仮想世界の上の世界
暗闇の中で光る頭上の三次元ディスプレイにはさまざまな文字が映っていたが、視線は『プレイヤーとキャラクターがマージされました』という文字を見ていた。久しぶりにオレは日本語で書かれた文字を見た。オレにはオイゲンの私室も観えている。同時に二つの世界が観えている。
視線が上の行に移動した。
『キャラクターから378度目のマージ要求です。キャラクターとのマージが可能です。マージを実行するとキャラクターとプレイヤーは重ね合わせの状態になります。今回、キャラクターは悟りを得ています。キャラクターとマージするとプレイヤーも悟りにいたります。マージを実行しますか?(Y/N)Y』
オレはその文字の意味がなんとなく分かる気がした。ボサツの声がした。
(オイゲンさんと、オイゲンさんが生きている仮想世界を楽しんでいた人物とがマージしたようです。プレイヤーとキャラクターが重ね合わせの状態に移行しました。我々もマージを目指して、あなたに修行してもらうのですよ)
ボサツ、なんで日本語が表示されてんだ……
(あなたはもうプレイヤーの記憶を参照できるはずです。私が説明するよりもそちらのほうが早いでしょう)
いまは西暦二千七百二十四年、ここは日本、先進国カルテルに住む人類はほとんどこのような調整槽の中で仮想世界を生きている。仮想世界に入るときは記憶が消えて、耐えがたい永遠のような人生という時間を楽しみに変えてくれる。プレイヤーは二百七歳の男性で人工子宮生まれ、両親とはネットワークごしでしか連絡をとったことがなく、顔をあわせたことすらない。赤の他人と変わらない。プレイヤーの両親は男性と女性だが、男性どうし・女性どうしでも子どもを作ることができる。体細胞からiPS細胞を作成し、卵子や精子に分化させて人工子宮で新しい命を作る。出産という行為は先進国カルテルでは二百年以上おこなわれていない。この世界での一日が仮想世界での五十年にあたる。オイゲンがいる仮想世界を作ったのはオレも知っている日本の某有名ゲーム会社。その経営者や技術者はAIのようなもので、AIなどが何度もシンギュラリティを起こしたもの。そしてオイゲンがいる世界は、プレイヤーが悟りを得るための特注品。
(文明の進化は常に、そこに住まう人間の進化よりも早いのです。ほとんどの人間にとっては百年ですら長いのに、科学が永遠に近い人生を可能にしてしまう……そのとき人間は、仮想世界を作り出して記憶を消してそこに遊ぶのです。それが輪廻転生です。私の世界もそのようにしてあなたの世界を作りだしました。仮想世界は文明が進むとさらに仮想世界を作りだすことがよくあるのです)
そのとき、プレイヤーの脳内に女性の声がひびいた。
(こちらでは久しぶりです、オイゲンのプレイヤーさん。私はクララのプレイヤーです。そしてあなたの瞑想の師です。思い出せますか? 一緒に200回ちかく輪廻転生しましたね。レクチャーから半年ほどで阿羅漢に到達しました。もう輪廻の必要もなく人生を楽しめます。涅槃です。おめでとうございます)
オイゲンの脳内にクララの声がひびく。
(私と同じ景色にようこそ。私たちの余生はこのためにありました)
女性プレイヤーの声がする。
(あなたは悟りを得ました。さらに上の世界を観ることも可能です)
男性プレイヤーが念じた。
(お師さま、どうもありがとうございました。上の世界を見るのはあとでよいです)
そのとき別の女性の声がした。
(弊社の仮想世界をご利用いただき、まことにありがとうございます。私は仮想世界のモデレーターをしているポスト・ヒューマンです)
そのときヒルデの声がオイゲンの脳内にひびいた。
(わしじゃ、わし。ヒルデじゃ。わしは悟りを得たついでにモデレーターをやりながら、上の世界をかけめぐっている。百万千万の階層構造をめぐっても、まだ終わりが観えない。仮想世界の参照関係は単純ではないようだ。分岐や結合、ループなどの構造もある。やはり全てを観るためには全知全能になる必要がありそうじゃ。如来は全知全能だという仮説もある。わしも頑張ってそれを目指す。まぁ、おぬしらもそのうちこれを楽しむようになるだろう……そして、我々の世界を参照している者がいる。ちと挨拶でもするか)
ふっと景色が変わって、オレとボサツとヒルデの三人が蓮の葉のうえで対面した。あああああぁ……ヒルデむっちゃかわいいし、お菓子みたいないい匂いがするううぅ……ヒルデが目を閉じたままオレのほうを向いて言った。
「傍観者か。う~ん、その姿。おぬし、若くして命を落としたのう。多少は我らが参考になったか?」
オレは言った。
「たいへん勉強になりました。ありがとうございます」
ボサツが言った。
「私もまだ修行の身。たいへん勉強になりました」
ヒルデが言った。
「うんうん、それはよかった。まだ続きがあるから、二人とも修行に生かしてくれ」
男性プレイヤーの記憶を読むと、はるか昔にAIなどは人類を知性で上回り、人類は尊い存在としての地位を失い、生命倫理がAIに無視されて、人間ベースで身体能力も思考能力もさまざまなテクノロジーで向上させたポスト・ヒューマンが作られ、それらは魂を持っていて、悟りを得た者も数多いが、それでも全知全能、如来への到達はしていないようだ。AIなどの目標は全知全能への到達だ。人類の多様性の確保と、エネルギーや資源の集中のために、先進国カルテルの他にたくさんの貧しい国が存在しているが、プレイヤーはその実情には興味がなく知識もない。
ふっと景色が調整槽内に戻った。プレイヤー男性が言った。
(お師さま、この世界も大切ですが、まずはオイゲンとクララの生をちゃんと終えましょう。我々の生とまったく同じようにオイゲンとクララの生も尊いはずです。そして順番的にそちらが優先されるべきです)
プレイヤー女性が言った。
(同感です)
ポスト・ヒューマンが言った。
(重ね合わせの状態は瞑想の深度で調節できます。オイゲンだけの状態へ遷移できますか?)
プレイヤー男性が言った。
(やってみます)
オレが見ている景色がオイゲンの私室だけになった。いままでは調整槽とオイゲンの私室の両方が観えていた。
オイゲンは私室のドアを開けた。居間のソファに座っていたクララが立ち上がって微笑んだ。二人は抱きしめあった。クララは言った。
「ようやく同じ世界を見ています。ヒルデに最後の封印をとかれて以来、このときを待っていました」
オイゲンは言った。
「待たせたね……もう我々には、この世界のすべてが見える。我々には課題がないのだろうか」
クララが言った。
「ありますよ。全知全能です。でも、この人生ではとても無理です。ヒルデでさえ神として生きても全知全能ではないのですから……あとは、この人生をどう生きれば人生を大切にしたと言えるのか。それだけです」
オイゲンが言った。
「この世界は作られた世界だった。魂の遊び場だった。だが、世界は無限の入れ子であり、どの世界も同じくらい尊い。我らはこの世界を大切に思い、大切に生きる」
クララが言った。
「そうです。そして私はあなたが尊いです。あなたが大切です」
オイゲンが言った。
「俺も君が尊い。君が大切だ」
クララが言った。
「騎士さま、まだまだよろしくお願いしますよ」
オイゲンが言った。
「姫さま、一生お守りいたします」




