4 千夏の願い
何日かぶりに家を訪ねてきた猫ちゃんは、私の話を聞いた翌朝、また姿を消していた。ある雨の日に家の軒下で出会った、茶色いふさふさの毛をしたオスの猫。夏休み前から毎日のように家に来てくれたあの猫を、私はただの野良猫だとは思えない。ちょっと不細工だけど、目をキラキラさせて、先っぽの黒いしっぽをゆらしながら、まるで友人のように私の話を聞いてくれる。内気で友達の少ない私にとって、時にそれがどれだけ救いになったことか。
(でも、あなたもどこかへ行ってしまうのね。先輩のように……)
行くなら、そう言ってほしい。今度こそ、ちゃんとお別れがしたいから。
ずっと一緒にいることまで求めまい。私はため息をつく。しようがないではないか。彼らには彼らの事情がある。私がそれをどうにかすることはできない。私は大丈夫。今までと同じ生活に戻るだけだから。孤独には、慣れているのだから。
でも、もう少し、あの楽しい日々が続けばよかったな。顔を洗った後の自分の顔を鏡で見ながらそう、私はつぶやいた。
週末は、いつものように図書館に行った。
八月末に涼しくなったと思っていたが、今日は暑さがぶり返していた。通いなれた公園への並木道には、あの日々と同じようにちょっと疲れた蝉の声と暑い陽光が注ぎ、木漏れ日が舞う。しかし、先輩も猫も、もういない。
(大丈夫。今までと同じ。私は、私の好きなことをしている。寂しくなんかない)
しかしいつもの風景に感じるもの悲しさを、私はいかんともできなかった。
図書館について、その入口の傍に立つ人の姿を認めた時、私ははっと足を止めた。
先輩だ。
そんな馬鹿な。斎藤先輩は遠く九州に引っ越したはず。混乱する私にむかって、しかしその人は手を上げてあいさつし、微笑んだ。間違いなく斎藤先輩だった。
「ちょっといいかな。伝えたいことがあって」
先輩の言葉に私はうなずき、彼の後について歩く。こちらこそ、伝えたいことがあった。勇気がなくて飲み込んでしまったけれど、もしやり直せるなら、どうしても伝えたいと思っていた言葉が。
先輩が立ち止まったのは、図書館の裏の広場の隅で、そこからは街の風景がよく見下ろせた。まぶしいほど白く盛り上がった入道雲の下で、街の建物たちの屋根や窓ガラスが明るい光を瞬かせていた。
その光に包まれて、私と向かい合った先輩は、しかし何も言いださない。目を泳がせて、まるで言葉を探しているようだった。
私は目をつむる。息が苦しい。自分の鼓動の音が聞こえる。その振動が己の体をもゆらしているようだ。
「その……、す、好きだ」
私は目を開いた。もう一度。聞き返すように彼を見つめる。彼は再び、今度はもっとはっきりと、言った。
「ずっと前から、君のことが好きでした」
「私も」
心臓がのど元まで出てきているのではないかと思うような苦しさを我慢して、私も負けじと声を出した。
「私も、私も、好きでした。先輩のことがずっと。ずっと、好きでした」
言えた! やっと言えた!
次の言葉は考えてなかった。しかし開けた口を閉じることができず、そこから言葉の代わりに細い嗚咽が漏れた。涙が次から次へとあふれてはこぼれ、たまらず私はしゃがみこんで顔を覆った。
背中で揺れる木漏れ日が暖かい。風がそよぐたびに沸き立つ草や枝のささやきが耳にやさしく入ってくる。しかしもう二度と、先輩の声を聴くことはできなかった。
やっと気持ちを落ち着かせて顔を上げると、そこにはもう斎藤先輩の姿はなかった。かわりに一匹の狸が、きょとんと首をかしげて、くりくりしたその目で私を見つめていた。
狸は私と目を合わせると慌てた様子で駆けだした。
「まって」
私はとっさに狸の後を追う。しかし図書館の表へ出たところで、その姿を完全に見失ってしまった。晩夏の昼下がりの公園には先輩の姿も狸の姿もなく、代わりに男の人が一人、並木道への階段を下りてゆくところだった。
私は思わず目をこすった。男の人のお尻から、しっぽがはえていたから。先っぽが黒い、ずんぐりしたしっぽ。しっぽをはやした人間なんて、本来は悲鳴ものだけれど、私は彼を少しも怖いと思わなかった。それが誰なのか、すぐにわかったから。
「ねえ。まって」
呼びかけても、男の人は立ち止まらない。私はあの男の人の後ろ姿を知っていた。いつも図書館で、私と離れた机に座っていた人だ。ポーチを拾ってもらったことがある。あの雨の日、図書館の玄関先で途方に暮れていた時、声をかけてくれた。傘を私の手ににぎらせて、礼もきかずに駆け去ってしまった。あの後ろ姿だ。
そしてあのしっぽは、もっとよく知っていた。あのずんぐりした先っぽが黒いしっぽ。私の話を聞きながらゆれていた、あのしっぽ。
そうだったのか。
私は駆け出していた。振り向かない男の人の背中に向かって。そして私は、その、けして広いとは言えない背中に抱きついた。
男の人は立ち止まり、ぼそりとつぶやいた。
「ごめん。だますつもりはなかったんだ。ただ僕は君に……」
私は彼の背に顔を付けたまま首を振る。
「ありがとう」
* * *
風が吹いて彼らの頭上の枝が優しくさざめいた。寄り添うセーラー服の少女と白いワイシャツの青年の上を木漏れ日が舞う。少女は目をつむり、安らいだ微笑みを頬に浮かべた。
「どうかこれからも、私と一緒にいてください」
丸い耳を出した、化けるのが下手な狸は、頭をかきながら頷いた。




