第一章 旅立ちの王女
地球とは異なる、とある世界での物語。
その世界には一つの大陸と小島があり、それ以外は広大な青い海が広がっていた。
大陸と小島はヴァルッサ王国という唯一の国家によって治められ、王国は長きに渡って平和が続いていた。
ヴァルッサ王国の王城。
華やかな城内の一室で、煌めく月のような長い銀髪の娘が、物憂げに窓の外を眺めていた。
彼女の名はメイビス。ヴァルッサ王国の第一王女であり、美しい面に色素の薄い肌をした、深窓の令嬢だ。
彼女の整った顔は不安と期待という相反する感情の色を宿し、その真っ青な目ははるか遠くの空へ向いている。
メイビスはずっと幸せだった。
父である国王ランセットと母の王妃アリアとの一人娘として生まれ、二人の愛情とメイドや執事の優しさに包まれて、十五歳までの日々を平和で何不自由なく過ごしていたのだ。
しかし、悲劇は突然だった。
もともと病弱だったアリア王妃が、心疾患で倒れたのだ。
治療を施すまでもなくその命ははかなく散った。
愛する母親を失ったメイビスは悲しんだ。しかし王の悲しみはさらに深く、ランセット王は一年も泣き暮れていた。
しかしそれがようやく、再婚を心に決めたのである。
そしてこの日、新しく王妃となる女性と初対面するのだ。
メイビスの心はさまざまな感情に揺れていた。新たに義母を迎え入れるのは、あまり快くは思っていない。だってまだ母を失って一年。心の傷は完全には癒えていない。しかしそれで父王が立ち直ってくれるならかまわないと心に言い聞かせ、メイビスは窓から目を離して椅子から立ち上がった。
そのとき、メイドの一人から声がかかった。「メイビス王女様、お時間でございますよ」
「わかりましたわ。今すぐ参りますから」
そうしてメイビスは長く美しい銀髪と長袖長丈の群青色のドレスを揺らして歩き出し、部屋を出たのだった。
広間には眩いシャンデリアの光が降り注ぎ、仮設の舞台にメイビスはじっと目を向けていた。
ここは王城の広間。
王女室から移動してきたメイビスは豪華な椅子にかけ、ときを待っている。
執事が舞台の奥に現れ、口を開いて静かにこう告げた。
「お待たせいたしました、早速式をはじめさせて頂きます」
王と新王妃の結婚式。
それがとうとう、幕を開けたのだ。
「さあ、お二人とも、ご入場ください」
広間の扉が開き、二人の人物が現れる。
一人は金髪の男性、ランセット国王。
そしてもう一人は、漆黒のドレスを揺らす、目を見張るような美貌の女性だった。
背が高くすらりとした体型で、笑顔が魅力的だ。ぱっちりした目も赤い唇も鮮やかで、胸は膨らんでいるが整っている。背中までの栗毛は艶っぽく輝いていた。細く長い足、若々しい小麦色の肌。歳は三十代前半と見える。
彼女の名前はドロドー。侯爵家の令嬢で、大胆にも王に結婚を申し入れたのだとか。
確かに彼女を見れば、王がすんなり受け入れたのも頷けるというものだった。
ランセットとドロドーは、一緒に舞台へ上がり、並んで立つ。
それを見やると、司会者が言った。
「さて。新郎ランセット陛下。あなたは、ドロドー様を妻とし、健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、夫を愛し、敬い、慰め合い、ともに助け合い、その命ある限り真心を尽くすことを誓いますか?」
王は決意を宿した目をし、それから厳かに口を開いて、しかし熱気高まる広間に静かな声を響かせた。「もちろん誓うとも」
次は王妃の番だ。
「新婦ドロドー様。あなたはランセット様を夫とし、健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、夫を愛し、敬い、慰め合い、ともに助け合い、その命ある限り真心を尽くすことを誓いますか?」
ドロドーが恭しくお辞儀。笑顔が輝き、目がぎらぎらと光らせた。
「誓います。ランセット様と結ばれるなんて、これ以上の幸せはありません」
そのままドロドーとランセット王は歩み寄り、そして唇と唇を重ね合わせ、愛の印を交わした。
広間に拍手が響き渡る。
メイビスも手を叩きながらドロドーに微笑みかけた。
優しく抱き合っている二人を見て、とても幸せな気持ちになった。
