3 恋の終わり
狸の想いはとげられぬまま、夏休みも半分以上が過ぎた。お盆のにぎわいも去り、相変わらず入道雲の湧きあがる空に蝉のさざめきがやかましく響いているが、夕方ともなると紅色に暮れる街角にひぐらしの鳴き声が寂しく注ぐようになった。
そして、お盆が過ぎるのと時を同じくして、小太郎の恋も、突如として幕を閉じた。
それはある夕暮れ時だった。小太郎は狸の姿のまま、ひぐらしの声の降る川辺の道を歩いていた。どこからかオカリナの音色が流れてくる。いい音色だな。そう思いながら立ち止まったとき、彼は千夏ちゃんの姿を発見した。その道に沿って植わる桜の木の一つに、彼女は寄り添うようにして立ち、川のほうを見つめていた。
千夏ちゃんの視線の先の川岸には、男の子が一人、座っている。イケメンではないが誠実そうな、優し気な顔立ちの男の子。細長い何かを口にくわえて。オカリナだ。その透き通るような音に、うっとりとした表情で耳を傾ける千夏ちゃんの視線は、彼から離れない。そうしているうちにふと、音楽が途切れ、男の子が振り向いた。千夏ちゃんは何か言おうとしたがすぐに口を閉じ、手を胸に当て、そして見る見るうちに顔を赤くすると、一目散に駆け去っていった。
「ねえ。猫ちゃん。私、今、恋をしているの。相手は斎藤さん。同じ学校の先輩なんだけど、緊張しちゃって、声をかけることもできないの」
次の日、猫姿の小太郎相手に、千夏ちゃんは語ってくれた。誰かと同じだな。自分を棚に上げてそんなことを考える小太郎の脳裏に、彼のオカリナの音がよみがえる。あの美しいメロディーを胸の中で口ずさみながら、小太郎は、自分のはかない夢が終わったことを悟った。
小太郎はそれから数日を、己の巣穴にこもって過ごした。なんだかだるくて体が動かないのだ。何もやる気がしない。そうこうしているうちに外から流れ込んでくる蝉の声は弱くなり、そのかわり朝晩に奏でられている虫たちのささやきが力強さを増していた。
彼は敷き詰めた草の上で丸くなりながら、この数日である一つの決断をした。
もう、僕は化けることをやめよう。人間にも。猫にも。ただ狸として生きるんだ。そのためにここを離れてどこかの山に住む。そして千夏ちゃんのところには二度と行くまい。
そしてある晴れた爽やかな朝、彼は巣穴から出た。
久しぶりに見上げた空には、相変わらず大きな入道雲がそびえている。空は抜けるように青く、街の住宅の瓦屋根では鈴を溶かしたような白い光がゆれている。
風景に別れを告げようと周囲を見渡す小太郎に、声をかけるものがあった。友達のヒロシだ。
「ヒロシ。僕は……」
街を出てゆくよ。そう伝えようとする小太郎の言葉を遮って、彼は言った。
「千夏ちゃんのところへ行ってやりなよ」
躊躇する小太郎を、人間に化けたヒロシは有無を言わせずつまみ上げる。彼に首根っこをつかまれた小太郎は、人間になることもかなわず、千夏ちゃんの家の前の道に出たところで、慌てて猫に変身した。
もう二学期は始まっていたようだ。セーラー服を着た千夏ちゃんは門の脇の塀に独り、もたれかかっていた。その前に放り投げられた小太郎は急いで引き返そうとしたが、思わず彼女を見上げたところ、千夏ちゃんと目が合ってしまった。
「猫ちゃん」
そう言って驚いたように見開かれた彼女の眼尻には、涙が光っていた。
千夏ちゃんの涙の理由を、小太郎はすぐに知った。斎藤先輩が引っ越してしまったのだ。彼女がその日一日かけて彼に語ってくれた。
「結局、伝えることができなかった。好きだって」
千夏ちゃんは小太郎の背中を撫でながら静かに自嘲した。最後にもう一度会えるなら、今度こそ伝えたい。でも彼は遠くに行ってしまった。今更勇気を出したって遅いよね。馬鹿な私。いつも手遅れになってから後悔するんだ。
何かが落ちてきて、小太郎の鼻を濡らした。一瞬雨かと思ったが、そんなわけがなかった。それは雨でも朝露でもない。それはきっと……。
小太郎は千夏ちゃんの顔を見上げようとする。それと同時に彼の身体はクッションみたいに彼女に抱きしめられていた。彼女が嗚咽を漏らし、その温かい息が背中にかかるたび、朝露のようだったあの笑みを思い出して小太郎の胸は締め付けられた。
夜、千夏ちゃんが寝入ってから彼女の家を出た小太郎は、ヒロシに会いに行った。
「僕は、街から出ていくのをやめたよ」
そうつぶやいた彼は、友人に向き直り、深々と頭を下げた。
「ヒロシ君。どうか僕に、化け方を教えてくれ。どうしても化けたい人が、いるんだ」