憎しみという名のエンターテイメント
立川談志が好きで、談志の動画を見ていました。談志の哲学はだいたいわかっているつもりですが、改めて聞くと色々考えさせられます。
江夏豊が覚せい剤をやった時の話が出て「談志さん、どう思います?」と聞かれて談志が「うーん、まあ、でも、誰かが悪い事してくれなきゃみんな困るんじゃないですかねえ?」と言っていた。
司会のタレントはこういう面倒な言葉もテレビ的なノリで流していくのだが、確かにその通りというか、結局の所、誰かが悪い事をしてくれなければ困るのだろう。「悪」を憎み、排除するという楽しみが人生から消えてしまえば、人生は味気ないものとなってしまうだろう。
こういう言い方は不敬だと思われるかもしれないが、現象としてはそうだろうと思う。仮に誰も犯罪を起こさない世の中になり、悪がこの世から根絶されてしまえば、軽いマナー違反でも死刑というような話になっていくだろう。タバコのポイ捨ては死刑とか、あそこの従業員は店に入った時挨拶しなかったから懲役三十年とか。落語みたいな話になってきたが、そうなっていくだろう。
最近は韓国批判が流行っているが、仮に韓国、というか朝鮮半島がある日、アメリカの軍事実験で綺麗さっぱり消えたとする。まあ落語みたいな話だと思って聞いてほしいが…アメリカの新開発のレーザー光線がたまたま朝鮮半島にあたって朝鮮半島が全部消えたとする。韓国人も全て消失したとする。
そうなると、韓国に腹を立てていた人は自分の生きがいを失ってしまうという事になるだろう。予想だが、韓国という国が全て消滅しても、韓国批判はなくならないだろう。なぜなら、憎しみというのも生きるエネルギーだからである。生の一つの様態、それも欠かせない様態だからであって、憎しみの対象に勝手に消えられたらそれはそれで困るだろう。
他人の事ばっかり言ってフェアじゃないと言うなら、自分の事も言うが、自分はよく大衆社会批判をしているので、この大衆社会がある日いきなり賢人の群れになり、自分より遥かに賢い(IQや偏差値ではない)人達ばかりになったら、自分は不満に思うだろう。やはり私自身に関しても怒りとか憎悪を生きる糧にしている。少なくとも、それが何らかの役割を果たしているのは確かだ。
生きる事の中には憎悪が含まれている。イケメンタレントが不倫をして叩かれるのも、ある意味イケメンタレントの役割を全うしているとも言える。人は叩く事を楽しんでもいるので、全員が品行方正になったら談志の言う通り、困ってしまうだろう。
何故この世に悪があるかと言うと、自分の中にも悪があるからである。自分自身も悪だからだ。誰にも覚えがあると思うが、例えば、職場でAさんと仲良くなりたいと思う。その為の一番簡単な方法は共通の敵を作る事だ。AさんがBさんを嫌っていると知ったならば、Bさんの悪口を一緒になって言う。するとすぐにAさんとは仲良くなれる。
これは非常に簡単な事でこうした事で様々な党派性が成されている。憎しみも人生の一部である。私もネットで自分の考えを書いているのでそこに憎しみを抱く人はいる。そうした人が私をいつか亡きものにしたいと望んでいて、その機会をずっと狙っているとしよう。
できればそんな事はごめん蒙りたいし、やめていただきたいが、まあそれでもそういう人にとって私の存在が憎しみという対象物として生きがいになっているわけである。これは確かな事だろう。憎しみもまた人生の一部であり、自分の中にもそれがあるというのは確かだろう。
じゃあどうすればいいか。まあ、立川談志の落語でも聞いている他ない、という事になるだろうか。談志の落語が言わんとしている事は、落語は人生の役に立つという事ではなく人生そのものが落語みたいなもんではないか、という事の気がする。そしてその事実を確認した時、人は笑うしかない。怒りや悲しみを抱いてへどもどして生きる人間という生物を笑うしかない。ここに落語の笑いも現れる、と立川談志は見ていたのではないか。私は勝手にそんな風に考えている。