こうして結婚式は幕を閉じ、王城に新たにドロドー王妃を迎え入れることとなったのであった。
ドロドー王妃と暮らしはじめてから、王の様子は劇的に変わった。
以前よりもずっと明るくなり、メイビスにもふたたび愛情を注ぐようになった。
ふさぎこんで滞りがちだった仕事も再開し、乱れていた国内を正常に戻した。
ドロドー妃はランセットと愛し合い、メイビスにもとても優しくしてくれた。メイビスも「この人とならうまくやっていけるかも知れませんわね」と安心。ときはのどかに過ぎていき、五ヶ月が経った。
そんなある日の夜中のこと。
少し眠れないでいると、突然足音がしたのである。
それは忍足のようだった。
「こんな時間に誰ですの」
もう十二時をとっくにまわり、メイドなどが移動する時間ではないはずだ。
横たわっていたベッドからゆっくりと起き上がり、耳を澄ますメイビス。なんだかもう眠る気にはなれなかったのだ。
足音は王女室から遠ざかり、聞こえなくなった。
「気になりますわね」
メイビスは特段好奇心旺盛ではない。静かな性格で、いつも賢く行動する。
しかしこのときは、なんとも形容できないが妙な予感が胸の中に芽生えたのだ。
「ただの気のせいでしょうけれど、行ってみましょう」
呟いて、寝着姿のメイビスはそっと王女室を出て足音の方向へ足を向けた。
部屋の外は回廊だ。
この階には王女室、王と妃の部屋、それから空室の王子室四つと王女室二つの合わせて八部屋がある。
足音は南向きのメイビスの王女室を過ぎて回廊を曲がり、空室の王子室二つのある東側へ向かっていた。
「見つかってはいけませんわね」
メイビスも足音を忍ばせ、よく耳を澄ます。
足音はどんどん北東の方向へと向かっていた。
そっと、本当にそっと後を追うメイビス。
それにしてもこの足音は一体誰のものだろうか。
足音はまた角を曲がり、北側へ向かったらしい。息を殺し、メイビスは北東の角で立ち止まって足音の主を盗み見た。
北側の回廊に見える人影は、大柄で背が高かった。ところどころに灯る廊下のランプしかないので暗いが、どうやらドロドー王妃で間違いなかった。
思わず声が漏れる。「お義母様」はっとし、ドロドー妃の方を見るがどうやら聞こえていなかったようで、メイビスは胸をなで下ろした。
ドロドーがこんな時間に西側の王と王妃の部屋から抜け出して北側へくるなんて何の用だろう。ますます怪しい。
と、ドロドーが北側の二部屋のうち東寄りにある空の王女室をノックした。
「ペグ、いるの」
ペグ。それは三年前からこの城で仕える、若いメイドの名前だ。
空室でこの王女室には入れないはずなのだが、中から返答があった。「ドロドー様。どうぞ中へ」
ドロドーは前後左右を確認し、「大丈夫ね」と言って部屋の中に入り、施錠する。だがやはりメイビスの存在には気づいていないようだ。メイビスはふたたび安堵した。
彼女は王女室の前に忍足で駆け寄る。中からは話し声が。
どうやら、王女室にいるのはドロドー妃とペグの二人だけのようだ。
だが何を話しているかの内容までは聞き取れず、メイビスは仕方ないとその場を離れ、東側の廊下へ戻ることにした。
でも、ドロドー妃は夜中にこそこそとメイドと何を話しているのだろう。
「思いたくはありませんけれど、嫌な予感がしますわ」
きっと、何かを企んでいるに違いない。直感でメイビスはそう思った。だが、昼間はとても優しく笑顔が綺麗なドロドー王妃が何かを企むようには思えないのだが。
「そんな先入観を持ってはいけませんわ。きっと、何かありますもの」
部屋に戻り、メイビスは色々と考えた。
だがいくら考えても埒が明かず、その日は眠ることにしたのだった。
その日の昼、父王と二人きりになれるときを見計らい、王の間でメイビスは口を開いた。「お父様、少しお話がありますの」
「何だ、話とは」
メイビスは深夜のことを一部始終話した。
「ドロドーお母様はきっと、何かよくないことを考えていらっしゃいますわよ」
だがメイビスの訴えは届かなかった。
「ドロドーがそんな怪しげなことをするはずがないであろう。きっとそれは寝ぼけていたか、作り話だ。もしお前の作り話だったとすれば、悪質なものだな。どうなんだ」
