学園アイドルとの主従関係!? その3
朝。私はいつも通りに登校して、ガードレールに寄りかかって自分の世界に浸っているタエと合流した。
「ハヨハヨ」
ヘッドホンを外すと、タエは眠たげな瞳で手を振ってきた。
「おはようタエ。……夜更かしでもしたの?」
「私が眠そうだとそういう認識なの!?」
「まぁ、そうとしか思えないわね」
「ヒドイ……そりゃ~学年首席さまには関係ないだろうけど、一般人である私には死活問題といっても過言じゃないんだよぉ~」
咲さんに負けず劣らず、タエが人目も気にせず抱きついてきた。
「それで、何がそんなに問題なのよ」
「2年生になったじゃん。それでさ、春休み明けのテストがあるじゃんかよぉ~」
悲痛の声音で嘆くタエに言われて私は気づいた。
本来であれば学期末テストが各年度の最後に行われる。
だけど、今回のテストは卒業後の進路を決めるモノだ。
3年生になれば大学への進学組、働きにでる就職組で2つに分かれる。進学する生徒にとっては大事ではあるが、就職する生徒にはこれといって成績には関係ない。
「……タエ、進学するの?」
「いや、しないよ? だって、レイの稼ぎで養ってもらうつもりだもん」
「私に頼るな」
たださえ一般成人男性の生涯年収を超える借金をしている。私ではないが……。
正直返済の目途が立っていない。
むしろ、咲さんが返済しているのかも怪しいのだ。
こんな状況でもう一人養う……現実的じゃない。
「何でもするから! ねぇ、お願い!!」
「そう、だったら働いたいてくれると嬉しいわ」
「くはぁ……そ、その言葉は……」
突然胸を押さえて苦しみだすタエを置き去りに、私は学院へと急いだ。
……今日は、やけに人が多いわね。電車は遅延してなかったはずよね?
聖光学院に近づくにつれ、登校する生徒の数が増えていく。それはもちろん徒歩、送迎してもらう生徒と近所に住んでいるからだ。
誰もがスマホの画面を片手に、急ぎ足で私たちを追い越していく。
「おいおい、まさか生活指導じゃないだろな」
「知らないわよ」
制服を個性的に着崩しているタエからすると天敵で、私からするとただの登校。
私を盾に、タエはしきりに周囲を見回す。
……いい加減、ちゃんと制服を着ればいいのに。
それでこの前、爽彦さんの所に転がり込んで迷惑をかけた。爽彦さんは気にしていない様子でも、私が友達として気にしてしまう。
「……て、原因あれじゃね?」
タエが指さす先、黒塗りの高級車が停まっている。
それでようやく私も理解した。
そう、槇宮真桜が登校しているのだ。
まるで昨日の今日で、デジャブのようだった。
だけど、その光景に一つだけ違和感を抱いてしまう。
前回は私とタエが登校するタイミングで、槇宮真桜を乗せた車が脇を通り過ぎた。
なのに今回は、まるで誰かを待つかのように停まっている。
私のようにルーティンで、同じ時間の電車に乗って登校するのとは少し違う。
車で、しかも送迎だ。
自分の好きな時間に登校できる。
「……レイ、大丈夫?」
タエに声をかけられて、私は首を傾げた。
心配するように覗き込むタエは、鞄にぶら下がる小さな鏡を見せてくる。
「顔、真っ青だよ? まさかまた遅くまで勉強してただろ」
貧血かと勘違いしたのか、タエは私の鞄を持ってくれた。
その気遣いに感謝したかったが、私にはそんな余裕がなかった。……いや、あるわけがないのだ。
車の後部座席のドアが開くと、槇宮真桜が降りてきた。
取り囲む生徒たちからの黄色い歓声を浴びながら、槇宮真桜は笑みを絶やさない。
「おはよう麗良」
よく通った声音で、槇宮真桜は私に向かって手をあげた。
「ヒッ」
一斉に向けられる視線に、私はみっともなくも悲鳴をあげてしまった。
す、少しは周りの目を気にしてくれてもいいんじゃないの!!
隣にいるタエですらも、不思議そうに目を大きくさせていた。
「昨日連絡したのだけれど返信がなかったから、待たせてもらったわ」
そう。私は昨日の晩、槇宮真桜からの連絡に返事をしていないのだ。
いや、正確にかつ言い訳するのであれば、どう返すべきかと寝ずに考えた。あげく今朝まで書いては消しての繰り返しで寝れていない。
お陰で今日の予習と、昨日の復習をする暇がなかった。
「ど、どうして……」
「どうして? 友達と一緒に登校してみたかったのよ」
「そ、それだけ?」
「それだけよ? ……もしかして、私が返信をしないだけで理由を聞いてくるめんどくさい女だと思ってるの?」
ある意味面倒な状況を作りあげて置いて、どの口が言うんだよ!
