1 化けるのが下手な狸
「君は、本当に、化けるのが下手だなあ」
親友のヒロシが心底呆れた口調で言うと、不細工な男は顔をしかめて舌を出してみせ、そして狸の姿に戻った。
「大きなお世話だ。これで十分だ」
「しかしそれでは楽しくあるまい。もっと練習して、別のものにも化けられるようになったらどうだい」
ヒロシの言葉に、小太郎はため息のように鼻を鳴らしてから答えた。
「いいんだ。どうせ僕にはできないだろうし。これで不自由はしてないから」
「そんなことではいけない。化けるコツは、意思と勇気だよ」
小太郎は首を振ると、今度は不細工な猫に化けて、茂みから木漏れ日のゆれる神社の境内へと出ていった。
小太郎は狸である。そして化けることができる。しかし彼は、大変化けることが下手くそであった。化けることができるものといったら、不細工な男か不細工な猫くらい。他の狸はいろんなものに化けて面白可笑しい経験をしているらしい。彼らからはよく言われる。美男美女に化けてみたまえ。そうすればきっと、人間世界でもいい思いができるであろうに。
いいなあ、みんなは。
木立のさざめきの降り落ちる神社の階段を降りながら、小太郎は思う。
化ける能力を利用して悪いことはしたくない。人から金品を奪い取ったり、心をもてあそんで傷つけたり。そんなことは嫌だ。でも、人と触れ合ったりすることぐらいはしてみたい。もし友達ができて、その人と食事をしたり話をしたりすることができたら、楽しいだろうな。でも、できないんだ、僕には。僕は、ダメな奴だから。
小太郎は自分に自信がない。それがうまく化けることができないからか、それとも自信がないから化けることができないのか、それは自分でもわからなかった。親友のヒロシによると、化けるコツは意思と勇気だ、という。たしかに、小太郎には、意思も勇気もない。しかしどうしたらそれが持てるのかも、彼には分らなかった。
(これでいいんだ、僕は)
鳥居の下をくぐり、そこからすぐに広がる住宅地の道路を横断してから、小太郎は社の小さな林を振り返った。
僕はこれでいい。これで十分だ。かつては山里だったこの街で、人に影響を与えずに、ひっそりと生きてゆくことができるのなら。それでもう。
久しぶりの梅雨の晴れ間で、つい小太郎は外に長居をしてしまった。夏前とは思えぬ蒸し暑さと日差しの強さに、南空に迫りつつある雨雲への注意を怠り、気づいたときには土砂降りの雨に行く手を阻まれていた。
アスファルトの道を流れ落ちる水の勢いに足をとられ、毛もすっかり濡れそぼって体も冷えてきた小太郎は、猫の姿のまま、やむを得ず傍にあった住宅の庭に忍び込んだ。
軒下で丸くなって雨脚が弱まるのを待っているうちに、寝てしまったらしい。目を覚ました時はもう雨は上がっていて、強い光が庭に散っていた。雑草の葉に宿る雨露のきらめきが眩しい。何時間たったのかわからぬがひどく腹が減っている。大きく伸びをした小太郎は軒下から庭に這い出てみたものの、それ以上動く気力もなく、露のきらめきの下でうずくまってしまった。
「何かしら。庭で音がしているけど」
家の中から聞こえた声にハッとして、小太郎は周囲を見渡し次に自分の姿を確認した。狸の姿に戻っている。狸の姿はまずい。人間は、なぜか狸に異様な好奇の目を向ける。早く逃げようと思ったが体に力が入らなくて歩くこともままならない。致し方なく彼は急いで猫に変身した。人間世界では珍しくもなく、木や花のように風景に溶け込んで見向きもされないはずの、不細工な猫に。
「あら、猫ちゃん!」
頭上から降ってきたのは、鈴を転がすような高く軽やかな声だった。振り仰いで見ると、声の主は笑みを満面に浮かべて彼を見下ろしている。女の子……。いや、大人か。大人と子供の間くらい。若い女の人だ。彼女はいったん部屋の中に姿を消し、しばらくしてから平たい皿を捧げ持って庭に降りてきた。
「さ、これをお食べ」
皿の中には具だくさんのチャーハンが入っていた。小太郎は思わず皿に鼻を突っ込んでその飯を貪り食う。
小さな笑い声が降ってくる。振り仰ぐと、目の前にしゃがんだ女の子が、頬杖をついて彼に微笑みかけていた。その笑顔を、雨上がりの庭に散らばる露のきらめきようだと、小太郎は思った。