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8/13

結婚・妻の出産

翌日からは、二人とも大主教庁鍛冶部職員としての生活が待っていた。二人のマナの計測が行われたときに、オイゲンが900近いMPを持ち、クララは1000以上の計測不能なMPを持っていることが分かると、みな大主教じきじきのヘッドハンティングだったという噂が真実だったことを納得した。鍛冶部長は長生きのアルフの壮年男性だったが、最大MPは400ほどだった。給与はクララもオイゲンも月に金貨百グラムで、なにか素晴らしいものを作り上げたときにはボーナスが支給されることになった。

二人は仕事が休みの日、村のドウェルフたちからの紹介状を持って皇都のドウェルフたちの鍛冶工房を訪れた。ドウェルフたちは二人を歓迎してくれた。二人が剣の試し切りをしてみせると、ドウェルフたちは保護の魔法がかけられた盾を持ってきて切れるかどうか試してくれと言った。クララちゃんが風の剣でたやすくそれを切ると、どよめきのあとに歓声が起きた。献上の手はずが整えられることになった。


献上の日は二人が皇都に着いてから一ヶ月ちょっと経ってからの五月で、オイゲンは十七歳になっていた。

女皇は十二歳の女の子で、女皇は人類統合の象徴であって政治などには関わらない存在であり、二百人を超える皇族・華族の中から謙虚で賢く可愛らしい女の子が選ばれることになっていた。女皇はエンパイアのアイドル的存在だった。この女皇も成人とともに女皇を引退し、幼なじみの華族と結婚する予定になっていた。政治などはアースで百ほどに分かれている州が独自の権限を持って自由に行っていた。民主主義の州もあればそうでない州もあった。そしてこの皇都にそれぞれの州が代表者を送り込んで人類議会を編成し、お互いの利害調整を平和的にした。

さて献上の日、クララとオイゲンは皇居から馬車で迎えられて参上した。皇居は日本庭園の中に作られた日本建築の建物で、京都の二条城に似ていた。

皇居の中を紳士が案内してくれて、二人は女皇と面会した。二人が女皇に礼を尽くすと、女皇も席を立って二人に礼を尽くし、握手をしてくれた。女皇はどう見ても日本人で、二重まぶたがチャーミングで、美しい着物姿だった。

二人は二本の剣を設計原理から風の剣・光の剣と呼んできたが、献上するときはそのさやの模様から『すずらんの剣』『シマエナガの剣』という名前で献上した。何しろよく切れる剣なので女皇が触るわけにはいかない。女皇の親衛隊長が受けとって、軽い試し切りをした。彼は何がどのくらい切れるかをドウェルフたちから聞かされていたので、保護の魔法がかけられた盾が二つ用意され、すずらんの剣もシマエナガの剣もたやすくそれを切った。切断時のエフェクトも綺麗だった。その場にいた者みんなが剣をほめたたえた。でも切れ味よりもデザインのキュートさのほうがよい評判のようだった。剣が非常に軽いので女皇も試し切りをしたがったが、危険なのでさせてもらえず、女皇はしょんぼりした。そして笑顔になってから言った。

「クララさん、オイゲンさん、素敵な贈りものをありがとうございます。どちらの剣ももっと作っていただければ色々と役に立つのですが、お二人とも大主教庁専属とあっては皇室からはそれはお願いできません。そして大主教じきじきにこの二本の剣は国宝一等級として皇立博物館で展示するべきであると助言がなされています。皇室としては喜んでそうさせていただきます」

二人はめちゃめちゃ驚いた。オイゲンは思った。

(これは……故郷のみんなも新聞とかで知ることになるな)

皇室の鑑定士は、盾の断面の違いを見逃さなかった。すずらんの剣は金二十キロ、盾の断面が鏡面になっていたシマエナガの剣は金三十キロの価値があると判断した。

二人は女皇の前からさがり、馬車で自宅まで送ってもらえた。翌日、女皇の顔が刻印された皇室金貨1枚十グラムが五千枚、二人の家に届けられた。

二人は都合七十キロの金貨をもらったし、もう一生遊んで暮らせる身分になったが、大主教庁鍛冶部職員として熱心に働いた。それは人生の喜びの一部であった。

博物館では二人の剣は人気を博した。みんなが剣とさやのデザインのキュートさを褒めたたえると同時に、並んで展示されている切断された盾の半分を見て、その切れ味の鋭さに驚いた。シマエナガの剣で切ったほうが展示されたので、切断面は鏡面だった。

