三、ローレライの歌
1
ビルを見上げた松浦は、ビルの窓ガラスに反射した太陽の光に思わず目を細めた。
まだ、五月だというのに初夏のような暑さに辟易する松浦は、額に浮かんだ汗をハンカチで拭いながら、‘アルフィス・エンタープライズ’というプレートを掲げているビルの中に入っていった。
ロビーの中は数人の男女が行き交い、活気づいた雰囲気を作っていたが、松浦はそれには目もくれず、真っ直ぐ受付の所へ向かった。
「明泉学園の松浦という者だが、事業推進室長の面さんと約束していたんだが。」
松浦は多少あがり気味に受付の女性にそう告げると、二十歳くらいの受付の女性は笑顔をみせて、やさしく返答した。
「明泉学園の松浦様ですね。少々、お待ちください。」
そう言うと、受付嬢は内線電話を取ってある番号を押した。
「ア、一階受付です。明泉学園の松浦様とおっしゃる方がいらっしゃいました。ハイ、ハイ、わかりました。」
内線電話を置くと、受付嬢は同じ笑顔で松浦を見上げた。
「お待たせいたしました。面は只今、会議中ですので、六階の応接室でお待ちいただくようにとの事です。」
「そうですか。」
「六階へはそちらのエレベーターをご利用ください。」
と言って、ロビーの片側にあるエレベーターを手で示した。
松浦は受付嬢の示したエレベーターを見るとすぐ顔を元に戻し、軽く会釈してからエレベーターに向った。
松浦がエレベーターを待っているその六階上では、樫村が銅像のように会議室の前で立っていた。
すでに予定終了時間より二十分が経過していた。しかし、樫村は表情一つ変える事なく黙って会議室のドアを見つめていた。
やがて、会議室のドアが静かに開き、その中から重役達が次々と現れた。
四十半ばから五十代にかけた老獪な重役達に混じって、一人異彩を放つ者がいた。年の頃は二十代半ばだろうか。均整のとれた体をグレーのスーツに包み込み、その上にギリシア彫刻を思わせる端正な顔が乗っている。髪をオールバックにまとめ上げ、色白の端正な容貌に心曳かれる女性は数多いるだろう。
しかし、見る者を凍りつかせるようなその目が、この青年を近寄りがたい存在にしていた。
面史郎。
‘アルフィス・エンタープライズ’の事業推進室長であり、役員でもある彼はその冷然とした姿を樫村の前に現した。
「室長、松浦様がお待ちです。」
樫村は史郎から会議の資料を受け取ると、すぐにそう言った。
「そうか、では私の部屋に呼びたまえ。」
史郎は冷めた表情のまま自分の部屋に向かって歩きだした。
「それからもう一つ、ジャックが失敗しました。」
樫村が聞こえるか聞こえないか程度の声で史郎にそう告げると、史郎の歩みが一瞬鈍くなった。
「いかが致しましょう。」
樫村は事務的な口調で史郎に尋ねた。
それに対して史郎は何も答えず、元の速さで部屋に向かって歩を進めた。
部屋の前に着くと、史郎は樫村の方に顔を向けて静かに口を開いた。
「コーヒーを頼む。」
そう言い残すと史郎は自分の部屋に入っていった。
部屋に入った史郎はゆっくりと窓のそばに歩み寄った。
五月晴れの空の元、都会の街並みが史郎の視界に広がっていた。独楽鼠のように動き回る人々、亀のようにのろのろと移動する車、蟻塚のように立ち並ぶビル、まるでアニメのワンシーンを見ているようであった。
「腐った街だ。」
史郎は吐き捨てるように呟いた。
その時、机の上のインターフォンが鳴った。史郎はゆっくり振り向くと、インターフォンのボタンを押した。すぐに樫村の声が流れてきた。
「室長、松浦様をお連れいたしました。」
「ウム、すぐ通してくれ。」
そう言うと史郎は再び外の景色を眺め始めた。
やがてドアが開き、松浦がオドオドした態度で姿を現した。
松浦が入ってくると、史郎は景色から目を離し、松浦にその目を移した。
「お邪魔します。」
松浦は緊張した面持ちで史郎に会釈した。それに対して、史郎は相変わらず冷然とした態度をとっていた。
「まっ、かけたまえ。」
「ハッ、恐縮です。」
松浦は史郎に示されたソファにゆっくりと座った。史郎も自分のイスに静かに腰を下ろした。
「それで、計画の方は順調かね。」
「ハッ、全て順調です。すでに70%の生徒の処理が終了しております。」
松浦は汗をハンカチで拭いながらそう答えた。
