学園アイドルとの主従関係!?
私には、多額の借金を抱えた従姉がいる。
まあ、どれもこれも金銭感覚の違いから招いた悲惨な状況だとも言えるだろう。
そのため、私は学院では禁止されているアルバイトを密かにしている。
たとえ雀の涙ほどの収入であっても、咲さんにはこれ以上負担をかけたくない。そんな一心で、クラスメイトであるタエから紹介してもらった。
持つべきものは悪友なのかもしれない……。
家から最寄り駅と聖光学院のほぼ中間点。
駅前であるにもかかわらず平日は静かで、お昼になるとご高齢の常連さんで賑わう。休日ともなるとオシャレな大学生風のカップルたちが、一休みでもするかのように立ち寄るので華やかになる。
夜になると雰囲気ある大人なバーに変貌するらしい。
ただ私は未成年のため、その全貌はいまだ知らないので非常に興味はある。
「おはようございます」
「やあ、沼崎くん。今日も早いね」
カランとベルを鳴らすと、バーカウンターに立つ一人の男性に労われた。
時刻はそろそろ10時になろうとしている。
普段だったら学院で授業を受けているので、これでも遅い方だ。
喫茶【エアーダル】の店主である谷崎爽彦さん。御年65歳と定年退職を迎えて、趣味でカフェを開いたとタエから聞いている。
まるで新雪のような白い髪、年を重ねて刻まれた目もとのシワ。どこか聞く人を安心させる穏やかな口調は、まるで実家のお爺ちゃんと話している気分になる。
グラスを磨いていた爽彦さんは手を止め、私を手招きしてきた。
「早く来てくれたお礼だよ」
出されたサンドイッチ。スライスしたトマトにレタス、断面からはみ出ているハム。
俗にいう、モーニングセットだ。
「え、そんな。……この前、少し遅れてしまいましたし……」
「なぁ~に、普段から孫がお世話になってるからね。そのお礼だよ」
「はぁ、はぁ……」
爽彦さんの言う孫というのは、もちろんタエのことである。
軽快に笑う爽彦さんに促されるまま席に座ると、オレンジジュースまで出された。
ここまでされて、無下に断る人がいるだろうか?
「その、いただきます」
私は両手を合わせてモーニングセットをいただいた。
一口頬張るとレタスがパリパリと音を立て、噛むたびに瑞々しいトマトの酸味と甘みが広がる。ハムの塩加減も相まって、私の食べる手は止まらなかった。
こ、断っておいて、正直恥ずかしい……。
だけど爽彦さんは、嬉しそうに微笑んでいるだけで静かにグラスを磨いていた。
「ゆっくり食べるといいよ。まだそれほど忙しくないからね」
「いえ、そんな甘えてるわけにはいられません!」
「まったく、沼崎くんはこんなにしっかりしてるって言うのに……」
朝からどこか重いため息に、私は嫌な予感が全身を駆け巡った。
「……タエ。また何かしたんですか?」
「聞くところによると、真面目に授業を受けてないそうじゃないか。身だしなみもチャラチャラしてて、教師が何度も注意しても改善しない。……それが原因で昨日の夜にケンカしたらしくてな……逃げ込んできたんだよ」
少し寝不足のせいか、私は頭痛に苛まれた。
タエのヤツ……てことは、奥で寝てるのか?
