学園アイドルとの主従関係!? その2
週明けの月曜日。私は少しだけ早く起きて学院へと向かった。
いつも待ち合わせしている場所にはタエの姿はない、けど前もって先に行くと連絡はしている。理由は教えてないけど既読はついていた。
グラウンドの方から、運動部の朝練をする声が聞こえてくる。
登校する生徒がまばらの中、私は校門の前で槇宮真桜のことを待った。
どこにいても常に取り巻きに囲まれ、話しかけるだけでも一苦労。
それに、人目が少ない時間となると朝が一番だと思った。
下駄箱に入れておけば済むことだ。
だけど、直接返しておけばすれ違いは起きないだろう。
……できることなら、文句の一言くらいと意気込み待ち続けた。
「おはぁ~」
「おはようタエ」
大きな欠伸を一つ、タエは制服を着崩した格好で登校してきた。
まったく、心配性なんだから。……けど、ありがとね。
眠そうに寄りかかってくるタエの頭を撫でた。
「待ち人来る?」
「まだ来てないからここにいるのよ」
舟をこぐタエが、容赦なく肩に体重をかけてきた。
咲さんといいタエもだけど、私のことをよく気にかけてくれる。それくらい私の感情は表に出やすいのかと、接客業をする身として不安になってしまう。
両頬を軽く叩いて、私は表情を引き締めた。
「……そろそろ来るみたい」
タエの耳元で囁く声がくすぐったくて、私は肩を竦めて辺りを見回す。
……どうして分かるのかしら。
時おり、不思議そうな私たちに視線を向けてくる生徒はいる。
ただそれは一瞬で、何もないと見向きもせずに通り過ぎていくだけ。
タエみたく、槇宮真桜が登校してくることに気づいた生徒はいない。
だけど、一部の生徒たちが急にそわそわし始め出していた。
それから数分もせず、一台の黒いリムジンが見えてくる。
それは校門前で停まると、運転席から白髪の初老ドライバーが降りてきた。
そして後部座席の方へと回ってドアを開くと、槇宮真桜が姿を見せる。
「真桜様、おはようございます」
「おはよう、彩華。……あら」
槇宮真桜と目が合った。
それよりも私は、いつの間にか横一列に腕章をつけた生徒たちで道ができていることに驚いてしまった。
整った鼻先で可愛らしい小顔から向けられる笑みは、朝からかなり刺激が強すぎる。
朝日を浴びて明るい茶色の髪が、動くたび綺麗に波打つ。
「おはよう槇宮さん」
どう声をかけるべきか悩んだ末に、シンプルさに落ち着いた。
「おい、お前」
槇宮真桜の側に控えていた女子生徒に睨まれ、足が竦みそうになった。
た、ただ声をかけただけなのに……怖っ! 同級生にこんな人いたんだ!!
「大丈夫よ彩華」
だけど、槇宮真桜が片手をあげると女子生徒からの威圧が霧散していく。
一歩下がった女子生徒に鞄を手渡し、槇宮真桜は嬉しそうに近づいてくる。
「おはよう麗良さん」
人を魅了する笑みに、緊張ですぐに言葉が出てこなかった。
お、落ち着け、ただ返すだけ……そう、それだけだ。
私は深呼吸して、鞄から小切手を取り出した。
「これ、返します」
「あらいいの?」
槇宮真桜は、驚いたように瞳を丸くさせた。
……こんな表情もできるんだ。
どこか余裕のある振る舞いが印象的で、槇宮真桜は常に笑みを絶やさない。
「……」
けど、後ろで控えている鞄を持たされた女子生徒からの鋭い視線。
だから、ただお話してるだけなんだってば!!
