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第4話『揺れる水面、心、日々』

 ◇


 夏休みに入ると同時に、学校の空気はがらりと変わった。


 生徒たちは皆、部活の合宿に行く人、家族旅行の予定がある人、受験生として勉強合宿に参加する人など思い思いの計画を立てている。


 私の所属する陸上部も例に漏れず、遠方の山間にある合宿所へ行くスケジュールが組まれていて、私は「ハードそうだけど、楽しそう」と少しわくわくしていた。


 一方で、亜里香が夏休みをどう過ごすのか私は知らなかった。


 知ろうともせずにここまで来てしまったと言ったほうが正しいのかもしれない。


 ・

 ・

 ・


 夏休み初日、私は合宿の荷物をまとめて大きめのボストンバッグを抱え、朝早くから陸上部の集合場所である校門前へ向かった。


 同級生も先輩も既に集まり始めていて、顧問の先生が点呼をとる中、私もしばらくして合宿バスに乗り込む。


 バスの窓から見える校庭は、すでに蝉の声に満ちていて蒸し暑い空気を孕んだ夏らしい光景だった。


「よし、みんな揃ったな。じゃあ出発するぞ」


 先生の一言とともに、バスはゆっくりと学校を離れていく。


 私はそこでようやくスマートフォンを取り出し、亜里香とのトーク画面を開いた。


 夏休みに入る直前、ほとんど言葉を交わしていないまま別れたからなんだか緊張してしまう。


 ──どうしよう


「行ってきます」とでも送ろうか、でも返事がなかったらどうしよう。


 そんなことを考えているうちに、バスは既に街中を抜けて高速道路へ入っていた。


 ◇


 合宿所は山間の高原地帯にあり、空気が爽やかで虫の声もどこか涼しげに響いていた。


 ちなみに余りに暑いと蝉とかも熱中症にかかってしまうらしい。


 年々気温が上がっているから心配──ああ、そうだ、合宿の話だった。


 昼間は日差しが強く、トラックでの練習はなかなか過酷だ。


 早朝ランニングに始まり、午前のトレーニング、昼食後の筋力強化、夕方のタイム計測……。


 そんなスケジュールをこなすうち、私はあっという間に夜になってしまう毎日を過ごしていた。


 初日こそ新鮮な気持ちで臨んでいたが、二日三日と続くうちに疲労が蓄積し、合宿メンバーも皆口数が減っていく。


 それでも先輩たちと「あと少しだ、頑張ろう」と声を掛け合いながら、どうにかやっていけるのはありがたかった。


 合宿三日目の夜、私はようやく落ち着いてスマホを開く余裕ができた。


 部屋の相部屋の友人がすでに就寝している中、枕元にこっそりとスマホを持ち込みLINEをチェックする。


 すると、亜里香のアイコンが目に留まった。


 メッセージは来ていないけれど、どうしても気になってしまう。


 私は思い切って、短いテキストを打ち込んだ。


「合宿中でバタバタしてるけど元気? そっちはどう?」


 送信ボタンを押すと、既読がつくまでしばらくドキドキしてしまう。


 布団にくるまって天井を見上げ、微かな懐中電灯の光を頼りに時間を潰していたが、結局その夜は亜里香からの返事はなかった。


