境界に立つ
黒壁の前で救われ、記憶を無くした男に与えられたのがナナシという名前だったはずだ。
だが出会う誰もが自分のことをアルトルという男として見てくる。
その事実を前に今まで積み上げてきた何かが根底から崩れ去っていくように感じた。
自分がいることで救われていたのは一体どちらだったのだろうか。
「おーい、ナナシ。聞こえてるか?」
「なんだ?」
「平気か、顔が真っ青だぞ。」
「……大丈夫だ。そういえば何か言ったか?」
「だからあんたはテルとどこで知り合ったんだって聞いてんだよ。あんたあいつと一緒にいたんだろ?」
「それは……黒壁の前でだが……」
「黒壁?なんでそんなところに……」
「わからない。自分の最初の記憶はそこで目覚めたところからだ。」
どうしてテルがアルトルの存在を隠していたのかはわからない。
自分がアルトル本人かどうか真偽はわからなくてもテルにとって自分という存在は都合がよかったはずだ。
アルトルと容姿が似ていて、それでいて記憶のない男。
アルトル本人と扱っても誰も疑わない。
「自分が……もし本当にアルトルだとしたら、亜人たちを救うことはできるだろうか?」
「救うだぁ?どうしてそうなる。自分がアルトルかもしれないからか?」
「違う!もう自分は亜人たちと関わっているからだ!自分は……救われた。記憶もなくして行き場もなかった自分を彼らは受け入れてくれた。だから……」
そう。だから……なのだ。
救われたから救わなければいけない。アルトルが亜人を救おうとしていたと知ってその思いはなお強くなった。
それだけが何者でもなくなった自分ができることだと思うから。
「だから世界を敵に回しますってか?馬鹿じゃねぇのか?んなもん理由になってねぇんだよ。」
「だったらこのまま亜人たちを見殺しにしろとでも!?」
「あんたにアルトルとしての記憶があればそう言うかもな。」
「…自分、に?なにを……言って……」
「あんたに記憶がねぇってんなら真相は誰にもわからねぇ。アルトルのやつがどうして亜人どもを救おうとしていたのか知らねぇよ。あいつは世間で言われるように何も語らない王様だった。それは俺だけじゃなく他の奴らにだって皆そうだ。アルトルは何も語らずいなくなった、亜人のやつらが王都に攻め込んできたその日にな。」
「亜人がって……」
ジルが何を言っているのか一瞬わからなかった。
アルトルは亜人を救おうとしたはずだ。そして亜人たちもそれを望んだはずだ。
お互いの願いが一致しているのになぜ亜人たちが王都に攻め込む事態になるのか、理解が追い付かなかった。
「なぜ、って顔だな……そりゃそうだ、俺たちもそうだった。だが知らせを聞いて現地に着いたはいいもののそこには何もなかった。亜人はいない、あるのはいつも通りの日常だけ。だが丁度その時だ、王城の方で派手な爆発が何度か起こった。」
「爆発って……」
「何があったかは知らねぇが俺たちが戻った時にはすべてが終わった後だった。残ったのは燃える城に騒ぐ民衆。騒ぎを鎮静化させた頃にはいつの間にかそれらが亜人どもの仕業ってことにされてた。そのころからだな教会の権力がこの国でも強まりだしたのは、もうその時にはあの偽物が城の中にいたんだろうぜ。
まぁなにはともあれアルトルのやつは失敗した。今となってはあの時より状況が悪い。なにせこの国はその偽物に乗っ取られちまってる。あんたは亜人のやつらにとっても、この国のやつらにとっても喉から手が出るほど欲しい存在だってわけだ…自分の置かれてる状況が理解できたか?それで記憶がないあんたに何ができるってんだ?」
――――何ができるのか。そう問われても何も思い浮かばない。
ジルの話を聞く限りでは絶望的な状況に思えた。
危機に瀕した国、亜人の救世主、待ち焦がれられたアルトルという人間。
アルトルという人間がどういった人間かはわからない。亜人とアルトルという人間の間に何があったかはわからない。だがどうにも腑に落ちない点があった。
亜人が人間を……少なくともアルトルを憎んで国に攻め込んだとは到底思えなかった。むしろその逆なのではとも思う。