私の頭は、一瞬で真っ白になっていく。
更に追い打ちをかけるように、人を魅了する槇宮真桜の瞳が細く弧を描いた。
「理由を聞かせてもらえるかしら」
怖いくらい穏やかな笑み。
周囲からの黄色い歓声が上がる意味がわからなかった。
圧倒的な強者としての脅威。まるで捕食者を前にした被食者の立場からすると、まるで生きた心地がしない。
「何でもお金で解決する。……そんな貴女の考えが気に入らないだけよ。人の苦労を何一つ知らないくせに、バカにされた気分だわ」
受け取ろうとしない槇宮真桜の手を掴んで、強引に小切手を握らせる。
私はその場を後に踵を返し、様子を見守っていたタエと目が合った。
「やるじゃん」
「私はただ、ハッキリといっただけよ」
せっかく整えた髪型を、タエの乱雑な手つきで乱されてしまう。
実は膝が震えていたりもして、槇宮真桜がどんな表情をしているか気になった。
だけど、怖くて振り返れない。
……ああ、これでしばらくは平穏な学院生活を送れなくなったかな。
だけどモヤモヤして抱えていた気持ちが、どこかスッキリした。
「タエ、あんまり私の側にいない方がいいかもよ?」
「え、私嫌われるようなことした? レイのためならいくらでも貢ぐよ?」
「……なら、手始めに100万くらい貢いでくれない?」
「うわ、がめつ!」
タエの嫌味がない表情に、私は笑い返すしかできなかった。
この先どうなるか想像ができない。
だけど、まったくもって後悔はない……と思う。いや、あれで大学卒業までの学費くらいは……ダメダメ! またタエに呆れられちゃう。
それに首が回らないのは、今に始まったわけじゃない。
あとどれくらい借金があるのかは聞けないけど、楽観的過ぎるほどどうにかなる気がしている。
これも咲さんの影響かな。
まるで雲のようにフワフワで、お風呂のぬるま湯みたく心地よく包み込んでくれる。
「学校サボっちゃう?」
「ダメよ。また爽彦さんに迷惑かけるわ」
「まったく、レイはホント真面目だよね」
「タエは不真面目よね」
私は登校する生徒たちの的になりながら、タエと並んで教室に向かった。
――その日の昼休み。
「おい、真桜様がお呼びだ」
「へ?」
整った顔立ちに反して、細く鋭く研ぎ澄まされた目もと。露骨なほど不機嫌な女子生徒に呼び出された。
正確には目の前の女子生徒を経由して、学院のアイドルである槇宮真桜からだ。
有無を言わせない迫力に、私はただただ戸惑いを隠せない。
わ、私……な、何か悪いことしましたかぁ!!
4限目が終わって間もない時間。
各々がお昼の予定を立てている途中で、教室にはまだクラスメイトが溢れている。
「時間が惜しい、ついて来い」
圧が……圧が強すぎる!
助けを求めようと視線を巡らせるよりも早く、タエが割り込んできた。
「悪いね、先約があるんだ」
ヘラッとして笑うタエに、私はそっと胸を撫でおろした。
先約は嘘だ。
だけど、中等部の頃から一緒にお昼を食べていた。クラスが違ってもタエが迎えに来てくれる。
私自身友達が少ないわけではないけど、お昼は必ずタエを過ごすのが当たり前だ。
口約束をしていない半永久的な予約なので、先約といっても過言じゃないだろう。
タエ~ありがとうね!
肩越しにタエと視線が合い、感謝を無言で伝えた。
「というわけで、悪いね真桜様の付き人さん」
タエの臆した様子のない馴れ馴れしい振る舞い。
女子生徒の不機嫌なオーラが濃くなり、賑わっていた教室の空気が張りつめていく。
「真桜様からの直々だ、断る理由があるのか?」
遠回し的な含みある口ぶりに、最悪の未来が想像できた。
やっぱり無断でアルバイトしてたことよね……。
あの時【エアーダル】にいたタエも、気まずそうに黙り込んでしまった。
「……同席してもいいか」
タエの一言が気に触れたのか、女子生徒の凛としていた表情が歪んでいく。
「真桜様はそこの生徒と、二人っきりで話をしたいと言っている。もちろん、私の同席もお断りになられた……今までそんなことはなかった……」
「ひっ!」
獲物を狙う狩人のような瞳に射貫かれ、私は急いでお弁当を鞄から取り出した。
「わ、わかりました行きます!」
「レイ……」
「大丈夫、心配しないで……ね?」
私は促されるまま、女子生徒の後ろをついて歩いた。
……うう、かなり注目されてる。
向かった先は学食だった。
入り口付近では食券を買うため列ができ、既に昼食にありついている生徒たちは席に着いている。
お昼休みだけあって、たくさんの生徒で賑わっていた。
「そういえば自己紹介がまだだったな。私は破島彩華、同級生だ」
「あ、私は――」
「沼崎麗良だろ。中等部から学年トップの成績を維持して、仕事の関係なのか今は従姉と暮らしているんだったな」
「……あ、はい」
槇宮真桜もだが、学年トップというだけで覚えられている現状。
それに、タエ以外に咲さんが従姉だなんて話していない。
……どうして知ってるの?
