晩続いた、狂乱の宴。

 最終的に『エグジスト』化したメガネウラが、通りすがりの上位『エグジスト』によってハエ叩きのように撃墜されたことで、戦争はようやく終結した。

 だが、問題が残った。

 魔術や異能によって変異し、あまつさえ知性まで獲得してしまった古代生物たちを、元の生態系へ戻すわけにはいかなかったのだ。ペルム紀の歴史が変わってしまう。

 結果として、隔離施設としての『ロサンゼルス古代生物園(通称ジュラシック・ランド)』が一夜にして設立され、今では皮肉なことに一大観光名所となっている。

 そして、その中でも特に高い知性を獲得し、人語を解するようになった一部の個体は、特例として『無原形人(アモルファス)』の一種として戸籍を与えられ、現代社会に溶け込むこととなった。

 ギザールもその一人(一匹)である。

 彼は戦時中、人間並みの知能と『異能』を得たものの、殺し合いには参加しなかった。彼は現代の野菜、特に品種改良された甘いキャベツやトマトの味に衝撃を受け、廃墟となったスーパーマーケットで、死体の山から拾ったドル札を握りしめ、外の阿鼻叫喚など気にせず、ひたすらサラダバーを食べ歩いていたのだ。

 そのシュールな姿を、休暇で戦争見物に来ていたルビアズが発見し、腹を抱えて大爆笑した。

「お前、面白いな。うちに来て美味い野菜を食い放題にする代わりに働かないか?」

 そうスカウトされ、彼は『ルキフェル』の一員となった。現地で覚えた言語が、ヒスパニック・コミュニティ由来のスペイン語だったため、彼は今でもスペイン語訛りで話す。

 一年前、ギザールとレフィーマは、この食堂でたまたま席が隣になった。

 共に「食」に対して並々ならぬ執着を持つ二人は、種族の壁を超えて意気投合し、今ではこうしてランチを共にする友人同士となっている。


「Ahh, tengo que volver. Estoy preocupado...《あーあ、戻らなきゃいけないのかぁ。不安だなぁ》」

 最後の一切れとなったナマズフライを名残惜しそうに飲み込み、レフィーマは深い溜息をついた。

 先程までの幸福な時間は終わりを告げ、現実が重くのしかかる。

 彼女がここまで憂鬱になるには、明確な理由があった。



 それは早朝。ニューヨークの深層、あるいは次元の裂け目に存在する『ルキフェル』本部事務所での出来事である。

 レフィーマは、朝から憂鬱という名の重りを胃の腑に抱えていた。

 数日の連休明けという気怠さもさることながら、本日の勤務シフトが最悪だった。あの凶暴な『エグジスト』、ゼノヴィアと同じ時間帯なのだ。

 さらに言えば、ルビアズがまたしてもオフィスへの転移ポータルの座標を書き換えたせいで────彼女曰く「コーヒー豆をデカフェに変えられた報復」らしい────正規のルートを探し出すのに無駄な労力を費やし、レフィーマは疲労困憊でポータルを探し出し、事務所の重い扉を開けた。

「レフィーマちゃん、おはよ~!」

 開口一番、脳味噌がとろけるような陽気な声で挨拶をしてきたのは、当の原因であるクルクス・ノイベルグだった。

 彼女は『超越的存在(エグジスト)』でありながら、人間ごときとも対等に接する稀有な人格者────あるいは単なる変わり者────である。レフィーマとしても、彼女に対して悪い印象はない。

「……おはようございます、クルクスさん」

 努めて冷静に返事をし、レフィーマは逃げるようにソファへと腰を下ろした。

 本日、ボスのルビアズは不在だ。例のブライトンビーチの別荘を堪能するという『極秘任務』────要するにただの休暇────の最中である。DDのライブ以来、彼女は一日を除き『ルキフェル』に顔を出していない。なんとも適当な組織のボスである。