三ヶ月ほどしたころから、故郷から、二本の剣が国宝として博物館で展示されたことを祝う手紙が多く届くようになった。二人の両親からも祝福の手紙が届いた。


そんなお祭りみたいな日々も去って、大主教庁鍛冶部で誇らしく働く日々が続き、翌年の五月にオイゲンが十八歳になり、とうとう七月にクララの誕生日がやってきた。二人はその日を休暇にした。

二人は大主教庁の役場に婚姻届を出して受理された。

受理をした中年女性の役人は笑顔を浮かべた。

「ご結婚おめでとうございます」

二人は礼を言った。

二人は帰宅して、寸胴鍋にぬるま湯をたっぷり入れて、その中にタオルをたくさん泳がせたものをオイゲンのキングサイズのベッドのわきに置いた。クララが言った。

「たぶん、口づけてしまえば『そのとき』が『始まってしまう』ですよね。みなさん、そうらしいですし。『そのとき』も素晴らしいことですが、そのあとお互いを大切に思いあいながら、お互いを清めるときのほうが幸せだと聞きました」

オイゲンが言った。

「うん。『そのとき』も、そのあとの清めあいも、夫婦がお互いを大切だと思い知る素晴らしい機会だと、故郷のみんなも、こっちのみんなも言うね。じゃぁ……末永くよろしくお願いいたします」

「はい、こちらこそよろしくお願いいたします」

二人は優しく柔らかく抱きしめあった。このレベルの肉体的な接触は思春期に入っていらい久しぶりだった。オイゲンの鼓動が早く大きくなって、体温が猛烈に上がるのをオレは感じた。

大切な人を抱きしめている。大切な人に抱きしめられている。望み望まれて。オイゲンの中で、大切な人のすべてを承認する気持ちと、自分のすべてを承認する気持ちが燃え上がる。

二人は自然に軽く口づけた。お互いの唇のやわらかさが分かるように。

オイゲンの心の中に、燃えさかるような野獣があらわれた。クララのすべてを支配して奪って破壊してしまいたいようなオスの衝動だった。オレはなぜあの懐かしい世界で性欲が否定されたかを実感した。だが、同時にクララが大切で大切でしかたがない、どうすればクララを大切に思っていることを自分の行動でクララに伝えることができるか、その答えを求める誠実な人間があらわれた。そして、オイゲンは両者をメタ認知して俯瞰していた。オイゲンは口づけたまま念話でクララに語りかけた。

(俺の中にはいま野獣と誠実が同居している……この矛盾のありのままが夫婦の愛なのだと見つけた。愛している)

クララも念話で答えた。

(私の中には野獣と優しさが同居しています。そして、どちらも同じことを求めています。矛盾はありません。愛しています)

(愛している)

(愛しています)

(ああ……愛している)

(ああ……愛しています)

二人は軽く口づけながらうっとりした。思えば、我慢に我慢を重ねての唇どうしのファーストキスだからなぁ……傍観しているオレにとっても感無量だ。そして、やっぱり性欲というものは素敵なものだし、人生を豊かにしてくれるものだと実感した。

しばらく言葉がない五感だけの時間が流れた。二人とも、自分の感覚が切り取っている世界すべてを快く思っていた。人間としての喜びに満ちあふれていた。

そしてしばらくしたあと、クララが念話でつぶやいた。

(うーん……おしっこをもらしてしまったのかと思うぐらいのことが起きてますが、おしっこじゃないんですよねコレ……服どころかベッドまでしみてる……服を脱いでからキスするべきだったのでしょうね)

オイゲンはクララの頭をなでた。指を立てて、4つの指の腹で優しく。

クララもオイゲンの頭を同じようになでた。オイゲンの頭の上を優しさのかたまりが四つうろうろする。気持ちがいい。

オイゲンは念話で言った。

(ちょっと中断しよう)

