ピンチ
実習棟の二階。
東城先生の背中が見えなくなり、しばらく立ち尽くしていた将人は我に返った。
「これからどうすればいいんだ……」
デスゲームに唯菜が参加している。
今でも信じられなかった。
……いや、信じたくないだけだ。
目が覚めて東城先生からデスゲームの話を聞かされたとき、無意識のうちに唯菜が今回のデスゲームに参戦している可能性を排除していた。参加する生徒は各クラス一人――確率的には数パーセントでしかなかったが、唯菜が参戦している可能性は確かにあったのだ。
「最悪だ……」
生徒を殺すことに抵抗があったのは事実だが、鏑谷先生が生徒を手にかける場面を見て、その抵抗感も少し薄れた気がしていた。
今の自分ならひょっとして、鏑谷先生や東城先生と協力して生徒を殺すこともできるのではないか。そうしてデスゲームを生き残れるのでは……教師としてあるまじき思考だと分かっていたが、そんな風な考えが頭をよぎっていた。
だけど唯菜を見て、そんな考えは頭から吹っ飛んだ。
唯菜を殺す? 冗談じゃない。
唯菜がデスゲームを生き残る唯一の方法は、将人を含めた教師陣が全滅すること。
しかし、将人はもちろん死にたくなかった。
唯菜には死んでほしくないし、将人も死にたくない――袋小路である。
将人は身動きが取れなくなっていた。
「どうすればいいんだ……」
同じ言葉を繰り返し、先ほどから将人は悩みっぱなしだった。
「……とにかく、一度唯菜と話してみるか」
さっき唯菜と会ったとき、彼女は辛そうな表情をしていた。将人の読みが正しいのなら、唯菜もまた将人と戦うのを望んでいないはずだ。常夏の射撃を邪魔していたのも、自惚れかもしれないが、将人を守ろうとしてくれたのではないか。
「唯菜を探そう」
将人は歩き出してすぐ、再び足を止めた。
デスゲームが始まってから、一人で行動するのは初めてだった。暗い廊下の先から、いつ生徒が襲ってきてもおかしくない。底知れぬ恐怖が背筋を這い上がってくる感覚に襲われた。
落ち着け。落ち着くんだ。
将人は自らにそう言い聞かせるが、なかなか恐怖は消えてなくならない。
膝が震えて、立っているのも辛くなってきた。
廊下の壁にもたれようとしたとき、カツンとお尻のところで何かが当たる音がした。
――そうだ。これがあった。
将人は手を後ろに回して、その武器――アイスピックを手に取った。ズボンのポケットに刺して留めていたのをすっかり忘れていた。
武器を持つと、少し気持ちが落ち着いてきた。心なしか恐怖も安らいだ気がする。拳銃を握りしめていた新島先生も、こんな気持ちだったのかもしれない。
「行こう」
将人はアイスピックを片手に、歩き出した。
階段の手前で立ち止まる。
「上か、下か」
東城先生から唯菜たちは階段で逃げたと聞いたが、三階に上ったのか一階に降りたのかまでは聞いていなかった。
「下にするか」
悩んでいても答えが出ることでもない。
実習棟の一階へと降りた。
「……誰もいないな」
実習棟一階にある部屋も一通り見たが、人影はなかった。
渡り廊下を通って、教室棟の一階へ移動する。
「さて、順番に見て回るか」
三年一組の教室から見ようと思ったところで、パリンッと窓が割れるような音がした。
「上か?」
唯菜たちと東城先生が交戦しているかもしれない。
将人は踵を返して、急いで教室棟の階段を上がった。
二階の二年生の教室を走って見て回るが、誰もいない。割れた窓も見つからない。
「もう一つ上か?」
将人は階段を一足飛びで上がって、三階へ。
「――え!?」
三階に着いたところで、鏑谷先生が倒れているのを見つけた。
急いで駆け寄ると、一目で彼が死んでいるのが分かった。左胸に大きな穴が開いている。
鏑谷先生がやられるなんて……。
信じられないような気持ちだったが、将人はここに来た当初の目的を思い出し、一年の教室が並ぶ廊下へと向かった。
一年一組の教室の前を通るとき、割れた窓を発見した。
ここか!
