4 それぞれの記憶、そして扉の先へ
扉が開いた。
ふわりと、甘い花の香りが漂ってくる。
「……なんだろ、ここ。さっきまでの空気と全然ちがう」
結月が不思議そうに辺りを見回しながら、スカートのすそをそっと押さえた。
目の前に広がっていたのは、緑に包まれた庭園だった。空は夕焼けに染まり、花壇には白や黄色の花が風に揺れている。まるで夢の中の世界のようだった。
「……あれ、ここってさ」
蓮がぽつりと呟いた。
「俺たち、前に来たことあるよな。小学校のとき――ほら、理科の校外学習で」
「あっ、思い出した! そうそう、このベンチ、私ここでお弁当食べたんだよ!」
結月がぱぁっと笑った。その顔があまりに無邪気で、俺は思わず見とれてしまった。
「しかもその時さ、結月、ゆで卵落として泣きそうになってなかった?」
「い、言わなくていいってばっ!」
頬を赤く染めて、ぷくっとむくれる。けど怒ってるわけじゃなくて、むしろ照れてる感じ。まるで小動物みたいで、ちょっと可愛かった。
「でもさ、この記憶……なんで出てきたんだろう?」
「個人的な思い出が、記憶の迷宮に現れるってことは……これ、たぶん“俺たちの記憶”なんじゃないか?」
そう、これはもう他人の記録ではない。今度は、俺たち自身の記憶と向き合う段階に来ているのだと直感した。
「つまり……自分の過去のどこかに、謎を解くヒントがあるってこと?」
「そういうことにゃ」
ミョルニャが、俺の足元からぴょんと飛び乗ってきて、軽やかにしっぽを揺らした。
「この階層では、君たち三人それぞれの“鍵の記憶”が具現化されるにゃ。それぞれが、自分の過去の中に入り、“鍵”を見つけ出さなければならないにゃ」
「鍵って、また物理的なやつじゃないんだよな?」
「そうにゃ。記憶の中にある、言葉だったり、感情だったり、想いだったり――何かしらの“つながり”にゃ。それを見つけることで、次の扉が開かれるにゃ」
「ふぅん……なんかロマンチックだねぇ」
結月が花を摘みながら、くすっと笑った。風で髪が揺れて、花びらが肩に落ちる。その姿に、なんとなくドキッとしてしまった俺は、そっと視線を逸らす。
「さてと、そろそろ分かれるにゃ。三人とも別の記憶に入ることになるにゃ」
「え、バラバラになるの?」
「にゃ。記憶の扉は一人ひとりにしか反応しないにゃ。けど、だいじょーぶ。迷っても、ちゃんと戻ってこれるようにしてあるにゃ」
「……うぅ、ちょっと心細いかも……」
そう呟いた結月の声は、小さく震えていた。
俺はそっと彼女の肩に手を置いた。
「大丈夫。ちゃんと戻ってくる。お互いに、必ず会おう」
「……うん」
結月は小さく頷いた後、少しだけ目を細めて、笑った。
「じゃあ、ごほうびにそうま君の秘密、一個聞かせてもらおうかな? 無事に帰ってきたら」
「……なにその条件?」
「えへへ、内緒」
そして三つの扉が、静かに開いた。
***
俺の目の前に現れたのは――小学校の図書室だった。
本の匂い、木の床、静かな空気。その中で、一人の少年が机に向かって本を読んでいる。
――自分だ。
それは、俺の過去の記憶。誰とも話さず、ただ本の世界に没頭していたころの俺。
「……ああ、そうだったな」
あのころ、俺は“ひとりでいること”が普通だった。本を読んでいる時間が一番落ち着いて、誰かと話すのは、ちょっとめんどくさかった。
でも――。
視界の端に、小さな足音が響いた。
「あ、また読んでる~! ほんと、そうま君って本好きだよね!」
花のように現れたのは、結月だった。小さなランドセル、小さなリボン。そして、変わらぬ笑顔。
「ねぇ、ねぇ、私にも読んでって! 読めない漢字あるから、教えてほしいな~」
そうやって、ぐいぐいと距離を詰めてきた結月に、当時の俺は戸惑っていた。けど、あの瞬間から、少しずつ世界が変わっていった。
“本の中だけじゃなく、誰かと一緒にいる世界も、悪くないな”って。
(……これが、俺の“鍵”?)
そして、今の俺にとって、それは――。
「よし、わかった。見つけたよ」
***
扉の前に戻ると、すでに結月と蓮が立っていた。
「遅いよー、そうま君。私、怖くてちょっと泣いちゃいそうだったんだからね?」
ぷくっと頬を膨らませて言うけれど、目元はほんのり赤い。
「ほんとに泣いたのか?」
「泣いてないもん! ちょっとだけ、しょぼしょぼしただけ!」
「それ泣いてるっていうんだよ」
蓮がぼそっと突っ込む。
「……でも、よかった。二人とも戻ってきて」
結月がふわっと微笑んだ。あの笑顔を見ると、ほんとに戻ってこられてよかったと、心から思う。
「おかえり、ってことでいいかな?」
俺も笑って頷いた。
「ただいま。次の扉も、三人で行こう」
ミョルニャが尻尾を一振りし、再び扉を開いた。
その先には、深く、謎に満ちた空間が広がっている――。
だが、俺たちはもう、迷わない。
“鍵”は手に入れた。
――それは、記憶の中で交わされた、たった一言。
「一緒にいよう」
その想いが、どんな迷宮よりも強い“つながり”になると、俺たちは知っているから。