渋い表情の爽彦さんと私は顔を見合わせ、お互いに肩を落とした。
着替えてきますと告げて、私は店の奥にある更衣室に足を運ぶ。
「スゥスゥ」
気持ちよさそうに寝息を立てているタエは、ソファで横になっていた。毛布にミノムシのように丸まり、顔だけをひょっこりと出している。
……どうしてやろうか。
右手をパーにして、中指を折り曲げて左手で人差し指の爪を押さえる。軽く素振りを済ませながら、タエの眉間へと狙いを定めて一息つく。
「起きろッ!!」
「アイダァ!?」
鈍い音とタエの悲鳴が更衣室に響いた。
飛び起きたタエはソファから転がり落ち、短く呻きながら床で丸くなる。
「レイィ~」
「……おはようタエ」
睨み上げてくるタエを見下す。
「あんまり爽彦さんに迷惑かけちゃダメでしょ」
「だってぇ~」
「だってじゃない! ……せめて授業くらいは真面目に受けなさいよ」
「へぇ~い」
モゾモゾと動き出すタエは、再び毛布に身を埋めていく。
……はぁ、爽彦さんには申し訳ないわ。
謎の使命感に駆られながら、私は更衣室を後にホールへと出た。
お昼に差しかかると【エアーダル】は忙しくなり始めていく。
私の場合は空いてる席に案内して、お客さんからメニューを聞いて届ける。それほど狭くないホールとキッチンを行ったり来たりの繰り返し。
「レイ、3番さんに料理お願い」
中から聞こえてくるタエの声に、私は返事をするよりも真っ先に身体が動いてしまう。
朝はサンドイッチのモーニングで通勤する社会人たちを見送り、昼は昔ながらのナポリタンが人気だ。玉ねぎにピーマン、ソーセージをケチャップで濃い目に味付け。
食後のデザートも季節に合わせて変わるので、特に女性受けがいい。
他にもメニューはあり、どれもこれも爽彦さんのちょっとした趣味の範疇とのこと。
……これが年の功なのだろう。
店内に流れるゆったりとした曲調は、賑わう会話にかすんでしまう。
カラン。
それでも聞き慣れたドアベルの音を耳にすると、反射的に身体が動いてしまう。
「いらっしゃいませ~……っ!?」
あまりの現実感のなさに、私はその場に立ち尽くしてしまった。
ど、どうして……こんなところに……。
停止する思考の中、来店した一人の女性に目を奪われてしまっていた。
「あら、良い雰囲気じゃない」
動くたび波打つ明るい茶色の髪。初めて真正面から見ると、くっきりとした二重で宝石のような茶色い瞳が愛らしい。
……槇宮……真桜?
白いシャツに薄水色のカーディガンを羽織り、白い生足の存在を主張するホットパンツ。動きやすいようになのかスニーカーといったラフな装い。
お金持ちだからと、有名なブランドでこてこてと着飾るイメージがあった。
いや、私の知らないブランドかもしれない。
周囲から浮いた装いではないけれど、圧倒的な存在感がある。
一瞬、周りの音が消えたのかと錯覚に陥るほど誰もが黙り込んでしまう。
「ん?」
可愛らしく小首を傾げる槇宮真桜を前に、私はようやく我に返った。
な、なに動揺してるんだ。……し、仕事しないと!!
「お席にご案内します」
私に向けられているモノじゃないとわかりつつも、店内のいるお客さんからの視線が背中に刺さる。
どうしてそんなに堂々とできるのよ。
席に着く槇宮真桜は、周囲のことなんか気にした様子もなくメニューを開く。
毎日のように学院で注目の的となるだけあって、メンタルが鋼なのかもしれない。
テーブルに片肘ついて頬杖つくと、整った唇がへの字に歪む。それすらも可愛らしく、ついつい立ち尽くしたまま見入ってしまう。
メニューを覗き込むように細めていた瞼が開き、私を真っ直ぐと見つめてきた。
「ここのデザート全部ちょうだい」
「……はい?」
あまりの唐突さに、間抜けすぎるほどに聞き返してしまう。
「このお店のデザート、全部ちょうだい」
「か、かしこまりました」
聖光学院に通い始めて5年目、ここまでアイドル的な存在を前にしたことがあっただろうか?
