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四、ブービートラップ

        1

 部屋の中を甘美な音楽が流れていた。史郎はイスに背を預けながら、その音楽に身を委ねていた。

 その甘美な音の世界に酔っている史郎の表情は、日頃見せる冷徹な顔とは打って変わって幸福そのものであった。

 しかし、その表情も長くは続かなかった。部屋に入って来た樫村に気づくと、途端にいつもの冷徹な表情に戻る史郎であった。

 「コーヒーをお持ちしました。」

 樫村はそう言うと、ほのかに湯気が立っているカップを机の上に置いた。

 「うむ、ありがとう。」

 史郎はすぐにカップを取り、一口飲んだ。

 「マーラーですわね。」

 「うむ、第九シンフォニーの第一楽章だよ。」

 史郎は樫村の顔は見ず、遠くを見る目つきで答えた。

 「室長、どうなさるんですか?」

 「ン?何をかね?」

 史郎は樫村の突然の問いに、その意味が図りかねるような顔をして樫村の方へ初めて顔を向けた。

 「A7の事です。ローレライも倒された今、また、新しい刺客を送りますか。」

 「ああ、その事か。いや、当分こちらから特別に仕掛ける事はしないつもりだ。」

 「ほっとくのですか。それでは、計画に支障を来しませんか。」

 「一人の少女で崩れるほど、脆い計画ではないよ。樫村君。」

 そう言いながら、史郎はまたコーヒーを一口飲んだ。

 「それはそうですが、しかし、捜査局が動いているという情報も入ってますし…」

 樫村は史郎の背中を見つめながら、不安そうに言った。

 突然、史郎が立ち上がり、ステレオのスイッチを切った。途端に甘美な音の世界は消え、冷めた静寂が部屋の中に広がった。

 「心配することはない。こちらから動かなくとも、向こうの方からこちらに来る。」

 史郎は樫村の方に振り向きながら言った。

 「と、申しますと…」

 「エサは撒いた。それに釣られて獲物が飛びつく。そして、その獲物にまた別の獲物が引き寄せられる。」

 謎めいた事を言うと、史郎は例の凍りつくような笑みを見せた。それを見て、樫村の背中に悪寒が走った。

 「何も心配せず、君は計画の推進の方へ力を入れてくれたまえ。」

 「はい。」

 史郎は樫村の肩を軽く叩くと、ドアへ向かった。ドアのノブに手を掛け、ドアを開けようとした時、史郎は突然、樫村の方へ振り向いた。

「樫村君、A7は何という名前だったかな。」

 樫村は史郎の唐突な問いに、一瞬戸惑った。

 「確か、一条 奈美と言う名前でした。」

 「一条 奈美か。いい名前だな。私は研究所に行って来る。連絡があればそちらにしてくれ。」

 そう言い残すと、史郎は部屋から静かに出ていった。

 一人残された樫村は、しばらくその場を動こうとはしなかった。

        2

 夜のビルの中は、昼の喧噪とは打って変わって、不気味なほど静まり返っている。

 深夜二時。

 アルフィス・エンタープライズ本社ビル内。

 廊下を動く物は何一つなく、月明かりだけが青白い光を窓から投げかけていた。

 その無人の廊下の中を、唯一駆け抜ける影があった。

 陽子であった。

 全身を黒のレザースーツで包み、暗闇の中を疾走するその姿は、さながら黒豹のようであった。

 秘密裏に入手したビル内の見取り図を懐から取り出し、それを口にくわえたペンライトのか細い光で照らして見ながら、陽子は心配そうに自分を見ていた奈美の顔を思い出していた。

