エイミーは愛すべき悪役令嬢
初めて投稿します。
よろしくお願いします。
エイミー・フロスティは侯爵家の跡取り娘として、それはもう大切に育てられた。
美貌の両親から受け継いだ美しい容姿で、周囲の人間はみんな蝶よ花よと持て囃した。勉強もマナーも学べばすぐに習得していき、エイミーにとって困難なことなどこの世の中にはなかった。
エイミー自身も、常に自信に溢れ、それがまた彼女を美しく輝かせていた。
十四歳になったエイミーには、婚約者の有力候補として、同じ侯爵家令息のニコルがいた。ニコルもまた、穏やかで人懐っこい笑顔が人気の、眉目秀麗な少年だった。
同じ年の第一王子と親交があり、将来は側近かと噂されている。
母親同士が昔から仲が良いため、生まれた頃から何かとずっと一緒にいたし、誰よりも親しかったと思う。
ニコルはいつでも、エイミーににこにこと優しい笑顔を向けてくれていたし、互いに容姿端麗で品行方正な二人を、周囲もお似合いだと見守ってくれていた。
正式な婚約こそまだだったが、すでに秒読み、もはや確定事項だと思っていた。
ニコルからある少女の話を聞くまでは。
「そのパン屋の看板娘がルーナっていうんだけど、エイミーと同い年で、本当に可愛い子なんだ。でもね……」
ニコルが誰かを可愛いなんて話すのなんて、初めて聞いた。
あまりの衝撃で、頭の中が真っ白になってしまい、その前後でどんな話をしていたかなんて、まったく覚えていない。
しかも、その時のニコルの顔が、なんとも幸福そうな表情で、「でもね」と続けた後は至極残念そうに諦めたように微笑んでいて。
今まで見たことないニコルの顔に、感情がぐちゃぐちゃになって理性がどうにかなってしまいそうだった。私はちゃんと笑えていたかしら。
そして、一晩眠れずに考えて、
「ルーナって子に会ってみるわ!」
と決めた。
眠れなかったあまりに、夜明けとともに出掛けようとして、侍女のメルに慌てて止められたけど。パン屋は夜明け前から働いてるって聞いたから、この時間でも問題ないと思ったのに。
朝食の後、午後の家庭教師の課題を済ませてからです、というメルに、夜中すでに済ませた課題を見せてから、目当てのパン屋に向かった。だって、あまりに眠れないからもう夜中に課題済ませちゃってた。
そうしてやっと出会ったルーナは、なんでこんなパン屋に!? ってくらい洗練された美少女だった。
向かいのカフェで様子を窺って、客足が引いたのを見計らって、店に入った。
「いらっしゃいませ」
と、ルーナは満面の笑顔でお出迎え。ううっ、可愛い…! 美少女の惜しみなく振りまかれる笑顔と愛嬌で、店内が輝いて見える。
向こうも、突然現れた場違いなくらい豪奢なお嬢様に驚いた様子だった。「えっ?」と口に手を当てて目を丸くした顔まで可愛らしい。
いやいや、エイミーだって社交デビューはまだかと期待される、完璧令嬢。ここでたじろいでは侯爵家令嬢の名折れ。
「あなたがルーナさん?」
口元に扇子を当てて、令嬢然と尋ねる。
「はいっ…、ルーナ・スクワレルと申します……」
悠然と胸を張るエイミーに対して、ルーナは緊張に声を震わせて、か細い声でフルネームを名乗りながら頭を下げる。
「そう。私はフロスティ侯爵家が娘、エイミー・フロスティです。あなた、ニコル・ブラックオターをご存知でしょう?」
内心、どんな反応が返ってくるかドキドキしながら、ニコルの名を出して尋ねる。声、震えなかったかしら。ちょっと扇を高くして顔を隠し気味になったの、バレていないかしら。
「侯爵家…!? えっ? ニコル…って誰?」
ルーナは何がなんだか分からずに混乱しているようだった。ニコルはここで名乗っていないのね。
でも、ルーナが分かっていようといまいと関係ないわ。ニコルも侯爵家令息。決して平民のルーナと結ばれることがあってはならないのだから。
「ここでは何と名乗っているのかしら。とにかく、パン屋の娘の分際で、侯爵家に嫁ぐなんて夢は見ないことね」
過剰なくらいに高飛車に言い切った。初対面で可哀想だけど、早いうちに熱は冷まさないといけないわ。これはそのためにぶっかけた冷水よ。
ルーナは右手を口元に当てて、左手はエプロンを握りしめて、「ええ? 何のこと……?」と戸惑っているようだった。綺麗な若草色のエプロンがくしゃっと皺になっている。裾や肩紐には、レース模様の刺繍がしてあって、よく見たら菫の花が模様に組み込まれていて……。
「……それはそうと、そのエプロン可愛いわね。刺繍が素敵だわ」
エイミーの言葉に、ルーナはぱっと顔を上げた。瞳をうろうろさせて不安げだった困り顔から一転、頬を上気させてエイミーを見上げた顔が可愛い。
「あっ、ありがとうございます。お褒めいただき光栄です」
「あなたによく似合ってるわ。それより、ありがとうって、あなたが刺したの、その刺繍?」
「はい……。まだ未熟なのですが……」
照れて伏せた顔も可愛い。っていうか、こんな緻密な模様を自分で刺繍したなんて! 思わず刺繍部分をまじまじと見つめる。未熟なんて言って、粗なんて一つも見当たらないんですけど!?