 ◇


 翌朝、私たちはまだ薄暗い夜明け前に起床し、山道を駆け上がるコースを走る。


 深呼吸すると冷たい空気が肺に染み渡って、気分がしゃきっとする一方、脚がじわじわと痛む。


 筋肉痛だ。


 帰り道、坂を下りながら、私はふと「亜里香と話したいな」なんて考えた。


 人間、心が弱ると普段から心の拠り所にしている相手の事を考えるらしい。


 私の場合は亜里香なのだろうか。


 ・

 ・

 ・


 そうして合宿最終日、私は何とかそこそこ満足のいくタイムを出すことができた。


 荷物をまとめてバスに乗る頃には身体じゅうがだるかったが、不思議と充実感があった。


 再び学校へ戻るバスの中、LINEを開いてみると亜里香からの通知。


 胸がどきりとする。


 ──「ごめん、ちょっと実家のほうに行っててスマホ見れなかった。合宿お疲れさま。そっちはどうだった?」


 その一文を読んで、私は思わず小さく笑みをこぼす。


 よかった、嫌われてはいない。


 でも同時に「実家に行ってた」というのが気になった。


 前に聞いた話だと、亜里香の実家は少し遠いらしく、母親との都合もあってなかなか行き来できないはず。


 何かあったのだろうか。


 ◇


 合宿から戻った翌日は夏休みとはいえ部活もオフで、私はひさしぶりに一日中家で過ごすことができた。


 洗濯や掃除を手伝ったり、合宿の荷物を片付けたりしながら、ずっと亜里香のことを考えている。


「実家って、もしかしてお父さんの実家かな……」


 彼女は小さい頃に両親が離婚したと聞いていたし、詳しい事情は私もよく知らない。


 もしかすると、そのことで何かあったのかもしれない。


 ふと、母が声をかけてくる。


「友里、合宿お疲れさま。今日は家でゆっくりするの?」


「うん、洗濯物片づけたら、ちょっとのんびりする」


 母は私の顔を見て、にこりと笑う。


「あの子、元気にしてるかな。……亜里香ちゃん」


 私は少し驚いて母を振り返る。


 母が亜里香を気にかけているのは当然として、私が気にしているのを見抜かれている気がして、なんだか照れくさい。


「……さあ、どうだろう。連絡はきたけど、実家に行ってたんだって」


 母は「そうなの」と言って、軽く頷いた。


 特に深追いはしないけれど、どことなく心配そうでもある。


 ・

 ・

 ・


 昼過ぎ、私は意を決して亜里香にメッセージを送った。


「合宿から戻ったよ。筋肉痛で死にそう。そっちはどう? 実家に行ってたって聞いたけど、何かあった?」


 しばらくして、亜里香から返事が来る。


「別に大したことじゃないけど、おばあちゃんが体調崩してね。お見舞いしてたの。今はもう大丈夫みたいだけど」


 読んで、私はすっと胸を撫で下ろす。


「そっか、大事にならなくてよかったね。……会える?」


 勢い余ってそんな一文を添えたら、一瞬指が震える。


 ──断られたらどうしよう


 もう少し自然な流れってものがあったんじゃないだろうか? 


