決着
唯菜を連れて、稲村先生が二組の教室に入った。
かえでは油断なく、東城先生に拳銃の照準を合わせ続けていた。
扉が閉まるのを見届けた東城先生が、口を開く。
「さて。邪魔者もいなくなったな、常夏。これで思う存分殺し合えるってもんだ」
東城先生は、相変わらず自信に満ちた笑みを浮かべている。
「強がりはやめてください。ふくらはぎを撃ち抜いて、満足に歩くこともできないはずです。それに、そのわき腹。誰か生徒にやられましたか」
左のわき腹辺りが、血で赤黒く染まっていた。かなりの出血量だ。
少し齧った程度ではあるが、かえでには医学の知識があった。
普通の人なら、意識を保つのも難しい出血量だ。それなのに、東城先生は――、
「あらよっと」
片膝をついていた体勢から、立ち上がった。
「おいおい。何をそんなに驚いてんだ。あたしはまだまだ戦えるぜ」
はったりだ――とかえでは思った。
あれほどの怪我で満足に動けるはずがない。
「どうした常夏。あたしを殺すんじゃなかったのか。さっさと撃てよ」
明らかな挑発だった。
東城先生の眉間に照準が合っていることを確かめ、トリガーに手をかける。
大丈夫。さっきは撃てた。今度も問題なく撃てるはず――。
「ああ、そうだ常夏」
かえでがトリガーを引こうとしたところで、東城先生が声をかけてきた。
「……何ですか」
「一つ言い忘れてた。柊を殺したのは、あたしだ」
柊の死体を思い出す。彼女のこめかみにはアイスピックが突き刺さっていた。てっきり稲村先生が殺したと考えていたのだが、違っていたようだ。……もっとも、東城先生の話が本当である保証はないが。
唯菜に教えられてから、東城先生のまばたきにも注意を払っているが、かえでの目にはまばたきの回数が少し増えたかどうかなど、さっぱり分からなかった。唯菜が細かいところに気づく性格であることは知っていたが、日頃からそんなところまで見ているとは驚きだった。
それにしても、東城先生はなぜ今、柊を殺した話を持ち出したのだろう。
「ありゃ? 思ったより反応薄いな。てっきり『ありがとうございます!』って涙を流しながら感謝してくれると思ってたんだが」
「意味不明なことを言わないでください。どうして私が、柊さんを殺したあなたに感謝するんですか。柊さんは同じ学校の大切な生徒です。それに、デスゲームでも味方でした。あなたを憎みこそすれ、感謝などするはずがありません」
「それは優等生の答えで、お前自身の本心じゃない。そろそろ優等生の仮面は外したらどうだ。息苦しいだろ」
「……意味が分かりません」
「分かりません? 分かりたくない――分かろうとしてないだけだろ」
東城先生はかえでの言葉を即座に否定する。
「お前は周りから優等生だと思われたくて、それらしく振舞っちゃいるが、さっきも指摘した通り、所詮は紛い物だ。あたしみたいに物事を斜めから見ようとする人間には、分かっちまうんだよ。お前が偽りの優等生を演じてるってな。別に自分を偽ることが悪いとは言ってないぜ。人間誰しも大なり小なり自分を良く見せようと偽ってるもんだからな。だけどな、常夏。仮面を被ったままで人生終わるってのは、寂しくないか。最後くらい本心をさらけ出してみろよ」
「……まるで、私がここで負けると言っているように聞こえるんですが」
「そう言ったつもりだが?」
挑発だ。そうやって、冷静な判断力を奪おうとしているんだ。
かえでは怒りを必死に抑えた。
「今の私が、私です。何を言っても無駄ですよ、東城先生」
「そうかい。ならしゃあねえか」
東城先生は肩をすくめる。かえでが拍子抜けするほど、あっさりとした撤退表明だった。
「柊の話だが、お前、あいつのこと嫌いだっただろ」
嫌い――。
幼い頃から好き嫌いはしないようにと言われ、育ってきた。
好き嫌いは幼稚な感情で、嫌いでもやるべきことをやるのが一流だと教えられてきた。