「すごいわね。私と歳も変わらないでしょうに見事だわ。今度、私にも何か刺して欲しいわ」
「そんな、恐れ多い……! そこまで言っていただけるなんて本当に嬉しいです」
* * *
テーブルの上には、ティーカップが二脚とアップルパイ。
「美味しそうなアップルパイだね」
「ええ。二番街のパン屋で買って参りましたの」
いつものようににこやかな笑顔を向けるニコルに、澄まし顔のエイミーはそう答えて、紅茶を一口飲む。うん、ルーナのお店のアップルパイは甘さ控えめなのにシナモンが効いていて素朴ながら美味しい。メルが選んでくれた茶葉ともぴったりだ。
エイミーはちらっとニコルの様子を窺う。
十五歳ながら優雅な仕草でアップルパイを口に運ぶニコルは、さして動揺する様子もなく、「へえ、美味しいね」とやっぱりいつも通りだ。
だが、ふと何かを思い出したように動きを止めた。
来た……、とエイミーは固唾を呑む。
「二番街のパン屋っていうと、ルーナの店かな?」
「……。ええ、確か売り子の娘がそんな名前でしたわ。可愛らしい子ですわ」
エイミーの答えに、ニコルはぱっと破顔した。
「エイミーもルーナに会ったんだね。いい子だっただろう。君ともきっと仲良くなれると思ったんだ!」
嬉しそうに興奮した様子のニコルに、エイミーは戸惑う。
ええっと、つまりこういうこと? 侯爵家令息として結婚するのはエイミーだけど、ルーナを妾にしたいから、エイミーとルーナにも仲良くしてもらいたい……とか。
小さい頃から容姿の整ったニコルは、女の子達の憧れだった。けれど、いつだって誠実で、気品があって、こんな誰かの尊厳を傷つけるような人ではなかった。恋とはこんなに人を狂わせるのだろうか。
そういうことなのね。ニコルはきっとルーナに恋をしているんだわ。
その後どんな会話をしたのか、よく覚えていない。彼と仲の良い第一王子とかその側近の方の話題が出た気がする。
それらの話にニコニコと微笑んで、ニコルが帰ったあとで、エイミーは一人で泣いた。
* * *
あんな純真な顔して、ニコルを恋に狂わせたルーナが憎らしかった。
確かにルーナは文句のつけようもない美少女だけど、やはり平民で働き詰めのその手は荒れているし、髪も毛先がぱさついていた。
エイミーだって、雰囲気は違うかもしれないけれど、容姿では負ける気はしないのに。
そんなイライラしたまま、ルーナのパン屋の前に立つと、なんとお店は閉まっていた。
このエイミー・フロスティがわざわざ出向いてやったというのに!
ますます苛つく思いで、歯噛みしながら店先に立ち尽くしていると、裏口がガチャリと開く音がして、しばらくするとひょこっとルーナが顔をのぞかせた。
いつもの一つにまとめた三つ編みにエプロン姿ではなく、髪をハーフアップにしてワンピースという装いだ。なによ、ひょこっと現れて、いつもと違う髪型なのも可愛いわ。
「あっ。エイミー様! 申し訳ありません、今日は午後からお休みでして……」
「そう、貧しい平民のくせにお休みだなんていい御身分ね」
「はい……。皆様、朝のパンをお求めいただくことが多いので、午前中は開けていたのですが、あの、その……今日は祖父の命日でして……」
侯爵令嬢であるエイミーがふんっとそっぽを向いて、高飛車発言をしても、平民のルーナは反発できない。
「あの…、今日はなにかお買い求めでいらっしゃいましたか?」
もやもやする気持ちのまま黙っていると、ルーナが遠慮がちに、エイミーに訊いてきた。うっ、上目遣い可愛過ぎる…!