 時は数日前に遡る。

 「アルフィス・エンタープライズか。」

 そうつぶやいた後、剣持は腕を組んだまま石像のように黙り込んだ。

 陽子と奈美は、そんな剣持の姿を黙って眺めていた。

 西日の強い光が剣持の部屋全体に溢れかえっている。その光が部屋の音を吸い取ったかのように静寂が続いていた。

 突然、陽子がその静寂を破った。

 「行かせてください。局長!」

 「しかし、危険が大きすぎる。」

 「危険は承知の上です。せっかく、奈美が手に入れてくれた手がかりです。無駄にはしたくない。」

 陽子はそう捲し立てると、すぐ横にいる奈美の顔を見てニッコリと微笑んだ。

 しかし、奈美は陽子の笑顔にも心配そうな顔を崩さなかった。

 「局長、今やらなければ奴らの計画をつぶすことは出来なくなるんですよ。」

 再び、剣持の方に顔を向けた陽子は、剣持を押し倒さんばかりに身を乗り出した。

 「確かに陽子君の言うことはもっともだ。しかし、だからといって、単身あのビルに潜入するというのはどう考えても…」

 「奴らの計画の全貌を知り、一網打尽にするためには、絶対的な証拠がいります。そのためにも敵の本拠地に乗り込むことが必要なんです。」

 「敵もおいそれとは証拠を掴ませてくれまい。見つかれば命の保証はないぞ。」

 その言葉に奈美が敏感に反応した。

 「陽子さん、やめて。敵は恐ろしい力を持っているわ。陽子さんの身にもしものことがあったら。」

 「ありがとう、奈美。でもね、これは誰かがやらなくちゃならないことなの。」

 「なら、私がやります。」

 奈美は、訴えるように剣持を見つめた。

 「奈美、これ以上あなたの手を汚したくないのよ。」

 陽子は奈美の両肩を掴むと、自分の方に引き寄せた。

 「ここから先は私たちに任せなさい。」

 「陽子さん。」

 「それにこういうことは、あなたより私の方が手慣れているわ。」

 陽子は奈美にウィンクしてみせると、改めて剣持に向かった。

 「局長、命令をください。」

 その目には、動かしがたい堅い決意が現れていた。

 剣持はあきらめたようなため息を一つついた。

 「わかった。陽子君、頼む。但し、くれぐれも慎重にな。」

 「わかりました。」

 予期せぬ物音が回想を打ち破った。

 陽子は現実にかえった。

 全身に緊張が走る。

 目と耳に全神経を集中させて、その物音を探った。

 数秒が数時間に感じられる時の流れの中で陽子は、暗闇に覆われた廊下の先を見つめた。

 やがて、危険がないことを確信した陽子は、再び見取り図に目をやり、目指す部屋を確認し、そこへ向かった。

 あたかも地獄に続く回廊を思わせるような長い廊下を、陽子は躊躇することなく先に進んだ。

 目指す部屋はこの廊下の突き当たりにあるはずであった。

 一歩一歩慎重に進む陽子には、目指す部屋までの道のりが何キロにも感じられた。

 しかし、その長く感じられる道のりもついには踏破し、陽子は目指す部屋の前に立った。

 ドアには『事業推進室長室』というプレートが掲げてあった。

 陽子は身をかがめると、懐から先の曲がった針金を一本取り出した。それを鍵穴に差し込むと、しばらくの間その針金を動かし続けた。

 やがて、カチッという音と共に針金の動きが止まった。

 陽子は針金を懐にしまうと、ドアノブに軽く手を掛け、ドアを静かに開けた。もう一度辺りの気配を確かめ、滑り込むように侵入した。

 中も廊下同様に闇に覆われ、窓から差す月明かりと街のネオンだけが一角にか弱い光を投げかけていた。

陽子は後ろ手にドアを閉めると、目の前にあるデスクに駆け寄った。

 デスクの上にあるパソコンのスイッチを入れると、用意したフロッピーディスクをそれに挿入し、急いでキーボードを叩き始めた。

 モニターに次々と文字が表示され、その都度陽子の指はキーボードの上を駆け回った。やがて、モニターにキーワードの入力を指示する表示が現れた。それに合わせて陽子がキーボードを操作すると、しばらくの沈黙の後、モニターに次から次へと情報が表示され始めた。

 次々と表示される情報を見て、陽子の目が輝きだした。

 「これだわ。」

 そこには催眠音波による人格操作の方法、その効果、装置の搬出先、そして、最後には人格操作された人間をを使ったクーデター計画もあった。その計画名は‘マリオネット計画’。