二人はゆっくりと唇を離して、ゆっくりと体を離した。クララは言った。

「私ってこんなに激しかったんだ……新しい自分を見つけています。楽しくて幸せです」

オイゲンは言った。

「いやー、俺もこんなに激しい奴だったんだなぁ……嬉しくて幸せだなぁ」

二人は笑顔になった。オイゲンが言った。

「じゃぁ、お互いに服を脱ごうか」

クララも笑顔で言った。

「はい♪」


とても貴い時間をオレは傍観した。お互いがお互いを大切に思っていること、お互いに野獣のような本能も持っていること、愛しあっていることを確認する時間だった。それは何かの目的がある時間ではなくて、自然な理性と感性、本能の流れが生む人間的な時間だった。


そして、そういう日々が一週間ほど続いたある朝、クララが満面の笑みでオイゲンの部屋に入ってきた。

「私のお腹の中に、私じゃない命がいます! 一昨日排卵したからもしかしてと思ったけど、やっぱり妊娠してました~! ありがとうオイゲン!」

「うおおおおお! やったー! ありがとうクララ!」

オレは『排卵も妊娠も魔法を使って判断していて、ふつうの人にはそれは分からないのですよ』とボサツに念を押された。

そして二人は日々家庭向けの医学書を二人で復習した。子どものころ、人間にとって最も大切な教科は保健体育だと言われたのを思いだしたし、二人とも熱心にそれを学んだものだった。クララは安定期に入るまで過剰な運動はやめることにした。大主教庁の医院の産婦人科の女性医師が魔法によって妊娠と鑑定して診断書を書いてくれ、母子手帳と妊婦バッジもくれた。クララは定期的な診察を医師に受けることになった。診断書と書類を部長に提出して、二人とも産休に入ることになった。オイゲンは言った。

「妻が妊娠したときに夫がどれだけ寄りそえるかで、そのあとの人生の夫婦の絆がまるで違うって勉強もしたし、色々な人の口からも聞いたね。そして夫も妻と同時に産休に入ることができる。食事は食堂で食べることができるから、お金はあまり必要ない。社会に夫婦の絆を守られているね」


二人は奥の院まで行ってヒルデに妊娠の報告をした。ヒルデは我がことのように喜んだ。

「クララ来てくれてありがとう~。わしはこういうのと縁がないのでな、あこがれておったわ……女体の神秘じゃのう……男性と女性が愛し愛されれば子どもができる。わしの魔法よりもずっと神聖なことじゃのう」

ヒルデの望みで二人はちょくちょく奥の院にかようことになった。それは奥の院を支える者たちみんなの合意となった。ヒルデは自分が選ばなかった道を感動しながら見守ってくれているように見えた。司になれるのにならなかった人類はクララが初めてなこともヒルデの口から語られた。


妊娠一ヶ月をすぎたころ、多くの妊婦と同じようにクララはつわりになり、オイゲンの匂いがダメになった。

「うっぷ……あなたの匂いがダメです。あなたの匂いをかぐとしんどいです。瞑想しちゃえば平気なんですけど、動物として自然なこれを楽しみたいです。別々の部屋があってよかったです。医学書どおりのことが起きていますね」

「うん。俺も勉強したからあたりまえにこういうものだと受けいれてるけど、勉強しないでそう言われたらショックだったろうなぁ……」

クララは色々な匂いがダメになり、食欲が減り、食べられないものが増え、常に吐き気があるような状態になった。これを瞑想でコントロールするのはやめて、ふつうのつわりをふつうに味わうことにした。全く同じではないにしろ、クララは自分の母が体験したことを自分も体験したいのだと言った。

家事についてはすべてをオイゲンがこなす雰囲気ではあったが、クララが退屈しのぎにすることもあった。食事は班の食堂でいただき、礼拝にも参加した。クララは自分が食べられる食事の量が分かったので、ご飯を残すことはなかった。みんながクララをあたたかく気づかってくれた。ご飯を残さないので、無理をして食べているのではないかと心配された。小さな子どもと同じくらい妊婦は大事にされた。小さな子どもも妊婦を大切にしてくれた。クララもオイゲンも人間のあたたかさをひときわ感じる時期となった。