「えっ、そうね……」
買い物とか考えてなかった。あなたの貧相な姿を見て憂さ晴らしに来たのよ、なんてさすがに言えない。
「……アップルパイを」
「あっ、アップルパイでしたら、少しですがあります! 包んできますので、少々お待ちください!」
そう言うと、ルーナは駆け足で店の裏口に戻っていった。
えっ、どうしよう……、と迷っていると、斜め後ろに控えていたメルが支払いの準備を始めていた。
「お待たせいたしました! アップルパイです」
少し息を切らせて、アップルパイの入った包みを笑顔で差し出すルーナが今日も眩しすぎる。
「わざわざ悪いわね……。メル、お代をお支払いして」
「いえ、結構です! もうレジも締めてしまいましたし…」
ルーナが慌てて手を振って拒否する。
「フロスティ侯爵家の者が、平民のあなたから施しを受けるなんて有り得ないわ。黙って受け取りなさい。レジを締めたと言うならお釣りは結構よ」
必死で断るルーナにエイミーは毅然と言い張る。
恐縮してメルから銅貨を受け取るルーナの全身を、エイミーは上から下までじーっと観察する。
くすんだ水色のシンプルなワンピースに茶色の擦り切れたブーツ。
「それにしても、それでよそ行きの格好なの? みすぼらしいわね。ワンピースの色とブーツの色がまるで合ってないわ」
冷めた表情に刺々しいエイミーの声に、ルーナは顔を伏せて縮こまってしまった。
「あれからニコルは……、誰か貴族の男性は相変わらず店に来てるの?」
一旦ニコルの名を出して、そういえばニコルはルーナに名乗っていなかったのだったわ、と思い出す。だが、名は知らなくても、いつもやってくる自分に懸想した貴族の男くらい分かるだろう。
「その……ニコル様という方は存じませんが、貴族の方はいらっしゃいます。ありがたいことに、常連となってくださっている方もいらっしゃいますし……」
「へえ、そうして店に来る貴族の男性にあなたは色目を使っているわけね。はしたないわ」
「そんなっ、色目だなんて……」
エイミーの蔑むような言葉に、ルーナはますます縮こまって泣きそうな顔になるが、それでも容赦しない。きっとこの後、この可憐な泣き顔でニコルに泣きつくんだわ。
「あなたみたいなみすぼらしい子が、侯爵令息に取り入ろうだなんて、身の程知らずもいいとこだわ。大体何よ、このワンピースだって色褪せて……、あら、この裾の形良いわね」
「えっ。ありがとうございます。母の若い頃のワンピースなのですが、丈が長くて、切るときに少しアレンジして……」
「これもあなたが自分でしたの!?」
ルーナのワンピースは、裾が花びらのようなスカラップデザインになっており、袖もキャンディスリーブにアレンジされ、裾と襟元にはシンプルだが繊細な刺繍が施されていた。
エイミーは、そうした細工を改めて隅々まで見る。
ルーナは気恥ずかしそうに、おろおろしていたが、そこに、
「ルーナ、そろそろ行くぞ。あのさ、今そこですげー豪華な馬車があってさ……」
「それはきっと、我がフロスティ侯爵家の馬車ね」
エイミーやルーナと同じ年頃の少年が来た。
少年は、やはりくすんだ白いシャツにパンツ姿で、シンプルだが上質なドレスを身に纏い、腕組みをして見下ろすように自分を射抜くエイミーに一瞬たじろぐ。
「あなたこの街の子? 身なりといい年といいルーナにぴったりじゃないの。名前は?」
「は?」
しかし、たじろいだのは一瞬で、挑発的なエイミーに反発するように少年は訝しげに睨み返してきた。ルーナと違って気が強そうだ。
「このエイミー・フロスティが名を聞いてあげてるのよ。さっさと名乗りなさいよ」
「……イリヤ・リンクスです。っていうか、誰……?」
不承不承といった様子だが、少年、イリヤが答える。ふんっ、と嘲笑してエイミーは続ける。
「ルーナもニコルや貴族の常連なんかに色目を使うより、身分も釣り合った彼あたりでいいのではありませんこと? ほら、よく見たら彼だって……」