 ふと横を見ると、真新しい流線型のウォーターサーバーが設置されていた。

 以前、事務員のみほよが、烏賊の『エグジスト』ピメリー・バルドー殺戮ライブ中継で行われた賭けに勝利した際、その賞金で購入した高級品だ。

 サーバー内部は空間転移術式で水源と直結しており、北欧ノルウェーの氷河水から採取される名水『オルデン・ウォーター』が、いつでも採れたての新鮮な状態で飲めるようになっている。口に含めば、まろやかな甘味と豊富なミネラルが五臓六腑に染み渡る逸品だ。

 視線を奥へ向けると、デスクでホログラム・キーボードを叩くみほよと、その背後からモニターを覗き込むゼノヴィアの姿があった。

 みほよは空中に展開された無数のウィンドウを高速で処理しながら、背後のゼノヴィアなど気にせず、レフィーマの方を向き、口を開く。

「レフィーマさん、おはようございますっ」

 明るく、それでいて事務的なトーン。

 対してゼノヴィアは、レフィーマの方を一瞥し、「はよ」と短く低音で呟いた。

 その声色に明確な敵意はない。だが、レフィーマの背筋に氷柱を突き刺されたような悪寒が走る。

 数日前、ポンウィパとピザを配達した後に遭遇した、彼女の圧倒的な暴力性。その後例のピザをポンウィパと酒と共に楽しみ、休暇中は意識の外に追いやって蓋をしていた恐怖が、本人を目の当たりにした途端、ゾンビのように蘇ってきたのだ。

「どうしたの、レフィーマちゃん? 顔色が青いよ?」

 クルクスが心配そうに覗き込んでくる。

「……いえ、なんでもありません」

 レフィーマは乾いた笑みを浮かべるのが精一杯だった。

「すごいねそれ。あたしは全然わからないや」

 ゼノヴィアが、みほよのディスプレイに流れる膨大な文字列を見て欠伸混じりに言った。

「大変ですよ、本当に。ゼノさん、一昨日の件ですよ。魔導犯罪集団お抱えの『エグジスト』と戦った時、ダウンタウンの一区画を半壊させたじゃないですか」

「ああ、そうだね。派手にやった」

「その時の被害総額、知ってます?」

「知らない。興味ない」

「数百億ドル規模ですよ。政府の役人も、巻き込まれた資産家連中からも苦情の嵐です。その犯罪集団が全滅して証拠隠滅されたのをいいことに、奴らは責任を全部こっちに投げてきました。被害額の大半を『ルキフェル』への損害賠償請求として回されてるんです。これ、ルビさんが知ったら卒倒しますよ」

 みほよが深い、本当に深い溜息をついた。

 しかし、ゼノヴィアは悪びれる様子など微塵もない。

「なに? あたしが悪いっていうの? だってあの『エグジスト』、結構いい動きしてたし。それにさ、みほよはただ安全な場所で座ってそのおもちゃをいじってただけじゃん。あたしは命懸けで戦ってたのに、文句言われる筋合いはないね」

「でも、結局は余裕綽々だったじゃないですか。あなたが初動で『衝撃相殺術サイレント・フィールド』の使用をサボったから、結果こうなったんですよ。少しは反省してください」