 「なるほど、人格操作によって学生たちを自分達の意のままに動く人形にしたてて、クーデターの手兵にしようとしたのね。マリオネット計画とはよく言ったものだわ。」

 陽子はパソコンに挿入してあるフロッピーディスクを抜くと、別のフロッピーディスクを取り出し、差込口に挿入した。

 そして、再びキーボードを叩くと、その情報のコピーを録り始めた。

 パソコンのデータが次々とフロッピーに流れていく。陽子はそれを半ばイライラしながら見ていた。

 それが陽子の隙を作った。

 懐中電灯の光が、ドアの下の隙間から洩れているのに全く気がつかなかったのだ。

 ドアが静かに押し開かれていく。

 懐中電灯の光の輪が、突然陽子を包んだ。

 陽子は愕然としてその方向に目を向けた。

 ドアが目一杯に開放されており、その前に一人の男が立っていた。

 急に部屋の中が明るくなった。

 男が蛍光灯のスイッチを入れたのだ。

 蛍光灯の明かりが一瞬、陽子の目を眩ませた。

 やがて、明かりに目が慣れるにしたがい、男の姿が陽子の目に映し出された。

 ドアの四角い空間の中に、警備員とはっきりとわかる服装で男が立っていた。ただ、普通の警備員と違うのは、その手にS&Wのチーフスペシャルが握られている事だ。

 「手を挙げて、ゆっくり立て。」

 言葉の端に緊張感が読みとれる。しかし、チーフスペシャルの銃口はまっすぐ陽子の心臓を狙っていた。

 言われるまま陽子はゆっくり立ち上がった。

 「そこで何をしていた。」

 矢継ぎ早の質問に陽子は無言で答えた。

 「だんまりか。」

 警備員はゆっくりとオフィスの中に入ってきた。そして、陽子のそばにあるパソコンが起動している事に気づいた。

 「コンピューターを使って何をしていた。」

 しかし、陽子は黙秘を続けた。

 「データを盗んでいたのか。」

 警備員はするどくついてきた。

 「それをこちらに渡せ。」

 警備員は命令調で言った。

 陽子はチラッとパソコンの方に視線を投げたが、それ以上は何も行動しようとはしなかった。

 突然、チーフスペシャルが火を吹いた。

 弾が陽子の頬を掠める。

 陽子の白い頬から赤い血が滲み出すのを見て、警備員の口元に薄笑いが浮かんだ。

 「さっさと渡さないと、次はおまえの美しい顔の真ん中に穴があくことになるぞ。」

 そう言うと、警備員は銃口を陽子の額に向けた。

 陽子はゆっくりとパソコンに手を伸ばすと、差込口からフロッピーを取り出し、それを目の前に(かざ)した。

 「さっさと渡せ。」

 警備員は多少ヒステリックな態度で、フロッピーを陽子の手からもぎ取ろうとした。その手がフロッピーに掛かる瞬間、陽子はフロッピーを遠くへ放り投げた。

 警備員の視線がフロッピーを追って、陽子から離れた。

 それに呼応するかのように、陽子の体が横に飛んだ。

 床を転がりながら、陽子の右手は腰に装着したPPKを握っていた。

 警備員の視線が陽子に戻り、チーフスペシャルのトリッガーを引くのと、陽子のPPKが火を吹くのがほぼ同時であった。

 狭い部屋に二つの銃声が折り重なった。

 二人はお互いを見つめながら、しばらく人形のように静止していた。

 やがて、男の顔が苦痛に歪み、それと同時にその胸が真っ赤に染まり始めた。男は膝からゆっくりと崩れ落ち、そのまま動かなくなった。

 陽子はゆっくりと立ち上がると、死体と化した警備員には目もくれず、落ちているフロッピーを急いで拾い上げた。

        3

 フロッピーを拾い上げた陽子は、急いでその部屋を出た。

 ぐずぐずしている暇はない。

 銃声を聞きつけて、他の警備員があがってくる。見つかれば厄介なことになる。

 陽子は階段に着くと、一気に駆け下りた。

 その時、踊り場に不意に警備員が姿を現した。

 突然のことに警備員の動きが一瞬止まった。その機を逃さず、陽子は階段から飛び降りた。

 警備員がホルスターに手を掛けたとき、陽子の足が警備員の顔面にヒットした。警備員は銃を抜く暇もなく、廊下の方へ吹き飛んでいった。

 陽子は警備員の方へは目もくれず、再び階段を駆け下りた。

 非常ベルが鳴り出した。

 死体に気づいたのか。

 陽子は急いだ。

 幸い再び警備員には出会わず、陽子は無事地下駐車場にたどり着いた。

 面倒な事にならない内に、この場を逃げ出したかった。

 陽子は停めてあったフェアレディに駆け寄り、ドアに手を掛けた。その時、陽子の背中を異様な気配が貫いた。

 振り向くと、五メートルほどのところに岩が立っていた。

 いや、岩のような人間であった。

 身長は二メートルはあろうか。

 黒光りする肉の塊をモスグリーンのTシャツに押し込んで、その男は立っていた。短く刈り込んだ頭の下にはギラギラ輝く二つの目があり、その目が陽子を舐めるように見ながら笑っていた。

