2 声をかけたいけれど……
神社の森の、自分の巣穴に戻った後も、小太郎はあの女の子のことを忘れることができなかった。小太郎は願った。人間の彼女の傍にいたい。彼女と仲良く話をしてみたい。そして、できることならば自分の想いを彼女に伝えたい。と。
狸が人と話したいなどと思うことはおかしいだろうか。しかし人間の多くにだってきっとあることだろう。自分のかわいがっている猫や犬と親しく言葉を交わしたいと願うことが。
そして小太郎はその女の子の家に頻繁に通うようになった。もちろんブサ猫に化けてである。女の子は学校の時間以外は大体家にいた。そしてそんな女の子の話し相手……正確には一方的な聞き手として梅雨の時間を過ごし、彼女についてちょっとだけ知ることができた。
彼女は千夏ちゃんという名であるということ。
近所の高校に通っているということ。
本や空想が好きであるということ。
友達は、あまりいないようだということ。
猫として接するうち、小太郎はしだいにそれでは飽き足らなくなっていった。猫としてでは、話を聞くだけだ。それも楽しいけど、でも言葉を交わすことができるなら、もっと楽しいだろうな。話をきくだけではなく、こちらも何か話してあげたい。慰めや、励ましや、共感の言葉を、彼女にかけてあげたい。
そして彼は決意した。夏休みになったら、彼女に人として接触を試みようと。
梅雨があけ、夏休みが始まったある日、ブサ男に化けた小太郎は、図書館に向かう千夏ちゃんのあとを追った。
公園に向かう並木道。アーチのように道に覆いかぶさる濃い緑の葉が揺れ、空の明るさとのコントラストで暗く感じられる木陰の上をまばゆい木漏れ日が舞う。やかましいほどの蝉しぐれとともに降り注ぐ光の向こうを、白いワンピースを着た千夏ちゃんが歩いてゆく。そのまばゆい姿に目を細める小太郎は、どうしてもその距離を詰めることができない。
千夏ちゃんがふと足を止める。小太郎も、反射的に立ち止まる。まるで離れたところに捺された彼女の影ででもあるかのように。千夏ちゃんが歩きはじめると、それにつられるように小太郎もおずおずと歩を進める。
こんなことではいかん。はやく彼女に追いつかなければ。これでは挨拶することもできぬではないか。
小太郎は思い切って足を速めようとする。そのときである。突然千夏ちゃんが振り向いた。
「だれ?」
千夏ちゃんのその声は、誰もいない静かな道に、木漏れ日のように降り落ちた。頭上のケヤキの枝がさざめいて、その余韻をかき消していく。
あぶなかった。
風のような速さでケヤキの木陰に身を隠した小太郎は、胸をなでおろしながら道の様子をうかがった。不思議そうに首を傾げた千夏ちゃんが、何事もなかったように鞄をふりながら去っていく。
まいったな。これではまるで、僕は変質者ではないか。
木の幹に背をあずけて、頭上の枝を見上げた彼は、葉と葉の間に瞬く光に目をしかめ、深いため息をついた。
小さくて四角くてきれいな図書館の中は閑散としていた。六人掛けの大きな机を連ねた読書スペースにも空席が目立っている。窓近くの席について本を広げた千夏ちゃんの隣も空いていたが、小太郎はそこに座ることができなかった。
本をとりにいくふりをして彼女の後ろを右から左へ。席を探すふりをして彼女の後ろを左から右へ。傍を通るたびに彼女にチロチロと視線を向けるが、やはり小太郎の口から声は出てこない。
不審極まりない。
窓際から一番離れた階段脇の席で頬杖をついて、小太郎はため息をつく。これでは気持ち悪がられて嫌われてしまう。
ふと、声がかけられないなら、手紙はどうだろうと思いつき、彼は筆を執った。
『こんにちは。僕は小太郎といいます。怪しい者ではありません。故あって正体は明かせないのですが、あなたとお近づきになりたいのです……』
ちょっと書いて、すぐに小太郎はその手をとめた。露骨に怪しい。怪しさしかない。千夏ちゃんは絶対怖がる。