クララは胸がはるようになった。胸が痛いときもあった。頻尿になった。便秘気味にもなった。朝起きられなくなり、昼も夜も眠いときが増えた。逆に夜中に目覚めることも多かった。

でも、情緒不安定にはならなかった。瞑想でメタ認知が強くなっていたので、理性や感性のコントロールはじょうずだった。ただ、ボーッとしている時間がだいぶ増えた。


妊娠四ヶ月をすぎたころには安定期に入り、クララのつわりはおさまった。オイゲンの匂いも平気になった。クララの乳房は少し大きくなってきた。クララは大主教庁の医院で妊産婦のための軽い体操を教わりはじめた。オイゲンも一緒にそれを習った。出産のときは二人でペアになって体操をする場合もあるそうで、オレは驚いた。

二人は今までずっと色々な優しい言葉をお腹の赤ちゃんにかけたり、お腹をなでたりしていたが、この頃には赤ちゃんが反応していることにクララが気づいた。二人は鍛冶部へ行ったり奥の院へ行ったり、皇都を散歩したり積極的に外出した。クララのお腹や妊婦バッジに気づいた人はみんな母にもお腹の子にも優しくしてくれた。オイゲンもクララも子どものころからそうやって妊婦やその子に優しくしながら育ったのだった。ソル教が『子どもの姿をしたソルとそれを抱く母神コスモス』の聖母子画や聖母子像を崇拝するように人々に求めていたし、『母が子をいつくしむ姿こそがこの世で最も尊く、他のすべてはそれを支えるために存在している』という価値観を人々のあいだで育てていた。

ヒルデのところへ遊びに行っても目をつぶった笑顔でこう言われた。

「うんうん、わしはクララのような尊い人を守るために日々はげんでいたのだなぁ。お子のような尊い人を守るために生きてきたのだなぁ。目の前にお腹が少しふくらんだ妊婦さんがいると実感がわくなぁ。司などと気取っておる割には何も知らなかったなぁ。書物をどれだけ読んでも、こういうことは目の前に人がいないと分からないものだなぁ……」

ヒルデは出産のようすを遠隔視していいかどうか二人にたずねた。二人は快諾した。ヒルデにとっては初めてのことだった。

六ヶ月ごろにはお腹まわりがゆったりしていて、調整がききやすい、出産直前まで着られるようにデザインされた『妊婦服』をクララは着るようになった。クララは街中で妊婦どうし連帯感のようなものを持ったし、お互いに気さくに軽く会話をかわすことも多かった。このころから体重と脂肪率の管理を頑張るように指導された。

七ヶ月ごろには、食事のたびに胃が子宮に圧迫されている感じを味わうことになった。

八ヶ月ごろには体のあちこちが少しむくむようになったが、ふつうのことだとオイゲンもクララも知っていた。ときおりクララは腰痛を感じたが、わざわざ我慢するのもストレスになって子に悪そうだったので、魔法でヒールした。

九ヶ月で大主教庁の医院に入院することになった。別になにも悪いところはなかったが、早産に備えてこのころに入院するのが慣例で、入院そのものは公費負担だった。だが貯蓄を取り崩し、オイゲンも泊まれるよう風呂とトイレつきの二人部屋を借りて、食事は栄養バランスが取れつつ美味しいものを作ってもらえるようにしたので、出産までに金二百グラムほどかかることになった。しかし、他にもこれくらいはお産にお金をかける夫婦はまれにいるらしかった。クララは逆子にならないように魔法で子の位置を調整するようになった。毎日一度は何かしらの計測が行われるようになった。特に血圧は毎日測られた。

クララとオイゲンは、お腹を切開するお産にするか、自然なお産にするか話しあった。お腹を切開するお産にしても、切ったところは完全に魔法で治すことができるのだが、クララは自分の母と同じ自然なお産を望んだ。故郷の村では、産後のヒールはアルフたちができたけれども、安全な切開の技術を持つ者がいなかったのだ。オイゲンはそんな妻を笑顔でなでて軽く抱きしめた。