だから、どんなに嫌なことでも、周りがやるべきだと言えば、やってきた。
確かに結果はついてきたから、次第にかえでもこれが正しい生き方なのだと考えるようになった。
嫌いという感情は脇に置いて、やるべきことをやる――それが正しいんだ。
柊のことが嫌いだったのでは、と東城先生は言った。
確かに、彼女に対する印象を好き嫌いで語るのであれば、嫌いということになるだろう。
やるべきことをやり、人一倍努力をしてきたかえでは、小中学校で神童と呼ばれ、他者の追随を許さぬ優秀な成績を収めてきた。名門と称される絹白学園に入学することが決まったときも、合格を当然のことと考え、入学後も自分がトップの人材であることを疑っていなかった。
けれど、それは間違いだった。
絹白学園では、かえでは数多くいる生徒の一人でしかなかった。今回のデスゲームに参戦していたメンバーなら、例えば春日井は驚異的な身体能力を持っていた。かえでも身体能力には自信があったが、体育の時間で虎のようにしなやかに動く春日井を一目見て、彼女には勝てないと悟った。かえでがいくら努力しても、あの境地にはたどり着けないと思った。
春日井の場合、勉強はあまりできるほうではなかった。そのため、かえでもそれほどプライドを傷つけられずに済んだ。かえでは勉強と運動の二つに時間を割り振って努力してきた。運動一本に注力してきたのであろう春日井に運動面で負けるのは仕方がない、と無理やり自分を納得させた。
問題だったのは、柊だ。
彼女には、かえでには見えてないものが見えている――そう感じた。柊とは一年生のとき同じクラスだった。初めて彼女とディベートで同じグループになったとき、彼女の頭の良さに驚かされた。頭の回転が速いのはもちろんのこと、場を掌握するようにして議論を巧みに誘導していた。彼女は監督で、かえでたち他の生徒は舞台で言われたとおりに踊る役者でしかなかった。
運動面でも、柊はかえでの先をいっていた。短距離走や長距離走、ボールを使ったスポーツ競技など、体育の時間で多くの時間を一緒に過ごしたが、かえでは負けてばかりだった。
頭脳でも運動でも、かえでは柊に劣っていたのだ。
嫌い――そう、かえでは柊のことが嫌いだった。
柊が本気で何かに取り組んでいることを見たことがなかった。いつも彼女はどこか余裕を漂わせていた。
それがかえでの癪に障った。
かえでは人一倍努力してきた。何事にも手を抜いてこなかった。嫌いなことも一所懸命にやってきた。
それなのに、柊は――。
大した努力もしていない彼女が、どうしてかえでよりも優秀なのか。
ひょっとすると柊はみんなが見ていないところで必死に努力をしているのかもしれない。そんな風に考えて、自分を納得させようとした頃もあった。
だけど、それは逆効果だった。
かえでも、周りの目がないところでも努力している。部活には入らず、家で勉強したり道場で心と体を鍛えたり――一流の人間になるために常日頃から努力していた。
それでも、柊には及ばない。
それはつまり、努力以外で、柊にはあって、かえでにはないものがあるということだ。
人はそれを才能と呼ぶのではないか。
かえでがその結論に至るまで、さほど時間はかからなかった。
柊には才能があって、かえでには才能がない。
それだけと言えばそれだけだが、その事実がかえでを苦しめた。
二年生になって柊とは別のクラスになったが、彼女に対する劣等感や敗北感が消えることはなかった。
「常夏。どうなんだ。柊を嫌ってたんだろ」
黙っていたかえでに、東城先生が重ねて訊いてくる。
「……ええ、嫌いでしたよ。だけど、それが何だって言うんですか」
東城先生は笑みを深める。
「そうか。やっぱり嫌いだったか。いいぜ、その表情。人間臭さがあって」
「早く用件を言ってください。時間稼ぎをしているとみなして撃ちますよ」
「おいおい。時間稼ぎなんて、そんな卑怯な真似をあたしがするわけないだろ」