ランセットはドロドーのことを愛している。だから、メイビスが何を言おうと信じないのだろう。彼女は肩を落とした。「でも、本当ですのよ。わかってくださいな。わたくしだって、お義母様を疑いたくはありませんのよ」
「黙れ。ドロドーが何を企むというのか」ランセットは顔を赤くして怒り、低い声を上げた。「その話はお前の夢だ。ドロドーにはくれぐれも失礼のないようにするんだな」
そう言ってランセット王は王の間からメイビスを追い出してしまった。
メイビスはそれから毎日、ドロドーの一挙一動を見ていた。
すると、その目線、笑顔、口調、その端々から、なんとも言えぬ違和感を感じたのだ。
「本当にこの人は、お父様を愛していらっしゃいますのかしら」
メイビスは王妃の愛が偽りのもののように見えてきて仕方ないのだ。
だが王に言っても聞き入れてもらえるはずもなく、彼女はなすすべがなかった。
怪しい夜から一週間後のことだった。
朝、メイビスはいつものようにランセット王とドロドー王妃とともに食堂にいた。
朝食が湯気を立て、とても美味しく、少し油断していたそのときだった。
隣の、スープを飲んだ王が突然苦しみ出したのである。それは尋常ではなかった。
「どうしましたの、お父様」
苦しみ、悶え出す王。椅子からずり落ち、呻き、顔を青紫色にして数秒のたうった後、だらんと力が抜けた。
「お父様、お父様」
尻まで垂れる長い銀髪を振り乱し、倒れこんだ父王の体を揺するメイビス。だが返答はなく、彼の魂がすでに抜け去ってしまっていることは明らかだった。
「ランセット」ドロドーも駆け寄ってきて彼の胸に耳をあてるが、すぐに放して涙を流す。「死んでいます」
その日、城は大騒ぎとなった。
ランセットの死因は即効性のある毒によるもの。
毒をスープに混入したのはペグ。
メイビスはすべてを理解した。あの夜、ドロドーとペグが何を話していたのかを。あのとき、王を殺害するようにドロドーがペグを脅したか何かに違いない。そしてペグはランセットを毒殺したというわけだ。
つまりドロドーは、最初から王を詐害するつもりだったのだ。
では、その動機は何だろう。
そんなの簡単だ、女王になるためである。
でも次代女王はメイビスと決まっている。なぜなら、王位継承ができるのは、例外を除いて王の第一子と決まっているからだ。
ではなぜ、ドロドーが女王になれるのか。それは、例外である「第一子が死んだか大罪を犯した場合、王位継承権は王の配偶者または兄弟に渡る」という条約を利用するからである。
ペグはすぐに罪を認めた。そして、こう言ったのだ。「メイビス王女様が脅してきたんですぅ」と。
そんな事実、根も葉もない。
「抵抗しようとしました。でも、色々と言って、私にランセット様を殺させたんです」
これがドロドーの真意。
哀れなメイビスは、王を殺した罪に問われた。
「わたくしではありませんわ。わたくしがお父様を殺して何の得がありますの。お義母様、許しませんわよ。よくもこんなことをしてくれましたわね」
メイビスの弁明は、誰も聞き入れてくれなかった。
「許し難いことです。私の愛するランセットを死に追いやるなんて。いい子だと思っていたのに、とんだ悪者だったんですね。仕方ありません、メイビス王女を処刑しましょう」ドロドーの言葉でメイビスは取り押さえられそうになり、逃げ出した。
追ってくる兵士たち。
このままではメイビスは捕まり、冤罪で殺されてしまう。そんな死に方だけはしたくなかった。
城の中のことなら熟知している。
色々な非常用の逃げ道を駆け、ただひたすらに逃げるメイビス。
彼女の胸は悲しみと怒りでいっぱいだった。愛する母親を失い、やっと平和に戻ったと思ったのに愛する父親を奪われ、今は命まで狙われている。その元凶であるドロドーへの怒りはメイビスの中で炎のように燃え盛っていた。
城内を群青色のドレスを振り乱して走るメイビスの背後では、彼女を追う何人もの兵士たちが弓を放っている。
弓をかわし、前面から襲ってくる使用人を蹴り飛ばして進む。だが、このときのメイビスは感情の渦を抱えながら、妙に冷静だった。一挙一動が研ぎ澄まされている感覚がある。これは人間の生存本能なのだろうか。
「わっ」
横から弓を放とうとした兵士に体あたりし、その弓を奪い取る。「悪く思わないでくださいな。これは全部、ドロドーのせいですのよ」