 みほよがぴしゃりと言い放つと、ゼノヴィアの瞳から温度が消えた。深淵のような冷たい視線が、華奢な少女を見据える。

「何。人間(ゴミムシ)ごときが偉そうに。そんなチンケなナノスーツもないと、デコピン一発ですぐ死ぬくせに」

 いつもの、人間を路傍の石ころ程度にしか思っていない侮蔑の口調。

 ゼノヴィアの身体から、どす黒い殺気が滲み出る。それは『エグジスト』特有の、生物としての格の違いを強制的に理解させるプレッシャーだ。

 レフィーマは自分に向けられたわけでもないのに、呼吸が浅くなり、冷や汗が噴き出るのを止められなかった。心臓が早鐘を打ち、生存本能が「逃げろ」と警鐘を鳴らす。

 だが、みほよは動じない。

 冷や汗ひとつかかず、タイピングの手さえ止めずに、淡々と言い返す。

「あ、また始まりましたね、それ。ゼノさん、腕力は強いですけど口喧嘩は弱いですよね。語彙力が貧困です」

「……はい、今のイラッときた。殺すよ、羽虫が」

 空気が凍りつく。

 物理的な質量を持った殺意が、みほよの首元に鎌を突きつける。

 しかし、みほよは画面から目を離さぬまま、平然と続けた。

「それやったらゼノさん、ボスにぶち殺されますよ? 私みたいな事務処理とかハッキングができる人材は、その辺に転がってる戦闘要員と違って、中々替えが効きませんから」

 彼女の言葉は、冷徹な事実だった。

 実際、呉内みほよの完璧な代行を務められる者は、この巨大組織『ルキフェル』の中にも存在しない。クルクスも高度なITスキルを持つが、みほよの異常なまでの演算速度と論理構築能力には遠く及ばない。何百年と生きた知識、睡眠や疲労と言った概念ともほぼ疎遠であり、種として彼女より活動時間が長いクルクスが事務処理の大半を行っているが、単体での技能はみほよが遥かに上回っている。

 天性の頭脳を持つみほよは、まだ『技術的特異点(シンギュラリティ)』が起こる以前より、数百年を生きるルビアズやクルクスでさえ、数えるほどしか見たことがないレベルの『天才児』だ。しかも、まだ十代の少女だというのだから、生物としてのスペック云々以前に、存在そのものがバグに近い。

「う……。じょ、冗談だって。本気で怒らないでよ」

 気圧されたのは、あろうことかゼノヴィアの方だった。

「怒ってませんけど。ゼノさんがそういう野蛮なことを言うのはいつものことじゃないですか。ノンデリなのは相変わらずですねー」

「くっ……悔しい……塵芥(ゴミ)に言い負かされた……」

 ずーん、と効果音がつきそうなほど落ち込むゼノヴィア。「はいはい」とみほよにあしらわれた。

 本来、食物連鎖の頂点に立つ捕食者が、被食者である人間に論破され、縮こまっている。奇妙な光景だった。

 ゼノヴィア自身も、みほよの知性には敵わないと認めており、有象無象の人間とは違い、「呉内みほよ」という一個体として認識しているのだ。人間からしたらきつい『エグジスト』ジョークにウケることこそないが、かといって怯えることもなく、平然と返してくる彼女を、内心では気に入っている節さえある。

 殺気が霧散し、ゼノヴィアは白髪を掻き上げると、無表情のまま「てへ」とわざとらしく笑った。

 みほよの異常な順応力。それは、幼少期に『エグジスト災害』で両親を目の前で惨殺された経験が、彼女の精神構造に何らかの不可逆的な「欠落」をもたらした結果なのかもしれない。

「それより聞いてよ。愛煙家どものデモが功を奏して、タバコ税が下がるらしいよ」

 ゼノヴィアは何事もなかったかのように話題を変えた。

「そうなんですか? ならルビさん喜びますね。あの人、タバコ税の高さには親の仇みたいに文句言ってましたし」

「だろうね。今度みほよにもプレゼントしてあげるよ。ジャパンで『ピース』の新作が出るらしいから、ポータルで密輸してあげる」

「未成年ですよ」

「法律なんて、破るためにあるんだよ」

 軽口を叩き合う二人。それは、この事務所における日常的な風景だった。

 だが、レフィーマの心境は穏やかではなかった。先程の一瞬の殺気。あれは以前感じたものより遥かに鋭く、重かった。

 震えるレフィーマの肩に、そっと手が置かれる。

「無理しなくていいよ。私も気持ちは分かるから」

 クルクスが、慈愛に満ちた穏やかな声で囁いた。彼女は、ルビアズから数日前の件を聞いたため、事情を知っているのだ。

「百七十年くらい前だったかな。当時の敵対組織がカチコミかけてきて、『ルキフェル』の事務所ごと、亜空間倉庫に貯蔵してた高級タバコを全部焼き払ったことがあったんだ」

 クルクスは遠い目をして語る。

「その時、ルビアズが本気でブチ切れてね。その殺気たるや、今のゼノヴィアちゃんの比じゃなかったよ。私も本気で『あ、殺される』って腰抜かしたもん。……まぁ、事務所が瓦礫になったことより、廃盤になった限定タバコが灰になったことに怒ってたって後で知った時は、流石に笑っちゃったけどね。その後、半殺しにされたけど」