そう話しながら、イリヤを改めて見てみる。
エイミーを敵意を持って見据える目は凛々しくて、幼さが残るものの、なかなか整った顔立ちで、体躯はすらっと均整が取れていて……、
「……あなた、なかなか格好良いじゃないの」
「はあ!?」
うん、悪くないわ。ニコルや貴族の令息のように洗練された格好良さではないけれど、筋力もあって頼りがいがありそうだし、何より顔がなかなか可愛いわ。
「ちょっとルーナと並んでみなさいよ。きっとお似合いだわ!」
「ちょっと、ルーナ! このお嬢様何なんだよ!」
真っ赤な顔をして慌てるイリヤの横に、エイミーがルーナの手を引いて隣に並ばせる。やはり真っ赤になって戸惑うルーナと二人そろって、初々しくて可愛い。
「イリヤは何をしてる人なの? ここのルーナは貴族も目をつける美少女なんだけど、守っていける甲斐性はあるの?」
「ええー……、何、急に……」
「あのっ、エイミー様! 失礼かとも思ったのですが、私、こんなものを作りまして……」
先程とは違う意味で、たじろぐイリヤにエイミーが詰め寄っていくと、横からルーナが何とかしないと、と慌てた様子で勢いよく割り込んできた。
そして、バッグとも言い難い古びた袋の中から、パンと同じ包装紙に包まれた何かを取り出した。
「こんな粗末なものをお渡しするのも失礼かとは思ったのですが、どうしてもエイミー様のために刺したくなって……」
と言いながらもじもじするルーナ。何これ可愛い。抱き締めてあげたい。
包みの中から出てきたのは、薔薇の花と葉をモチーフにしたレース模様が刺繍されたハンカチだった。角に兎もいる。
エイミーの好みぴったりなあまりの可愛さに、淑女らしさを忘れ口を丸く開けて絶句したエイミーを、不安そうに見つめるルーナ。と、エイミーから解放されて、ほっと息をつくイリヤ。
「これを私に……?」
「あっ、貧乏くさいとお気に召さなければ雑巾にでも……」
真顔のエイミーに、ルーナの顔は青褪めて声も震える。そんなルーナを、エイミーは鋭くキッと睨む。
「あなた! 私が誰かからのプレゼントを気に入らないからと粗末に扱うような下品な人間だというおつもり!?」
「えっ!? いえっ、そんなつもりは……」
「そもそも気に入らないなんて言っていないわ! すごく素敵じゃないの! やっぱりあなたはすごいわ!」
「はいっ、ありがとうございます。菫のレース模様を褒めていただいたので、きっとこういう柄もお好きかと思って……」
怒った目つきと口調のまま、頬を紅潮させてハンカチを胸にぎゅっと当てるエイミーを、こちらも震えた声のまま、両手を胸の前で組んでルーナが涙目で眩しそうに見つめている。嬉しすぎて口元が緩みそう。いいえ、はしたないわ。我慢我慢。
そんな二人を呆れたような、疲れたような目でイリヤが眺めていた。
「ほんと何なの、この人……」
* * *
「今日は、部屋がいつもと違ういい香りだね」
毎度恒例の、エイミーとニコルのお茶会の日だった。
ニコルはソファに座るなり、いい香りの元を探すように部屋を見渡した。
「それはきっと、ラベンダーの香りですわ。最近、少々疲れたようだとお話していたら、リラックスできるからといただきましたの」
ニコルの背後に飾ってある花瓶とそこに活けたラベンダーの花束を指差し、エイミーが説明した。
「へえ……、誰から?」
「二番街のルーナから、と言うよりそのご友人のイリヤからですわね。ニコルはイリヤのことはご存知かしら」
「えっ!?」
ルーナに再び会って、イリヤの存在を知って、エイミーは開き直った。だって、ルーナはきっとイリヤのことを憎からず思っているわ。ニコルが妾にしようっていうのも、ニコルの一方的な考えかもしれない。可哀想なニコル。あなたの想いが報われないのは不憫だけど、私は、あの可愛らしい平民カップルを全力で支援するわ!
