五、疑心暗鬼
1
アルフィスエンタープライズの研究所の件が起きてから、数日が過ぎた。
表面上、火災事故と片づけられたが、アルフィスエンタープライズへの疑惑は一層深まり、それは確信に近いまでになっていた。
しかし、それを証明できる証拠がなかった。
陽子が一時手にしたフロッピーも組織の手により処分された思われる今、アルフィスエ
ンタープライズを摘発する手だては失ったかに見えた。
もちろん、捜査局も手をこまねいていたわけではない。あらゆる方面から証拠を手に入れようと躍起になっていたが、あの日以来、敵のガードはさらに堅くなり、捜査は容易に進まなかった。
陽子をはじめとする局員達は朝早く出かけ、何の収穫もないまま夜遅く戻る。そんな日が数日以上続いていた。
全員の顔に疲労が滲んでいた。
その中でもっとも苦悩と疲労の色を見せているのは、剣持であろう。
奈美に顔を見せているときは、明るい顔を見せてはいたが、その端々に苦悩がはっきり見て取れた。
それを見るにつけ、今何もできない自分が奈美は恨めしかった。
気にすることはないと剣持は言うが、自分に心配を掛けまいとする心遣いが、かえって奈美には心苦しかった。
何か手助けしたい。
何より面史郎を見つけて、その悪行を暴きたい。死んだ亘やリエのためにも。
そんなやるせない気持ちを抱いて数日を過ごしていたある日、奈美の前にちょっとした事件が起きた。
それはささいとも思える出来事であった。
奈美は今、高校に通っている。
剣持の好意により普通の学生生活を始めたのだ。
陽子達が大変な時、自分だけ学生生活を送ることに後ろめたさはあったが、しかし、今まで経験できなかった学生生活を経験できることはやはりうれしかった。
しかも捜査がらみではないため、なおさらであった。
そんな学園生活をおくっていたある日、いつものように下校したときであった。
出来始めた友人と別れ、通い慣れた通学路を屋敷へ急いでいたとき、不意に横道から人影が現れた。
奈美に倒れ込むように現れたその人物を奈美は、初め組織の人間が襲ってきたかと思った。しかし、その人物の風体を見て、その疑いはすぐに消えた。
薄汚れたジャンパーにすり切れたジーパン、マークもすっかりかすれた野球帽の下からは何日も洗っていないような髪がはみ出していた。
すぐに浮浪者とわかるその男は、力無く奈美に頭を下げると、よろよろしながら奈美が来た道を歩いていった。
危なげな足取りを気に掛けながら奈美がまた歩きだそうとしたとき、何気なく落とした目に映る物があった。
それは小さな鍵であった。
さっきの男の落とし物と察知した奈美は、すぐに後を追おうとしたが、すでに男の姿は消えていた。
小さな鍵一つ、捨てるには無責任すぎると思った奈美は、いつ会えるかわからぬ男のためにその鍵を大切に持っていようと思った。そう思ってポケットに鍵をしまってから、数日が過ぎた。
半ば忘れかけていた奈美は、いつもの通学路をいつものように帰宅しようと歩いていた。そこへ不意に人が横切った。
一目見てこの間の浮浪者とわかった。
奈美は鍵のこと思いだし、声を掛けようとした。しかし、その浮浪者の顔つきを見て躊躇した。
何かにおびえるような目つきで辺りを見回し、足早に通り過ぎようとしている。
何かある。
奈美の直感がそう言っていた。
奈美は気づかれないようにそっと浮浪者の後をつけた。
浮浪者は何かから逃げるように足を速める。奈美も置いて行かれないよう速度を速めた。一〇分も経っただろうか。浮浪者はまだ奈美には気づかず先に進む。
その時、突然横道から一台のローレルが飛び出し、浮浪者の前で止まった。中から数人の黒スーツに身を包んだ男が下りてきて、浮浪者を囲んだ。
「な、何だお前達は。」
そう言い終わるか終わらないかのうちに男達は浮浪者を羽交い締めにして、その車に乗せようとした。
「い、いやだ!」
叫ぶ浮浪者の口を封じ、男達は強引に浮浪者をローレルに押し込んだ。
それを見た奈美の行動は素早かった。
奈美は乗り込もうとした男の片割れの肩を掴むと、無理矢理後ろに引き倒した。
突然ものすごい力で引き倒された男は、無様に地面に転がり、その腹部を奈美に踏みつけられた。
「ゲェッ!」
悶絶する男を後目に奈美は中にいた浮浪者を引っぱり出すと、その男を連れて一目散に逃げ出した。