十ヶ月ごろには、赤ちゃんの位置が下へ移動しはじめた。クララは頻尿で夜中に目がさめるようになり、お腹がはって、腰まわりが痛くなった。そのころにはいつ生まれてもおかしくなかった。


オレは、かつて生きていた世界でお産がどういうものか、どれほどお金がかかるのか全く知らなかった。親も教えてくれなかった。この世界では、中等生であればみんな把握している。新しい生命の誕生への意識がまるで違っていた。まさに世界が違った。


出産予定日を九日ほど過ぎた五月の夜、オイゲンはクララのうめきで目がさめた。即座に魔法で部屋をほのかに明るくすると、クララはあぐらをかいていた。

「すごく痛くなってきました……魔法でチェックしたら子宮が縮み始めています。お股からおしるしもありましたよ」

 クララが見せてくれた右手は赤色にぬれていた。クララは笑顔だった。オイゲンは言った。

「いよいよ本番だね……オレが痛みを消しちゃダメなのかい」

「母が味わったものを味わいたいですが、途中でギブアップする気がしてきました……たぶん耐えられなくて自分で痛みを消しちゃうやつですよコレ。この時点でこんなに痛いんですから」

そうは言われてもどれだけ痛いのか分からないのが男。とはいえ、勉強したとおりオイゲンはクララの腰をさすった。剣術で鍛えた握力が役に立つレベルの強さでのマッサージがちょうどいいようだった。そして二人そろって習った呼吸法で痛みをのがす。しばらくしてクララが言った。

「あっ、楽になりました。子宮の縮みがひと休みしてくれました」

本番だと思ったら、丸一日強い痛みがなかった。クララの体をあたためるため、オイゲンは何度も足湯を用意した。魔法でお湯を消毒したり温度を上げることができるのは便利だった。クララが汗をかかないように慎重にあたためた。そして次の夜の八時すぎ。

「うわー。また痛くなってきました」

あぐらのクララのうしろで腰をさすって呼吸法。男はそれだけしかできない。一緒に呼吸をすることでオイゲンが感じている夫婦の連帯感をクララは感じているのだろうか。そんな余裕はないような気もするのだが……

「ふう、楽になった」

「医者はまだだよね?」

「まだです。いま呼んでも鼻で笑われますよ。十分間隔が連続三回、がめやすです。それまでは痛みでしかなくて、陣痛あつかいしてもらえません。勉強したのに……心配なんですね。ありがとうございます」

こういうときは妻のほうが肝っ玉がすわるようだ。

陣痛の間隔が短くなってきた。オイゲンは懐中時計で時刻の記録を始めた。

翌日三時すぎに、痛みの間隔が三度つづけて十分を切った。

オイゲンがそれを告げるとクララは医師を呼ぶよう告げた。そして言った。

「うんうん、痛みの逃しかた、勉強しといてよかった。力めば力むほど痛い、力を抜く。痛くない姿勢を見つける、私は背骨を伸ばしてゆるめのあぐらで角度をチョコチョコ変えればヨシ! そして呼吸法! 一緒に呼吸をすると連帯感があるね! ありがとう、愛してる!」

敬語が完全に消えていた。

「愛しているよ、じゃぁ呼んでくる」

産婦人科の資格を持っている女性医師は三人いて、お産があるときは予定日の二週間前から必ず誰か一人が医院の宿直室に泊まってくれている。

「おお、破水しないで陣痛か。いいお産だ。まぁ初産だし、まだまだだよ」

ぼそりとそうつぶやいた中年の女性医師は慣れたもので、急がないで歩く。オイゲンはクララを一人にしているのがもどかしいが歩調をあわせる。

朝の七時ごろに、全員ぶんの食事が用意された。持ってきてくれた中年の助産師さんが残ってくれて手伝ってくれるようだ。先生が声を上げて驚いた。

「うおっ、美味しい! 君ら一番いいもの食べてるなぁ! 三年ぶりやで!」

助産師さんが適切に呼吸のアドバイスをしてくれる。深く呼吸をして赤ちゃんに酸素を届けることが大事。水分摂取についてもアドバイスをくれる。事前に勉強したとおりだが、いざやるとなると適時適時のプロの助言は頼りになる。