「ウム」
「夏までには全ての生徒の処理が終了いたします。」
「そうか、それは結構。」
史郎は松浦の報告に満足したように軽く頷いた。自分の報告に史郎が満足してくれた事を感じた松浦は、ホッとして体の緊張を解いた。
「ところで松浦君。」
「ハ、ハイ」
史郎の突然の言葉に松浦は再び全身に緊張を走らせた。
「君の学園で何か変わった事はないかね。」
「変わった事?」
松浦は史郎の発言の真意が掴みかねた。
「いえ、特には…。」
「そうか、ならいい。」
「あの…、何か…。」
松浦の胸に不安の雲が沸き上がった。
「もし、何かあったら全ての指示はローレライに仰ぎたまえ。」
「ローレライ!」
その名を聞いて松浦の緊張が一層高まった。
「そうだ。ローレライの指示は私の指示と思って従いたまえ。」
史郎は冷淡にしかも威圧的に松浦に向かって命じた。松浦は汗で濡れたハンカチを握り締め、史郎に向かって従順に頷いた。
「よし、細かい事は樫村君に報告して、あとは帰りたまえ。」
そう言うと史郎は再び外の景色を眺め始めた。
「失礼いたします。」
松浦は立ち上がって、そそくさと部屋を出ていった。
史郎はしばらくの間物思いに耽った後、机に向き直し、傍らのインターフォンで樫村を呼んだ。樫村はすぐに史郎の前に現れた。
「ご用でしょうか、室長。」
「ウム、ローレライを呼んでくれ。」
2
奈美はまた眠れぬ一夜を過ごした。
ジャックとの戦い以来、その悪夢に魘される夜がここ二・三日続いた。
奈美はベットに横たわりながら、しばらく天井を見つめた。
全身が怠かった。
起きあがる気力さえ失せたようであった。
今、奈美の頭の中を恐怖と疑惑が渦巻いていた。自分自身に潜んでいた力に気づいて以来、その力に恐怖した。相手を傷つけることに何の躊躇いもなく実行に起こす自分を憎悪した。
(一体、私の体はどうなっているの。)
奈美は思わず、両手で顔を覆った。
暗黒が目の前に下りた。
その中を亘の顔が通り過ぎた。
陽子の顔が、剣持の顔が次々通り過ぎた。
突然、ジャックの血塗れの顔がクローズアップされた。
鮮血で真っ赤に染まった唇を動かし、奈美に向かって何かを呟いていた。
〈おまえはアーマノイドだ。〉
奈美の頭にジャックの言葉が重く響いた。
〈おまえはアーマノイドだ。〉
(なんなの!アーマノイドってなんなの!)
しかし、奈美の叫びは空しく虚空に消えていった。
その時、ジャックの顔の横に亘の顔が浮かび上がった。続いて、陽子、剣持の顔と浮かび上がった。
皆、鮮血で赤く染まっている。
〈おまえはアーマノイドだ。〉
不意に亘が奈美に向かって言った。
〈あなたはアーマノイドよ。〉
続いて陽子が。
〈君はアーマノイドだ。〉
更に剣持も奈美に向かって言った。
奈美の周りを四人の顔が駆け巡り、口々に叫んだ。
〈おまえはアーマノイドだ。〉
「キャー!」
奈美は耐えきれず叫び声を上げた。そして、思わずベットから跳ね起きた。
奈美は部屋の中を見渡し、悪夢から覚めた事を確認しようとした。
窓から朝の陽光が部屋の中に差し込んでいた。奈美はベットから静かに下り、窓のそばに歩み寄った。
窓を開けるとすがすがしい朝の光が庭一杯に充満していた。奈美はしばらく朝の光に包まれた庭を眺めた。
空は雲一つない晴天が広がり、小鳥の囀りがどこからともなく聞こえてきた。その光景は暗黒の深みに落ちていた奈美に多少の安らぎを与えた。
やがて、安らぎの光は奈美の心にある炎を点した。それは、疑惑解明の決意の炎であった。
(自分は知らなければならない。本当の自分の事を。その為に戦わねばならないなら戦おう。)
奈美は今、暗黒の淵で悲しむのを止めた。自ら光を求めて戦おうと決意した。
奈美は窓から離れると急いで着替えた。
部屋から出ると、陽子を求めて階段を下りた。ロビーには例の支配人のような初老の男が立っていた。
「おはようございます。」
男は奈美に向かって恭しく頭を下げた。
「あの、陽子さんは?」
「陽子様は書斎で旦那様と面談中でございます。」
「ありがとう。」
奈美はお礼もそこそこに書斎に向かって駆けだした。
その頃、陽子は例の書斎で剣持と対面していた。
「それで、奈美君はどうかね。」