呆気にとられていた男達も事の重大さに気づき、二人の後を追って駆けだした。
浮浪者を連れての逃避行はやはりハンデがあり、二人はすぐに男達に追いつかれた。
奈美は浮浪者の前に立ち、追ってくる二人の黒スーツと対峙した。
二人とも大男である。
その大男が奈美を挟み撃ちの格好で両側に立った。
奈美はそんな二人を油断無く見つめた。
片方の男が前触れもなく奈美の肩を掴んだ。続いてもう一方が奈美の腕を掴んだ。
すごい力だ。
後ろの浮浪者は恐怖のあまり、立ちすくんでいる。
「邪魔だ。」
低くドスの利いた声が奈美を恫喝する。しかし、二人の大男は奈美が少女ということもあって、甘く見ていた。そこに隙が産まれた。
両側から引っ張り上げられる力を利用して、奈美の両足が地面を蹴った。
逆上がりをするように、奈美の体が持ち上がると、そのまま両足で両側にいた大男の顎を蹴り上げた。
「グッ!」
両側にはじかれた大男の体制が整わないうちに奈美は、地面に降り立つや否や右にいた男の腹部に横蹴りを入れ、左でもたもたしている男には、回し蹴りを顔面にヒットさせた。
地面に這い蹲る男達には見向きもせず、奈美は浮浪者の腕を掴むと、再び駆けだした。数十分も走り続けたろうか、浮浪者が根を上げたため、奈美は一旦走るのをやめた。そして、辺りを見回し、追っ手がないことを確かめた。
「どうやら撒いたみたいね。」
奈美は一息つくと、自分にいる場所を確認した。
目の前に小さな神社が見える。
見覚えのある神社だ。
(剣持さんの所から大分離れたわね。)
奈美は浮浪者の男を見た。
しゃがみ込んでゼイゼイ言っている。
「どうしてあいつらに連れられそうになったの?」
当たり前の疑問を奈美は男にぶつけた。
しかし、男はチラッと奈美を見ただけで、何も答えなかった。
「助けて貰ったのに礼もないの。」
「あ、ありがとう。」
男は低い声でとってつけたように礼を言った。
「どこか行く宛はあるの?」
奈美は心配そうな顔をして男に尋ねた。だが、男は何も答えようとはしなかった。呼吸が整うと、男はその場を立ち去ろうとした。
「あ、待って。」
呼び止める奈美に男が振り向いた。
「これ、あなたのでしょう。」
奈美は例の鍵を差し出した。
それを見た男の反応は、確かにその鍵を知っている風であった。
「し、しらん。そんな鍵。」
男はそっぽを向くと、逃げるように走り去っていった。
奈美は走り去る男の後ろ姿をしばらく眺めていた。
2
そんな些細な事件があった夜、剣持の屋敷ではそれを吹き飛ばすような事が起こっていた。
「間違いないのか!?」
剣持が身を乗り出すように尋ねた。その前には陽子ともう一人、精悍な顔つきの青年がいた。捜査局の伊達という剣持の部下の一人だ。
その伊達がもたらした報告は組織の手がかりにつながる物だった。
「確かな情報です。」
「例の機械が搬入される。」
剣持は腕を組んだ。
伊達のもたらした情報は、組織が例の人格操作のための機械を秘密裏に搬入しようとしていると言うことだった。
奈美の活躍から機械の危険性が喧伝され、一時的に機械は撤去された。しかし、裏ではその機械が各高校に搬入され続けていた。
その搬入経路は今までなかなか掴めなかったのだが、伊達たちの努力でその搬入経路の糸口が掴めたのだ。
「その現場を押さえられれば、組織のしっぽを掴める。」
「うまくいけば大物がかかるかもしれません。」
剣持は腕を組み、陽子と伊達を交互に見比べた。
「よし、伊達は引き続き監視を続けてくれ。陽子、局員を少しづつ現場付近に配置させろ。搬入の日に一網打尽だ。」
「はい」
二人は勢い良く部屋を出ていった。
後に残された剣持のところへ、奈美が近づいてきた。
「奈美…」
「剣持さん、私も捜査に加えてください。」
「それか。前にも言ったろう。奈美はこの件は忘れて普通に学生生活を送ればいい。」
「私も手伝いたいんです。」
「ダメだ。」
剣持は語気を強めて言った。
「奈美、君には普通の女の子に戻ってほしい。」
普通という言葉に剣持の愛情が見え隠れした。奈美にも剣持の優しさはよく分かった。しかし、それ以上に亘とリエの仇をとりたかった。
「お願いします。」
奈美は必死に剣持に懇願した。しかし、剣持はとうとう首を縦にふらなかった。