陣痛から九時間経ったお昼の十二時には、陣痛の間隔が三分を切った。

クララが言った。

「うんうん、赤ちゃんがおりています。仙骨あたりをさすってください」

四人ぶんの昼食が用意され、クララは用意されたぶんをすべて食べきった。オイゲンもぜんぶ食べた。先生がぼそりと言った。

「う~ん、君ら肝が据わっているなぁ。ふつうは陣痛の合間にチョビチョビだし、旦那さんは食べられなかったりするけど……ホンマに初産なん?」

二時には陣痛の間隔が二分になった。一分の陣痛がきて一分の休みがくる。

「うわ~、もう出したい! いきみたいって体が言ってる! まだダメっスか先生!」

産道の出口が一瞬光った。先生が魔法で子宮口の開き具合をチェックしたようだ。

「八センチ。もうちょいだね。オイゲンくん、お尻にコレを当てて、いきみ逃がしをしてあげて」

先生は魔法がかかった布でできた球をオイゲンに渡した。俺が生きていた世界で言えばテニスボールくらいの大きさだ。

オイゲンはそれをクララのお尻の穴にあてた。先生がぼそりと言った。

「もっと強く」

「はい!」

「ああ~、お尻の穴から背骨をとおって脳になんか伝わってくる~……いきみたさが半減しました! ありがとうございます」

陣痛と陣痛のあいだの楽な時間に、オイゲンはクララの汗をふいたり、頭をなでたり、肩や背中を優しくポンポンする。クララは背中側にいるオイゲンによりかかる。フラフラでヘロヘロだ。クララが言った。

「木登り名人の話を思い出します。安心したころに油断しているから気を引きしめろと」

「うん。もうすぐ会える。だから気を引きしめてくれ」

助産師さんが言った。

「いや~、まだまだよ~。クララちゃん、軽く体操しようか。ベッドはおりて、立ち上がって足を屈伸。骨盤を開くつもりで足の付け根の運動~。オイゲンくんはクララちゃんが倒れないように一緒に屈伸して支えてあげて~」

二人は出産前に練習済みのこれを冷静にこなした。そしてふたたびクララはベッドに戻ってあぐらを組んだ。

オイゲンは片手で球をクララのお尻の穴に強くあてつつ、もう片方の手でクララの手を軽く握った。

三十分ほどしてクララが念話で言った。

(うわあああ……ヤベエ痛み来た! あああああ……魔法でモニターしなくても分かる! 骨盤も子宮口も開いてく! 骨盤に赤ちゃんが入ってきた! ヤベエ! この痛みなんだよコレ! ゴリゴリ音がしてる! ヤベエ! 瞑想で乗り切るわコレは!)

一分の陣痛がきて一分の休みがくるのが手を握る力でわかる。三十分ほどして、産道の出口からバシャリと音を立てて羊水が流れ出た。産道の出口が光った。先生がぼそりと言った。

「クララちゃん、すごくいい破水だ。赤ちゃんの頭が見えている。しかも十センチまで子宮口が開いている。いきんで」

助産師さんが「いきんで」と叫んだ。

このときオイゲンは冷静だった。子宮口ふきんの卵膜が破れる『完全破水』と、子宮口がしっかり開いてから破水が起きる『適時破水』という、ともに正常な破水が起きたことを先生の言葉を聞いて理解し、内心喜んでいた。

「うおおおおぉぉぉ!」

クララが叫んだ。先生がぼそりと言った。

「声は出さんほうが疲れまへんで~」

クララが黙った。そのかわりオイゲンの手をにぎる握力がものすごく強くなっていく。なんせクララも剣術でめっちゃ握力を鍛えている。オイゲンは念話を使った。

(クララ、落ちついてくれ。君の手の力が大きすぎる。お互いの手の筋肉の組織が破壊されている。骨もヤバい。落ちついて瞑想状態になってくれ)