 いきなり「会える?」って……


 既読がついて、数分の沈黙がやけに長く感じる。


 しかし、返ってきたメッセージは「明日ならいいよ」だった。


 嬉しさがこみ上げ、私は思わずスマホをぎゅっと握りしめる。


 ◇


 翌日、私たちは駅前のカフェで会うことになった。


 待ち合わせ時間より少し早めに着いた私は、落ち着かない気持ちでテーブルに座っていた。


 合宿で焼けた肌と、少し伸びた髪が自分でも気になる。


「やっぱりカットしてからにすればよかったかな」とか考えていると、入り口のドアが開き、亜里香が入ってくる。


 彼女はいつもの長い髪を一つに束ね、シンプルな白いTシャツにジーンズというラフな格好だったけれど、どこか疲れた表情にも見えた。


「やっ……久しぶり」


 私が声をかけると、亜里香は少しぎこちない笑顔で「うん……久しぶり」と返す。


 なんだか距離感がつかめず、私は席を立とうか迷ったが、とりあえず会釈して「ここ座って」と促した。


「どう、元気?」


 当たり障りのない言葉を投げると、亜里香は「うん、まあね」と曖昧に微笑む。


 メニューを開きながら、「私はアイスコーヒーにするけど?」などと会話しているうちに、ちょっとずつ空気が和らいでいく。


 カフェの店員がオーダーを取りに来て、二人それぞれ飲み物を注文し、ひと息つく。


 私は「合宿、マジでキツかったよ」と話し始め、しばらくは陸上部のエピソードや、先輩とのやり取りなどを話した。


 亜里香は聞きながら頷いたり、「ふーん、大変そう」と言葉を返してくれる。


 だけど、何か言いたげに視線を落とす仕草が気になる。


 ようやく一段落したところで、私は意を決して尋ねた。


「おばあちゃん、もう大丈夫なんだよね?」


 亜里香は少し驚いた顔をして、やがて小さく頷く。


「うん、まあね。入院してるけど、軽い検査で済むみたい。……それだけじゃないんだけどね」


 その言い方に、私は自然と身を乗り出してしまう。


「……何かあった?」


 亜里香はしばらく黙ったあと、小さく息を吐き出した。


「実家に行って、親戚が集まったんだけどさ。いろいろと言われちゃって、母のこととか、私の将来のこととか……」


 聞いてはいけないことかとも思ったが、ここで黙っていては何も変わらないと思い、「私に話せることなら聞くよ」と言葉を絞り出す。


 すると亜里香は、少し目を伏せながら「……バイトしろとか、もっと真面目に進路考えろとか、そういう話。まあ普通のことなんだけど、なんか自分には重くてさ」と呟いた。


 私はそれを聞いて、胸が痛んだ。


「そっか……。高校生って、いろいろ考えなきゃいけないことあるもんね」


 自分だって進路を考えなきゃならないのに、部活や亜里香とのことばかり気を取られて、まともに将来を見据えていない。


 でも、亜里香はもっと切実なのかもしれない。


 彼女は母子家庭で、家計の問題も絡んでいるらしいし……。


 ふと、亜里香が苦しげな顔で言葉を続ける。


「なんか、私には友里くらいしか頼れる人いないなって思っちゃった。だから……離れていくみたいで、焦ってたのかも」


 その言葉を聞いて、私は不意に息を呑む。


 夏の強い日差しが窓越しに差し込み、店内の観葉植物の影が長く伸びていた。


「……ごめんね、私、今年に入ってから余裕なくて。部活とかクラスのことで忙しくて、亜里香のことまでちゃんと見れてなかった」


 そう素直に謝ると、亜里香は少し目を丸くして、やがて笑みを浮かべる。


「ううん、私のほうこそ勝手に腹立てたり、避けたりしちゃって……」


 アイスコーヒーを一口飲みながら、私たちはしばらく黙った。


 けれど、その沈黙は以前のような気まずさではなく、どこか穏やかなものだった。


 ◇


「ねえ、夏休みって、部活忙しい?」


 話題を変えるように、亜里香が尋ねてくる。


 私は「うん、合宿は終わったけど、遠征とかあるかも。でも時間作れないわけじゃないよ」と答える。


 亜里香は「そっか」と、少し考えるように視線を落としたあと、「海とか行ってみたいんだけど……変かな?」と呟いた。


「海? いいじゃん。行こうよ!」


 即答した私に、亜里香は「本当に? 私、泳ぐのあんまり得意じゃないけど」と笑う。


「別に泳がなくたって、眺めるだけでもいいし、浜辺で遊ぶのも楽しいよ。……でも日焼けには要注意かもね」


 私がそう言うと、亜里香は「そうだよね……」と苦笑し、少しだけ身を乗り出すようにして「じゃあ、近場の海とか調べてみようか」と言った。


 スマホを取り出して検索を始める彼女を見ながら、私は胸の奥がじんわりと温まっていくのを感じた。