奈美は肩を落としたまま部屋を出ていった。後に残された剣持も沈痛な面もちで背もたれに体を預けた。
奈美の気持ちは痛いほど判っていた。しかし、これ以上戦いに身を置けば、取り返しのつかない事になりかねない。普通の、ごく当たり前の生活に戻れないかもしれない。それだけは避けたかった。奈美を幸せにする。それが亘の願いでもあったのだから。そんなことを思いながら剣持は、窓から暗闇の奥を眺めていた。
剣持の部屋から出た奈美は、まっすぐ自分の部屋に戻った。
机に向かった奈美の心の中は焦りで沸騰していた。
窓の外に月が見える。
あのとき、リエの亡骸を抱いて誓った、あの言葉がよみがえる。
面史郎を倒す。
組織を叩きつぶす。
そのためにはここでくすぶってはいけない。奈美の目に強い意志が宿りはじめた。それは剣持にも秘密の決心であった。
3
捜査は静かに、そして確実に進んだ。
剣持もここ数日、ひっきりなしに電話にかじりつき、陽子もほとんど姿を見せなかった。屋敷の中も人がほとんどいなくなり、奈美はひとり部屋にこもっていることが多くなった。 しかし、奈美もただ黙って座ってはいなかった。自分の能力を駆使し、剣持達の動向を把握しようとしていた。
今まで、忌まわしいと思ってきた自分の能力を、このときばかりはありがたいと思った。奈美はいま神経を集中すれば、隣の部屋の物音を捉えることができた。それを使って剣持達の話を聞いた奈美は、近いうちに大捕物があること知った。
場所はとある埠頭。
時間は深夜。
昼間からの曇り空は夜まで続き、天空は漆黒一色。当然、地上も墨をかぶせたような闇夜であった。
街灯のか細い光が弱々しくその周りを照らす。遠くに見える光は灯台か、船の明かりであろう。
奈美はコンテナの陰に隠れて、目指す倉庫を注視していた。
闇夜に埋もれる倉庫は、常人の目には見えない。しかし、奈美の目にははっきりと倉庫の形が映っていた。そして、その周りに潜む捜査員の姿も。
陽子の姿も捉えていた。
皆、巧みに隠れている。
それが奈美にははっきり感じ取れた。その事を自覚したとき、奈美は言いしれぬ不安に包まれた。
私が感じられるということは、敵にも同様なのではないか。
そんな不安を拭えぬ奈美の目の前に、一台のトラックが滑り込んできた。
その後ろには黒塗りのローレルが貼り付いている。
来たのだ。
緊張が走った。
トラックから二人の作業員が降りてくる。ローレルからは三人だ。
計五人の男が倉庫の前で何かを話している。ひとしきり話した後、二人の作業員は倉庫の大きな扉をゆっくりと開けた。
後ろに控えていた男達が素早く中に入る。すぐに明かりが点った。闇夜のため、明かりがまぶしく見える。
何かを叫ぶ声がする。たぶん、急げと言っているのだろう。奈美はしばらく傍観することに決めた。
やがて、倉庫の中から荷物がフォークリフトに乗って出てきた。
荷物がまさにトラックに積まれようとしたその時、暗闇の中から人影が沸き上がった。捜査員達が飛び出したのだ。
「全員、おとなしくしろ!」
五人が五人とも突然のことに石のようになった。
「抵抗する者は撃つぞ。」
捜査員の何人かが手に銃を握っている。
「全員、トラックに両手をつけ。」
おとなくしくいうことを聞く五人を囲むと、捜査員は身体検査をした。
何人かは倉庫の中に入る。
「なにも持っていないようだな。」
「トラックの中も調べろ。」
「チーフ、来てください。」
中からの呼び声に、チーフとおぼしき者が倉庫の中に入った。積み上げられた荷物の前に数人の捜査員が動き回っていた。
「これを見てください。」
一人がある荷物を指さした。
「これは?」
荷物は乱暴にこじ開けられ、その中にはいろいろな形の石が無造作に納められていた。
「どういうことだ。」
「他の荷物も同様のようです。」
二人は明らかに困惑している。
いまだ、闇の中に潜んでいる奈美は、捜査員の様子がおかしいことに気づいた。
(なにがあったの?)
そう思ったところへ、奈美は人の気配を感じた。そう遠くないところだ。
辺りを見回す奈美の周りは闇夜のままだ。しかし、奈美の目はその闇夜を通して、確実に人の姿を捉えた。
100メートルほど離れた倉庫の屋根の上に立っている。
見たこともない男だ。
男はじっと倉庫を見ている。
肩が揺れている。
笑っているようだ。
(なぜ?)