(うるせえ! 分かってるっつーの!……あっゴメン、落ちついた。いま落ちついた。手はヒーリングしてちょ……ありがとう……あなたが冷静でよかった。なるべく力を抜いて、腹筋と横隔膜を使って腹圧で子宮の上から下へ向かって波を作るようにして圧をかける……随意筋を強く使うと痛みはすごいけど、瞑想的に痛みと共にあることができるよ。今までこのために瞑想を頑張っていたのかも。ああ、赤ちゃんと協力しながら赤ちゃんがゆるゆる出ていくよ……赤ちゃんってホントに回りながら出ていくんだ……魔法でモニターできてよかった……かんどう……あかちゃんしゅごいよ……がんばりやさんだよ……)

一時間ほどのあと、助産師さんが言った。

「はい、しっかり頭が出ています。あとは肩が出れば一番たいへんなところは終わりです。初産にしては早いですね~。クララちゃん、オイゲンくん、お顔見てあげて」

二人はまだ生まれきっていない我が子を見た。クララが言った。

「うわ~あえた~。かんげき~! ゆだんした。きのぼりめいじん!」

助産師さんが言った。

「そうですよ、もうひと頑張りです」

それから五分ほどたって赤ちゃんが産声を上げた。クララが言った。

「ああ……うまれた……よかった……つかれた……かゆい……うま……」

助産師さんが言った。

「泣いてますけど、腕がまだ出口につっかえているところです」

クララは笑った。

「ふらいんぐか~」

しばらくたって、クララがつぶやいた。

「あ……ぬけ……た……?」

オイゲンがクララの股間を見ると、助産師さんが泣いている赤ちゃんを抱いていた。

「は~い、かわいらしい女の子で~す。名前は決めてありますか?」

クララが言った。

「おんなのこならアンネ! こんにちは、アンネ! わ~! かんどう……だきたいけど……たいばんがでてから?」

オイゲンが言った。

「ありがとうクララ。おつかれさま。こんにちは、アンネ。立ち会い出産すると夫は妻に一生頭が上がらないって言われたけど、本当にそうだ……」

クララが言った。

「ありがとう、オイゲン。ああアンネ~。アンネ~。アンネ~。げんきにうまれてくれてありがとう~」

オイゲンは、子どもが産まれたあとの母親の父親に対する態度の急変ぶりについて学んでいたが、クララはそんなに変わっていないように感じた。

医師がカルテを見ながらぼそりと言った。

「ヘソのオを切るタイミングは産後三分か。うちらとは体質が違うからな」

助産師さんが言った。

「金色の髪の人はだいたいそうですね。うちらはすぐ切りますけど」

オイゲンが言った。

「切ったあと、臍帯と胎盤はまるっと冷凍します」

医師がぼそりと言った。

「例外的だな……でもカルテどおり……じゃあクリップ二つ。ああ、冷凍用の魔道具はそれか」

オイゲンが言った。

「妻と私が作った魔道具です。私がやります」

医師がぼそりと言った。

「ヘソのオ切ってから胎盤だすよ」

産後三分でヘソのオが切られ、その十五分後には胎盤もクララの体の外に出た。ヘソのオの切断部の両側をクリップがはさんでいた。医師によって即座にクララにヒーリングがなされた。

助産師さんは満面の笑みだ。

「はーいアンネちゃん、お母さんですよ~」

赤ちゃんはすでに助産師さんによって羊水などを軽くふき取られて、綺麗なおくるみにつつまれてあたたかい格好になっていた。

クララは赤ちゃんを優しく抱いた。赤ちゃんが泣きやみはじめた。

「アンネちゃ~ん、おかーさんでーす。よろちくねー」

オイゲンは臍帯と胎盤をクリップごと魔道具で冷凍した。将来赤ちゃんが病になったときに役立つ大切なものだった。そしてクララと赤ちゃんを見た。

(なんと尊いのだろう……俺が一生をかけて守るに値するものだ)


ボサツがオレに言った。

(この世界は慣例で最初の抱っこはお母さんですけど、ほかの世界では最初に誰が抱っこをするかでわりとトラブルになります。あと帝王切開の場合はお母さんが最初に抱けない世界が多いです。あと魔法がない世界は当然ヒーリングはナシです)