逃げる。逃げる。矢の嵐。逃げる。逃げる。槍が飛んでくるのを寸手のところで避ける。そのうちに赤いカーペットが敷かれた道に出ていた。
そこを行けば、出口だ。
出口には何人もの兵士がいた。
メイビスは実は、昔から星を落とすほどと名の高い弓の名手だった。手に持っている弓を放ち、足では蹴り飛ばして兵士を一掃した。
次に待ちかまえるは門番。
「門番、通してくださいな」
「お、王女様。この騒ぎは一体」たじろぐ門番。どうやら彼にまでは情報が行き届いていないらしい。
「追われていますの。捕まったら命がありませんわ。早く」
門番は迫りくる無数の兵士を目にし、顔を蒼白にしながらもメイビスを通してくれた。
「ありがとうございます」
城から走り出て、前庭に出た。目の前には一面高い塀が張り巡らされている。
そこには大きな門があり、最後に数人の腕っぷしの強い兵士が待ちかまえていた。
背後の兵士が叫ぶ。「ひっ捕らえろ。ひっ捕らえろ」
その声にうなずき、襲いかかる兵たち。
メイビスは走りながら弓を引き、思いきり放つ。急所を射られ、一人が倒れこむ。その調子で三人を倒したが、最後の一人が立ちはだかった。
射ろうとするが、掴みかかられて弓をへし折られてしまう。そのまま地面に押さえつけられそうになったとき、先ほどの門番が駆け寄ってきて男を跳ね除けた。
「何が何やらわかりませんが、お守りしますよ。さあ、逃げてください」
門番に心から感謝し軽く頭を下げ、メイビスは立ち上がって走り出す。背後では数人の兵士たちと戦い、無惨に敗れる門番の断末魔が響いていた。
城の門をくぐり抜ければ城下町。
まだ兵士は追ってくるが、ここまできたら色々な方法がある。
家と家の物陰に置かれた酒樽の中にメイビスは飛びこんだ。幸い中身は空だった。
足音と怒号が近づき、そして離れて行く。
「どこだ」「どこだ」「いないぞ」「探せ」
しかし結局、兵士たちはメイビスを見つけられなかった。
その日の夜、メイビスはこっそり酒樽から抜け出して城下町を出ることにした。
とにかく今は城から離れるのが先決だった。
闇夜を照らす月にメイビスの銀髪が美しく輝いている。
彼女は群青のドレスを揺らし、涙を流しながら城下町を去って次の町を目指していた。
「わたくしのせいですわ」
もっとランセットを説得できていれば、彼は死ななかったのではないか。
もっと早くにドロドーの怪しさに気づけていれば、こんなことにならなかったのではないか。
「わたくしがもっとしっかりしていれば」メイビスは後悔に泣き暮れた。
彼女はすべてを失ってしまった。
愛する父も約束されていた王の座も、それに平和も身分さえも。そして命をいつ落とすかも知れない。
しかし、メイビスは自問する。このままでいいのか、と。このままただの負け犬で、無惨に死に、おそらく最初から王座のためだけに王妃になってであろう裏ぎり者を女王にし野放しにしておいていいのか。
「いいわけがありませんわ」そう呟き、顔を上げるメイビス。「泣いていても何もはじまりませんもの。もっとしっかりしなくては」
唇を噛みしめ、メイビスは決意する。
ドロドーを放してはおけない。絶対に復讐し、かけられた冤罪を晴らして王座を取り戻すのだ。
決心を固めたメイビスだったが、心労と走り逃げたための体力の浪費と半日以上酒樽に入っていたのとで疲れきっていた。
「今日のところは宿に泊まりましょう。明日から行動を起こしますわ」
城下町の最寄りの町デルーは真夜中で静かだった。
メイビスは荷物や一切の現金を持っていなかったが、幸い、つけていたネックレスと交換で泊めてもらえた。
風呂に浸かり、下着姿で硬いベッドに横たわる。寝着は城に置いてきてしまったし、群青色のドレスは薄汚れたので洗って干しているのだ。
木造の天井を見つめながらメイビスは呟く。「何もかもが崩れ去ってしまいましたけれど、わたくしの命だけは残っていますわ。幸せは絶対取り戻してみせますわよ。待っていてくださいな、ドロドー」
今頃ほくそ笑んでいるであろうドロドーに宣戦布告し、メイビスはそっと目を閉じ、眠りに落ちて行ったのだった。
2022年2月16日、内容を大きく改変しました。それにより挿絵と内容が少し違いますがごめんなさい。
これからもよろしくお願いします。