 「だれ!?」

 陽子は思わず、腰からPPKを引き抜いた。

 「フフフ…」

 巨人は何も答えず、不気味な笑いをしながら陽子に近づいた。

 不意に陽子はフェアレディのドアを開けると、素早くそれに乗り込み、エンジンキーを回した。たちまち、場内にフェアレディの甲高いエンジン音が鳴り響いた。

 陽子はギアをローに入れると、思いっきりアクセルを踏んだ。

 タイヤが鳴り、フェアレディは弾丸のように飛び出すかと思えた。しかし、フェアレディは一向に前に進もうとはしなかった。

 思わず陽子は後ろを振り向いた。

 リアウィンドに二つの光る目があった。

 巨人の黒い顔がガラスに貼り付いている。

 陽子の背筋に冷たいものが走った。

 巨人は二本の腕でフェアレディのバンパーを握り、その発進を強引に停めていたのだ。

 「くそ!」

 陽子はアクセルを床に着くまで踏んだ。

 タイヤとコンクリートとの摩擦音が悲鳴のように場内に木霊した。それでもなお、フェアレディは前に進もうとはしなかった。

 「エエイ!」

 陽子はギアをバックに入れた。

 途端にフェアレディは急激なバックを始めた。

 突然のバックに巨人はそれを押し戻す間もなく、後部にしがみついたままフェアレディと一緒に後進した。

 フェアレディを停めようと、巨人の腕と足に力が入った。

 巨人の黒のブーツがコンクリートの床を削る。

 しかし、それも長くは続かなかった。

 駐車場に立っている柱がすぐ後ろに迫っていたのだ。

 ズンという鈍い衝撃がフェアレディと陽子の体を貫いた。巨人はフェアレディと柱の間に挟まれぐったりとなった。

 普通の人間なら即死の状態である。

 巨人も動く気配はない。

 陽子は安心したかのように一つ息を吐くと、ギアをローに入れた。そして、何気なくルームミラーに目をやった。

 その時、ミラーの中に二つの光る目が映った。

 陽子の顔が一瞬凍りついた。

 巨人がまだ生きている。

 しかも、何もなかったかのようにミラーの中で笑っているのだ。

 恐怖が走った。

 と同時に、陽子の右足は思いっきりアクセルを踏んでいた。

 フェアレディが咆哮とともに急発進した。

 ミラーの中の巨人はどんどん後方に去っていく。

 追いかけてくる気配はなかった。

 陽子はヘッドライトを点けると、出口へ急いだ。

 出口が見えて陽子が一安心した時、ヘッドライトの光輪の中に人影が現れた。

陽子がブレーキを踏むのと同時に、人影からすさまじい衝撃音が響いた。次の瞬間、フェアレディの左前輪が吹き飛んだ。

 途端にフェアレディはスピンし、駐車場の壁面に激突していった。

 陽子は激突する寸前、フェアレディから飛び降り、コンクリートの床を転がりながら出口へ向かおうとした。

 そこへ、先程の人影が立ちはだかった。

 陽子はすぐさま腰のPPKに手を掛けたとき、再び衝撃音が駐車場の中を走った。と同時に陽子の鳩尾を鋭い衝撃が貫いた。

 「グッ!」

 陽子の膝が折れ、陽子はコンクリートの床に崩れ落ちた。遠のく意識の中で、陽子の耳に二人の男の声が響いた。

 「殺ったのか?」

 「いや、気絶させただけだ。大事なエサだからな。」

 「そうか。フフフ…」

 二人の男の笑い声を耳に残して、陽子は気を失った。

        4

 奈美は漆黒に染まった庭を窓越しに見ながら、陽子の帰りを待っていた。

 陽子から連絡があってから、すでに四時間が経っていた。

 今、奈美の胸の中には不安が渦巻いていた。敵に見つかったのでは。陽子の身に異変が起きたのでは。

 不安は奈美の胸に涌いては消えていった。

 「何もなければいいけど。」

 奈美はため息をつきながら空を見上げた。

 月はいつの間にか雲間に隠れ、漆黒の闇は天上全体に広がっていた。それは奈美の心の中を表しているようでもあった。

 時計が一時を告げた。

 屋敷の中は静寂の塊であった。

 奈美は不安を胸に部屋に戻ろうとした。

 その時、甲高い音が奈美の耳に響いた。

 金属を切断するようなその音に、奈美は思わず耳を塞いだ。しかし、その不快音は耳を塞ぐ手を通して、頭の中に直接響いた。

 〈A7…〉

 奈美を呼ぶ声が聞こえた。

 「だれ?」

 奈美は辺りを見回した。

 〈A7、聞コエルカ?〉

 「誰なの?」

 奈美の目が窓に止まった。

 奈美は窓に駆け寄ると、それを押し開いた。

 「どこにいるの!?」

 奈美は漆黒の闇の中を探った。

 〈オ前ナラ、見エル筈ダ。〉

 奈美は目を凝らした。すると、遠方の闇の中に一台の車が浮かんできた。

 〈ドウヤラ見ツケタヨウダナ。〉

 「誰なの?」

 〈フフフ…、普通ノ人間ニハ聞コエヌ、コノ超音波ノ声ガ聞コエルトユウ事ハ、オ前ノ‘アーマノイド’トシテノ能力モ、カナリレベルアップシタヨウダナ。〉