ヒルデの念話が二人に届いた。ヒルデは事前に二人に許可をもらっていたのですべてを観ていた。

(クララ、オイゲン、おめでとう。わしの仕事より出産のほうがよほど大変なのは知っていたが、ちゃんと観たらマジでハンパなかったなぁ……勉強になりました! ありがとうございました~。うう……わしは楽な道を選んだよ。わしには無理! わしの産道かぼそいし……筋肉も薄いし……マジでガクブルじゃ……クララはえらいよ。母はみんなわしよりえらいよ……っていうか、わしは月のものがないからマジで男と変わらんラクさだなぁ……あっオイゲンすまぬ。おぬしもわしよりはたいへんだったな……二人ともおつかれさまじゃった)


クララが赤ちゃんを抱いたままぼそりと言った。

「ヒルデ、ありがとう……あなた、うちらの村はアルフが産後のヒーリングしてくれるから母もしてもらったし私もしてもらったけど、僻地ならそれもナシですよ……ヒーリングされる前に魔法でスキャンしたら、内臓とか三つの穴とか筋肉ブチブチでしたよ……神経もやられてたし、骨盤の位置もおかしかったし。教科書に産後一生おトイレを我慢できなくなるお母さんがまれにいるって書いてあったけど、どういうことかよく分かりました」

そしてクララはオイゲンに向かって言った。

「ごめんなさい! マジごめんなさい! あなたが世界で一番愛しいと思ってたけど、どう考えてもアンネのほうが大事だし愛してます! あああ……そう言えばあなたの誕生日まるっと忘れてましたね。あああああ……私の脳みそ、この十ヶ月でまるっと書きかわっています……母ってこういうものなのかしら……」

オイゲンは笑った。

「母になるっていうのはすごいことだね。どこの家庭もだいたい同じじゃないか。妻は子が大切、子は母が好き、母子は仲よし、夫は妻と子が同じくらい大切で少し離れたところからみんなを支える。社会がそんな家庭を守ってくれる」

クララはしょげた。

「でも……子どものころから仲よくしていて、ずっとあなたが一番だったのに……納得しきれません」

オイゲンはクララの頭をなでた。

「矛盾を抱えたまま生きるしかないのが人間だよ。君は神になるのをこばんで人間になったんだ。ヒルデもほめてくれたじゃないか」

クララは微笑んだ。

「ヒルデのほうがつらい生きかたをしているのに……あの子はもう。あなたも抱いてください。あなたの子です」

オイゲンはすでに眠っている赤ちゃんを受けとった。そして優しく抱いた。子どものころから赤ちゃんの扱いは慣れている。オレの世界の男とはまるで違う。

「おとーさんだよ~、アンネよろしくね~」

赤ちゃんは泣きだした。クララは笑って「やっぱりね」と言って赤ちゃんを受けとった。赤ちゃんは泣きやんだ。クララは服をたくし上げて胸を露出した。赤ちゃんは匂いをかぐような仕草をした。クララが言った。

「あっ、欲しがってる」

クララは胸をはだけて赤ちゃんを優しくそこへ押しつけた。赤ちゃんは舌で母乳の出口をさぐりあてて、そして乳を吸おうとした。クララが言った。

「うおー。まだ出ないけど、めっちゃ幸せ……お産はたいへんだったけど、それ以上に報われてる~。産んでよかった~」

そんな母子の姿を見たオイゲンは思った。

(ああ、聖母子そのものだ……。小さいころから見慣れた子どもが乳を含むすがた、子どもに乳を含ませる母という景色だけど、己の妻と子となるとかくも尊いものか……)

オイゲンは言った。

「俺は君らを守るために生まれてきたよ」

クララは言った。

「ありがとうございます。甘えさせていただきます、騎士さま」

オイゲンは言った。

「愛していますよ、お姫さま」

医師が笑いながら大きめの声で言った。

「うわ~、久しぶりに聞いたわ~、姫と騎士ごっこ。五年ぶりくらいやわ」

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