 ほんと、あの時は死ぬかと思ったよ、とけらけら笑うクルクス。

 彼女はレフィーマの前に、オルデン・ウォーターが注がれたグラスを置いた。

 レフィーマは震える手でそれを煽る。甘くとろける水が喉を潤し、過剰な心拍を鎮めていく。

「……ありがとうございます、クルクスさん」

 俯いたまま、礼を言う。

 正直に言えば、レフィーマはみほよに対しても、ある種の薄気味悪さを感じていた。

 能力もない、ただの人間。しかも、この混沌とした社会のアメリカより遥かに平和な日本出身の少女が、なぜこうも異常な世界に適応しているのか。

 『エグジスト』からの侮蔑を柳に風と受け流し、あのゼノヴィアと対等に渡り合う。あまりの適応力に、最初はみほよも人間に化けた『エグジスト』ではないかと疑ったほどだ。

 この魔境において、皮肉にも人外であるクルクスだけが、レフィーマにとって唯一の精神安定剤となっていた。

「でも、みほよちゃんの肝の据わり方は異常だよねー。私ですら少し身震いしたよ、さっきの殺気は」

「あの人、なんなんでしょうね。あれで能力もない人間だなんて、信じられません」

「どっちかと言うと精神性は『エグジスト』寄りかな? 人間なのがもったいないよ。寿命はあるし、脆いし。あの子がいなくなったら、また私が全システム管理しなきゃいけないから地獄なんだよねぇ。みほよちゃんもいっそ『エグジスト』になってくれないかなぁ」

 クルクスが冗談めかして言った。

 だが、レフィーマの背中に冷たいものが走る。

 人間が『エグジスト』に「成る」。それはすなわち、細胞から遺伝子構造に至る全てが、高次元の存在へと置換されることを意味する。

 自我や記憶は継承される。だが、思惟思考回路は瞬く間に『エグジスト』の論理へとアップデートされる。

 もしあのみほよが『成った』場合、その恐るべき冷静さは、間違いなく冷酷無比、機械のような思考へと変貌するだろう。

 特に、自意識の弱い人間────ピメリー・バルドーのような人物は、か弱い人間の頃の感情など即座に忘れ、他種族を見下し、最早別人となる。

 言うなれば、『スワンプマン』と言ったところか。

 これ以上、職場のストレス要因を増やしたくはない。レフィーマは心の中で強く否定した。

 幸い、午前中はそれ以上のトラブルもなく過ぎ去った。クルクスと観葉植物の肥料についてのどうでもいい談義をしつつ、平穏な時間は流れ、昼休憩へと至ったという訳だ。



「Ahh, ya es hora. Creo que debería volver pronto. Bueno, hagamos nuestro mejor esfuerzo por la tarde《あ、もうこんな時間。そろそろ戻らないとね。まぁ、午後もお互い頑張ろう》」

 ギザールが名残惜しそうに言った。

 二人は食べ終わった食器類を、空中に開いた『ダストシュート・ポータル』へと放り投げる。食器は自動的に厨房の『自動洗浄機(オート・ウォッシャー)』へと転送され、洗浄・滅菌されるシステムだ。

「Sí, comamos juntos de nuevo si todavía estamos vivos《そうだね、生きてたらまた一緒にご飯食べよう》」

 レフィーマがシニカルな冗談を交えて返す。次、また会える保証は何処にもない。それがここ『ルキフェル』構成員たちの共通認識である。

「Sí, hasta luego, Refima《うん、またね、レフィーマ》」

 ギザールは無数の脚を波打たせ、そのまま『浮遊術(レビテーション)』でふわりと宙に浮いた。器用に空中を泳ぎ、自身の支部へ繋がるポータルへ向かい消えていく。

 レフィーマもまた、テラスから身を投げ出すと、自身の『超能力者(エヴォル)』としての能力、『プティ・プランス』に吊り下げられ、重力を無視して本部事務所のフロアへと戻っていった。


