混沌
皆様、ごきげんよう。
本日の特集は、我々が生きるこの素晴らしき大都市、ニューヨークの深淵について。煌びやかなネオン、摩天楼を縫うように走るエア・カー、そして人類の叡智の結晶たるハイパーテクノロジー。一見すれば、これほど輝かしい時代はかつて存在しなかったでしょう。
しかし、光が強ければ影もまた濃くなるのが道理。
二千年代以降、技術的特異点の到来と時を同じくして、我々の世界は変貌を遂げました。かつてはフィクションの中にのみ存在した超能力、魔術、そして不可解な呪いといった超常現象が、今や日常の風景として溶け込んでいます。裏社会の跳梁跋扈、異能者たちの饗宴。一歩路地裏へ足を踏み入れれば、そこは弱肉強食の無法地帯。
法は在ります。しかし、歩く戦略兵器のごとき個人が闊歩するこの街において、紙切れの如き法律になんの拘束力がありましょうか。
ですが、ご安心を。この混沌こそが、進化の証なのですから。
さて、この世界を語る上で欠かせない最重要種について、改めて紐解いていきましょう。
皆様もよくご存知の通り、彼らの通称は『超越的存在』。
存在そのものを意味する〝Existence〟と、可能態を意味する〝Dynamis〟を掛け合わせたこの言葉は、まさに彼らの本質を表しています。
一言で表現するならば、『生物としての形態を維持したまま、進化の袋小路を突き破り、その果てにある頂へと到達した種』。
もはや、我々旧来の人類とは一線を画す存在です。
彼ら『エグジスト』には個体差こそあれ、共通した特徴がございます。生物学的な限界を無視したごとき高い身体能力、鋭敏な五感に加え、第六感とも呼ぶべき知覚領域の拡大。現在人類が開発し得るあらゆる病原体や猛毒は、彼らの前では無力化され、過酷な環境下においても平然と適応してのけます。
特筆すべきは、その生存本能。
たとえ四肢を欠損しようとも、心臓が動いている限り、彼らは再生します。呼吸も、睡眠も必要としません。不死身とまでは言いませんが、本人が望む姿のまま、悠久の時を生きる不老の肉体を持つのです。
そして何より、彼らは一人につき一つ、世界を変えうるほどの強大な『能力』を宿しています。ある者は世界を恐怖のどん底に叩き落とし、またある者は救世主として崇められる。
彼らこそが、この混沌とした新時代の象徴であり、我々が共存すべき隣人なので────。
空中に浮かぶ半透明のホログラム映像が、指先ひとつで掻き消された。
シュッ、という無機質な電子音と共に、饒舌なナレーターの声が途絶える。
雑然とした一室。
壁面を埋め尽くすのは、旧時代の遺物たる紙媒体の書類の山と、最新鋭の解析機器が無秩序に混在する光景だ。情報の奔流が澱のように堆積するこの場所で、一人のアメリカ人女性が深く、重い息を吐き出した。
「世間は能天気だな」
吐き捨てられた言葉には、隠しきれない侮蔑と倦怠が滲んでいる。
声の主の名は、 ルビアズ・ジャスパー《Rubias Jasper》。
外見年齢は二十代半ばと推察されるが、その容貌が放つ異様な威圧感は、俗世の尺度を軽々と超絶していた。
血溜まりに浸したごとき、艶めかしくも鮮烈な真紅の髪。肩まで掛かるその髪の右側頭部には大輪のホンアマリリスの髪飾り、左側には漆黒のハートを象った髪飾りが、禍々しくも美しい対比を描いている。耳を覆い隠すほどに伸びた両のもみあげにも、同様の意匠が施されていた。
造作は極めて美しく、彫像のごとく整っている。だが、彼女と対峙した者がまず戦慄するのは、その瞳だ。
白目にあたる部分は充血とは程遠い、べっとりとした赤色に染め上げられ、瞳孔は闇を凝縮したような黒いハート型を成している。
身に纏う衣服もまた、全身が燃えるような赤。その攻撃的な色彩の上からでも、彼女の豊満な肉体の起伏は明らかに見て取れた。扇情的でありながら、同時に触れることすら躊躇わせる絶対的な拒絶。
「ルビさん、どうしたんですか。眉間の皺、深くなってますよ」
不機嫌を撒き散らすルビアズに対し、慣れた様子で声をかける者がいた。
部屋の奥、数多のホログラム・ウィンドウに囲まれたデスクに座るのは、呉内みほよという名の日本人少女だ。
一見すれば、どこにでもいるあどけない女子大生である。茶色の髪を二つに分け、前方に垂らしたお下げ髪には、ルビアズと同じ意匠であるピンクハートの髪飾りが揺れている。眼鏡の奥の瞳は知的であり、キーボードを叩く指先は残像を生むほどの速度で稼働していた。
「またいつもの番組だ。『新世紀の黎明』とか言ったか。この混沌とした世界を、婉曲に報道してやがる」
ルビアズは不愉快そうに舌打ちを鳴らし、豪奢な椅子から立ち上がった。
その身の丈は優に六フィート二インチ(百九十センチ)を超え、室内の空気が一瞬にして圧迫される。
「外を見てみろ。今この瞬間も、何らかの異常現象やらバカどもが問題を起こしている。今朝なんか、召喚士どもが面白半分で冥界のゲートを開いただろ」
「ブロンクスの一割が物理的に消し飛んだんですよね。空間ごと」
みほよは視線をモニターから外さず、淡々と事実を補足する。流暢な英語の発音は、彼女の知性の高さを裏付けていた。
「ああ。なのにこの番組は、美しい世界だの、素晴らしい時代だのほざいている。確かに技術革新は凄まじいが、こうも破壊ばかり起きていては世界が滅びる方が早い。私らの仕事も、秒速で増える」