どの口が言う――と思ったが、言っても無駄だと思い、その言葉を呑み込んだ。
「いいから早く用件を」
「せっかちだな。分かったって。あたしが柊の話を持ち出したのは他でもない。柊から遺言を預かっているからだ」
「遺言?」
「ああ。お前宛てのな」
「……訳の分からないことを言わないでください。柊さんが私に遺言? 何の冗談ですか」
「冗談じゃねえぞ。まあ、信じられないのも無理はねえか。あたしはいつも散々お前たち生徒に嘘をついてきたからな」
「……認めるんですね、嘘をついていたこと」
「ああ、認めるさ。お前に信じてもらうには、まずは過去の過ちを謝罪しないとな」
東城先生はそう言うと、床に両膝をついて深く頭を下げた。
「な、何のつもりですか?」
急に土下座などするものだから、かえでは驚いた。
しかも、あのいつも堂々としている東城先生が、である。
東城先生は頭を下げたまま、
「精一杯の謝罪のつもりだ。これくらいで、あたしの過去の罪が帳消しになるとは言わねえ。だがな、あたしはただ柊から預かった遺言をお前に伝えたいだけなんだ。折角死ぬ間際にお前に言葉を遺したのによ、お前に聞いてもらえないなんて、あまりにも柊が可哀想じゃねえか」
騙されるな。東城先生は何か企んでいるはずだ。
「柊さんからの遺言……未だに信じられません。私をからかって楽しんでいるだけなんじゃないですか」
「そんなわけないだろ! 信じてくれ!」
東城先生は依然として土下座をしたままである。
「……何か証拠はあるんですか。柊さんが私に遺言を残したという証拠は」
「……ああ、そう言えば、柊が言ってたな。『クレープ、一緒に食べに行けなくてごめんなさい』――こう言えば、柊の遺言だと信じてもらえるだろうって」
クレープ……そう、思い出した。
卒業式の日に二人でクレープを食べに行く。
柊とその約束をしたのは、かえでたちがまだ一年生になったばかりの頃だった。当時はまだ絹白学園に入学したばかりで、他の生徒たちがどれほど優秀かを知る前。かえではトップの生徒に相応しい振る舞いを心がけ、周りの生徒たちにも上から手を差し伸べるような態度をとっていた。
理事長からデスゲームの話を聞かされて、一か月が経ったある日。昼休みに中庭のベンチで一人座っている柊を見た。そのときはまだ同じクラスと言うだけで、彼女とはあまり話したことがなかった。
一人で何をしているのか――気にはなったが、別段話しかけにいくほどの間柄でもない。そのまま立ち去ろうとしたかえでだったが、柊から目を離す直前、彼女の頬を伝う涙が目に入った。
柊は泣いていたのだ。
上に立つ者は、下々に手を差し伸べるもの――かえでは柊に話しかけた。どうしたの、と。
柊は俯いていた顔を上げると、
「あなたは、同じクラスの常夏さん、でしたね」
「ええ。常夏よ。あなたは柊さんよね」
柊は頷いた。
「何か辛いことでもあったの?」
「……常夏さん。あなたはデスゲームのことをどう捉えていますか?」
やっぱりか、とかえでは思った。この一か月、周りはデスゲームの話題で持ちきりだった。休み時間になって先生が教室からいなくなれば、デスゲーム、デスゲーム――その単語ばかりが聞こえてきた。始めは信じていない子たちもいたみたいだが、先輩たちから話を聞いたり、過去の卒業生たちがデスゲームに参加したときの記録を読んだり――しまいには先月の四月に、三年生から六人の『退学者』が出たこともあって、いよいよデスゲームは実在するのだと信じるしかなくなった。
「デスゲームのことをどう捉えているか――難しい質問ね」
口ではそう言いつつも、かえではすでに自分なりに折り合いをつけていた。いつまでも悩んで足踏みしているのは、上に立つ者としてふさわしくないからだ。
