分界
台湾人です、日本文学が好きから、練習として日本語で文章を書き始めた。
内容、文型、言葉などに意見や感想があれば、是非お教えください。
少し冷たい風が頬をかすめて、生理的な反応で目を細めた。あらためて目を開けると、目の前にあるのは金色の海だ。それは毎年この季節になると、故郷で必ず見える風景だ。
「お前そんなとこで何やってんの?」
馴染みある声が耳にした。その声方向に目を向けると、声の主が金色の波間に立っていた。腰に手を当てて、呆れたような表情でこちらを見つめている。まるで、いつまでも子どもじみた弟を見守る兄のように。
俺はその場に立ち尽くしたまま、兄を黙って見つめていた。数秒の沈黙経ってから、ようやく歩を進めて、兄のところに向かっいる。
「ぼーっとしててどうしたの?警告しとくけど、今の時期は稲の収穫前なんだから、田んぼに入ったら大人たちに怒鳴られるぞ。遊びたいなら、収穫が終わってからにしな。」
兄は俺が田んぼに入って遊ぼうとしていると勘違いしているらしい。大人ぶった口調で、真剣に注意を促してくる。でもその声色には、どこかどうしようもない優しさが滲んでいた。
「優しさ」と言えば聞こえはいいが、言い方を変えれば「甘さ」だ。正しい立場に立っているのに、他人を傷つけたくないから、できるだけ物事を丸く収めようとする、不器用な人だった。
「ううん、なんか……少し疲れてた。」
「そっか。まあ、もう夕方だしな。そろそろ帰ろう。」
俺は軽くうなずいた。それに安心したように、兄はまたあの優しい笑顔を見せ、俺の前を歩き始めた。俺はその背中を追い、揺れる金色の稲の波をかき分けるようにして帰路についた。
風にそよぐ稲穂の間を通り抜ける中、畑で働く農夫たちや、細い農道を自転車で走る村人たちが次々と俺たちに声をかけてくる。この田舎では、ほとんどの村人たちがお互いをよく知っている。特に兄は、学校の成績が良く、人柄も真面目で礼儀正しいことで有名で、この辺りでは知らない人の方が珍しいくらいだ。
皆はまるで稚苗の成長を見守るように、兄の将来を期待している。
「もし彼が都会の大学で知識や経験を積み重ねて戻ってきたら、どんな立派な人間になるのだろう」――そんな軽い期待を抱いてる。
突然、地面が激しく揺れ始めた。風に揺れていた稲穂の海は、一瞬にして嵐に巻き込まれたかのように、ざわめきと不安を露わにした。
だが、周囲を見回すと、皆いつも通りに作業を続けている。何も起こらなかったのように、まったく気にする様子もない。まるで、こんな揺れは日常茶飯事だとでも言わんばかりに。
「どうかした?」
立ち止まった俺を見て、兄は困惑してるか心配してるか分からない顔をして声をかけてきた。
それに対し、俺はただ軽く首を振って、「何でもない」と伝えてた。
俺はよく分かっている。
この頃、「異常」なのは俺の方で、兄たちの反応こそが「普通」なのだ。だから俺も何事もなかったかのような顔で、兄の後を追った。
***
しばらく歩くと、農地を抜けて住宅地へと入っていく。ちょうどその境界に、一本の警告看板が立っている。そこには、どこかで見たような、古臭い注意文が書かれていた。
『防犯カメラ24時間作動中。』
『不審者注意!』
『異常を見かけたら警察通報。』
だが、この村の住民なら誰でも知っている。そんなカメラなど存在しないし、警察もほとんどこち来ることがない。せいぜい交番の周りをぐるっと回って、どこかに隠れてサボっている程度だ。
この看板も、田んぼに立つ案山子と変わらないようなものだ。悪ノリする子どもたちにとっては、ただ石投げの的にすぎない。
しかし俺の目には、それは限りなく皮肉で、不快で、嫌悪感しか覚えない。
「ウケるな、これ。」
看板の前を通り過ぎるとき、兄が鼻で笑いながら言った。
「聞いた話だと、前の町長が設置させたんだってさ。地方発展の評価で『治安対策』が加点になるらしくて、こんなのいくつか立てて、小学生のようにポイントを一生懸命に稼げてる。あの町長もこの土地の出身だったけど、出世して都会に行きたくて必死だったんだ。だから、こんななんの役にも立たないことにばっかり予算使ってさ。どうやったらあんな奴が町長になれたのか、不思議だよな。」
でも、現実には、この土地で暮らしている人たちもこんなことにあまり興味ない。
『やりたい人がいるなら任せればいい』
こんな田舎に何かが変わるなんて誰も信じていない。誰がやっても同じだ。だから、あんなうまく立ち回る奴が町長になり、そしてちゃんと都会へ昇進して行った。
なのに、兄はあいつらと違うんだ。彼はこの土地を心から愛していた。この村を変えたいという想いがあったからこそ、真面目に勉強し、地域活動にも熱心に取り組んでいた。