それに、とルーナから貰ったハンカチを思い浮かべる。あの、薔薇と兔の素敵なハンカチ。ルーナってば本当にいい子。
一方、ニコルはなぜか落ち着かない様子だった。「なぜあいつがエイミーに花を?」、といまいち目の焦点が定まらない様子だ。
「ニコル……?」
「あ、ああ、イリヤというとルーナの隣に住む酒屋の息子だろう」
「あら、そうなの。イリヤのお家は酒屋なのね。だからかしら。酒樽とか重いものを運ぶからあんなに鍛えられた体をしているのね」
「え、エイミー……?」
そういえば、ルーナのパン屋の隣は酒屋だった気がする。イリヤは酒屋を継ぐのかしら。それなら、エイミーが侯爵家を継いだ暁には、イリヤの酒屋からワインを買ってあげよう。ちょっとでも二人の家計が潤ってほしいわ。
そんなことを考えていたら、目の前のニコルが信じられないものでも見るように、エイミーを見て呆然としていた。
今日はニコルの様子が変ね。ルーナを巡るイリヤというライバルの話に動揺しているのかしら。気を落ち着けるように紅茶を飲んでいるけど、今日の紅茶はカモミールがブレンドされているから、きっとすぐ落ち着くわね。
そのカモミールもイリヤに分けてもらった、とは言わないでおこう。
* * *
紫色のベロアのスカートに、フリルの立襟に大きなリボンのついたブラウスにお気入りのブローチをつけて、焦げ茶色の編み上げのロングブーツ。
スカートは裾に向かって綺麗なフレアになっており、一歩歩けばひらひらと美しく揺れる。アシンメトリーに切り替えられた裾は少しギャザーが入っていて、更に後ろ下がりの形が、ブーツともよく似合っていた。
メルに同じベロア生地のリボンで髪をハーフアップに結ってもらった。
「今日のスカートは初めて見るね。いつもよりも大人っぽくて素敵だよ。エイミーは紫色もよく似合うね」
ラベンダーを飾ったお茶の日から一週間。今日は、ニコルと一緒に観劇に行く予定だ。ニコルは今日も、エイミーに穏やかに微笑む。
「ありがとうございます。気に入った生地を見つけたので、持ち込んで仕立ててもらいましたの」
二番街のパン屋さんの看板娘に。
エイミーとルーナは仲が良い、と思い込んだらしいニコルは、それからルーナの話題を出すことが増えた。
主に、ルーナの容姿は貴族令嬢にも引けを取らない可愛さだとか、控えめで働き者のルーナならば貴族の家に嫁いできても上手くやっていけるとか、ルーナへの賛辞とルーナを娶るという夢物語だ。
ニコルは、その話を聞くエイミーの引きつった笑顔に気づいていない。
むしゃくしゃする気持ちは、全部二番街のパン屋でルーナにぶつけた。
もちろん、そんな姿を誰かに見せるわけにいかないので、客足の引いた頃を見計らって訪問した。
貧乏人が貴族に媚びを売って浅ましい、などと睨みつけると、ルーナはおろおろしていたが反論はしなかった。ということは、きっと後ろめたいことがあるのだろう。
イリヤと相思相愛かと思いきや、ニコルにもいい顔をするなんて、純情そうに見えてみっともない。
嫌がらせに目の前のパンをぶちまけたくなったが、……それは流石にやめた。いやだって、もったいないし……。ここのパン、美味しいんだもの……。
ルーナに当たり散らすエイミーに、店が暇になるとルーナのもとにやって来るイリヤは、
「今日もカリカリしてんな、お嬢様」
と呆れたように溜息をつきながら、ハーブやら飴やらを差し出してくる。
まったく馬鹿にして、この男……! と、尚更眉を吊り上げながら、エイミーはそれをもぎ取るように受け取って口にする。ん? 今日のは飴じゃなかった。キャラメルだわ。ちょっと塩味がして美味しい。
イリヤはそんなエイミーの表情の変化に気づいたらしい。
「お。気に入った? それワインにも合うって御婦人方に人気でさ」
ああ、なるほど。私はお酒は飲んだことないから分からないけど、コーヒーにも合いそうね。
って、本当に馬鹿にしてるわ。
イリヤは二度目に会った時から、エイミーに敬語すら使わない。隣りにいるルーナはこんなにも、エイミーに下手に出てビクビク縮こまっているというのに。あら? そういえば今日は初めて見るスカート着ているるわね。
「あなた、そんなスカート持っていたのね。貧乏なくせに洒落た形のスカートね。生意気よ」
生地は古びた麻だが、変わった形で切り替えてあって、裾の形も後ろ下がりで珍しい。
じーっとスカートを観察していると、ルーナがまた肩を竦めて、
「あっ、これ……母のお下がりのスカートをリメイクして……。母にはあちこちちぐはぐで変わってるって言われて……。でも普段着ならいいかなって……」
「変わってるけど悪くないわよ。あなた本当に器用ね。そんな貧乏くさい生地じゃなきゃ、私も着てみたいわ」
さらさらの絹とか、これからの季節ならベロアだっていいわね。
「エイミー様が……っ!? そんな風に言っていただけるなんて、光栄ですっ」
ルーナは頬を赤らめ、その大きな目を潤ませた。さっきまで路地裏に追い詰められた子猫みたいに震えていたのに、もう感極まってエイミーの方へ前のめりになっている。
じゃあ、今度生地を持ってくるからぜひ作って頂戴、という流れになったのだ。
生地を届けて一週間後には、木箱に入ったスカートが、フロスティ侯爵家に届けられた。
もう一週間くらいしたところで様子を見に行くかと思っていたので、予想以上の早さに驚いた。
毎日早朝から晩まで働き詰めではないのか。あのパン屋ってば、意外と暇なの?