得体の知れない恐怖に、私は今すぐ逃げ出したくなった。
だけどそんなことを許さない破島さん。
「この先だ」
学食の奥、人気のない通路の先に扉があった。
え……ここ?
高等部に進級して1年が経ち、今は2年生となって初めての場所だった。
賑わう喧騒が遠くに聞こえ、目の前の扉は重々しく佇んでいる。
「真桜様、沼崎様をお連れしました」
破島さんが軽く扉をノックすると、中から声が返ってきた。
女優だ! この人、絶対に将来売れるに違いない!!
さっきまでの高圧的な雰囲気はどこへやら。
破島さんはハキハキとしたよく通る声で扉を押し、入るように促された。向けられたにこやかな笑みに、ついつい魅入ってしまう。
「(さっさと入れ)」
確定だ。破島さんは絶対に将来売れる女優になれる!
ぼそりと囁かれた険のある声音に、私は覚悟を決めて入室した。
うわ、何この絨毯! すっごいふわっふわなんだけど!
案内された一室に敷かれた真っ赤な絨毯に、部屋中を明るく照らすシャンデリア。純白なテーブルクロスが眩しいテーブルには、2人分の食器が用意されていた。
「来てくれて嬉しいわ麗良さん」
「その……お招きいただきありがとうございます?」
どう挨拶を返すべきか一瞬だけ悩んだ。
それもそうだろう。
扉を開いたら見慣れない空間で、学院のアイドルが待っている。現実感がなさ過ぎて、まるでおとぎ話の世界に迷い込んだようだ。
槇宮真桜は、何が面白かったのか口もとに手を当てて笑い出す。
「緊張なさらないで座って、お昼はまだよね?」
「あ、はい」
「彩華、用意してくれるかしら」
「かしこまりました」
わざわざ椅子までひいて座るように促してきた破島さんは、槇宮真桜に対して一礼してから部屋を出て行く。
……本当に二人っきりにされちゃったよ。
居心地の悪い沈黙に、私は目の前にいる学院のアイドルを見た。
「ここに人を呼ぶのは初めてだわ。春休み前には改装が終わる予定だったのだけれど、先日までかかってしまったのよ」
ああ、だからこの前学食の方にいたんだ。
ただ登校するだけで注目されて、生徒たちは足を止めてまで学院アイドルの一挙手一投足を眺めている。
それに廊下を歩くだけで、全員が脇に逸れて自然と道を築く。
私も何度か巻き込まれたことがある。
そんなアイドルが学食にいれば、目立たないわけがない。
この1年高等部に通って、遭遇しなかった理由はここの部屋が影響しているのだろう。
「お料理をお持ちいたしました」
運ばれてきた2人分の料理。
まさかの学食にないメニューであることに驚いた。
破島さんは給仕もこなせるのか、物音一つなく料理が盛り付けられた皿を置く姿が様になっている。
そして一礼してから、部屋から出て行ってしまった。
「さぁ、食べましょ」
「い、いただきます」
生きてきた中で今まで食べたことのない料理を前に、槇宮真桜のテーブルマナーを真似して一口頬張った。
海鮮? 海老のようだけど……この緑か黄色のソースをつければいいのかしら?
作ってきたお弁当は無駄にはなってしまったけど、未知の料理を堪能してしまった。
だけどお昼休みはそれほど長くない。
「それで、この前の件も踏まえて今朝のことだけれど」
舐めるような槇宮真桜からの視線に、私はナイフとフォークを置いた。
「破島さんにも言っていたみたいだけれど……何が目的なの?」
「……彩華に? これでも私は口が堅い方よ、このことは誰にも話してないわ」
「え?」
「たしかに彩華は学院の理事とのつながりはあるわよ。この学院の制服はすべてあの子の父が勤める会社のものだもの」
へぇ~それは初めて知った。……いや、待てよ。そうなると、破島さんに付き人をさせている槇宮真桜はどのポジションだ? 親つながりだとすれば、会社の上司でしょ? そうなると――、
「もし耳にでも入ったら即座に停学。……麗良さんが積み上げてきた学年トップの優秀な生徒像に傷がつくわ」
嫌な予感が的中した。
じゃああの時の口ぶりは……鎌をかけてきたの?