忌々しげに吐き捨てるルビアズの表情には、世界そのものへの苛立ちが刻まれている。
彼女の視線の先、窓の外では今日もどこかでサイレンが鳴り響き、爆炎が上がっていることだろう。この街では、平和などという概念は瞬きする間に崩れ去る砂上の楼閣に過ぎない。
「それに、少し外を歩いただけで死が日常的に起こる世界だ。棺桶がいくらあっても足りやしない」
その言葉に、みほよの手がわずかに止まった。
彼女は椅子を回転させ、赤い巨躯の女を見上げる。
「まだいいじゃないですか。ルビさんは────『エグジスト』なんですから」
室内の空気が、凍りついたように静まり返る。
ルビアズの口元が微かに歪んだのを見逃さず、みほよは言葉を継いだ。
「私は、ただの人間です。何の能力もありません。お買い物や、ここに出勤するのだって命懸けなんです。丸腰じゃ命がいくつあっても足りません」
少女は自らが纏う、青色を基調とした衣服を指先でなぞった。
その表面が、電子的な波紋を広げて揺らぐ。
ナノテクノロジーの粋を集めて織り上げられた、対衝撃・対環境ナノスーツ。常人ならば即死するレベルの物理的衝撃や熱量、あるいは街中に充満する微量な魔素毒から、かろうじて生身の肉体を保護するための現代の鎧だ。彼女のような非能力者がこの街で生存するためには、皮膚一枚を晒すことすら自殺行為に等しい。
「それに、そういった問題を解決するのが、ここ、『ルキフェル』の仕事じゃないですか。文句言っちゃダメですよ」
みほよは諭すように言う。
『ルキフェル』。
ルビアズ・ジャスパーが設立し、裏社会において畏怖される組織の名だ。
表向きは「何でも屋」を標榜しているが、その実態は、一般の警察機関や軍隊では対処不可能な超常的犯罪、暴走した『エグジスト』による災害レベルの事象鎮圧を専門としている。依頼料は天文学的な数字に上るが、それに見合うだけのリスクと成果を提供し続けてきた。
だが、設立者であるルビアズの本音は、惰眠を貪る平穏な生活であった。
成り行きと実力ゆえに担ぎ上げられた現状に、彼女は常に不満を抱いている。
一方のみほよは、かつて日本のIT系高等教育機関を首席で卒業した天才児だ。しかし、かの国で発生した大規模な『エグジスト災害』により両親を喪い、天涯孤独の身となった。失意のまま海を渡り、このニューヨークの裏路地でテロリズムに巻き込まれ、野垂れ死にそうになっていたところを、ルビアズに拾われたのだ。
無論、ルビアズに慈悲の心があったわけではない。ただ、彼女の卓越した頭脳が組織運営に有用であると判断し、利害の一致として「所有」したに過ぎない。それでも、みほよにとってこの場所は、過酷な世界で唯一許された聖域なのだ。
「バカが。こんな組織、腐るほどある。なんでわざわざうちに依頼してくるんだ。仕事が増える、腹が立つ」
ルビアズは深い溜め息をつき、乱暴に髪を掻き上げた。
「人助け依頼なんか来ても、無駄足になることも多い。現場に着いた頃には、依頼人が肉塊になっていることなんざザラだ」
「ダメですよそんな事言っちゃあ。……ルビさんが動くことで、救われる命があるんですから」
みほよは肩をすくめ、再びキーボードへと向き直る。
刹那、複数のウィンドウが赤く明滅し、鼓膜を突き刺すような警告音が鳴り響いた。
平和な日常会話は、非常事態のサイレンによって唐突に断ち切られる。
彼女の瞳が、高速で流れるデータストリームを追う。
「……新規依頼、来ました。クイーンズ地区、セクター4にて大規模な爆破テロ発生」
「またか」
「現地の重武装警察隊、NYPD・ヘヴィギアおよび、対魔術特殊部隊が交戦しましたが、既に全滅。生存反応なし。敵勢力はテロリスト集団ですが、構成員の中に『魔術師』が複数確認されています。当局からの緊急要請、対象の殲滅とエリアの浄化です」
ルビアズは、天井を仰ぎ見て、肺腑の底から重い息を吐き出した。
虚空を見つめる彼女の視界には、網膜投影された『デバイズ』のインターフェースが展開されている。思考操作のみで起動するその画面には、壊滅した市街地の映像と、送金された巨額の前金が表示されていた。
「あーくそ、行ってくるわ」
「はい、お気をつけて。ナビゲートは任せてください」
ルビアズが歩き出すと同時に、空間そのものがねじ切れるようにして、建物のエントランスゲートが開いた。
♥
眼下に広がるのは、灰色の空と猥雑な極彩色の都市。
彼女は、まるで散歩にでも出るような気負いのなさで、虚空へと身を躍らせた。
衝撃。
爆発。
轟音。
彼女がコンクリートの地面を軽く蹴った次の瞬間、そこにはもう彼女の姿はなかった。
置き去りにされたのは、遅れてやってきた衝撃波と、引き裂かれた大気の悲鳴のみ。
マッハをも軽く超える超音速の世界。
強烈な風圧が鋼鉄すらも飴細工のように歪ませる速度域の中で、ルビアズは瞬きひとつせず、標的へと直進する。
そもそも、『エグジスト』たる彼女の眼球は常に最適な水分量で潤い続けており、生理現象としての瞬きなど不要なのだ。
真紅の影が、摩天楼の隙間を閃光のごとく駆け抜ける。
デバイズのマップに表示された赤い光点を見据え、ルビアズは小さく毒づいた。
「めんどうだ」
その言葉すらも、音速の壁の彼方へと置き去りにされていった。