教室の中を見ると、後ろの掃除用具入れの前に東城先生がいた。
彼女の頭上では、今にも天井を蹴って襲い掛かろうとする柊の姿がある。
将人は咄嗟に、東城先生を助けないと、と思った。
――これを使えばいけるかもしれない!
将人は手に持っていたアイスピックを振りかぶり、思い切り投擲した。
このときの将人は無我夢中で、とにかく東城先生を襲おうとしている柊を止めないといけない、という気持ちでいっぱいだった。
将人の投げたアイスピックは、尖った先端を進行方向に向けながら、割れた窓から教室内へ侵入した。
この後に起きた出来事は、奇跡と言っていいだろう。
アイスピックはそのまま一直線に東城先生たちのもとへと飛んでいき、ナイフを振りかぶっていた柊のこめがみに突き刺さったのだ。
柊の体は空中でぐらりと揺れて、東城先生に覆いかぶさった。
「――東城先生!」
将人は慌てて教室に入り、駆け寄った。
だらんと力を失った柊の体の下から、「稲村か」と言って東城先生が姿を見せた。
どうやら無事のようだ。
将人はほっと安堵の息を吐いた。
続いて将人は柊の様子を子細に見ようとして、絶句した。
柊の体が、ぴくりとも動いていないのである。
アイスピックが彼女のこめかみに深々と突き刺さっている。
「まさ、か……」
将人はその場でくずれるように両膝をついて、柊の顔をおずおずと覗き込んだ。
「――ひぃ!」
彼女の瞳には、もはや光がなかった。
柊は死んでいたのである。
――殺した? 自分が殺したのか?
吐き気に襲われ、堪えきれずにもどしてしまう。
「おいおい、大丈夫かよ」
東城先生が背中を手でさすってくれる。
とにかく吐けるだけ吐いた。
……口や喉が酸っぱくて気持ち悪い。
最悪の気分だ。
「一人殺しただけでこの有様じゃ、この先が思いやられるぜ」
この先――そうだ、唯菜はどこだ。
「唯菜は? 唯菜は無事なんですか?」
「はあ? 白川なら、あたしは知らねえよ。あれから見てないからな。あたしは柊と春日井と戦ってたんだ。春日井は倒したが、柊にはもう少しで殺されるところだった。お前が助けてくれなきゃ、死んでいただろうな。礼を言うぜ」
「いや、礼なんて……」
「何だよ。折角、人が感謝してやってるってのに。お前がしおれてたら、こっちまでテンション下がっちまうだろうが」
「……殺したんですよ」
「ああ? 何だって?」
「……俺は、殺したんですよ、柊さんを。……それなのに、普通でいられるわけがないじゃないですか」
「何だよ。その程度のことで、うじうじしてたのかよ」
「その程度? ふざけないでください!」
将人は叫んだ。
「おいおい、耳元で叫ぶなよ。耳がキーンってしたじゃねえか」
「俺は、一人の少女の未来を奪ったんですよ! ……殺すつもりなんてなかった。ただ俺は東城先生を助けようって、そう思って……」
将人は両手で頭を抱える。
「アイスピックを投げたのは、たまたま手に持っていたからなんです。柊さんのこめかみを狙って殺そうなんて、微塵も思っちゃいなかった。アイスピックの先が彼女の体を傷つけることすら、考えちゃいなかった。物をぶつければ、柊さんを止められるかもしれないって、そう思っただけだったんです。それがまさか。こんなことになるなんて……」
しばらく俯いていた将人は、ゆっくりと顔を上げた。いつまで経っても東城先生から返事がなかったからである。
東城先生は、冷めた目を将人に向けていた。
「ふざけるなよ」
冷たい声だった。
「いつまで寝ぼけたこと言ってやがる。現実逃避も大概にしろ。ここは戦場だ。戦って生き残るしかねえんだよ。殺すつもりはなかった? それが免罪符になるとでも思ってんのか。――はっきり言ってやる。お前が柊を殺したんだ。殺意があったかどうかなんて、関係ねえんだよ。それともなんだ。殺意がなかったから許してくれと、柊の幽霊に頭でも下げてるつもりか。もう一度言う。お前が柊を殺したんだ。目を背けてどうする。柊はデスゲームで生き残ろうと、智略を巡らして本気で戦いを挑んできた。殺し殺される覚悟を持って、このデスゲームに臨んでいた。お前が柊を殺したことから目を背けるってことは、柊のそんな覚悟すらも辱める行為だと、どうして気づかない」