「幼い頃から彩華とは一緒だけど、姑息に誰かを脅したりはしないわ」
……あれが脅しじゃないだと! うん……身のためにも黙っておこう。
まるで我が子の自慢をするように笑う槇宮真桜を前に、私は墓場までこの事実を持っていこうと心に決めた。
「さて、話は戻るのだけれど麗良さん」
流石に学院のアイドルで象徴とも呼べる槇宮真桜。破島さんもだけど……顔が良い。
「やっぱり私、貴女のことが気に入ったわ。……買われてみない?」
「げ・ん・だ・い・しゃ・か・い! 人身売買がまかり通ってたまるか!!」
「人身売買? そんなつもりないわ、ただ純粋に貴女……麗良さんが欲しいのよ」
「意味がわからない、私のどこにそんな魅力があるのよ!」
「あら、魅力的よ?」
自覚がないの、と問われるように小首を傾げる学園のアイドル。
怖い! 怖いよタエ! 誰か、誰か助けてください!!
蠱惑的な視線に背筋が震え、今すぐにでも逃げ出したかった。
「それなのに小切手は返された。そうなると、他に何か欲しいモノがあるんじゃないかなって呼んだのよ」
「私をモノで釣るな! それに……理由は朝にも言った通りよ」
「……『人の苦労を知らない』だったかしら? それはお互い様かもしれないわよ」
お互い様? ……確かに、面と向かって話すのは初めてよね。
槇宮真桜の表情に、一瞬だけ影が差した気がした。
だけど私の身間違えだったのか、ニッコリと口角をあげて笑う。
「なら少しずつ知り合っていかない」
「……?」
「私たち、友達にならないって言う意味よ」
「はぁ!?」
あまりの衝撃に勢いよく立ち上がってしまった。
学院のアイドルである槇宮真桜と友達? いやいや、なんの冗談を言ってるんだ……。毎日のように取り巻きに囲まれてて……私なんかを友達にしたいか?
気づくと、昼休みの終了を知らせるチャイムが鳴り響いた。
扉を2回ノックする音に、槇宮真桜は席から立ち上がる。
「真桜様、次は移動教室です」
「ええ、分かってるわ」
槇宮真桜は何事もなかったかのように、部屋から出て行こうとする。
「(また放課後、迎えに行くわね)」
「え……」
肩に置かれた、槇宮真桜の手がやけに重く感じた。
ささくれ一つない綺麗な長い指、シャンデリアの明かりに爪が輝く。去り際に向けられた微笑みに、熱が帯びた瞳からの流し見。
どこか洗練された所作は、停止していた私の思考には鮮明に映った。
……私に何を求めてるんだ?
残された私は、半開きにされた扉を見つめた。
「……何がどうなってるの?」
2度目のチャイムが鳴り、私は慌ててその場から駆け出した。
お金持ちって、何考えてるかさっぱりわからないな。いや、分かり合える日がいつか来るのか?
明らかに住む世界が違う住人だと初対面で知り、今後友達として仲良くしていきたいと言われても不安がある。
午後から授業は、まったくもって集中できないまま放課後になっていた。
私はチャイムが鳴ると同時に席を立って、鞄を放置して昇降口を目指す。鞄は後でタエに持ってきてもらうとして、一刻も早く逃げだすべく動いていた。
6限目の英語教師は、恐らく驚いたに違いない。
私自身も授業終了と当時に駆け出すのは人生で初めてだ。
授業が終わり、他のクラスからも担当していた教師は出て来ていない。
もちろん、生徒の姿もないのでスムーズに行動ができる。
なのに――、
「あら、どこかに行くの」
「なぁ!?」
階段を駆け下りてすぐ、下駄箱ではすでに槇宮真桜がいた。
おかしいでしょ……この状況。
槇宮真桜の少し後ろで、破島さんも控えるように佇んでいた。
「じゅ、授業はどうしたの?」
「ちょうど終わったばかりじゃない。フフ、おかしなことを言うのね」
口もとに手を当てて笑う仕草に品がある。
だけど今の私には異様に映り、ただの恐怖でしかなかった。
「よければ私の車で送るわよ」
「お車の用意はできています」
破島さんからの高圧的な視線に怯えながら、私は首を左右に振った。
「その、今になって家の鍵を閉めたか気になっちゃって……」
下手すぎる言い訳だなと思った。
「あら、それは心配ね。だったら急いで向かいましょうか」
信じた? え、こんなありそうな適当な嘘を? ……少しは疑ったりしないかな。
靴を履き替える槇宮真桜に、私は内心で焦りを感じた。
「お~いレイ、そんなに急いでどこ行くんだよぉ~」
「タエッ!!」
追いかけてきたタエの口に、私は躊躇いなく手のひらを押し付けた。
「……どういうこと?」
時すでに遅し、槇宮真桜の耳に入ってしまっていた。
隣に控える破島さんから、殺意ある圧と眼光鋭い視線に射貫かれる。
ああ、逃げられないなこれ……だけどっ!
