第3話『なんだかとても寒かった』
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高校二年生になったばかりの頃、私はちょっとウキウキしていた。
クラス替えこそあったものの、陸上部の仲間たちとまた走り込みに励めるし、学校行事も去年より活発になると噂を聞いていたからだ。
それに亜里香との関係──どこかで「今年こそはもっと楽しく一緒に過ごせるんじゃないか」と密かに期待していた。
でもその期待は思ったより早く揺らぎ始めた。
二年生のクラス発表を見たとき、私と亜里香はまたもや別々になっていて、去年と違うのは周囲の友人関係が大きく変化していることだった。
新しいクラスメイトたちは話しやすい子も多くて、最初のうちは賑やかに自己紹介をしたり、放課後にカフェへ寄っておしゃべりしたりしていた。
私自身、そういう新鮮な雰囲気は嫌いじゃない。
だけど、ふと気がつけば亜里香と話す時間が去年よりもさらに減っていることに気づき、胸がちくりと痛む瞬間が増え始めていた。
体育祭の準備が始まったのは五月の中頃。
実行委員や係分担が発表され、各クラスで応援旗を描く班や、ダンスパフォーマンスを考える班などやることが一気に増える。
私のクラスでもリレーや綱引きのメンバーを決めるために体育館で練習をすることが多くなった。
私は陸上部だということもあり、リレーの選手として周囲の期待を背負っていた。
練習が終われば、そのまま部活へ向かうこともしょっちゅうだ。
◇
一方で亜里香はどうやら文化祭の委員に立候補したらしい。
体育祭と文化祭は時期が重なるわけではないけど、学校の方針で準備期間がやや被るので、彼女は書類や装飾づくりに追われているみたいだ。
廊下で見かけるたびに、腕に抱えた資料を落とさないよう必死にバランスをとっている姿を見かけて、「大変そうだなあ」と思う。
声をかけようと思うが、私も私で急いでいてタイミングを逃しがちだった。
ある日の放課後、私は体育祭の練習が長引いて昇降口を出ようとした時──亜里香が書類の束を持って階段を下りてくるのが見えた。
「亜里香!」と声を張り上げると、彼女は一瞬こっちを振り返ったけれど、すぐに自分の資料に視線を戻してしまう。
私が駆け寄って「どう? 文化祭の準備」と尋ねると、亜里香は軽く眉根を寄せて小さく息をついた。
「……まあまあかな。そっちは、リレーで走るんでしょ? 頑張ってね」
その口調は冷たくはないけど、どこかよそよそしい。
以前だったら「私も応援するから全力で走ってよ!」なんて言ってくれていたのに、今はただの社交辞令みたいな響きに思えた。
「そういえば、今日は……一緒に……」と続けようとした瞬間、亜里香のスマホに着信が入った。
彼女は「あ、ごめん」と言って電話に出て、どうやら文化祭の係の人からの呼び出しらしい。
「うん、今すぐ行く。……ごめんね、また後で」
そう言い残して、亜里香は大急ぎで校舎のほうへ戻っていった。
私は玄関先で中途半端に手を挙げたまま取り残された。
翌日、私はクラスのリレー練習でタイムを計測し、まあまあの走りだったと先輩たちに褒められていた。
けれど、心のどこかで「亜里香が見てくれたら良かったのに」と思う自分がいた。
練習を終えて教室に戻ると、友人が「友里、いい走りだったね」と言いながら冷たいお茶を渡してくれる。
私は笑顔で「ありがとう」と答えるけれど、頭の片隅には亜里香の姿がちらついて落ち着かない。
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そんな状態が何日か続いた後、ある放課後。
私は昇降口で靴を履き替えていると、そばの掲示板に貼られた文化祭の下書きポスターに亜里香の名前を見つけた。
「ポスター制作:アート班リーダー 宮永亜里香」と、小さめの文字で書かれている。
「へえ、そんなことやってたんだ……」
改めて知ると、嬉しいような、距離を感じるような不思議な気分になる。
勿論嬉しいのが大きい。
ただ、私は亜里香がそんな事をしているなんて知らなかった。
亜里香から教えてもらっていなかった。