奈美の頭に不吉な予感がよぎった。
それを裏付けるように、男の腕が動いた。何かを操作したようだ。
奈美の予感は確信と変わった。
奈美の体が倉庫へ向かって動いた。
「みんな、にげて!」
そう叫んだとき、倉庫の中から閃光が走り、それは大音響を呼び、倉庫が爆炎で包まれた。
奈美は爆風で吹き飛ばされ、地面に背中から叩きつけられた。その後から倉庫の残骸や肉片がバラバラと周りに降ってきた。
奈美の目には、燃え上がる倉庫と、その周りに散らばる多くの死体が飛び込んできた。
「みんな…」
奈美はふらふらと立ち上がった。
目の前の光景が信じられなかった。
その時、鋭い視線が奈美の背中を貫いた。
振り向くと100メートル先にさっきの男がまだ立っている。
炎に映し出されたその顔には、サディスティックな笑いが浮かんでいた。
奈美の体に怒りが沸き上がってくる。
男は嘲笑を奈美に残すと倉庫から飛び降りた。
「まて!」
奈美の足が本能的に地面を蹴った。
逃げる男を追って、奈美は暗闇の中を疾走した。
犯人はこの闇の先にいる。
奈美の勘がそう教えていた。
その時、耳をつんざく音が奈美の体を貫いた。危険が奈美の体を急速に反転させる。その脇を何かが走り抜けた。
その後ろにあったフォークリフトがいきなり爆発した。
「なに!?」
奈美の本能が敵の危険性を教えている。
奈美は地面に伏せ、じっと相手の出方を待った。しかし、その後敵からの攻撃は続かなかった。闇の奥は静まり返っている。
「逃げたの…?」
奈美はゆっくり立ち上がり、闇の奥をじっと見つめていた。
4
局長室は重く沈んでいた。
あの捕り物が不発に終わっただけでなく、優秀な捜査員を多数失ったからだ。
剣持は沈痛な面もちで、窓から青い空を眺めていた。秋の気配も近い真っ青な空だ。
「ふー…」
何度目のため息であろう。
ここ連日、いやな報告ばかり聞く。
有力な情報が入っても、踏み込めば空振りであったり、あるいは潜入させた捜査員が行方不明になり、しばらくして遺体で発見されたり、いいことは何一つなかった。
「ふ~…」
また、ため息が出る。
そこへいきなりドアが押し開かれた。
入ってきたのは伊達であった。
「局長!」
剣持の頭にいやな予感がよぎった。
「例の情報提供者が遺体で見つかりました。」
「…」
剣持は言葉も出なかった。
組織の情報を流してくれる提供者が何者かにさらわれた。必死に行方を探したが、結果は最悪であった。
「ふ~」
深いため息が剣持の老いを深めていくようだ。
「局長…」
伊達は剣持の顔をじっと見つめ、何かを口にしようとした。それを剣持の右手が制した。
「伊達、君の言いたいことは分かっている。」
「局長、あえて言わせてください。ここ連日の出来事は異常です。」
「…」
「捜査情報が漏洩しているとしか思えません。」
伊達はズバっと言ってきた。しかし、その言葉に剣持は驚きも、怒りもしなかった。
「局長、これはー」
「伊達!落ち着け。」
剣持は伊達の言葉を遮った。
「私は捜査員を信じたい。」
「しかし…」
「疑えばきりがないぞ。君さえも疑わねばならない。」
伊達は剣持の言葉に息を飲んだ。
「疑心暗鬼は組織の崩壊を生む。今はむやみに疑いを抱くな。わかったな。」
剣持は伊達を鋭く睨んだ。
「わかったら捜査を続けろ。」
うむを言わせぬ迫力に伊達は素直に頷いた。敬礼すると局長室から出て行った。伊達が出て行ったドアを見つめながら、剣持は再び深いため息をついた。
「ああは言ったものの、伊達の言うことも一概に否定できないな。」
窓の外の青空は、剣持の憂鬱を知らぬように澄み切っていた。
剣持と同じ青空を奈美も神社の境内の中で見上げていた。
住宅街にひっそり佇む小さな神社だ。
それでも鳥居と社殿はちゃんとある。奈美はその社殿に備えられた賽銭箱の前に座っていた。学校帰りの制服の姿のままだ。
奈美の心に引っかかっているものは、あの日の光景であった。
夜の倉庫街。
目も眩む閃光と何者も破壊する衝撃。
そして、あの場にいた謎の男。
間違いなく自分と同じ人間。
アーマノイド。
なぜ、あの場にいたのか。
なぜ、自分を狙わなかったのか。
答えの見つからない疑問は、奈美を不安に陥れた。
憑かれたようにその場に座り続ける奈美に、一匹の猫が近寄ってきた。
猫の鳴き声に、奈美は初めてその存在に気づいた。
「あら」
猫はしきりに鳴き続ける。
「どうしたの?おなかがすいてるの?」
奈美は猫の頭に手をやり、柔らかく撫でた。猫もなつくように奈美にすり寄ってきた。
「うふふ、甘えん坊ね。」