私は両手を合わせて頭を下げた。
槇宮真桜に一歩近づいて、身長差があることに背伸びする。
「(アルバイトがあるのよ)」
「(あら、それはまずいわね)」
私の方から近づいて気づいた。
まつ毛ながぁ、肌もツヤツヤだし……それになんかいい匂いがする。
本当に同性とは思えないほど、槇宮真桜の顔に見惚れてしまっていた。眉間にシワが寄っても、顔が良いだけあってしっかりと整っている。
「(連絡先交換で手をうつわよ)」
……この状況で、その条件を出してくるか。
悪用されることはないだろうが、私の中では一番避けたかった。
お金で人を買おうとする、頭のネジが緩んでいる学院のアイドルだ。
しかもただ友達になりたい理由で、付き人の破島さんを使ってまで呼び出してくる。
……お昼ご飯の料理は、美味しかった。あれって、家でも再現できるかな?
つい食べ慣れない料理の味を思い出して、物思いに耽ってしまう。
「(……どうかしたの?)」
「(な、何でもないです!)」
声を顰め合ってるだけあって、互いに顔が近い。
心配そうに覗き込んでくる槇宮真桜の表情から、何を考えているのか汲み取れず。そんな人物に連絡先を教えてしまったら、私の生活はどうなってしまうのだろうか?
「真桜様?」
棘のある雰囲気は感じられず、破島さんは不思議そうに首を傾げていた。
破島さんは学園理事とのつながりがある。アルバイトがバレたら報告されて停学……。内申点には傷をつけたくない。
私は学年トップの知能を駆使して、一瞬で判断を下した。
「タエ、ごめんね!!」
「はぁ!?」
タエを犠牲に、私はその場から走り出した。
私と槇宮真桜の下駄箱は、クラスが違うので離れている。壁のようなにそびえる靴箱を挟んで向かい側で、5段階評価は下から2だとしても逃げ切れる。
上履きを脱ぎ捨てたまま、私はローファーの踵を踏みながら外を目指す。
だけど、そんな私の甘い考えが通じる相手ではなかった。
「……真桜様に失礼だぞ」
「ひっ!!」
あと一歩のところで、昇降口を出られた。
けどまさかの同じタイミングで、向かい側の下駄箱から姿を見せる破島さん。
朝と昼だけで感じてきた殺意が込められた圧は、どうやら生易しかったらしい。
む、無理……絶対に逃げられない……。
膝が震えて、私はその場に座り込んでしまいそうになった。
この場の空気を支配する圧に、私の目頭が自然と熱くなっていく。
「急にどうしたの麗良さん」
まるで救いの手ならぬ声に、私はようやく生きた心地がする。
ほんの一瞬だけではあったけど、生まれて初めて視線だけで息が止まるかと思った。
慌てる槇宮真桜の姿に安堵して、上着のポケットからシンプルな透明なカバーで覆ったスマホを取り出した。
「……その、あまりのことに……嬉しすぎて……」
運動音痴であることは自負している。
甘すぎた目算で逃げ切れる考えを止めて、私は嬉しそうにする槇宮真桜にトーク画面をみせた。
「あら、ただ連絡先を交換しましょうって言っただけじゃない」
「……真桜様?」
暖色系の手帳型スマホケースを片手にする槇宮真桜と、私は連絡先を交換した。
まったくもって状況がのみ込めていないタエと破島さん。
槇宮真桜は、1人嬉しそうに鼻歌を口ずさんでいた。
「彩華、用事は済んだわ。帰りましょう」
「……わかりました」
さっきまでの殺意はどこへ消えたのか、破島さんは瞳を丸くさせる。
「それじゃまた明日、麗良」
どこか弾んだ声音の槇宮真桜に、私は何も言葉を返せずに黙り込んだ。
「……レイ?」
近づいてくるたくさんの声に顔をあげると、下駄箱には生徒が流れ込んでくる。
恐らくこれから部活動なのだろう。
喧騒に負けないタエの不安げな声は、はっきりと私の耳に届いている。
「私……どうなっちゃうの……」
「さ、さぁ?」
小首を傾げるタエに、私は勢いよく抱きついた。
理由は分からない。
だけど、今は誰かと一緒にいたい気分だった。
「よぉ~しよし」