刺さる好奇と不審、傍観といった様々な感情が宿る視線に嫌な汗が止まらない。
「あ、あれだよ……です。春休み明けのテストが近いから勉強をして……ました」
「さすが学年トップだけあって、余念がないのね。……それと、どうして敬語なの?」
「へ、いや……癖といいますか……」
学院のアイドルで象徴とも呼べる存在と、馴れ馴れしく話せるわけないだろっ!
昨日は苛立ってたから敬語じゃなかったけど、今は周りの目がある。
「フフ、麗良って変な癖があるのね」
朝から眩しいほどの笑みに、2つの意味で胸が締め付けられた。
じゅ、純粋すぎる……。なんで私が悪いことした気分に……いや、返事をしようとしてしてない時点で人として礼儀がなってないか……。
鳴る予鈴の音に、立ち止まっていた生徒たちが慌てて動き出す。
私の停まっていた思考も動き出し、現実へと引き戻された。
「急ぎましょう麗良」
「え、いや……ちょっと!?」
槇宮真桜は、私の手を握ってきた。
しかもただ繋ぐのではなく、恋人のように指と指を絡めてくる。
え、何この距離感!!
引かれるように歩き出し、自然と槇宮真桜の隣に並んだ。
「手……握らなくてもよくないですか」
「ごめんなさい、つい嬉しくて……」
無意識だったのか、槇宮真桜は驚いたように目を丸くさせた。
……ああ、こういう人なんだ。
宝石のように大きな瞳に穢れがなく、素直に言葉のままなのだと痛感した。
女の子同士だって手を繋ぐことはあるだろう。一方的にタエも手を握ってくるし、体育の着替えになればベタベタと肌に触れてくる。
だからといって嫌かと問われると、そうは思わない。
離れようとする指先に、私は少し力を込めた。
「……麗良?」
「下駄箱までだからね」
「ありがとう」
別に感謝されるほどのことではないけど、たったその一言がくすぐったかった。
私と槇宮真桜の仲が、聖光学院に通う生徒たちに知れ渡るまで数時間。
それからさらに、数日が経っても私の置かれた環境は変わらなかった。
人の噂も七十五日って言うものね……。
毎朝校門前で槇宮真桜と待ち合わせして、下駄箱までの短い距離を一緒に歩く。お昼になれば個室へと招かれて、槇宮真桜専属シェフの特別メニューに舌鼓。放課後は私の働く【エアーダル】まで足を運び、お客さんとして居座っている。
友達だからといって、ここまでするか疑問だった。
まるでこれじゃあ……いや、そうは思いたくない!
「じゃ、お昼にね」
「うん……」
名残惜しそうに手を離す槇宮真桜と下駄箱で別れて一息。向かい側にいるとわかっていても、緊張の糸を緩めることができない。
だけど、そんな私を迎えてくれる存在が待っていた。
「おはよ」
いつもだったらガードレールで気だるげに寄りかかり、大きなヘッドホンを耳に当てている姿が当たり前。
今となっては下駄箱で顔を合わせて、短めに挨拶を交わすだけ。
実際、そろそろ気持ち的に限界だった。
「タエェ~」
「ハイ、ストップ」
泣きつこうとする私を拒むように、タエは手のひらを突きつけてくる。
目もとを細めて、顔の中心で人差し指を立てた。
周りを気にしろという意味なのだろうか?
それも――、
「麗良」
呼ばれて反射的に視線を向けると、靴を履き替えた槇宮真桜と目が合った。
小さく手を振り、そのまま自分の教室へと向かっていく。
ここまでが朝の通例だ。
「大変そうだな」
しな垂れるように、タエの胸に顔を埋めてしまう。
タエも気遣って、私の頭を優しく撫でてくれる。
「友達って……こんな感じだっけか?」
「まぁ、学院のアイドルが相手だからじゃね」
ホッと一息つく間もなく、予鈴が鳴り響く。
「ほら、授業に遅れるぞ」
「ううぅ~タエェ~もっと優しくしてよぉ~」
私とタエは、周りの急ぎだす空気に合わせて教室へと向かう。
そして、待ち受けていたかのようにクラスメイトたちの視線が刺さる。
ひいぃぃ!!