都会に行きたかったのではない。いつかこの村を変えるために、都会へ行く必要があると思っていたのだ。
「監視カメラやパトロールなんかなくてもいいけどさ、せめて街灯くらい増やしてくれよ。夜になるとこの辺、ほんと真っ暗で何のくそも見えないんだ」
兄は狭い道を歩きながら、口の中では依然として不満が止まらない。
夕日が沈み、家々からは夕食の香ばしい匂いが漂ってくる。草と土の匂いと混じり合い、どこか懐かしさを誘う。窓の向こうからは子どもたちの笑い声が聞こえてきて、うるさいけれど心が和む。
田んぼと住宅の間を通り抜け、小道をいくつか曲がった先に、我が家へと続く細い裏道が現れる。そこには一つの街灯もなく、あたりは漆黒の闇に包まれていた。
けれど、この道を通る人は限られている。うちの家族を含め、皆この道に慣れている。足元が見えなくても、大抵の人は問題なく歩ける。
虫の声も、風の音も、月明かりもない。静かな秋の夜道を歩く。聞こえるのは、俺たち二人の足音だけ。遠くに、我が家の明かりが見え始める。父はもう帰ってきているはずで、母は夕飯の支度をして、俺たちの帰りを待っている頃だ。
しかし、この一目美しく平和な瞬間、再び地震が起きた。しかも先ほどよりも、はるかに大きな揺れだ。家の入口まであと数歩の距離なのに、俺はそこでもう一度足を止めた。
「どうした?」
兄が振り返り、俺の顔をのぞき込む。何かを言いたげに、だが言葉にならない様子だった。
俺はそんな兄の目を見つめ、内心に秘められていた強い感情が抑えきれず溢れ出し、思わず拳を握りしめた
目を閉じ、浮かぶのは、今日見た黄金の海、あの憎らしい看板、そして兄のその見飽きた笑顔。
目を開け、目の前にあったのはその見慣れているはなのに、なぜか少しだけ違って見える顔だった。
「ごめん、ちょっと思い出したことがあって……兄は先に帰って。」
「え?こんな時間?何か忘れたの?じゃ、一緒に戻ろうか。」
「いいや、一人で大丈夫だ。」
「でも……」
「俺は、もう子どもじゃないから。」
俺は兄の目を再び見つめていた。今度は迷いも隠し事もなく、意志と覚悟を余すところなく示した。それは、今まで兄に見せたことのないものだった。
兄は俺の目を見つめ返し、どこか満足そうに微笑んだ。
「そうだな。お前はもう……子どもじゃないもんな。なら、行ってらっしゃい。」
「……うん。じゃあね、兄さん。」
そう言い残し、俺はさっき通ってきた暗い道の方へと向き直った。兄の気配はまだそこにあったが、俺らは互いに何も言わなかった。
その瞬間、大地の揺れはさらに激しくなり、空さえも裂けていく。そして俺は、ゆっくりと目を閉じた――
***
目を開けると、見慣れているはずなのに、どこかよそよそしく感じる天井が視界に入った。耳に飛び込んできたのは、けたたましいアラームの音。
俺は身を起こし、部屋を一望した後、スマートフォンを手に取り、アラームを止めた。そのとき、上司からの重要なメッセージに気づいた。
『君が追っているあの事件に、新しい手がかりが見つかった』
その一文に、胸の奥から込み上げる強い衝動が、俺の眠気を一気に吹き飛ばした。俺はベッドを飛び出し、急いで出勤の準備を始める。勤務開始まではまだ時間があるが、今すぐにでも出かけなければならない、そんな気がしてならなかった。
顔を洗い、着替え、必要な物を手早く整えた後、本棚の上に置いてある警察手帳に手を伸ばした――そのとき、すぐ隣にある写真立てが目に入った。
手帳に伸びかけた手は、自然と写真へと向き変えた。その写真には、兄と俺が並んで写っていた。大学進学で兄が都会へ旅立つ直前に撮ったもので、『帰ってきたとき、その頃の自分と比べるために』と言って、記念に撮った一枚だった。
だが、兄の時間は――ずっとあのときに止まってしまった。
写真をそっと棚に戻し、警察手帳をズボンのポケットに滑り込ませる。そして引き出しを開ける。中には黒光りする拳銃が静かに収まっていた。それをホルスターに収め、俺はアパートのドアノブに手をかける。
朝の日差しが、狭い部屋の中へと差し込んできた。部屋から出て、俺はもう一度、棚の上の写真を見つめる。
「もう少しだけ、待っててね、兄さん。俺は必ず……」
ゆっくりとドアを閉めて。部屋に射し込んでいた光は徐々に細くなり、やがてその終点には、故郷で撮ったあの写真が静かに佇んでいた。
写真の中で、俺は不機嫌そうに顔をそむけている。兄は、どうしていいか分からないような、困った笑みを浮かべていた。
ドアが完全に閉まるとともに、その写真も再び、闇と静寂の中へと戻っていった。