8 エピローグ そして、日常へ――
それから、三週間が経った。
春の風が図書室のカーテンをふわりと揺らす午後、俺はいつもの席で、いつものようにページをめくっていた。
もう、あの奇妙な扉は姿を消していた。
あの事件が“なかったこと”になったわけじゃない。
けれど、表向きには浅倉 慎はただの長期入院扱いになり、裏生徒会の記録は“整理中”として処理された。
それでも、俺たちの記憶は、ちゃんと残っている。
あの黒い靄のことも、統一意識の最深部で選んだ答えも――
全部、嘘じゃなかった。
だから俺は、今日もここにいる。
自分の意志で、この図書室に。
「ねーねー、ソーマ君。今日もまた推理もの?」
ぱたぱたと駆けてきたのは、いつも元気な結月だった。
今日はポニーテールじゃなくて、珍しく髪をおろしている。
たまには雰囲気を変えてみたのかもしれない。けど、それに気づいたことは、今は言わないでおこう。
「うん。これはちょっと変わったやつ。“最後の一文を読んでから、最初に戻る”って仕組みになってる」
「え、なにそれおもしろそう! 貸して貸してっ」
「まだ俺が読んでるんだけど……」
「じゃあ、読み終わったら一緒に“感想会”ね! はい、確定!」
ぱん、と手のひらを合わせて、自分だけで決定してしまう結月。
けど、そういうとこも嫌いじゃない。
むしろ――。
「よーお、真面目組。また図書室デートですかっと」
その言葉とともに、日差しの中から現れたのは蓮だった。
相変わらず制服はゆるゆる。上着は引っかけるだけでネクタイは省略、という見た目なのに、なぜか許されてしまう男。
その理由は、きっと彼の“まっすぐさ”にあるんだろう。
「で、例の裏生徒会の話、続報ないの?」
「ないよ。こっちは何も。“表”も沈黙してる」
「まぁ、あんだけのことがあったらな……。でも、いまの学園は妙に落ち着いてるっていうか……むしろ普通になったよな」
蓮の言う通りだった。
不自然な規則や、よく分からない校内イベントも減った。
たぶん、裏生徒会はもう“解体”されたのだろう。
でも――それが本当に終わりかどうかは、まだわからない。
「ねぇ、ふたりとも……」
結月がぽつりと呟いた。
「私たちって、たぶん……もう、前と同じじゃいられないよね」
その言葉に、俺も、蓮も、一瞬言葉を失った。
けれど、たしかにその通りだった。
あの迷宮をくぐり抜けて、誰かの心に触れて、自分の中の大切な何かを知って――。
もう、単なる“クラスメイト”とか“幼なじみ”って関係だけじゃ、言い表せない。
俺たちは、ちゃんと知ってしまったのだ。
それぞれが抱えてきた孤独、願い、そして――選択。
「……でも、別に前と“違う”のが悪いってわけじゃないだろ」
蓮が、不器用に言葉を選びながら言った。
「俺たちは……変わった。だからこそ、今の関係をちゃんと、大事にしたいって思えるようになった。違うか?」
「……ううん、違わないよ」
結月が、にこりと笑う。
「ありがと、蓮くん」
「お、おぅ……って、今のは告白じゃないよな?」
「違うよーだ!」
あはは、と結月が笑って、蓮が苦笑いする。
そのやりとりを見て、俺も静かに目を伏せる。
きっと、こういう空気が――日常なんだろう。
たとえ不安定で、完全じゃなくても。
――ガサッ。
そのとき、書架の奥からかすかな物音がした。
「……ん?」
俺が振り返ると、誰もいないはずの隙間から、ふわりと黒いしっぽが覗いた。
「ミョルニャ?」
思わず呼びかける。
けれど、そこにいたのは――
「……やっほう。また会ったわね」
しれっと現れたのは、あの黒猫――クロノニャだった。
あいかわらず、金の鈴を首に下げ、紅と蒼の目を細めている。
「な、なんでお前がここに……!」
蓮が声を上げたが、クロノニャはひらひらと尻尾を振った。
「ご挨拶に来ただけよ。あの後、統一意識は静かに眠りについた。完全な終わり、とは言い切れないけれど、当分は大丈夫でしょうね」
「じゃあ、これで“本当に終わり”ってこと……?」
「終わりでもあり、始まりでもある。だってあなたたち、選んだじゃない。“個”として在ることを」
クロノニャの視線が、俺たち三人をなぞる。
「だから、これからも悩み、迷い、時にはぶつかることになる。でも……それが“人間”ってものでしょ?」
俺は頷いた。
「それでも、俺は“誰かと向き合う”ことを、選んだから」
「ふふ……立派になったじゃない」
クロノニャはくすりと笑った。
「じゃ、わたしはこの辺で。また“扉”が開かれるその時まで」
言い残して、クロノニャは書架の影へと消えていった。
……まるで夢みたいに。
「……やっぱり、普通じゃないよな、俺たち」
蓮が苦笑混じりに言う。
「でも、普通に見えるようにするのが、俺たちの仕事なのかも」
「え、なにその名言っぽいの。ちょっとかっこいいじゃん、蓮くん」
「おう。ちょっとぐらい見直したか?」
「んー、まぁ、ちょっとだけ?」
そんなやりとりが自然にできるようになった今、確かに何かが変わった気がした。
そのとき、結月がふと、俺のほうを見て言った。
「ねぇ、ソーマ君。さっきの本、読んだら一緒に感想言い合うって約束、忘れてないよね?」
「もちろん。……でもたぶん、君のほうが感想を語る時間、長くなりそうだけど」
「当たり前でしょ! 本の感想は“愛”を語る時間なんだから!」
その言葉に、蓮と俺は顔を見合わせて吹き出した。
夕陽が差し込む図書室。
俺たちはまた、ここから始まる。
次は、どんな“ページ”が開かれるのだろう。
――それは、まだ誰にもわからない。
けれど。
もう、“ひとりきり”ではない。
きっと、それだけで十分だ。
― Fin ―