タエを盾に、いまだ慣れない視線から身を隠す。
それでもタエは気にした様子もなく、私を席へと案内してくれる。
けど、タエが自分の席に戻った瞬間――、
「沼崎さん! 本日の真桜様はお元気でしたかっ!」
「沼崎さん、休み明けのテストのことで聞きたいことが……」
「沼崎さんって、休日は普段どう過ごされてるんですか」
私の席には、毎日……いや、10分休憩の短い時間ですらも人だかりが出来上がる。それはクラスメイトから、他のクラスと垣根を超えていく。
つい先日、上級生までもが訪ねて来た時は驚いた。
どうやら聖光学院の象徴ともいう呼ばれ方は、比喩表現じゃなくて現実のようだ。
このままでは、いつか大学側からも人が来るかもしれない。
一度に大勢から声をかけられても、私にとってはキャパオーバー。
だけどほとんどの内容は『槇宮真桜と近づきたい』そんな思惑が見え隠れしている。
私の場合は秘密を握られてるんだよな……。
そんな内情を知らない生徒たちに囲まれながら、私は小さく笑ってしまう。
私の平穏だった毎日は一転して、瞬きする暇もなく賑やかさを増していった。
――お昼休み。
いつものように食堂へと向かおうとして、立ち塞がる人物に威圧された。
「少し話がある」
「そ、それは……いいけど――」
「真桜様には内密だ。……いいな」
「はい」
槇宮真桜の付き人である破島さん。今日も変わらず私に対する圧が強くて、同級生とは思えないほど怖い。
無言で促されるまま、私は破島さんの後ろをついて歩く。
これって、内密にできてないわよね……。
集まる視線に晒されながら、私は屋上へと向かう階段を昇った。
「それで……何が目的だ」
遠くに聞こえる喧騒をかき消すように、破島さんの凛とした声音が短く響いた。
「……目的?」
あまりの唐突さに、私は首を傾げてしまう。
だけど時間がないだけあって、破島さんは苛立った様子で目元を鋭く睨んできた。
「たとえ真桜様が気に入っていようとも、私は認めてないからな」
「認めるって……私はただの友達――」
「友達だと?」
まあ、アルバイトの件で秘密を握られてるので清い友達かは疑問だ。……友達の定義って何なんだろうね?
バカを言い合えるタエとは違って、槇宮真桜は尽くすという表現が合う距離感。
まるで恋人のようで、手を繋ぐたびなぜかドキドキする。
「破島さんだって友達じゃないの?」
「いや、私は真桜様の護衛兼お世話役だ。……友達だなって恐れ多い」
護衛にお世話役。……まさか現実でそんな単語を聞くなんて思いもしなかった。家がお金持ちだって知ってるけど、それはそれで大変なのね。
破島さんやご両親の苦労を気にも留めた様子もなく、槇宮真桜は毎日のように【エアーダル】に入り浸っているのはどういう理由だろうか?
お金持ちって、ホント何を考えてるのわからない。
「すまない」
険があった破島さんの声音は一転して、慌てた様子でスマホを取り出した。
予想しなくても、連絡主は槇宮真桜だろう。
「真桜様からだ……時間を取らせたな」
まるで何事もなかったかのように、私は食堂へと案内された。
この変わりよう……相当嫌われてるのね。
全員に好かれたいわけではないけれど、こうして面と向かって嫌われてしまうと心に刺さる物がある。
「……れい……いら……麗良!」
「っ!? ど、どうかしましたか」
「どうかしたって、さっきからぼんやりしてるわよ」
槇宮真桜の個室へといつものように案内されて、私は食べ慣れない料理を前に手を止めていたようだ。
心配そうに覗き込んでくる目と合い、あまりの近さに驚いた。
「熱でもあるの?」
「ん……いや、何でもない……です」
「ならいいのだけど、何かあったら言ってね。かかりつけ医者を紹介するわ」
「そ、そこまでしてもらわなくても……大丈夫です」
……ただの友達に、ここまで心配するモノだろうか?
タエが眠そうにしてるのはいつものこと。朝に体調が悪ければヘッドホンを外し、授業中であればペン回しやらと落ち着きがなくなる。
長い付き合いだから気づける些細な変化だ。
だけど、槇宮真桜は過剰すぎるほどに心配してくる。
だから気になってしまった。
「その……どうしてそんなに心配してくれるんですか?」
クラスメイトの反応といい、ついさっき破島さんから呼び出されて知った。
槇宮真桜には、友達と呼べる生徒がいないのだろうか?