奈美は跪いて、猫の体を優しく撫でた。その時、奈美の目の端に人の姿が映った。見ると、社殿の床下に人が横たわっている。
「!」
奈美は急いで、社殿の床下に駆け寄った。
男が苦しそうに唸っている。
「大丈夫?」
奈美は男のそばに近寄った。
額に手を当てるとひどい熱だ。
「大変だわ。」
「だ、大丈夫だ。ほっといてくれ。」
男は苦しい息の下、奈美を突き放すように言った。よく見ると、この間の男だ。
「何いってるの、こんなひどい熱でほっとけるわけないでしょう。」
奈美は半ば強引に男を引っぱり出した。
「お、俺にかまうな。」
男はなおも強気に言った。
「病人は黙って。」
奈美は男を支えながら神社を後にした。その後ろを先程の猫が黙って見送っていた。
奈美は病人を抱えながらとある病院に入った。
受付の所に行き、急患であることを告げると、受付の女の人がすぐに内線で医師と話し始めた。
それを確認して振り返ると、例の男が見あたらない。
「どこへ行ったの?」
奈美は急いで辺りを探し回った。
すると男は苦しそうな格好をしながら病院を出ようとしていた。
「そんな体でどこへ行くつもり。」
「病院はまずい。奴らに見つかる。」
「やっぱり誰かに追われているのね。」
男は急に黙り込んだ。そして、そのまま苦痛に倒れ込んだ。
「仕方ないわね。」
奈美は男を肩で支えるとタクシーを呼んだ。タクシーの向かった先は剣持の屋敷であった。奈美は自分の部屋に男を運ぶと、さっそくベットに寝かせて、洗面器とタオルを用意し、それから剣持に頼んで医者を呼んでもらった。
医者の適切な処置により男は落ち着き、深い眠りについた。
ベットのそばに座って看病する奈美を剣持がドアの外からそっと呼んだ。
「すみません、ご迷惑掛けて。」
「いや、それはいいんだが、何者なんだ彼は?」
「わかりません。数日前変な男達に追われたのを助けたのですが…」
「変な男達?」
「どうしても見過ごすことができなかったものですから、すみません。」
奈美は再び剣持に頭を下げた。剣持はそんな奈美に微笑みながら肩に手をやった。
「気にすることはない。奈美の性格ではしょうがないだろう。」
そう言って剣持は自分の部屋に去っていった。
奈美はもう一度頭を下げた。
5
一晩経つと男の熱も下がり、医者からも大丈夫の言葉を貰うと、奈美は一安心した。
静かな寝息をたてて眠っている男をベットの傍らで見守っていると、ふと自分の行為におかしさを感じてくる。
(赤の他人のこの人になんでここまで親身になるんだろう。)
そんな疑問を心の奥で感じていると、男が軽い呻き声を上げ、目をうっすらと開けた。
「どう?気分は。」
男に微笑みかける奈美の顔を見て、男は戸惑った。
「ここは?」
「私の部屋。」
「君の部屋?」
「そう、熱で倒れたあなたをここまで運んだのよ。大変だったんだから。」
男は見知らぬ部屋を見渡しながら、記憶をたどるそぶりを見せた。そして、何か思い当たったのか急に起きあがろうとした。
「まだ、ダメ。熱が下がったばかりなんだから。」
奈美は起きあがろうとする男をベットに押さえつけ、とがめるような顔をして言った。
「いや、行かなくては。」
男は奈美の静止を振り切って起きあがろうとしたが、体に力が入らないのか、ベットに再び倒れ込んだ。
「ほら、ごらんなさい。まだ、無理なのよ。」
奈美は乱れた布団を直して男にかけると、そばにあった果物籠からリンゴを一個取りだした。そして、果物ナイフでそれを器用にむきだした。
「二・三日は安静にしてなさいってお医者さんも言ってたわ。」
「なぜ、俺にかまう。」
「さあ、なぜでしょうね。私ってお節介なのかな。」
奈美はむいたリンゴを皿に乗せ、男のそばにおいた。男は奈美のそんな行為にそっぽを向いた。
「確かにお節介だな。」
男はぶっきらぼうに言った。
「フフ、ところであなた、名前はなんて言うの。」
しかし、男はそっぽを向いたまま、奈美の質問に答えようとはしなかった。
「助けてあげたのに名前も教えてくれないの。」
「……」
「いいわ。じゃあ、名無しの権兵衛さんでいいわね。」
「……」
男は相変わらず無言を続けた。
「権兵衛さん。あなた、組織に追われているでしょう。」
奈美の不意の発言に男の目が見開かれた。
「なぜ、それを?」
男が奈美の方に体を向けた。
「組織の表の名はアルフィス・エンタープライズ。」
「そこまで知っているお前は何者だ。」
男が身を起こした。
「一条奈美、またの名はA7」
「お前がA7?」
男は奈美の顔をじっと見つめた。
「さあ、ここまで言ったんだから、あなたのこともしゃべって貰うわよ。権兵衛さん。」