関りこそ少なかったが実際亜人たちと触れ合い、語り合ったからこそわかる。仮にとはいえ村に受け入れられた自分が村にいた数日間で亜人たちに害されることはなかった。
それに……自分に害を加えたラントの影響で自分は村を出てここにいる。
そうでなければ自分はアルトルという人間の存在を知ることすらなかった。
そう思うと自分が果てもない奇跡の上にこの場所に居ることを実感する。
黒壁の前で目覚めたこと、テルや亜人に出会ったこと、アルトルの素顔が知られていないおかげで兵士たちに素性が割れなかったこと。レイアに救われ、この場所に辿り着けたことだってそうだ。
まるで何者かの計画に訳も分からず乗せられているかのような不気味ささえ感じるが、自分はそのおかげで生存している。
それも全て自分の容姿がアルトルと似ていることが起因している。
「アルトルは…………魔法が使えたりしたのだろうか。」
「どうだかな……だが否定もできねぇな。だがだとしたら納得だ、自分自身が魔法使いだと自覚してたら世界を敵に回してでも亜人を助けようとしたかもな。」
同じ迫害を受けた者同士。自分たちの居場所を守るために世界を敵に回す。アルトルはこの国の王様でそれができうる立場にいて、皮肉にもそれは亜人を救おうとした初代星王の行いと同じものだ。
祖先が果たせなかった宿願と自らの理想が重なった時それをやらない理由はない。
「だがそうなると解せないことがある。」
「なにがだ?」
「テルだよ。あいつならアルトルが魔法使いだったかどうか知っていて不思議ではないがよ、どうしてあんたにアルトルのことを伝えていない?その面だ、いくらでも利用しようがあったはずだ。」
ジルの言う通りだった。テルの口からアルトルの名を聞くことは一度としてなかった。
事ここに至ってテルの目的だけが見えてこない。
「あいつが亜人を見捨てることはないはずだ。だってのによ――――」
「どうしてテルが亜人たちを見捨てないと断言できるんだ?」
「どうしてって……そりゃあいつが未だに亜人のやつらと行動を共にしてるのが理由だろ。あいつはアルトルの意志を継いでいるはずだ。なにせあいつはアルトルの先生をやってたくらいだしよ。」
「テルが……先生?生徒ではなくて?」
「はっ、確かに見た目じゃそう見えるかもな。だがあいつは俺がこの国に来た時にはすでにいやがった。大概得体のしれねぇやつだよ、八年経って見た目の一つも変わりゃしねぇ。」
思えばそうだ。少なくともテルは八年前からこの国にいることになる。見た目は少女にしか見えないがいつしか本人が言っていたように大人だということだ。
「……アルトルの先生をしていたって……アルトルはいくつだったんだ。」
「歳は十三ほどだったか?それから八年だ、あのままアルトルがこの国にいたら丁度あんたくらいの見た目になってただろうな。」
アルトルの年齢を聞いて夢の中に出てきた光景を思い出す。
燃える城に焼け落ちた建物、逃げ惑う人々の悲鳴が今も耳に残っている。
あれがただの悪夢などではなく自分の記憶だとしたのなら…………
――――この身は誰もがそう見るようにアルトルなのかもしれない。
そう思い初めて気味の悪い違和感に気づく。それぞれにアルトルという人間の見方が異なっている様に感じた。
アルトルを、ジルは国の王様として。レイアは守る存在として。ラントにとっては邪魔な存在、他の亜人たちは救世主と、テルは魔法使いだと言った。
皆同じような目的を持っておきながら見え方が全く異なっている。それが誰かに意図的にそう見せられているような気味の悪さを感じた。
アルトルという一人の少年はいたのだろう。アルトル・ルナゾフィアという王様はいたのだろう。
だがアルトルという人間を知ってなおその人物像が見えてこない。
本当にそんな人間がいたのか……まるでおとぎ話に出てくる存在を語られているような気分だった。
だったら自分はどうする?
訳も分からずその舞台に立たされた自分は何を選ぶ?