別に友達がいる=立派だとは言わないけれど、常に破島さんを筆頭に取り巻きの生徒たちが存在している。
少しくらいは話をしていてもおかしくはない。
たとえそれが遠巻きで眺めるだけの生徒であっても、挨拶を返す姿は隣で見ている。
ポコポコと頭の中で疑問が浮かんでは、消えてを繰り返していく。
「麗良ってば、そんなことを気にしてたの?」
口もとに手を当てて、槇宮真桜はいつものように笑みを浮かべる。
何がそこまでおかしかったのか、しだいに肩まで震わせて笑い出す。
「そ、そこまで笑わなくても……いいじゃないですか」
「だって今まで、そんなことを気にも留めてこなかったのよ」
槇宮真桜はハッキリと『そんなこと』と言い切ってみせた。
……じゃあ、私って何のために?
強がりでもなく、本心から気にしていないのだと理解して怖くなった。
「もう、麗良は本当に面白いわね」
ひとしきり笑った槇宮真桜は、目じりに溜まった涙をぬぐう仕草も様になっていた。
別に変なことを言ったわけでもない。
ただ単純に、気になったから聞いたのだ。
「私の場合は環境がそうだったから、友達を作れなかったのよ」
「……作れなかった?」
「もしかして、彩華から変なこと吹きこまれたわね」
「あ、いや……それは……」
「麗良。隠し事できないタイプね?」
学院のアイドルである槇宮真桜に尋ねられたら、誰だって犬のように尻尾を振って応えるに違いない。
この様子だと、私の置かれてる現状を知ってそうね……。
毎時間のようにクラスメイトに囲まれて、槇宮真桜とお近づきになるためコネとして扱われる。
露骨すぎるほど下心という本心が見えていて、私にとっては鬱陶しい。
槇宮真桜の言う通り隠し事ができないのであれば、薄々気づいている生徒もいるのではないだろうか?
それでも尚、近づいてくる生徒は絶対に心が強い。
もしくは、それほどにまで槇宮真桜という存在に魅了されている。
そのどちらとしか思えない。
……破島さんもいろいろ苦労しているのね。
そのための護衛であるのなら、破島さんは相当な苦労を強いられているだろう。
だから近づく生徒に対して当たりが強くて、警戒心を剥き出しになるのも頷ける。
黙り込む私を前にしても、槇宮真桜は笑みを崩さない。
むしろ僅かな沈黙ですらも、嬉々としている異様さが怖かった。
「確かに初等部の頃はそれで悩みもしたけれど、今は麗良という恋人がいるもの」
……?
聞き間違いでなければ、誰か通訳をお願いしたい。
だけど今は、2人っきりで向かい合っているお昼ご飯を食べている。
学年トップの学力を駆使しても、解けない問題が発生した。
「……恋人? 誰が、誰の?」
「麗良が、私のよ?」
まるで至極当然だと言わんばかりに、槇宮真桜は見栄えする笑みを維持し続ける。
だけど、振り返ってみれば数々の言動に理由がつく。
朝、校門前で待ち合わせをして一緒に下駄箱に向かう。ほんのわずかな距離でも指先を絡めるように手を繋いで、歩きづらいのをお構いなく腕まで組んでくる。靴を履き替えて、別れ際に手を振り合う。
客観的にみて、初々しいカップルのようだ。
そうなると、今この状況は恋人同士で一緒にご飯を食べているに当てはまる。
であれば、放課後に私のアルバイト先【エアーダル】に入り浸る理由は……一緒にいたいから? ……いや、それはそれで自惚れにも限度があるだろう!
というか、女の子同士であることに抵抗はないのか?
「その顔、まるで『抵抗がないのか』とでも考えてるみたいね」
人の心を読まないでほしい。
私は努めて平静を装いながら、声のトーンを落として訪ねた。
「このことは、誰かに話したりしたの?」
「ええ、お姉ちゃんには話したわ」
おう……わ、私の知らないところでご家族にまで……? もしかして承諾されたとかなんでことありえないわよね。
だって、女の子同士よ?
恐る恐る槇宮真桜を盗み見ると、行儀悪く片肘をついた。
「それでこの前、お姉ちゃんと食事して相談したの。恋人ができたから、婚約を解消できないかって」
「本当に言ったんですか!?」
「言ったわよ? そしたらお姉ちゃんは激おこ……自分だって彼氏と毎日一緒にいるくせに、ホント……私のことになると過保護で困るわ」
勝手に恋人にされた身としても、迷惑なんですけど……。
槇宮真桜は絵になるほどの露骨なため息をついて、私を見つめてきた。
「だから、麗良は私にとって特別なのよ」
有無を言わせない笑みに、私はただただ混乱し続けた。
庶民からすると慣れないお昼ご飯を一口。上機嫌な槇宮真桜と向かい合いながら、私は淡々と手を動かした。
……これが世にバレたら、私の人生どうなっちゃうの!!