机に筆をおいた小太郎は、ぼんやりと図書室の中を見渡した。窓から差し込む光が、カーテンのように、読書にいそしむ人々の上に注いでいる。中年の女の人。眼鏡をかけた真面目そうな青年。おさげの女の子と寝ぐせの着いた男の子のカップル。みんな、清らかに見える。嘘偽りなく後ろめたいこともなく生きているように見える。
こんな、狸なんか。
小太郎は思う。仲良く話がしたいというけれど、思えばどうして彼女が受け入れてくれるだろう。こんな狸の僕なんか。化けても不細工な男にしかなれない、僕なんか。こんな、不細工で気が弱くて、行動が気持ち悪くて……。
自分で自分の悪口を言い連ねているうちに哀しくなってきて、思わず鼻の奥が熱くなる。
その時背後で物音がした。
「あっ、いけない」
千夏ちゃんの声だ。
振り向くと、両手に本を抱えた彼女が眉をひそめて下を向いている。その視線の先の床に、彼女のものと思しきポーチが落ちていた。
小太郎はそれを拾って彼女に渡してあげる。
「ありがとう」
そう言って朝露のきらめきの笑みを浮かべた千夏ちゃんは、すぐにカウンターへと去っていった。その背を小太郎は、やはり無言で見送る。弱々しい、今にも泣きだしそうな微笑みをその顔に張り付けて。
「何をしているんだい小太郎君。とっとと話しかければいいのに」
その夜、友達のヒロシがからかうようにそう言った。陽が沈んでもまだ暑い。もう暗いというのに、まだ、木の上ではセミが鳴いている。
「でも……、やっぱり駄目だよ。僕には。恥ずかしいし、それに……」
「それに?」
「なんだか、彼女をだまそうとしているような気がして」
「いいじゃないか」
ヒロシは首を傾げた。
「だますことは悪いことかい」
わからないよとうなだれる小太郎に、彼は微笑みかけた。
「人を幸せにする嘘だって、あるんじゃないかと、僕は思うんだ」
小太郎は返事をせずに目をしばたたかせる。ヒロシはあくびをすると、もう眠いと言って、きょとんとする小太郎をのこし、茂みの中へともどっていった。
夏休みに入ってから千夏ちゃんは頻繁に図書館に通った。彼女は本が好きなのだ。そして小太郎はそのたびに汗をかきながら彼女のずいぶん後ろをついて歩き、彼女から離れた机に座って日がな一日本を開いて過ごした。そして声をかけることかなわぬまま、夏は一日また一日と過ぎていった。
その日は朝からよく晴れて暑かったが、小太郎は狸の嗅覚で雨が降ると察知していた。案の定、昼になってから突然雲行きが怪しくなり、帰るころには真っ暗な空から滝のように雨が降り落ちていた。
千夏ちゃんは館の玄関先で空を見上げ、途方に暮れている。彼女は傘を持ってきていないようだ。
千夏ちゃんのわきに立った小太郎は、彼女と一緒に雨雲を見上げて、しばらくその何かを洗い流そうとするかのような音に耳を澄ませていた。声はいつものように喉の奥にひっかかって出てこない。だから彼は、心の中で彼女に語り掛けた。
千夏ちゃん。
小太郎の心臓が一つ鼓をうつ。大丈夫、心の中だけだからと自分に言い聞かせて、彼はつづける。
千夏ちゃん。僕が君と初めて会ったのも、こんな雨の降る日だった。あのときから、僕はどうしようもなく君にひかれていた。なぜだろう。理由はたくさんあるよ。その笑顔が素敵だから。優しいから。いつもちょっと、寂しそうだから……。君のいろんなところが、好きだった。僕は君に伝えたい。君がとても魅力的だっていうことを。でも、きっと君は嫌だよね。僕は……、狸だから。
「あの」
ずいぶんたってから小太郎の口から声が漏れた。ため息のように。雨滴のように。本人も意図せずに、その声は自然と零れ落ちた。
千夏ちゃんは振り返って彼を見る。首を傾げ、そのくりっとした大きな目を不思議そうに見開いて。
その手に、小太郎は自分の傘を握らせた。
「えっ。いいのですか」
小太郎は黙ってうなずく。
「でも、それではあなたが濡れてしまう」
「いいんだ」
そう短く言うと小太郎は、一目散に雨の中を駆け去っていった。