私はしばらく、優しく抱き締めてくれたタエに頭を撫でられ続けた。
目に見えない不安と恐怖。
それに学院のアイドルから迫られるという現実感のなさ。
目まぐるしかった一日の中で、ようやく私の足は地に着いた感覚だった。
「タァ~エェ~」
「ハイハイ、ここにいるよぉ~」
ポンポンと背中を撫でられて、私はあまりの安心感に鼻をすすった。
その後、タエと【エアーダル】に向かって私だけ働く。
「タエ」
「か、考えてただけだってば」
タエはお客さんとして、カウンター席で爽彦さんの監視下で課題をさせた。
普段からああだと助かるのにね。
爽彦さんを前にするタエの大人しさに、私は呆れて何も言えなかった。
バイトを終えて、タエと駅で別れる。
「……」
「……あ、えっと……」
帰宅した私は、玄関の扉を押したタイミングでりーちゃんさんと鉢合わせてしまった。
身長差があるだけあって、私のことを無言で見下ろしてくる。
「あ~れいちゃんおかえりぃ~」
「た、ただいま咲さん……」
りーちゃんさんの脇から顔を出す咲さん。ホワホワした雰囲気で、どこか締まらない笑みで迎えてくれた。
咲さんに後ろから抱き締められるりーちゃんさんは、まったく動じたようすがない。
「……」
2人の仲が良いのは見ていればわかる。
一方的に咲さんがベタベタとスキンシップを取っているが、りーちゃんさんは嫌そうな素振りを一切見せない。
咲さんの首に、りーちゃんさんの腕が回される。
「……」
「りーちゃん?」
咲さんはりーちゃんさんが締め上げていく腕をタップする。
……やっぱりだ。
人をジロジロ見るのは失礼だと思ったけど、今日のりーちゃんさんは雰囲気が柔らかい気がした。
「何か良いことでもありましたか?」
「……」
悲鳴なく、咲さんは首を締め上げられた。
凛とした佇まいで、言葉数は少ないりーちゃんさんは怖い印象がある。
だけど、優しい人だ。
この前も一緒に入学祝でお寿司を食べた。しかも、後からりーちゃんさんの奢りだったと咲さんから聞いている。
「その、咲さんのことは任せてください」
借金をしている身ながらも、色々と便宜を図ってもらっている。
だからではないけど、珍しく急いでいるりーちゃんさんから咲さんを引き取った。
「……任せた」
去り際、初めて見るりーちゃんさんの微笑み。
「!!」
私はあまりのことに、咲さんを落としそうになった。
ピンと伸びた背筋。歩くたび響くヒールの音が耳心地良くて、流れる黒髪が夕日に照らされる後ろ姿はカッコよかった。
これも、破島さんのお陰かな……。
今まで怯えていた自分がバカバカしく思えるほど、りーちゃんさんに可愛さを感じた。
「咲さん、起きてください」
ペチペチと頬を叩くも、咲さんは起きる気配がない。
仕方なく引きずる形で咲さんを玄関に寝かせ、私は帰宅した。
匂いに誘われて起きてくるでしょ。
私は夕飯の準備をしながら、今日の出来事を振り返ってしまう。
停学覚悟で槇宮真桜に小切手を返したら何故か気に入られて、流れで連絡先を交換させられた。どうやら無断アルバイトの件は黙ってもらえるようで、友達……のような関係になったといってもいいだろう。破島さんからの殺気に当てられて怯えはしたけど、お陰でりーちゃんさんに抱いていた恐怖心が払しょくされそうだ。
「同性でも、見惚れちゃうよな……」
しかも、初めて笑みを向けられた。
成績維持のために勉強とアルバイトの生活。遊ぶ時間がないほど、毎日同じサイクルで活動してきた。
タエからも学生らしくないと、何度も不満を言われている。
そんな私に、これ以上ないほど色濃くて充実していた。
「夢じゃないんだ……」
テーブルに置いていたスマホが震え、私は通知欄に目を疑った。
槇宮真桜からの『よろしく』という、犬が頭を下げるスタンプ。ただそれだけのことですら、初めて仲良くなった友達とは別の感覚だった。
お金持ちの考えることはまったく理解できないな。
しばらく返信するかを悩み、夕食を作った。