 「私に何の用?」

 〈女ハ預カッタ。〉

 「エッ!?」

 〈返シテホシケレバ、明日ノ夜一時、‘アルフィスエンタープライズ’ノ研究所マデ一人デ来イ。〉

 「研究所?」

 〈持ッテルゾ、A7。〉

 超音波の声が突然途切れた。と同時に、エンジン音が遠方の闇の中から響いてきた。

 「あっ、待て!」

 奈美は窓から飛び出し、エンジン音のする方向へ走った。しかし、エンジン音は見る見る遠ざかっていった。

 奈美は暗闇の中に一人佇み、エンジン音の消えた方向をしばらく見つめていた。

 「陽子さん…」

 そうつぶやく奈美の目は、すでに決意の色に染まっていた。

 それは次の日の夜、行動として現れた。

 屋敷が寝静まった頃を見計らって、奈美は部屋を抜け出し、階段を下りて玄関に向かおうとした。

 その時、奈美は背後に人の気配を感じた。

 振り向くと、そこには剣持が立っていた。

 「剣持さん…」

 「奈美、どこへ行くんだ。」

 「…」

 奈美は思わず目を逸らした。

 「アルフィスエンタープライズか?」

 奈美の肩がかすかに動いた。

 「君は充分戦った。後は我々にまかせなさい。」

 「陽子さんが捕まったんです。助けに行かなければ。」

 「それも我々がやる。君はこの件から身を引いて、普通の少女として普通の人生を送りなさい。」

 「いやです。まだすべてが終わっていないのに、このまま身を引くなんて。」

 「しかし、今の君を見ていると、私はつらくなる。」

 「ありがとうございます。でも、全てを決着させない内は、自分にとっての平穏は来ないと思うのです。」

 「それがどんなにつらい事であってもか?」

 剣持の問いに奈美は無言で頷いた。

 その目は強い決意の炎で彩られていた。

 「そうか…」

 剣持は憂いに満ちたため息をした。

 「これ以上言っても無駄か。」

 「すみません。」

 奈美にも剣持の心根はよくわかっていた。しかし、今や奈美の決意は誰にも変えられなかった。

 「これを持って行きなさい。」

 剣持が渡したのは、ペンダント型の時計であった。

 「これは…?」

 「中に超小型の爆薬が仕込まれている。リューズの部分を引き抜けば、十秒後には爆発する。何かの役に立つだろう。」

 「ありがとうございます。」

 奈美は頭を下げると、そのまま玄関に向かった。

 「奈美、生きて帰ってくるのだぞ。」

 その言葉に奈美は一瞬立ち止まった。しかし、振り返らず、ただ黙って頷くと、そのまま外へ出て行った。

 剣持はしばらくの間、奈美の出て行った玄関を見つめていた。

 「必ず帰ってくるんだぞ。」

        5

 一時間後、奈美はアルフィスエンタープライズの研究所の前に立っていた。

 深夜。

 空には星一つ見えず、漆黒の闇の中に研究所の白い建物が墓石のようにそびえ立っていた。

 ゲートを乗り越えると、奈美はまっすぐ建物へと向かった。

 静かであった。

 何もかもが死んだように静かであった。

 奈美は不安と期待を胸に、建物の入り口に近づいた。

 ドアに手を掛けると、鍵はかかっておらず素直に奈美を受け入れた。白いタイル張りのホールが奈美の眼前に広がっていた。非常灯の灯りだけの薄暗いホールである。

 奈美は辺りを見回し、敵の存在を探った。その時、例の超音波の声が奈美の頭に響いてきた。

 〈ヨク来タナ、A7。〉

 「陽子さんは無事なの。」

 奈美は見えぬ敵に向かって叫んだ。

 〈自分ノ目デ確メニ来イ。地下室デ持ッテイル。〉

 声は唐突に切れた。

 奈美は目についた階段に向かって歩き出した。

 歩きながら奈美の全身には、熱く(たぎ)るものがあった。

 奈美は不安に駆られる一方、戦いに喜びを感じていた。

 それは奈美にはどうすることもできない、戦士としての血の騒ぎであった。

 階段の下は闇が広がっている。

 それはさながら地獄への入り口に思えた。いや、地獄に向かうのだ。

 修羅場という地獄へ。

 奈美は一歩づつ階段を下りた。

 非常灯の灯りがかえって辺りに不気味な雰囲気を作り出している。

 最後の一段を降りたとき、奈美の耳に妙な音が届いた。

 モーターが唸る音だ。

 近くに動力室でもあるのか。

 奈美は長く伸びる廊下を見渡した。

 すると、一ヶ所だけドアの下から明かりが洩れているのが見えた。

 急いで近づくと、モーター音もその中から聞こえた。

 奈美はドアノブに手を掛けた。

 鍵はかかっていない。

 ゆっくりドアを開けると、中からまぶしいほどの光と騒々しい音が溢れてきた。唸るモーター音、複雑に絡み合ったパイプと電線、コンクリートむき出しの天井、動力室は異形の臓物を思わせた。