このときは単に、ずばりと答えたら柊を傷つけてしまうのではと思い、悩んでいる風を装った。今思えば、かえでよりも遥かに優れていた柊に、そのような配慮は不要だった。彼女はかえでの言葉など聞かなくても、そう遠くないうちに自分の中で折り合いをつけ、前へ前へと歩き始めていただろうから。
「そうね。こんな風に考えたらどう。デスゲームは交通事故のようなものだって」
「確率的にはそれほど高くないけれど、自己に降りかかるかもしれない不運、ということですか?」
かえでは首肯する。
「交通事故は全国のどこかで毎日のように起きている。いつかは自分のそばで交通事故が起きて、巻き込まれて死んでしまうかもしれない。でも、だからと言って、私たちは自暴自棄にならない。交通ルールを守ったり、周りに注意して歩いたりして、近くで交通事故が起きたとしても、巻き込まれないようにと努力している。デスゲームもそれと同じだと思うの」
「たとえデスゲームに参加することになっても、日頃から準備をしておけば生き残れるかもしれない――その通りですね」
柊は当時から頭の回転の速い女の子だった。
柊はベンチから立ち上がると、上品な微笑を浮かべた。
「ありがとうございます、常夏さん。あなたのおかげで気持ちの整理がつきました」
不覚にも、かえでは柊の笑顔に見惚れてしまった。
このときから、かえではすでに柊に負けていたのかもしれない。
「もしよければ、卒業式の日に、二人でクレープでも食べに行きませんか。私、とても美味しいクレープ屋さんを知っていますから」
かえでは柊の笑顔に見惚れたまま、ぼんやりとした頭で頷いた。
「嬉しいです。それでは失礼しますね」
柊はお淑やかに一礼すると、ベンチを去っていった。
穏やかな陽射しが差すベンチは、かえでの目にとても神聖な場所に映った――。
「クレープ……そう、そうだった」
今の今まですっかり忘れていた。
いや、敢えて思い出さないようにしていたのだ。
かえでより遥かに優秀な柊に、偉そうに講釈を垂れていた当時の自分――これほど恥ずかしいことはない。
かえでにとって、当時の出来事は忘れ去りたい汚点だった。
「どうだ、信じてくれるか?」
土下座をしている東城先生を見やる。
あのとき、中庭には柊とかえでしかいなかった。クレープの約束を知っているのは柊だけだ。ということは、柊がかえでに遺言を残したという東城先生の話は本当だったのだ。
かえでは自分が恥ずかしかった。
東城先生がよく嘘をつく先生であることは事実だ。
しかし、それで何でも嘘だと決めつけるのは、愚か者のすることだ。
上に立つ者は、物事の真偽を的確に見抜くべし――結局のところ、かえでは上に立つ者として相応しい人間ではなかったのだろう。
拳銃を握っていた手を、だらんと下ろす。
それに、柊のこともある。
かえでは当時の出来事を忘れるべき汚点と考え、約束のこともなかったことにしようとしていた。柊の気持ちなど何一つ考えようとせず、自分のことばかり考えていた。
それに対して、柊はどうだ。
死ぬ間際においても他者のことを思い、約束を守れなかったことを謝罪する言葉を遺す。
柊のような人物こそが、上に立つべき者だったのだ。
結局のところ、かえでは才能もなければ、上に立つ者としての資格もない――かつての同級生との約束すらも蔑ろにする、ただの人でなしだったのだ。
ぼんやりと虚空を見つめていると、手首に感触があった。
いつの間にか目の前に東城先生が立っていて、拳銃を持っていたかえでの右手を掴んでいた。
抵抗する気はなかった。これまでは学園で自分よりも下の生徒に手を差し伸べて、何とか自尊心を保ってきたけれど、限界だった。
柊との一件で、完全に心が折れてしまった。
生きる気力さえ、もはや湧いてこない。
かえでの右手が、拳銃を持ったまま、ゆっくりと持ち上がる。
右のこめかみに、ひやりと冷たいものが当たる感触があった。
「いい夢を」
耳元でそう声がして、かえでは意識を失った。