遠目からなら何度も通学する姿を目にしたことがある。
もしかしたら、まともに言葉を交わすのはこれが初めてかもしれない。……いや、食堂で粗相をしたな。
「な、なに?」
私は握った拳を、キッチンで洗い物をしていたタエの背中に撃ちこむ。
「夢じゃないのね……」
「いや、人を殴って確認しないでよ」
私はタエの首根っこを引っ張って、角のテーブルに着く学園のアイドルを指さす。
「お、槇宮じゃん」
「どうしよう……アルバイトしてることバレちゃう……」
「そうかな? あれだけ人の多い学院だし気づかんだろ」
タエみたく奇抜な服装をして目立っているわけじゃない。どこにでもいる一生徒に過ぎない私レベルなら、タエの言う通り認知度が低いだろう。
仕事……仕事しないといけないのに……。
「……とりあえずこれ」
「ん。……はぁ!?」
タエにオーダーを通して、私は覚悟を決めて表に戻った。
お昼を過ぎた店内には空席が目立ち、嫌でも槇宮真桜が目に付く。
状況を察してくれたのか、爽彦さんは付きっきりで槇宮真桜が注文したデザートを運んでくれる。
そのたび声をかけられ、槇宮真桜と言葉を交わす。
……爽彦さん……凄すぎる……。
槇宮真桜を前にして、爽彦さんは緊張した様子が見られなかった。
学院のアイドルと同じ空間にいる緊張よりも、顔バレしてしまわないかと無駄に意識してしまう。
夕方に差しかかっても、槇宮真桜は席を立とうとしない。
だけど、それはもうすぐ気にしなくて良くなる。
あと10分……長いな……。
チラチラと時計を確認するたび、まだかまだかと気持ちが競ってしまう。
……はぁ、今日のこと爽彦さんに謝っておこう。
普段だったら就業時間を気にしたことがない。
むしろ良くしてもらっている分、爽彦さんには申し訳なかった。
空いたテーブルを片付けながら、全テーブルからランチのメニューを回収する。軽く表紙をゆっくり拭いて時間を潰す。
ん~あと5分……もうすることないなぁ~。
時間を気にしすぎると進むのが遅いと聞くが、それが今なのだろう。
気づくとキッチンから姿を消していたタエ。正直逃げたなと内心恨みつつ、学院で顔合わせたら覚えとけよと拳を握り締める。
「そこの貴女、ちょっといいかしら」
「は、はぁい!!」
変に裏返った声で肩を飛びあがらせ、私は恐る恐る振り返る。
「少し話さない?」
「……すみません。まだ仕事中なんですよ」
正直ウソだ。
常連さんと顔を合わせれば、何気ない世間話くらいは交わす。大半が向こうから一方的に声をかけてくるので、私は相槌をするくらいだ。
ためになることもあれば、ないこともある。
私自身が誰かと話すことは嫌いじゃないので、働きやすい環境だ。
「けど今、私以外にお客さんいないわよね?」
「うっ」
助けを求めようにも、タイミング悪く爽彦さんがいなかった。
うう、逃げ場がない。
私は槇宮真桜から顔を背けながら、近くまで歩み寄った。
もしかしてバレた? けど、私なんかが学院のアイドルなんかに覚えて貰ってるわけもないだろうし……覚えられるほど個性的じゃない。だからといって覚えてほしいわけでもない……ああ、胃が痛くなってきたかも。
就業時間はとっくに過ぎていた。
「貴女、聖光学院の生徒よね?」
確信を突く一言に、私は恐る恐る槇宮真桜へと視線を向けた。
「な、何のことでしょうか?」
「誤魔化さなくていいわ。小さい頃から人を覚えるのは得意なのよ――沼崎麗良さん」
「っ!?」
まさかのフルネームで覚えられてしまっている現状に言葉が出なかった。
何がどうして、私なんかを学院のアイドルが知ってるの!?
槇宮真桜が浮かべた柔和な笑みが、どこか悪魔のように映って見えた。
「常に学年トップの学力を修め、掲示板に張り出されてるわよね?」
「ひ、人違いじゃないですか?」
「あら、聖光学院の生徒であることは認めるのね」
「そろそろあが――」
「上がり時間? 気づいてるわよ」
この女……何が目的だ……。
どこか遠くで見かける程度で、話すことはなかった。
だけど改めて彼女の一面を目の当りに、身バレを恐れていた思考が冷静になっていく。
カチコチと秒針の音がやけにうるさい。
「そんなに怖い顔しないでよ。別にバラそうってわけじゃないわ」
「じゃあ、何の用ですか?」
学院のアイドルを前に、私は驚くほど声音が低かった。
警戒心剥き出しの私に対して、槇宮真桜は動じる様子がない。
長くて細い綺麗な指先が真っ直ぐと向けられた。
「貴女、私に買われてみない?」
私の中で、張り詰めていた空気がプツッと切れた。
このアイドル……頭おかしいのか?