 しかも、正面の壁には十字架の形で人間がぶら下がっている。

 「陽子さん!」

 奈美はそれが陽子であると確認すると、急いでその元へ駆け寄ろうとした。その時、ボイラーの陰から黒い岩がヌッと現れた。

 陽子を襲った例の巨人だ。

 奈美は鋭いまなざしで巨人を睨みながら身構えた。

 髪が波打ち始めた。

 その色が漆黒から銀色に変わる。

 奈美の戦士としての本能が、全身を駆けめぐる。

 今や、奈美は自らの意思でアーマノイドに変身できるようになっていた。

 「お前もアーマノイドね。」

 奈美は本能的に巨人が同類である事を察した。

 「いかにも、俺の名はゴーレム。歓迎するぜ、A7。」

 「あんたなんかに歓迎されたくないわ。そこをどきなさい。」

 静かだが、充分威圧的な口調であった。

 「俺を倒して通るんだな。」

 ギラつく双眸に笑いを浮かべて、ゴーレムは答えた。

 「じゃあ、そうさせていただくわ。」

 そう言い終わらぬうちに、奈美の足は床を蹴っていた。

 一陣の風となった奈美の体は、あっという間に巨人の前に移動し、そのスピードを生かした右拳が、ゴーレムの鳩尾に深々と食い込んだ。

 常人であれば悶絶する一撃であった。

 しかし、ゴーレムは微動だもしないどころか、薄笑いさえ浮かべていた。

 「そんなものか。」

 奈美は続けざまにパンチを放った。しかし、結果は同じであった。

 「フッ」

 ゴーレムの口元に嘲笑が浮かぶと同時に、ハンマーのような拳が奈美の顔面に飛んできた。

 咄嗟に奈美は両腕でそれをブロックした。だが、ゴーレムの一撃は、ブロックごと奈美を吹き飛ばした。

 床に叩きつけられ、転がる奈美にゴーレムの次の一撃が飛んだ。

 奈美は体を捻ってそれを(かわ)した。

 巨人の拳は奈美の脇を掠め、コンクリートの床にめり込んだ。

 その隙に身を起こした奈美は、ゴーレムの後頭部にめがけて回し蹴りを放った。しかし、前と同様にゴーレムは微動だにしない。

 「無駄だ。」

 棍棒のようなゴーレムの腕が奈美の体を跳ね飛ばした。奈美は再び床に叩きつけられた。

 「死ね!」

 猛烈なスピードでゴーレムの足が奈美めがけて飛んできた。

 奈美は床を転がりながらそれを躱すと、奈美の髪から一条の光が迸った。

 光は一本の針となって、ゴーレムの胸に突き刺さった。

 やったと奈美は思った。

 しかし、奈美の眼前で起こった光景は信じられないものだった。

 ゴーレムは倒れるどころか、平気な顔で笑っているのだ。しかも、全身に力を入れると胸に刺さっていた針は、いとも簡単に抜け落ちてしまった。

 「ええい!」

 再び奈美の髪から二筋の光が迸った。

 今度はゴーレムの体にも突き刺さらず、逆に跳ね返されてしまった。

 「ワッハハハ、無駄だ。俺の体は高密度ポリマーでコーティングされ、あらゆる攻撃に耐えられるようにできているのだ。」

 「高密度ポリマー…?」

 奈美が呆然としている隙をついて、ゴーレムの体が黒豹のようにすばやく奈美の前に移動した。

 「そうだ。だからおまえの超振動ニードルごときでは、俺は倒せん。」

 言葉と同時に、ゴーレムの拳が奈美の腹部に食い込んだ。

 「ングッ!」

 前のめりになるところを、今度は肘が奈美の背中を襲った。

 「ウッ!」

 背中の衝撃に耐えきれず、奈美は膝から床に崩れ落ちた。ゴーレムの分厚い靴底が、奈美の頭を押さえつけた。

 「もう終わりか?A7。」

 ゴーレムは勝ち誇ったような笑いをその顔に浮かべて言った。