恐怖でまったく味がわからないまま、私は昼食を済ませた。
「ただいまぁ~」
帰宅して、玄関には咲さんとりーちゃんさんの靴が並んでいた。
踵が低いのが咲さんで、高いのがりーちゃんさんだ。
いつもだったら出迎えてくれる咲さんが、今日は珍しく出てこなかった。まぁ、別に寂しいわけではないので気にしない。
部屋に荷物を置こうとして、私は足を止めた。
「りーちゃん!」
咲さんの叫ぶ声。
それに続いて椅子の引く音、苛立つ足音が近づいてくる。
荒々しく扉が開かれ、リビングからりーちゃんさんが姿を現した。
鋭い目つきに息を詰まらせて、私は通路の端によって道を開ける。顔を合わせまいと俯いて、通り過ぎるのを待った。
「りーちゃん!」
叫ぶ咲さんを置き去りに、りーちゃんさんは出て行った。
……いったい何があったの?
咲さんと住み始めて、初めて叫ぶ姿を目の当りにした。
いつもはフワフワと包み込むような温かさを滲ませつつ、珍しく慌てている。
「もうぉ~人の話聞かないんだからぁ~」
追いかけようとした咲さんは、玄関を出ようとして足を止めた。
多分だけど、私が乗ってきたエレベーターにりーちゃんさんは乗り込んだのだろう。
「どうかしたんですか?」
「ん~ちょっとね……」
顎に人差し指を当てて、咲さんは可愛らしく小首を傾げた。
普段だったら何でも聞けば答えてくれる。
言い辛そうにする様子から、多分だけど私が踏み込んでいいことじゃない気がした。
嫌な予感としては、借金の返済が滞ってるため怒らせた。もしくは咲さんがまた何かしたのかもしれない。
可能性としてはどちらも低くないので、内心でビクついてしまう。
「とりあえず夕飯にしますね」
「あ、それならりーちゃんがいろいろ買ってきてくれたよぉ~」
……え、どういう状況なの?
部屋に荷物を置いてリビングに向かうと、テーブルにはついさっきまでつまんでいたと思しきお惣菜のパック。度数が高いお酒の缶が数本、空いた状態で転がっていた。
「咲さんも飲んでました?」
「ぜぇ~んぜん飲んでないよぉ~。ほら私、お酒弱いから」
りーちゃんさん……大丈夫かな?
ふらついた足どりではなかった。
だけどお酒が入ってあれなのを考えると、本当に怒らせちゃいけないタイプだ。
「あ、これ食べたかったのぉ~」
呑気に手つかずのお惣菜パックを手にする咲さん。
シーチキンが入った彩りサラダに焼き鮭の切り身。ほかにもシュウマイやらカツサンド、黒酢を使った酢豚にサイコロ上にカットされたお肉と多岐にわたる。
食べ合わせうんぬんよりも、何か適当に買ってきたラインナップ。
「ちなみにぃ~冷蔵庫にはケーキまで用意してまぁ~す」
「本当に、何があったの?」
行儀悪く、咲さんは卵焼きを手でつまんで嬉しそうにする。
……大人って、本当に自由だ。
咲さんを見てしっかりしないといけないと考えていたけど、りーちゃんさんも振り返ってみれば働いているかも怪しい。
どんな仕事をしてるか、はたまた咲さんとの関係性。
ただの借金相手にしては、甲斐甲斐しく世話を焼いているようにも見える。
そして何よりも、私はりーちゃんさんの本名を知らない。咲さんが呼んでいる愛称で覚えただけで、まともに話した記憶がない……いや、気軽に話せる雰囲気をしていないので避けている。
「なんかねぇ~相談したいことがあるって押しかけてきたんだけどねぇ~」
「食べながら話さないでください。ほらぁ~座って食べてくださいってば」
「わぁ~い」
咲さんの背中を押しやり、私は散らばる袋を集める。
何件も巡ってきたのか、どれもお店のロゴが違う。
作る手間がなくなったので、私もそのまま席に着いた。
「いただきます」
しっかりと両手を合わせて、りーちゃんさんに感謝の念を送った。
結局、詳しい事情を聞かされることなく夕食を済ませて部屋にこもる。
机に向かい合い、教材を開く。
テストが近いため、寝る前の勉強は欠かせない。
そうじゃないなくても、アルバイトの日数を減らしたくないため習慣化しているとも言える。
それに、ここ最近になって学院のアイドルと関わるようになって時間を割きがち。
「よしっ」
気合を入れつつ、私の夜は更けていく。