アルトルと似た容姿を持つものとして、国の王様に?亜人の救世主に?すべてを投げ出して名無しのまま生きることもできる。
――――その選択のために残された猶予はあまりに少なかった。
店の扉が開かれた。誰が来たのか、その姿を見なくてもジルの顔を見れば分かった。
「うぅぅぅ……お父さんごめんなさい。」
「ごめん、お父さん……テルさん強い。」
双子がテルに抱えられ店に戻ってきた。
話から察するにテルと一戦交えたのだろう。迷宮区に入ってどれだけ時間が過ぎたかわからないが、レイアと双子との戦いを経てここまで来たというならかなり早い。
扉が開いたせいで気温が冷えたのか、空気が肌に刺さるように感じた。
「俺を足止めしようとしてたってことは何かやましいことでもしてたのか。」
「誰も足止めなんか頼んでいない。近頃は物騒なんでな、そいつらに見張りを頼んでたってわけだ。」
「いつもはそんなことしてねぇだろうがよ。……まぁいい、今日はお前に用があってきたんじゃない。」
「そうだろうな。で?テル……お前が迎えに来たのはナナシか?アルトルか?どっちだ?」
テルはアルトルのことを隠してきた。アルトルのことはもう話したと伝えるようにジルは皮肉を込めテルに問う。
「俺はナナシを迎えに来ただけだ。なのにどうしてお前たちはそれを拒む?立ちはだかる?」
後ろにいるのはテルで間違いない、だがこれが本当にテルなのかとも思う。
記憶の中に残るテルとそのどれとも違う雰囲気を後ろから感じ取る。
得体の知れない何かに背後を取られたような恐怖でその姿を視界に写すことができずにいた。
空気が震えるのを肌で感じた。
ジルが気軽な様子で声をかけているがテルを最大限に警戒しているのがわかる。
ジルはナナシの体を陰に剣を隠し、いつでも応戦できるように剣の柄を握っていた。
「迎えに来たとは言うがよ、こいつは自分の意志でここまで来たんだぜ?それをまるで自分の物のいうように言う今のあんたはなんなんだ?テル、お前はこいつのなんだ?」
「お前こそどうしてナナシに入れ込む?守銭奴のお前がどうして何の見返りもなく話をする?」
「俺は別にお前のように亜人の味方ってわけでもねぇしな、レイアの姐さんの頼みだ。姐さんがナナシを守ろうってんなら俺もそっちにつく。たとえそれがテル、あんたと敵対することに――――」
「もう…………やめてくれないか……。」
両者を遮るように手を前にかざした。
一瞬の沈黙の後、先に口を開いたのはジルの方だった。
「そうかい……それがあんたの答えってわけか。」
ジルは意外なほどにあっさりと引き下がる。
意図したわけではないが掌はジルの方を向いていた。傍から見ればまるでジルを制止したように見えたことだろう。
レイアに時間を貰い、ジルに可能性を与えられ……結局自分が選んだのはテルの元に戻ることだった。
憐みを帯びた表情をするジルに何も言うことはできなかった。自分でもこの選択が何を意味するかは知っている。
テルが何を隠しているのかはわからない。それでもテルがアルトルの存在を伏せていたのには何か意味があるはずだ。
それがナナシに対してか、アルトルに対してか、どちらでも構わない。
ナナシとして扱われても、アルトルとして見られていても……今まで自分を必要としてくれたのはテルだけだった。
尊敬もいらない。感謝もいらない。誰かからの庇護も救いもいらない。求めているのは誰かに必要とされること。
そんな表情をされなくてももうわかっている。自分はテルに依存しているだけだ。
テルは自分を見捨てない。いいや、見捨てられないのだろう。だから今こうしてここにいる。
アルトルかも確証を得られない人間のために迷宮区まで追いかけてきた。
「――――世話になった、ありがとう。」
「まぁ、その選択が間違いとも言わねぇがよ……あんた、本当にもう逃げることはできねぇぞ。」
「………………。」
ジルの言葉に返事をする間もなくテルに手を引かれ店を出た。
ずっと――――そう言われてきた気がする。
テムズにレイアに……そしてラントにも、ずっと覚悟を問われていたのだろう。
何も知らないままでいれば幸せでいられただろうか?……いいや、そんなはずはない。何も知らずにいるのは苦しかった。
だからと言って真実を知ってもまだ覚悟も持てない。答えも出ない。
ラントに村を追い出されたときから何も変われていない。
未だに自分はあの黒壁の前から一歩たりとも前に進めていないのかもしれない。
店から出る灯りが迷宮区を照らした。
少し進むだけで光の届く限界を境界に迷宮区の闇がすべてを塗り替える。
前を進むテルの姿はもう見えない。自分の手を引く少女の手だけがその境界上に照らされていた。