しかもよく見れば、木箱の縁には丁寧な細工が施されており、正直、パン屋の包み上にでも包まれてくると思っていたので、二度驚いた。ルーナのくせにこんな立派な箱、一体どこから調達したのか。
何も知らないニコルは、「へぇ、エイミーはお洒落だね」なんて言ってにこにこしている。
エイミーも、まさかあなたが惚れてるパン屋の娘に仕立てさせたのよ、なんて言えないので、同じようににこにこと微笑み返す。
観劇は楽しかった。
最近、殺伐とした気持ちでいることが多かったから、劇の世界にのめり込むことで、久々に良い気分転換ができた。
だが、そんな爽やかな気分を、ニコルの一言があっさり壊してしまった。
「あ。エイミーのそのスカート、どこかで見たことがあると思ったら、似たのをルーナが着ていたんだ」
そう喜色満面に告げたニコルに、一気に現実に引き戻される。
せっかくのお出かけで、観劇で楽しい気分でいたけれど、そう遠くない先待っているのは、ルーナという愛人を囲うニコルの名ばかりの妻という生活。いいや、もしかするとただの幼馴染で婚約者候補に過ぎない自分から、ニコルはあっさり去っていくかもしれない。
そういえば、どうして私達は婚約しないのだろう。幾度となく将来を仄めかす話は出てきたのに。エイミーには、ニコルとの将来しか考えられないのに、ニコルはそうではないから?
もう、こうして一人で逡巡して怒ったり泣いたり、疲れてしまったわ。
「ニコル、帰る前に寄って行きたいところがあるのだけど、いいかしら?」
エイミーがそう言って、精一杯ふっきれた笑顔を見せると、ニコルは「エイミーの行きたいところならどこでも付き合うよ」とやはりにこやかに応えた。
* * *
「お邪魔するわよ」
いつもより遅い時間だからどうかと思ったけど、まだ店は開いていた。
「エイミー様。いらっしゃいませ……!」
いつものように天使みたいなルーナは、エイミーの格好を見ると、スカートで目線を止め、両手で口を塞いではっと息を呑んだ。
途端にルーナの両目から流れた一筋の涙。予想外の涙に、エイミーは瞠目した。
「ちょっと、何よ。気持ち悪いわね」
「だって! エイミー様がそのスカートを着てくださってるから。わざわざ見せに来てくださったんですか? 感激です……!」
「そりゃあ着るわよ。わざわざ私から頼んだんですもの」
「えっ? エイミーのスカートは彼女が作ったものなのかい?」
エイミーの背後から突如姿を現したニコルに、ルーナが固まる。
そのルーナの反応を見ながら、エイミーも緊張する。
「パン屋の娘であるルーナに、スカートを作らせるなんて……」
心底驚いた、というようなニコルの声を聞きながら、エイミーはきゅっと唇を結んだ。
エイミーとしては、素敵なスカートを作るルーナに、その場の話の流れから、スカートを依頼してしまったが、ニコルは、愛するルーナを身勝手に扱き使うエイミーを、さぞ高慢で悪虐だと思ったに違いない。
ここに来ては、ルーナを罵りいいように従わせるエイミーは、さながら物語の悪役令嬢のようだろう。
その、緊張を破ったのは、
「あ。ニコ。やっぱりお前だったんだ、このお嬢様の婚約者」
店の奥から出てきたイリヤだった。
「えっ? イリヤも知ってる方なの?」
「あー、ちょっとだけ。えっ、ルーナは会ったことなかったっけ。レオの付き添いで……」
「ああ! レオ様の」
びっくりした様に目を丸くしたルーナに、イリヤが一言、説明とも言えない説明をすると、途端に合点がいった、とルーナの顔が和らいだ。
「えっ!? ルーナはニコルのこと本当に知らないの!? っていうかレオ様って??」
「レオン殿下だよ。第一王子の」
「第一王子殿下!? なんで急に殿下??」
いやいや、ルーナもニコルもイリヤも、みんな納得みたいな顔してるけど。ちっとも話が理解できない。そんなエイミーの耳元で、ニコルがレオ様の正体を明かしてくれるが、尚更状況が理解できない。
「レオン殿下は、時々お忍びで街に遊びに……じゃなくて、視察に出られるんだよ。たまたま知り合ったイリヤが、よく案内役を務めてくれるんだ。俺と殿下は同じ年だし、よく誘われて一緒に街まで来てた」
ニコルが、淡々とエイミーに説明してくれる。だが、その声はどこか強張っていて、いつもの笑顔も見られない。それどころか、どこか冷たくて鋭い目をしている。
そんなの知らなかった。
だとしても、付き添いでやって来たニコルが、ルーナに恋したことには変わりない。状況は何も変わっていない。それどころか、第一王子がニコルとルーナの背後にはいる。
「それで……」
ニコルが本題に入ろうと、更にワントーン声音を下げた。
エイミーは、真っ直ぐにニコルの目を見つめ返す。
「どうして、ルーナがエイミーのスカートを作ったり、イリヤがエイミーに花を贈ったりしているの?」
そう、これからエイミーは平民の娘を扱き使う傲慢な令嬢として……、ん? 花?