「お、俺は別に、そんなつもりじゃ……」
「稲村。お前は確かに、柊たち生徒とは違って、事前にデスゲームのことを知らされずに参戦してる。誰かを殺す覚悟も、誰かに殺される覚悟も、する暇がなかった。それは認めてやる。あたしだって初めてのデスゲームのときはそうだったからな」
東城先生は肩をすくめる。
「だがな、それを言い訳にしたらダメだ。言い訳は敢えて足踏みしたいときにはもってこいだが、今はそんな暇ねえだろ。あたしたちは命懸けの戦いに参加してるんだ」
東城先生はコツコツと自分の首輪を指でノックしながら言う。
「足踏みしてたら、あっという間に首が持っていかれちまうぜ」
最後の言葉は、ピリピリとしていた空気を和ませようとしてくれたのだろう。
それから立ち上がろうとした東城先生だったが、途中でふらついて倒れそうになる。
「――東城先生!?」
慌てて彼女の体を支えた。
「大丈夫ですか!?」
触れた彼女の服は、汗でひどく濡れていた。近くで見れば、額にも大量の汗をかいている。
「ちょっと、躱し損ねてな」
彼女が手で押さえている左のわき腹は、どうやら出血しているようだった。暗い室内でも、その部分のシャツが変色しているのが分かった。
立とうとしてふらついたのは、貧血を起こしているからだろう。このまま放っておいたら命の危険にかかわる。
「止血しないと!」
将人は教員採用試験を受けるにあたり、アピールポイントの一つとして救命講習を受けたことがあった。その中で止血法も学んでいた。
「失礼します!」
将人は東城先生のシャツをたくし上げた。
くそっ! 暗くてよく見えない!
将人は急いで照明のスイッチのもとへ向かい、教室の電気を点けた。
「おい馬鹿! 電気なんて点けたら、居場所がバレちまうだろうが!」
「そんなこと気にしてる場合ですか!」
将人は一喝し、照明を点けたままにして東城先生のもとへと戻る。
「これは――」
左わき腹の一部がひどく抉れ、赤黒い血が流れ出している。
将人はポケットからハンカチを取り出して広げ、患部に押し当てた。本当なら未使用の清潔なハンカチにすべきで、綺麗なビニール手袋なども着用し、感染予防に努めるのがベストなのだが、この状況で贅沢は言っていられない。
怪我をしてから時間が経っているのか、凝固した血で傷口は塞がりつつあるようだ。ハンカチも思ったほど血で染まっていない。
このまま患部を圧迫し続ければ、ほどなく出血も治まるだろう。
「あたしが押さえる。いいから電気を消してこい」
将人の手を払いのけるようにして、東城先生が自分でハンカチを上から押さえた。
「……分かりました」
患者から目を離すのは気が引けたが、この状況で襲われたらおしまいなのも確かだった。
将人は照明スイッチのもとへ走り、消灯する。教室は再び暗闇に沈んだ。
「――移動するぞ」
東城先生はそう言って立ち上がろうとしたが、傷口が痛むのか、ふらついて近くの机に手をついた。
「無茶です! しばらく安静にしていないと!」
「……ダメだ。明かりに気づいた生徒がやってくるかもしれねえ」
意地でも教室を出て行こうとする東城先生に、将人は肩を貸した。
「……稲村」
「ここで東城先生に倒れられたら、寝覚めが悪いですから」
「言うじゃねえか」
苦しそうな表情をしていた東城先生が、にやりと少しばかり口角を上げた。
将人たちは扉を開けて、一年一組の教室を出た。
「どこに移動しましょうか。長い距離を歩くのは無理でしょうから――」
「いや、いける」
そう言う東城先生は、かなり辛そうだ。
「無理ですって。移動すること自体も本当は控えたほうがいい状態なんですよ、東城先生は。さっきは俺が譲歩したんですから、先生も少しは俺の言うこと聞いてくださいよ」
「……仕方ねえな」
「移動先は、隣の二組の教室にします。それならすぐそこですから」