世界史の授業で奴隷制度は勉強した。
だが今、このご時世でそんなことがあるのだろうか? 世界広しとはいえ無いとは言い切れないのかもしれない。
まさか、私の身に降りかかってくるとは思いもしなかった。
人を魅了するその瞳に、私は危うく吸い込まれそうになりどうにか留まる。
「お、面白い冗談を言うんですね」
「冗談? ……そう」
槇宮真桜はテーブルに置いていた鞄を手繰り寄せる。
ああ、ようやく帰るんだなと私は胸を撫でおろした。
「はい、これで冗談じゃないって信じてもらえるかしら?」
手渡された1枚の紙きれ。
ここ【エアーダル】はクレジットカードには対応していない。最近になってスマホでの決済を導入したばかりで、今までは現金のみだ。
お札でもない紙きれを受け取り、私は目を細めた。
小切手のようだ。ただ、金額の欄が書かれていない。
「そこに好きな金額を書いてちょうだい」
「はぁ!?」
ほぼ初対面、たかだか同じ学院に通う生徒でしかない私たちの関係。会話だって今が初めてだ。
確かにお世話になってる従姉が借金を抱えてお金に困ってるからといって、そうやすやすと受け取れるわけもない。
むしろ、裏がありすぎて怖すぎる。
「何がしたいの……」
「何って、貴女……麗良さんに私の誠意を伝えたまでですわよ」
「誠意? ……お金で何でも買えるとでも思ってるの」
「それも確かにそうですわね。でしたら、他に何を差し出せば信じて――」
「ふざけないで!」
気づいたら意味もなく叫んでいた。
店内に、私たちだけしかいない状況は非常に運が良い。
今まで親の脛を齧って、何でもお金で解決できる思考のヤツにはわからないだろう。私がどれだけ勉強して、学院にある特待生制度の学費免除を得たのか。少しでも良い大学を出て一流企業に就職して、少しでも咲さんを楽にさせたい目標がある。
普段からのんびりしている咲さんだけど、私の両親に代わって一緒に過ごしてきた。
初めは慣れない私との生活で、相当苦労させているに違いない。
目じりを吊り上げ、目の前の能天気なバカを睨みつけた。
「帰って」
冷たく言い放つと、槇宮真桜は静かに立ち上がった。
「……また来るわ」
「二度と来るな」
テーブルの上に無造作に置かれた小切手と飲食代。
私は素直に受け取れるわけもなく、しばらくその場に立ち尽くしていた。
「ただいま」
帰宅すると、咲さんはモコモコのセーターを着こんでソファに横になっていた。
4月、いまだに昼夜の寒暖差に上着が欲しいか悩む季節。
気持ちよさそうに寝息を立てる咲さんを起こさないように、私は夕飯の準備に取りかかった。
私が帰ると、咲さんはいつもお腹を空かせた子供のように声をかけてくる。
だけど今日はそれがない。
はぁ……あの時の私、どうしちゃったんだろう。
キッチンに立ちながら、私はひとり反省会を開催する。
原因としては第一に寝不足だろう。今朝だって出勤時間ギリギリに駆け込んだあげく、爽彦さんのご厚意でモーニングをいただいた。
あれは、いつ食べても美味しい。
更衣室には親と些細なことでケンカしたタエが寝ていた。全面的にタエが改善すれば文句も言われず済む話だけど、彼女なりの何かがあるのだろう。
正直、そんなタエが羨ましくもあり若干憎くもある。
自由気ままで、今日だって気づいたら姿を晦ましていた。まるで野良猫だ。
そんなタエには、私の両親や咲さんのことなど大体の事情を打ち明けている仲。
タエからも主に学力の面は泣きつかれ、テストがあるたびに勉強会を開催する。
他にも他愛もない話をしたり、何かと私の体調を気にかけられたりと、持ちつ持たれつの関係。
仲が良いから言い合えることもある。
槇宮真桜の場合は、どうやら根本から違ったようだ。
すべてをお金で解決する。生まれ持った環境が良くて、容姿も恵まれて私とは比べ物にならないほどの雲泥の差。
誰からも慕われて、学院の顔ともされる存在だ。
ただ勉強のできる私が敵うわけがない……。
「暗いくらぁ~い空気を感じたぞぉ~」
「さ、咲さん!? 急に抱きつかないでくださいよ!!」