「えっ? 俺、お嬢様に花なんて贈ったっけ?」
「あっ、この前のコスモスのことじゃない? その前もラベンダーとか、カモミールとか……」
「コスモス? カモミール!? ラベンダーだけじゃないのか?」
「あ、カモミールはニコルとのお茶でも、紅茶に入れて……」
「ええっ? 俺も口にしてるの? イリヤからの花を!?」
贈り物の認識がなかったイリヤに、ルーナが答え、それを聞いてニコルが興奮して。え? 何これ。
「なんかお嬢様がイライラしてたから、剪定ついでに気を静めるのに目の前にハーブを出しただけだろ。コスモスもここの庭に蔓延ってたから切っただけだし」
呆れたように息をつきながら、面倒臭そうにイリヤが答える。何か失礼ね。人を暴れ馬みたいに。
「あの……、スカートは、私がエイミー様に着ていただけたら嬉しいって、作らせていただいて……」
ルーナがおずおずと話し始める。それを遮ってエイミーも話す。ルーナに庇われるなんて情けないわ。
「あなたの作るスカートが素敵なデザインだから、私も着たいって言ったのよ」
「エイミー様……!」
それを聞いて、ルーナがエイミーをキラキラした瞳で見つめる。ああ、そんな瞳で見つめられたら、思わず抱きしめちゃいそう。
この様子に困惑しているのはニコルだった。
「ええと、つまり……。スカートはルーナが好意で作って、花は剪定で出た余り物?」
やっぱりどう表現しても花については何か失礼ね。
「……ちゃんと説明してやれば? レオやニコとルーナのことがよく分からないから不安なんだろ、このお嬢様」
ニコルに向かって、そう諭すように話しかけたのはイリヤだった。
不安……。不安だったのかな、私。
ニコルにとってエイミーは幼馴染で、頻回に会ってはいるけれど、未だに婚約者になれない不確定な立場で。でもエイミーにとってニコルは唯一無二で、そんな中、ニコルからルーナへの恋情を聞かされて。
「不安だなんて、そんな……。私とニコルは婚約しているわけでもないのに……っ」
あ。駄目だ。涙が出そう。エイミーは目頭が熱くなる感覚を必死に堪える。人前で泣くなんて、淑女にあるまじき姿、こんな一介のパン屋で晒す訳にはいかない。
「エイミー違う! ずっと待たせてごめん。ようやく婚約できる目処が立ったところなんだ。今、父達が具体的に内容を詰めていて……。」
「でも、あなたはルーナのことが好きなんでしょう!?」
えっ、とルーナが小さく息を呑む様子が横目に見えたが、構わず続ける。
「それで、私に本妻の仕事をさせて、ルーナも妾として囲うおつもりなんでしょう?」
「えっ!? 何それ。そもそもそれも俺じゃない」
ニコルは、いつもの穏やかな彼らしからず青褪めた顔で声を荒らげた。
「どこからそんな話に……。そもそもルーナのことを好きなのは、俺じゃくてシリルだ。いつかエイミーにも話したと思ったけど。エイミーは、シリルとルーナを近づける切っ掛けとのためにルーナと仲良くなっているのかと思った……」
シリルとは、エイミーやニコルよりも一歳上の伯爵家嫡男で、レオン殿下の側近とされている。確か、まだ婚約者はいない。
えっ? そんな話聞いたかしら。いつもルーナの話を聞くときには、頭に血が上るか、頭が真っ白になって、記憶が曖昧だわ。
「私、ニコ…ル様にも、そのシリル様とおっしゃる方にもお会いしたことがありません……」
ルーナが、寝耳に水、といった様子でずっと目を丸く見開いて呆然としている。
「店には殿下とイリヤが入って、俺とシリルは店の外で待機してたから。その店の中の様子を見て、シリルが君に惚れたんだよ。ああ、いいのかな。本人が居ないところでこんな話をしてしまって」
エイミーとルーナを交互に見ながら説明しながら、ニコルはバツが悪いと最後に目線を逸した。だがすぐに、「まあいいや。エイミーに誤解されるくらいなら」と開き直ったように笑った。
「でも、ルーナなら貴族の家に嫁いでも上手くやっていけるとか、さっきだって、ルーナにスカートを作らせたって厳しいお顔をしていたり……」