 ・

 ・

 ・


 それから数日後、私と亜里香は電車で一時間ほどの海岸へ出かけることになった。


 平日だからか、そこまで混雑しておらず、砂浜には家族連れやカップルがちらほらいるくらいだった。


 私はTシャツとショートパンツ、亜里香は少し丈の長いワンピースを羽織って、二人でビーチパラソルを借りて日陰を作る。


「わあ、海って久しぶり……」


 波打ち際まで歩み寄ると、潮風が髪を揺らし、砂の感触がくすぐったい。


 亜里香は小さく笑みを浮かべて、裸足で砂浜を歩き始めた。


 その背中を眺めながら、私は自分がとても満たされている気分になった。


 ついこの間までギクシャクしていたはずなのに、こうして一緒にどこかへ出かけるのがこんなに楽しいなんて。


「でも、ちゃんと日焼け止め塗らないと後悔するよ」


 私がそう声をかけると、亜里香は「あ、そうだね」と苦笑いして、ワンピースの袖から腕を出して塗り始める。


 その白い肌を見て、私はなんとなくドキリとした。


 海という空間は不思議だ。


 いつもより相手との距離が近いように感じられ、もしかすると普段は意識しない感覚を揺さぶるのかもしれない。


 ◇


 軽く足だけ水に入れて波と戯れたあと、私たちはパラソルの下に戻って冷たい飲み物を飲んだ。


 海風が気持ちよくて、お互いの近況をあれこれ話し合う。


「この前のおばあちゃんの件は、本当に大変だったね。……でももう落ち着いたんでしょ?」


「うん、退院も近いみたい。母もほっとしてた」


 そう言いながら、亜里香は砂浜のほうを見つめる。


「私もバイトとか始めようかな。お母さんに負担ばっかりかけたくないし」


「そっか……。何か、興味あるバイトとかあるの?」


「うーん、接客はちょっと苦手かもだけど、家庭教師とかできるかな……」


「え、友里が家庭教師? 成績良かったっけ」


「しょ、小学生相手くらいなら!」


 そんな何気ない将来の話をしていると、以前のような自然な空気が戻ってきた気がした。


 私はその流れで、自分の進路についても少しだけ打ち明ける。


「私も、大学に行くかどうかまだ決めきれてないんだ。スポーツ推薦とかもあるかもしれないけど、学費のこと考えるとね」


 そう言うと、亜里香は目を丸くして「友里はてっきり大学行くのが当たり前かと思ってた」と返す。


「うん、私もなんとなくそう思ってたけど、いろいろ考えると迷っちゃう。……だから、夏休みの間にもうちょっと調べようかなって」


 すると亜里香は小さく笑みを浮かべ、「お互い大変だね……」と頷いた。


 ◇


 そのまま午後まで海辺でゆっくり過ごし、砂浜を散歩したりした。


 そんなこんなでいつの間にか夕方が近づいてくる。


 西の空が赤く染まり、海面もオレンジ色に輝く。


 私と亜里香は足を止めて、しばしその景色を眺めた。


「きれい……」


 亜里香が呟き、私もただ「うん……」と頷く。


 そのとき、ふいに亜里香が私の腕をつかんだ。


「ねえ、ありがとう。誘ってくれて」


「誘ってっていうか……一緒に来たかったんだよ」


 そう答えながら、私はもう片方の腕で亜里香の手を軽く握り返す。


 海風が二人の髪を揺らし、遠くから潮騒と子どもたちの声がかすかに聞こえる。


 胸の奥に温かい気持ちがじわりと溢れた。


 ・

 ・

 ・


 帰りの電車では、お互いに軽く疲れていたのか、会話は多くなかった。


 けれど、私たちの間に漂う空気はやわらかい。


 沈黙にも居心地の良いものとそうでないものがあるっていう事が身を以て知れたって感じだった。


「今日は楽しかったね」


 家に着く少し前、乗り換えの駅で亜里香がぽつりとそう言う。


「うん、また行こうね。……今度はもうちょいちゃんと泳ぎの練習もしてさ」


 私は冗談半分で言うと、亜里香は「水泳はちょっと……」と笑いながら、でもどこか嬉しそうだ。


 電車がガタンと揺れ、二人の肩が触れ合う。


「……ねえ、友里」


 亜里香が小さく私の名前を呼ぶ。


「ん?」


 顔を向けて亜里香の方を見るが、亜里香は答えない。


 こちらを見ずに、やや俯いたままだ。


 そんな亜里香の顔を見ていると、私は何となくグラス一杯に注がれた水を思い浮かべた。


 ちょっとした揺れや風で、水はグラスの縁から溢れそうになる。


 ちゃぷり、ちゃぷりと水面が揺れる──そんな光景。


 そんな事を考えていると、亜里香は「ううん、なんでもない」と言って微笑んだ。

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