「いや、三組にしてくれ。一つ隣だと、明かりの位置を見間違えたと思って、二組まで見に来るかもしれねえ。二つ隣の三組なら、さすがに見に来ないだろ」
「……分かりました」
東城先生の体を支えながら、亀のような歩みで三組へと向かった。
「――ふぅ。これで一安心ですね」
三組の教室の奥のほう――廊下からは見えにくい位置に腰を落ち着ける。
「東城先生、横になったほうがいいですよ」
「……いや。寝てたら、襲われたときにワンテンポ遅れちまう。本当なら立っていたいところだが、それはさすがに体力が持たないな」
東城先生は教室の壁に背を預けて、床に腰を下ろしている。片膝を立てた格好だ。
「しばらく安静にするとして、……その体じゃ、もう戦えませんよ」
「うるせえ。あたしは戦うぜ」
「無理ですって! 激しく動いたら、また傷口が開きますよ。……ただでさえかなり出血していて、死んでもおかしくないくらいの状態だって言うのに、これ以上は本当にマズいです」
「どのみち、ここでじっとしてても、生徒に殺されるか爆発で首が吹っ飛ぶかして死ぬわけだ。だったら戦って、勝って、そんで生き残る――その可能性に賭けるしかねえだろ」
「それは……そうかもしれませんけど」
「それともなんだ。稲村、お前が残り二人の生徒を殺してくれるってのか。――白川もいるっていうのに」
「……唯菜とは、一度話そうって思ってました」
「話してどうなる。生徒と教師がともに生き残る可能性は、理事長のクソ野郎のせいで徹底的に排除されてる。話してたらタイムリミットの六時になって、全員ドカンだ」
東城先生は教室の前の掛け時計を一瞥する。
「もう四時過ぎだ。残り二時間。六時なんてあっという間だぜ。こうしてのんびりしていられるのは、あと一時間ってところだろう」
「一時間? でもタイムリミットまでは二時間あるんですよね?」
「よく考えろ。二時間ものんびりしてたら、六時になって首輪が爆発しちまうだろ。その前に決着をつける必要がある。この首輪は、生徒側か教師側のどちらかが全滅したら、その時点で解除されて外れる仕組みになってる。あたしがこれまでに参戦したデスゲームだと、五時になっても首輪が外れていない――つまり決着がついていない場合は、それまで身を隠していた奴らが全員校舎を歩き回って、敵を探し始めるのが常だった。悠長に隠れてなんかいたら、敵を殺しきれずにタイムリミットになる危険があるからな」
「なるほど」
「のんびりしていられる時間があと一時間って言ったのは、そういうわけだ。あたしたちも五時になったら廊下に出て、白川たちを探すぞ。このまま教室に身を隠したまま爆発で死ぬのは御免だからな」
「分かりました。……一つお願いがあるんですけど、いいですか?」
「何だ、言ってみろよ」
「唯菜たちを見つけたら、戦う前に唯菜と少し話をする時間をくれませんか?」
「話したら余計に未練が残るだけだと思うぜ」
「……そうかもしれません」
「ま、それくらいならいいけどな。間違っても変な気は起こさないでくれよ」
変な気? どういう意味だろう。
「タイムリミットまで白川と二人で逃げ回って、首輪の爆発で無理心中を図る、とかだよ。そんなことしたら、あたしまでドカンと死んじまうだろ」
「しませんよ、そんなこと。そもそも唯菜が無理心中に賛成してくれるとは思えませんし」
「どうだかな――しっ!」
突然、東城先生が口に人差し指を当てた。静かに、というジェスチャーだ。
将人が首を傾げていると、
「誰か三階に来やがった」
耳を澄ませてみると、確かに、微かな足音が聞こえた。
「――二人分の足音だな。白川と常夏か」
将人たちの他に生き残っているのは、その二人だけ。やって来たのが彼女たちであることは間違いないだろう。
「どうしましょう?」
「……このまま立ち去ってくれるのを祈るしかねえ。今は体を休めたいからな。だが、もしこの教室に入ってくるようなら、そのときは――」
戦うしかない、ということだろう。
将人は息を潜めて、二人の足音に耳を澄ます――。
残り――教師二人、生徒二人。