エイミーは、緊張が解けるような、不安が解れていくような気持ちになりながらも、まだ残る引っ掛かりを口にした。
ニコルは、「それは…」と口籠りながら、やがて、
「それは、シリルも友人だから万が一、上手くいくならいってほしかったし。シリルが女の子の話で浮かれるなんて初めてで。でもちゃんと、ルーナの側にはイリヤがいるから難しいとは思ってたんだ。そう思ってたのに、そのイリヤがエイミーにも花なんて贈ってたら面白くないだろう。」
と言った。そう言ったニコルの顔は、みるみるうちに赤くなっていった。その様子に、エイミーのほうが驚いてしまう。何なの。これじゃまるで、ニコルがイリヤに嫉妬しているみたいじゃないの。
「エイミーもイリヤのこと、頼り甲斐があるなんて、満更でもなさそうだったし。イリヤはまあ、……男から見てもいい男だから」
そんなこと言ったっけ? ああ、なんか言ってたかもしれないな。でも、
「それは、ルーナを任せても安心だと思ったからだわ。ほら、ルーナは可愛いのに押しに弱そうだから、イリヤならちゃんと守ってくれそうだと思って」
「お嬢様、どっから目線だよ。保護者かよ……」
イリヤはもう、エイミー達がこの店に来たときからずっと、呆れっぱなしとでも言いたげな様子だ。でも、心なしか、目を明後日の方向に逸らして、照れているようにも見える。
「えええ……、そんな風に思っていらしたなんて……」
ルーナも突然そんなことを言われて、赤く熱くなってしまった頬を両手で押さえて、恥ずかしげに俯いてしまった。本当、どこまでも初々しいなこの二人。
「俺はずっと婚約も結婚もエイミーしか考えていないし、妾を囲うなんて論外だ。三年前、兄が体調を崩して婚約の話が保留になって。ほら、エイミーは一人娘だから俺は婿に入る予定だったし」
そういえば、婿入りがどうとか聞いた気もする。エイミーは相変わらず涙を堪え、頷きながらニコルの話を聞いている。
「でも、半年ほど前には兄もすっかり良くなって、近々婚約も纏まりそうだから、ようやく俺たちの婚約も話を進めることができそうなんだ」
「この三年間、フロスティ家には悪いけど、ずっと待ってもらっていた。どうしてもエイミーが良かったから」
あ、もう無理だ。ずっと瞼の際で堪えてた涙が溢れてしまった。ずっと我慢していたから、きっと変な顔をしていたに違いない。
「不安にさせてごめんね、エイミー。俺と婚約してくれる?」
声を出せなくて、エイミーは必死に首を縦に振る。
「良かったですね、エイミー様……! おめでとうございます」
なぜか同じくらい涙を流すルーナと、
「いや、思い込み激しすぎでしょ。人騒がせなお嬢様だな……」
やっぱり呆れ顔のイリヤ。
エイミーが想像した決着とは違うけど、エイミーの悪役令嬢劇場はこうして幕を閉じた。
* * *
翌日は流石に恥ずかしかったが、二日後、ルーナのパン屋に行くと、ルーナはちょうど接客中だったので、しばし店の前で待っていると、イリヤに声を掛けられた。
イリヤ曰く、ニコル同様次男のイリヤは、酒屋を次ぐ必要はなく、店の手伝いはしながら、近所の家具職人の見習いをしているということだった。手先が器用なイリヤの性分に合っているらしい。
スカートが入っていた箱も、彼が作った物だったのだ。
「まあ、今回のことで、今の俺に頼り甲斐があるかどうかはさて置き、貴族様に掻っ攫われていくくらいなら、俺が不自由なく暮らせるくらい頑張ろうと思ったよ」
いつになく、エイミーに向かって真面目に話すイリヤに少し驚きつつ、
「そう、頑張ってね。ルーナをよろしく」
と、エイミーは答えた。せっかく伏せたルーナの名を言われ、イリヤはバツが悪そうに外方を向く。
「だから、どこ目線だよ……」
「あっ、エイミー様。いらっしゃいませ」
最後の客を見送ったルーナが、天使のような笑顔でエイミーを出迎える。
その天使に、エイミーは腕を組んで高慢に声を掛ける。
「今日も相変わらず地味な服を着てるわね。今日はアップルパイをいただくわ。……あら、今日のエプロンの刺繍は初めて見る柄ね、素敵じゃないの」