 不意に奈美の頭を押さえていた靴底が離れた。次の瞬間、猛烈な勢いでゴーレムの爪先が奈美の脇腹にめり込んだ。

 「グワッ!」

 奈美は血の混じった胃液を撒き散らしながら、床の上を転がっていった。

 「くるしいか?」

 ゴーレムの目がサディスティックに彩られていく。

 床の上で苦しむ奈美の襟を掴むと、ゴーレムはそのまま眼前に持ち上げた。

 「いま、楽にしてやろう。」

 そう言うとゴーレムは、奈美を壁に向かって放り投げると、傍らに転がっていた鉄パイプを拾い上げた。

 「これで串刺しにしてやるぜ。」

 ゴーレムは拾い上げた鉄パイプを肩の上に掲げると、奈美に向かってそれを投げつけた。

 鉄パイプは矢のごとく奈美に迫った。

 奈美はそれが自分の胸に突き刺さる寸前、横に逃げながらそれを躱した。代わりに後ろの壁に鉄パイプが深々と突き刺さった。

 ゴーレムは次のパイプを掲げ、奈美めがけて投げつけた。

 それも奈美は紙一重で躱した。

 「悪あがきをしおって。」

 三本目が投げつけられた。しかし、それも躱され、今度は奈美の後ろにあったボイラーが犠牲になった。途端に、ボイラーから蒸気が吹き出し、辺り一面を覆った。

 「死ね!」

 半ばヒステリックに叫ぶと、ゴーレムは四本目を奈美に向かって投げつけた。

 しかし、奈美のフットワークは今度の投擲も見事に躱し、鉄パイプはさらに後ろにあった配電盤に突き刺さり、それをお釈迦にしただけだった。

 配電盤から火花が散り、ケーブルが千切れて床に転がった。

 その千切れたケーブルが奈美の目に入った。

 「いい加減観念しな。」

 ムキになったゴーレムは、五本目を拾い上げると、ゆっくり近づいた。奈美はじりじりと後ずさりしながら、チャンスを待った。

 突然、パイプの繋ぎ目が裂け、蒸気が悲鳴を上げながら噴き出した。

 一瞬、ゴーレムの気が逸れた。

 その隙をついて、奈美は千切れたケーブルを掴むと、それをゴールムに向かって投げつけた。

 ケーブルがゴーレムの腕に絡み、その先端がゴーレムの手に触れた。

 途端に高圧電流がゴーレムの体に流れた。

 「グオォォォォ~」

 ゴーレムの体が激しく震え、野獣の咆哮にも似た絶叫がゴーレムの口から迸った。

 咆哮は数秒間続いた。

 それがやむと同時に、ゴーレムの巨体が大きく揺れ、地響きをたてて床に倒れた。

 奈美はしばらく様子を見た。

 ゴーレムは倒れたまま、石のように動かない。

 完全に倒したと確信した奈美は、痛む体を(いたわ)るようにゆっくりと立ち上がった。

 一刻も早く陽子を助けたかった。

 ふらつく足で奈美は、張り付けにされた陽子に歩み寄り、陽子を吊しているロープを解こうと手を掛けた。

 その時、背中を鋭い殺気が貫いた。

 急いで振り向いたとき、黒い塊が奈美の首に絡みついた。

 それは大蛇のような巨人の腕であった。

 奈美の首を掴んだその手は、そのまま奈美を高く持ち上げた。

 「ガハハハ、あれくらいで死んだと思ったか。」

 目の前に高らかに笑うゴーレムの黒い顔があった。

 「これで最後だな、A7。」

 ゴーレムの手が万力のように奈美の首を締め上げた。

 奈美は自分の首を締め上げる魔手を何とか振り払おうともがいた。しかし、体中の力は次第に抜け、意識は徐々に薄れ、死が全身に忍び寄る感覚に襲われた。

 今までの出来事が走馬燈のように頭の中を駆け抜けていく。亘の死、陽子との出会い、ジャックやリエとの戦い、次々と浮かんでは消えていった。

 その時、奈美は剣持から貰った時計の事を思い出した。

 (もしかしたら…)