「しゃべってもいいが、一つ条件がある。」
「条件?」
「そうだ。その条件を飲んでくれれば俺の知っていることは全部しゃべろう。」
「その条件って。」
「俺の身の安全。」
「いいわ。私があなたの身を守ってあげる。」
奈美はこともなげに言った。そのあまりに簡単な承諾に男は面食らった。
「そんな安請け合いをしていいのか。相手は…」
「あなたは私がアーマノイドだと知っているんでしょう。」
「ああ」
「だったら、安心したら。」
奈美のあまりに素直な言い分に男はしばらく言葉が出なかった。やがて、口元に笑みを浮かべると手を差し出した。
「わかった。任せよう。俺の名は川端・川端剛。」
「よろしく。」
奈美は差し出された手を強く握った。
川端の申し出はすぐに剣持に伝えられた。
そして、翌日、剣持の部屋で奈美と陽子を交えて会談がもたれた。
「君は組織から逃げ出してきたのか。」
「ああ、ちょっとした失敗を理由に俺を抹殺しようとしたから隙を見て逃げ出したんだ。」
川端はソファの端に座り、剣持や奈美達を交互に見ながら話した。
「よく逃げ出したな。」
「ふふ、運も良かったな。丁度、アーマノイド達も他の任務で出払っていたし、万一のために前々から準備はしていたんだ。」
そう言いながら川端はチラッと奈美を見た。
「それで君が持っている情報というのは?」
「その前にもう一度確認させてくれ。俺の身の安全は保障するんだな。」
川端の目におびえが色濃く現れた。
「それはもちろんだ。」
剣持の自信に溢れた力強い言葉に、川端も安心したように一息ついた。
「じゃあ、俺も情報を出そう。」
剣持が身を乗り出した。
「俺は組織が計画している“マリオネット計画”の全容を記録したMO(光磁気ディスク)を持っている。」
「マリオネット計画の…」
思いがけない情報に奈美と陽子は一斉に叫んだ。
「ああ、それだけじゃあない。アーマノイドの研究データもある。」
「アーマノイドの…」
奈美の目が見開かれた。
「それはどこに?」
陽子が急かすように聞いた。
「いや、今はまだ教えられない。俺の身の安全が確実に保証された段階で教える。」
「ギブアンドテイクか。」
剣持の敵意も籠もった言葉に川端は口の端を釣り上げた。
「当然だろう。教えた後でハイ、さよならはいただけないからな。」
「私達をまだ信用してないの。」
奈美が怒りを込めて川端を非難した。それを剣持は制した。
「しかたなかろう。君の言うとおりにしよう。」
「ありがとう。」
勝ち誇った目をして川端は頭を下げた。
「しばらくはこの屋敷に滞在し、機会をみて安全な隠れ家に移って貰う。」
「結構だ。じゃあ、その時MOの在処を教える。」
「取引成立だな。吸うかね。」
剣持はタバコケースを川端の前に差し出した。
「いや、まだ体が本調子でないのでね。」
川端は剣持の勧めを遠慮すると、すぐに立ち上がった。しかし、病み上がりのせいで足元が少しふらついた。それを見て、奈美がすぐに肩を貸した。
「悪いな。」
「気にすることはないわ。」
二人は連れだって部屋を出た。後には剣持と陽子が残った。
剣持はタバコケースからタバコ一本取り出し、それに火を点けて一服吸った。
「信用できるでしょうか。」
陽子が早速切り出した。
「信用するしかないだろう。」
天井に煙を吐きながら剣持は苦渋の表情をした。
「しかし…」
「手詰まりの今の状況ではこれに賭けてみるしかない。警備の方を頼むぞ。」
「判りました。」
陽子はすぐに部屋を出ていった。後に残った剣持は火のついたタバコを指の間に挟んだまましばらく窓の外を見ていた。
6
そんな会話が剣持の部屋であってから数日後、剣持の屋敷から1台の黒塗りのセドリックが発車しようとしていた。
運転手の他、3人の男に囲まれて一人の男がセドリックに乗り込んだ。
川端を安全な場所に移動させようとしているのだ。
セドリックは5人の男を乗せると、すぐに発進した。
その後には2台の、やはり黒塗りのセドリックが随行した。
後の一台が前を先行し、川端を乗せたセドリックを同型の車が挟む形で、そのまま北に向かった。
その間、見えないところで前後が交替をしながら、川端を乗せたセドリックを特定させない工夫をして1時間ほど走っていたときであった。
前方で警察官が赤い棒を激しく振っていた。
前を走っていたセドリックは、ブレーキを踏み、警察官の前で停まった。
警察官はすぐに近づき、窓をコツコツと叩く。
運転手はすぐに窓を開け、警察官を見上げた。
「すみません。この先で事故がありまして、迂回していただけますか。」
見ると、乗用車と軽ワゴンが接触している。