私は握っていた包丁をまな板の上に置いて、後ろから抱きついてきた咲さんに驚きを隠せなかった。
何がそんなに嬉しいのか、ふにゃふにゃとした笑みを浮かべる咲さん。
これでもかと私の両頬を弄ってくる。
「どうかしたの?」
「どうかしたのは、咲さんの方ですよ……寝てませんでしたか?」
「うん、寝てたよぉ~」
大きな欠伸をする咲さん。……相変わらずのマイペースだ。
実際、私がバイトに行くまで咲さんは部屋で寝ていた。
もしかすると、場所を移動して今の今まで寝ていたのかもしれない。可能性は低くなかったが、咲さんはどこか野性的なところがある。
しな垂れてくる咲さんは、私の顔を覗き込むように見つめてきた。
「れいちゃん、何か無理してる感じがしたんだぁ~」
「咲さんこそ、いつも私のためにありがとうございます」
「ん? 私は何もしてないよぉ~」
掴みどころのない咲さんは、いつも笑顔を絶やさない。
少なくとも、学費とかは両親が払ってくれている。
ただそれ以外の身の回り。コスメとか、生活で入用な物を買ってくれている。コスメに関しては使う機会が少なく、しまってる物が多くて申し訳ない。
それでも日用品から食費諸々は、咲さんの稼ぎから出ている。
例があるとすれば、何の前触れもなくマンションを買って借金をするほど金銭感覚が可笑しい。
けれど、恐らく何かしらの意図がある。
……そうじゃなければ今すぐここを売り払って、前のアパートに戻った生活がいい。
「まぁ、大事な義妹だからねぇ~」
「咲さん……しまってます」
首に回された咲さんの腕が、私をゆっくりと締め上げてくる。
だけどそれが咲さんにとっての好意を表す仕草で、私は無下にはできない。
時どきどっちが年上なのかわからなくなるけど、私にとって大事な家族だ。
「今日は何してたんですか?」
「ずぅ~と寝てたよぉ~」
あ、やっぱりそうなんだ。
「ようやくれいちゃんが笑ったぁ~」
プニプニと私の頬を突いてくる咲さん。
「咲さん、夕飯作り途中ですから後にしてください」
「はぁ~い」
ホント、咲さんと一緒にいると悩んでる自分がバカバカしく思えてくる。
少しだけ晴れた気分で、私は夕飯づくりを続けた。
やっぱりあれ、返しておくべきよね。
ふと、槇宮真桜が手渡してきた小切手が脳裏を過った。
爽彦さんにはこの件は話していない。個人的過ぎて話せる内容でもないし、お金が絡んでいる。
しかも、私の希望でかなりの大金が動いてしまう。
悪い人の手にでも渡れば、どれだけの金額が要求されるのだろう。……考えただけで背筋が震える。
「れいちゃ~ん、今日の夕飯はなにぃ~」
「もやしが安かったから野菜炒めにするつもりですよぉ~」
「ハイハイ、卵! 卵入れてほしいっ!」
「わかってますってば」
まるで小学生のように元気よく両手をあげる咲さんに、私の頬は自然と緩んでしまう。
ソファで横になる咲さんから、機嫌のいい鼻歌が聞こえてくる。両足を無邪気にパタパタ、埃が舞うのを気にしない様子。
気分はまるで、手のかかる妹と接する感じだ。
……私の方が年下なんだけどな。
だからといって何かをして欲しいわけじゃない。いや、少しだけ甘えたいけど、これ以上は借金が増えて返済が心配になる。
私は手早く夕食を作り、咲さんと食卓を囲んだ。
この時間がいつまでも続いて欲しいと願ってしまう。
だからといって、あの小切手を安易に使えるわけがない。
やっぱりあれはしっかりと返そう。
美味しそうにご飯を食べる咲さんを前に、私はそう心に決めた。
今と何も変わらないだろうけど、これが私の日常だ。……りーちゃんさんには気長に待ってもらおう。
「ねぇ、今度中華が美味しいお店に行かない?」
屈託のない咲さんの笑みに、私は肩を竦めた。
「作ってあげますから、外食は控えてください」
「なら北京ダックが食べたい!」
てっきり麻婆豆腐や回鍋肉とか、家庭で簡単に作れるものだと想像していた。
まぁ、作り方くらいは調べておこうかな。
何でも美味しそうに食べてくれる咲さんを見ていると、作る側としては喜んで欲しい気持ちが増していく。
ささくれていた気分が、咲さんのお陰でどこかに吹っ飛んでいった。