 薄れる意識の中で奈美にある考えが浮かび、震える手でポケットの中を探った。

 指の先に剣持に貰った時計が触れた。それを取り出しと、すぐに口に銜え、意識を保つため目を見開き、ゴーレムを見据えた。

 「何をするつもりか知らんが無駄だ。お前は俺の手にかかって死ぬのだ。ガハハハ。」

 ゴーレムが勝ち誇ったように高笑いした瞬間、奈美は時計のリューズ部分を引き抜き、ゴーレムの口の中に時計を押し込んだ。

 突然、口に異物を押し込まれたゴーレムは、思わずそれを飲み込んだ。

 すると、奈美の首を締め付けていた魔手が一瞬緩んだ。

 その機を逃さず、奈美は両足で思いっきりゴーレムの胸を蹴った。

 その反動で奈美の首は魔手から解放され、奈美はそのまま床に落ち、ゴーレムは数歩後ずさりした。

 「おのれ、こざかしいまねを!」

 ゴーレムの目が怒りで血走った。

 奈美に再び襲いかからんと、両腕を振り上げた時だった。

 ゴーレムの首が白く光った。

 奈美は思わず床に伏せた。

 次の瞬間、ゴーレムの首が大音響とともに吹き飛んだ。

 肉片と鮮血が辺り一面に飛び散る。

 やがて、頭を失った巨体は、鮮血で全身を真っ赤に染めながら、ゆっくりと床に倒れた。

 奈美が顔を上げた時、ゴーレムは自らの血で作った池の中に沈んでいた。

 「体の中まで超密度ポリマーでコーティングできなかったようね。」

 そうつぶやきながら、奈美はしばらくゴーレムの巨体を見つめていた。

        6

 配電盤が小さくスパークした。

 その音で奈美は我に帰った。

 「陽子さんを助けなきゃ。」

 奈美は急いで陽子の元に駆け寄った。

 幸いにも、陽子は薬かなんかで眠らされているだけのようであった。陽子を縛り付けていたロープを引きちぎると、奈美は陽子を静かに床に横たえた。

 「陽子さん、陽子さん。」

 軽く頬を叩くと、陽子はすぐに意識を取り戻した。うっすら開いた目の中に、奈美の心配そうな顔が映った。

 「奈美…」

 「よかった、気がついたのね。」

 「ここは…」

 「話はあと、早く逃げましょう。」

 奈美は陽子に肩を貸して、立ち上がろうとした。

 「フロッピー、フロッピーがない。」

 陽子は思いだしたように叫んだ。

 「フロッピー?」

 「ええ、組織の陰謀を記録した大事な証拠品なの。きっと奴らが奪ったんだわ。」

 「とにかく、一刻も早くここをでましょう。」

 「でも、フロッピーが…」

 その時、ボイラーの蒸気が断末魔の獣のような咆哮をあげた。

 「さっきの戦いでボイラーがイカれたらしわ。」

 どこからともなくキナくさい(にお)いが立ちこめてきた。火が出たらしい。

 「ここは危険だわ。陽子さん、さっ、はやく。」

 あきらめきれない顔の陽子を促し、その腕を引っ張るようにして立ち上がらせると、奈美は陽子を支えながら出口へと急いだ。

 階段にさしかかり、それに足をかけようとしたとき、後ろで爆発音がした。ついで、パイプが破裂し、蒸気が勢いよく噴き出した。

熱風が二人を包む。

 黒煙が辺りを覆い、炎が蛇のように動力室の中をはい回り始めた。炎は次々と燃え移り、邪悪な仲間を増やしていった。

 二人は煙る階段を必死になって駆け上がり、ホールに出たが、すでにそこは煙で充満していた。

 排気口から上がってきたのだろう。一寸先も見えない状態であった。

 奈美と陽子は床に伏せ、這うようにして出口を探した。

 階下から二度目の爆発音がした。

 ホールが揺れる。

 煙の先にオレンジ色が(またた)いた。

 (火が上まで上がってきたのか。)

 奈美は息を飲んだ。

 思わず隣の陽子を見た。

 陽子は煙で息もできず、今にも気を失いかけている。

 (急がないと。)

 奈美は力を振り絞り、陽子を担ぎ上げた。出口はすぐそこの筈だ。奈美はゆっくりと出口に向かった。

 それは長い試練の道にも思えた。

 三度目の爆発が起こった。

 爆風が二人を吹き飛ばす。

 それは、充満した煙も一時(いっとき)、吹き飛ばし、そのおかげで出口の方向も見えた。と同時に、建物の奥に人影も見えた。

 ギリシャ彫刻を思わせるような彫りの深い顔立ちに、冷たい笑みを浮かべ、奈美をじっと見つめる美青年の姿が奈美の目にはっきり映った。

 (だれ?)

 しかし、奈美の視界に映ったのは一瞬の事で、黒煙がその男の前に厚いカーテンを敷いた。

 熱風とともに炎が二人に迫った。

 奈美は陽子を担ぎながら急いで建物を出た。玄関を出て数秒もしないうちに、炎が建物から吹き出した。

 炎は窓ガラスを突き破り、大蛇の舌を思わせるような不気味な動きを見せていた。 オレンジ色の炎が真っ暗な天空に、鮮やかな色彩を施す。それは禁断の美しさを持っていた。

 奈美は陽子を肩で支えながら、その光景に釘付けになっていた。その脳裏には、先程研究所の中で見た一人の青年の姿が思い浮かんでいた。

 (あれはだれなの?)

 奈美の中に疑惑と不思議な感覚が芽生えていた。

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