運転手は、舌打ちをしながら、指示された方向へハンドルを切った。
後からついてきたセドリックにも、警察官が同様のこと告げている。
前の車について、迂回路に入っていった。
しばらく走行しているうちに、運転手がうしろから大型トラックがついてくるのに気づいた。
さっきまでいなかった車両だ。
ちょっと気がかりに思っていると、前方にいきなり大型トラックが横付けした。
運転手は急いでブレーキを踏み、衝突を回避しようとハンドルを切って、トラックの目の前で急停車した。続く二台も甲高いブレーキ音とともに急停車した。
しかし、その後からついてきた大型トラックはブレーキを踏むどころか、スピードを上げて突っ込んできた。
「あぶない!」
そう叫んだとき、最後尾のセドリックに大型トラックが撃突した。
すさまじい衝撃音とともにセドリックは、変な形にひしゃげたまま前方に吹っ飛んだ。そして、まさしく玉突きのように3台のセドリックが次々衝突していった。
土埃が舞い上がり、ガラス片と金属片がそこら中に飛び散った。
先頭の一台から窓を蹴破って、一人出てきた。
服の所々がやぶれ、頭から血を流している。
「だいじょうぶか!?」
男は中にいる者に呼びかけ、脱出を手助けしようとした。
そのとき、トラックから二人の男が降りてきた。
姿形は土木現場にいる輩の格好だ。しかし、明らかに違うところがあった。
手にイングラムが握られているのだ。
「!」
男が気がついたとき、イングラムの銃口が火を吐いた。
男の全身に弾痕が築かれ、そのまま後に吹き飛んだ。
「くそ!」
つぶれたセドリックに乗っていた男達が、一斉に銃を抜いた。
割れた窓ガラスからトラックの男達に向かって、引き金を引いた。
たちまちトラックとセドリックの間で銃撃戦が始まった。
そのとき、前方で横付けされていたトラックの荷台から人影が立ち上がった。
筋肉隆々の大男だ。
その両手にはバルカン砲がしっかりと握られていた。
「死ね!」
バルカン砲が高速で回転したかと思うと、甲高い回転音と重厚な発射音の二重奏を伴った激しい銃撃がセドリックの上に降り注いだ。
セドリックは次々と大穴を開け、中にいる男達は絶叫とのろいの言葉を吐きながら、血塗れになっていった。
数分で絶叫は止み、それと同時にバルカン砲の回転も止んだ。
イングラムを握った男達がセドリックの中を覗き込んだ。
全ての男が血塗れになって死んでいる。
大男もバルカンを荷台に置き、ベレッタを抜いて荷台から飛び降りた。
覗き込んだセドリックの中に呻き声を上げている者がいた。
手を伸ばし、助けを求めようとしたとき、大男のベレッタが火を吹いた。
その男はそのまま動かなくなった。
「おい、違うぞ。」
一人が叫んだ。
つぶれたセドリックに閉じこめられている死体を指差している。
仲間が急いで駆けつけ、中を覗くと異口同音に呻いた。
「おとりか。」
吐き捨てるように言うと、大男はセドリックを蹴った。
7
セドリックが襲撃を受けていた頃、剣持の屋敷からアベックが出てきた。
男は茶色に染めた頭にニットの帽子をかぶり、紺のジャンパーに薄汚れたジーパンをはき、女の子は真っ赤に染めた髪に、丸いサングラスをかけ、Gジャンにこれも真っ赤なミニスカートをはいて、傍目にみても目立つ格好のアベックであった。
腕を組んで、楽しそうに歩くそのアベックは、表通りに出るとタクシーを停めた。すぐにそれに乗り込むと、女の子がある場所を告げた。
タクシーは表通りを東へと向かった。
タクシーの中で男がホッと溜息をついて、ニットの帽子を脱いだ。女の子もサングラスをとって、後を振り向いた。
派手な格好に派手な化粧はされていたが、その女の子は紛れもなく奈美であった。
隣でシートに背中を預けて、帽子で自分を仰いでいるのは川端であった。
「どうやら、後をつけている人はいないみたいね。」
奈美は前を向いて、運転手に話しかけた。
ルームミラー越しに見えるその運転手の顔は、陽子であった。
「作戦は成功したみたいね。」
ルームミラーの中で陽子が笑った。
「おとりになった人たちは大丈夫かしら?」
奈美は心配そうな顔をした。それを見た陽子は努めて明るい笑顔を送った。
「大丈夫よ。かれらも屈強な捜査員よ。そう簡単にやられはしないわ。」
「そうですよね。」
奈美も笑顔を向けたが、彼女らはおとりになった者たちが全員、殺害されたことをまだ知らない。
「奈美、それより周りを十分警戒してね。到着するまでは安心できないわ。」
「はい。」
奈美は全身の神経を集中して、周りを警戒した。
タクシーはスムーズに走行を続けた。追ってくる者も待ち伏せも今のところはなかった。