そしてそのポスターの下にメモ書きが貼られていて、「今週金曜までにデザイン案を決定 担当:宮永、相沢、他2名」とある。
「大変そう……」と小声で呟いた瞬間、背後から「友里!」と声をかけられた。
振り返ると、クラスメイトの女子が「早く部活行かないと練習始まっちゃうよ」と急かしてくる。
私は「うん、行く行く」と笑って答える。
でも、その時一瞬だけ「亜里香の手伝いができないだろうか」と考えた。
けれどすぐに「自分が口を出すのもおせっかいかも」と思い直してしまう。
部活を終えてヘトヘトになり、汗を拭いながら昇降口へ戻ると、既に校内はだいぶ暗くなっていた。
ふと職員室の前を通りかかると、明かりがついていて誰かが作業している気配がする。
扉の隙間からそっと覗くと、先生と数名の生徒が文化祭の打ち合わせをしているらしく、そこに亜里香の姿もあった。
彼女はノートPCとにらめっこしながら、先生に何かを相談している。
私がこっそり様子を伺っていると、亜里香がふっと振り向き、視線が合いそうになった。
慌てて隠れたけれど、もしかすると亜里香の方も私の存在に気づいたかもしれない。
だけど、もうそのまま部室へ荷物を取りに行き、私は帰るしかなかった。
◇
数日後、体育祭の当日がやってきた。
私は朝から走る準備でテンションが上がっていたし、クラスメイトの応援もあって気合い十分。
リレーの順番が近づくと、心臓がどきどきして、スタートラインで他の選手たちと肩を並べた時はアドレナリンが出まくりだったと思う。
「よーい……スタート!」
ピストルの音が鳴り、私は一気に飛び出した。
グラウンドの外周には大勢の生徒や保護者が並んでいて、声援が飛び交っている。
私はその喧騒の中で懸命に足を動かした。
風が乱暴に頬を撫で、周りの景色が一瞬で後ろに流れていく。
バトンを受け取った仲間が全力で走り去るのを確認した瞬間、私は全身が熱くなって震えるような達成感を覚えた。
リレーの結果は2位。
優勝こそ逃したが、それでもチームメイトは皆でハイタッチして喜んでくれた。
クラスの友達も「惜しかったね! でも速かったよ!」と口々に言ってくれて、私はもう汗だくで笑いながら「ありがとう!」と叫んだ。
視線を客席へ向けると、クラスメイトを中心に大盛り上がり。
だけど、その中に亜里香の姿は見えなかった。
「まあ、観戦に来てないか……」
そう小さく呟いて、わずかに胸が締め付けられる思いをする。
後で聞いた話では、亜里香は体育祭の裏で文化祭の準備物資を受け取る当番をしていたらしい。
そのタイミングはちょうどリレーと重なっていて、倉庫や美術室を行ったり来たりしていたという。
「残念、私の走りを見てもらえなかったな」
私がそう言うと、クラスの友人は「まあ、また機会あるよ」と笑うが、私の心は晴れないままだった。
体育祭終了後、私は疲れ果てた体を引きずりながら片づけに参加し、そのまま打ち上げ代わりにクラスメイトとファミレスへ行った。
帰り道はすっかり暗くなっていて、スマホをチェックすると亜里香からメッセージが届いていた。
「体育祭お疲れさま。走り見れなかったけど、どうだった? 大変でしょ?」
私は「2位だったよ。めっちゃ疲れた」と返す。
すると、少し間をおいて「すごいね。おめでとう」と返事があった。
本来なら嬉しい言葉なのに、その短いメッセージからは何か物足りなさを感じてしまう。
「もっと……話したいのに」
そう思いながら、私は画面を閉じた。
◇
翌週、学校は文化祭準備に本腰を入れる期間に入った。
今度は私のほうが部活を調整してクラス企画の飾りつけに参加し、他の友達と忙しく動き回る日々。
それでも廊下ですれ違った亜里香は、いつもノートやポスターを抱えていて、相変わらず余裕がなさそうに見えた。
「ねえ、ちょっとだけ話せる?」と私が声をかけても、「ごめん、あとで」と急ぎ足で行ってしまう。
そんなすれ違いが続いて、結局「あとで」なんて約束は果たされないまま夜になる。
そうこうしているうちに、亜里香との距離はさらに微妙にずれたまま、会話する機会も失われがちだった。
ああ、なんだか寒いな、と。
私はそのときそう思った気がする。
冬はまだ何か月も先だし、秋だってまだ大分遠い。
でも私は、とてもとても寒かった。