♥ 


 事務所へ戻ると、昼休憩中にホログラムで映画鑑賞会をしていたらしい三人が、ソファでくつろいでいた。

 みほよ、ゼノヴィア、クルクスの手には、それぞれポップコーンとコーラのボトルが握られている。奇妙な連帯感だ。

「おかえりー」

 クルクスがのんびりと手を振る。

「お疲れ様です」

 みほよがニコリと笑う。

「おつ」

 ゼノヴィアはレフィーマを見もしない。

 だが、休憩時間の終わりと共に空気は切り替わる。みほよは素早く自分のデスクに戻り、仕事モードへ移行した。

「暇だし、ニュースでも見よっと」

 クルクスが指先を振るい、空中に巨大なホログラム・ウィンドウを展開した。

 画面には、『永劫動力社アイオン・ダイナミクス』という企業の記者会見の様子が映し出されている。

『……我々は、ついにこの奇跡の宝石、『光の心臓(エードラム)』を手に入れました!』

 CEOと思しき恰幅の良い男性が、拳大に輝く黄金色の宝石を掲げている。

『これは『上位存在(ベータ)』級の中でも、極めて強大な力を誇った光操作系『エグジスト』が、その命脈尽きる瞬間に全生命エネルギーを圧縮して生み出した結晶です! これには半永久的なエネルギーが内包されており、人類のエネルギー問題を根底から解決するでしょう!』

「……すぐ奪われそうだね」

 ポップコーンを咀嚼しながら、ゼノヴィアがボソリと言った。

 ニュースの中でCEOは胸を張る。

『しかしご安心を! 警備には実績ある民間軍事会社から、『エグジスト』の傭兵を多数雇用しております! 中には『上位存在(ベータ)』級も含まれており、彼が展開するエネルギーバリアは、二百種類以上の魔術、呪術、転移術への完全耐性を持ち、また同階級の個体であっても触れれば分子レベルで消滅します! セキュリティは万全です!』

「へー、綺麗だねぇ。キラキラしてる」

 クルクスが呑気な感想を漏らす。

「そうですね。目の保養にはなります」

 レフィーマも相槌を打つ。

 しばらくの間、何事もなく平和な時間が流れた。ニュースは次のトピック、本日のニューヨークに出没した珍生物特集へと移っていた。

 その時だ。別のホログラムが急遽展開された。地震や災害などの緊急速報は自動でポップアウト通知が来るようになっている。

『────緊急ニュースです!』

 画面が赤く点滅し、緊迫したアナウンサーの顔がアップになる。

『た、ただいま、先程会見を行っていた『アイオン・ダイナミクス』本社ビルにて、何者かによる襲撃が発生しました! 『エードラム』は強奪された模様です! 現場は壊滅状態……CEOを含む全社員、ならびに配備されていた『エグジスト』警備兵も、全員が死亡したとの情報が入っています!』

「ぶふっ!」

 あまりの即落ちっぷりに、クルクスがコーラを吹き出した。

「ほらね。言わんこっちゃない」

 ゼノヴィアはそう一言だけいい、「やっぱりな」という顔で、ソファに寝転がりながら漫画のページをめくった。予定調和の喜劇でも見たような反応だ。

 しかし。

 一人だけ、反応が違っていた。

 デスクのみほよが、凍りついたようにモニターを凝視している。

 あのゼノヴィアの殺気にすら眉一つ動かさなかった彼女の額に、脂汗が滲んでいた。呼吸が乱れている。

 彼女はゆっくりと椅子を回転させ、青ざめた顔で三人に告げた。

「みなさん」

 その声は、微かに震えていた。

「現出しました。……『高位存在(オメガ)』級、『エグジスト』です」

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