タクシーは時に北に、時に西にとその進路をしょっちゅう変えた。追っ手がいないか確かめるのもそうだが、その進路を容易に見破られないためでもあった。
やがて、タクシーは都会を離れ、2時間ほど走行した後、とある別荘にたどり着いた。遠くから海鳴りが聞こえる。
海岸沿いのようだ。
「さっ、着いたわ。」
陽子は早速、タクシーを降りると、トランクを開けた。
奈美と川端が続いて降り、川端は周りを見渡した。
松林に囲まれた閑静な別荘地であった。
「ここかい。」
川端は別荘の建物を見上げてつぶやいた。
「そうよ。町から離れているし、あまり知られていないところよ。」
陽子はトランクから荷物を出すと、それを担いで別荘に入っていった。
奈美もその後に続き、川端が最後に別荘に入った。
多少広めの玄関に、無造作に靴を脱いであがった三人は、短い廊下を抜けてひときわ広いリビングに腰を落ち着けた。
川端はソファに腰を沈め、早速たばこを吸い始めた。
奈美は庭に出ると、大きくのびをした。
「うわ、海がきれい。」
奈美の目の前には青い海原が広がっていた。
「奈美、遊びに来た訳じゃあないんだから、あまりはしゃがないで。」
陽子は笑顔を向けながら奈美に注意した。
「ところでいつまでここにいるんだい。」
川端がぶっきらぼうに尋ねた。
陽子は振り返ると、川端の前に座った。
「当分の間。いつまでになるかはわからないわ。」
「本当に大丈夫なんだろうな。」
川端は疑わしそうな目で陽子を見つめた。
「安心して。局でも腕利きが護衛についているんだから。」
「あんたがそうだというのかい。」
川端の口に嘲笑が浮かんだ。
「私もそうだし、彼女もそうよ。」
そう言って陽子は奈美の方に顔を向けた。
「ふっ」
川端は自嘲気味に外に目をやった。
「ところでMOはどこにあるの?」
「それはまだ、教えられないな。」
「まだ、安心できないの。」
「経験上警戒しすぎるということはないのでね。」
そう言うと川端は立ち上がった。
「どこへ行くの?」
「トイレさ。ついてくるかい?」
川端の薄ら笑いに陽子は顔を背けた。
川端がリビングから出て行くと、陽子は外の奈美をちらりと見たあと、二階へ続く階段を上っていった。
トイレから戻った川端は、陽子のいないことに特別気にもかけず、奈美のいる庭に出た。
「いい天気だな。」
突然、後ろから声をかけられ、奈美はびっくりして後ろを振り返った。
「あ、川端さん。」
奈美の横に立つと、川端はまぶしそうに手をかざして海を見た。
奈美ももう一度海を眺めた。
「あんた、アーマノイドでいることを怖いと感じたことはないのかね。」
いきなりの質問に奈美は戸惑った。
「どういう意味です?」
奈美は不審そうな目で川端を見つめた。
「いや、普通の人間とはぜんぜん違う力を持って怖くはないのかなと思ってね。」
「そうね。はじめはとてもいやだったわ。でも、最近はなんとなく受け入れるようになって来た。」
「受け入れる?」
川端は不思議そうな顔をして奈美を見つめた。
「自分がなぜ、こんな力を持っているのか、最初はわからず、不安で、怖くて、なぜ自分だけがと思ったわ。今でも、その気持ちはあるんだけど、でもこんな力でも役に立つことがあるんじゃないかと思うようになったの。」
「役に立つか?組織に見捨てられた俺には遠い過去の言葉だな。」
川端はその視線を水平線のかなたに移した。何もないその先を見るかのように。
しばらく沈黙が流れた。
その沈黙を川端が不意に破った。
「おまえさん、自分のことが知りたいか?」
川端の唐突な言葉は奈美の目の色を変えた。
「それどういう意味?あなた、私の過去を知っているの。」
奈美は今にも川端に掴みかからんかのような勢いで、川端に質問をぶつけた。川端も奈美の勢いにたじろぐ様子を見せながら、口元に薄笑いを浮かべてその場を立ち去ろうとした。
その後を追う奈美は、川端の肩に手をかけ、引きとめようとした。
「まって、私の質問に答えて。あなた、私の事を知っているの?」
「知っているといったらどうする。」
「教えて。」
奈美の真剣な目つきに、川端の薄笑いも消えた。
「お願い、教えて。」
「知ることがすべていい事とは限らないぜ。知らなくていい事も世の中にはある。」
「それ、どういう意味?」
奈美はいぶかしんだ。
「すべてのカードをさらけ出すほど、俺はお人好しじゃあないぜ。」
そういうと川端は二階に上がっていった。それと行き違いに陽子が二階から降りてきた。
「どうしたの?」
「なんでもないわ。」
奈美は再び海のほうへ目を向けた。