剣持は青銅製の灰皿にタバコの灰を落とすと、陽子にポツリと尋ねた。剣持の真正面に位置するソファに座っていた陽子は、剣持の突然の問いに顔を上げた。
「あれ以来、部屋から出ようとしません。」
陽子は一つ溜息をつくと、顔を曇らせた。あの日以来、部屋に閉じ籠もったまま一歩も出ようとしない奈美が、陽子には心配でならなかった。このまま、二度と奈美は自分の前に現れなくなるのではないかと思うと、いても立ってもいられなかった。かといって、奈美の部屋に入る勇気もなかなか涌かない陽子であった。
「陽子」
思い悩む陽子に剣持が再び問いかけた。
「ハイ」
「君は奈美君の事をどう思うかね。」
「どうって…」
陽子は剣持の意図する所がわからなかった。
「この間の事件を聞いて、私も考えたんだ。彼女をどうしようかと。」
「どうしようって、どうするんですか?」
陽子の胸に不安が広がった。
「組織が彼女を狙う理由は彼女の力じゃあないかと思う。」
「奈美の力…」
陽子の脳裏にこの間の奈美と侵入者の戦いが蘇った。
「それで彼女の力を借りようかと思うのだ。」
「奈美の力を!?」
剣持の言葉に陽子は驚愕した。
「しかし、局長。局長はついこの前、奈美の協力の申し出を断ったじゃありませんか。」
「ウム、確かにな。しかし、今は事情が違う。」
「事情?」
「そうだ。相手にあのような化け物がいる以上、彼女の力はどうしても必要だ。」
「しかし、奈美はー」
「まってくれ、陽子。他にも理由があるのだ。」
「理由?」
「そうだ。我々の今後の捜査において組織支配下の学校への潜入捜査がどうしても必要になってくる。」
「それに奈美を使おうと?」
「そうだ。それに彼女自身、何よりも自分の事を知りたがっていると思うしね。」
剣持の最期の言葉は陽子の胸にズシッと重く響いた。その時、書斎のドアをノックする音が聞こえた。
「どうぞ。」
剣持が答えると、ドアは静かに開き、その後に奈美が立っていた。
「奈美…」
奈美の突然の来訪に陽子は多少驚いた。
「失礼します。」
奈美は一礼すると、静かに書斎に入ってきた。
「まあ、かけたまえ。」
剣持は奈美にソファを手で示した。奈美も剣持に進められるまま陽子の隣りに座った。
「剣持さん、お話があります。」
奈美は剣持の顔を真っ直ぐ見つめながら言った。
今、剣持の目に映る奈美は、以前の奈美とはどこか違っていた。何か不思議な力強さを感じるのであった。
「私に話しとは?」
剣持は努めて笑顔で尋ねた。しかし、奈美の表情はある決意に裏打ちされた、厳しいものであった。
「私を捜査局の一員に加えてください。」
奈美は剣持を圧倒するように言った。
陽子は奈美の発言に驚き、思わず奈美の横顔を見つめた。
「この前は引き下がりましたけど、今度は引き下がりません。お願いします。一員に加えてください。」
奈美は剣持に向って深々と頭を下げた。
剣持も陽子も奈美の言葉にこの前とは違う激しさを感じた。
「もし、私の願いを聞いていただけないなら私、この屋敷を出て一人ででもやります。」
奈美のその発言に相当の覚悟を感じた剣持は、腕組みをして考えた。奈美もその剣持の姿をじっと見つめた。
二人の間にしばらく沈黙が流れた。やがて腕組みを解いた剣持は、以前には見られなかった厳しい表情を見せて、静かに口を開いた。
「わかった。君を捜査局の一員として特別に加えよう。」
その言葉に奈美の表情が明るく変わった。
礼を言う奈美に剣持は、更に表情を厳しくして言った。
「しかし、これだけは言っておく。これは非常に危険の伴う任務だ。あるいは、命に関わる事になるかもしれない。」
「ハイ、覚悟はできています。」
その言葉を聞いて、剣持の表情が憂いに満ちたものになった。
「奈美、君の選んだ道は厳しく悲しいものかもしれないよ。」
「それもわかっています。でも私、後悔はしません。」
「そうか、後悔はしないか。わかった。後は何も言うまい。」
そう言うと、剣持は奈美に背を向け、二度と口を開かなかった。
その様子を見た陽子は、奈美を促し、黙って部屋を出ていった。
部屋を出た二人は、しばらく黙ったまま廊下を歩いた。やがて、前を歩いていた陽子が後を振り向き、奈美を見つめて言った。
「奈美、あなたったら思い切ったことを言うのね。」
「でも陽子さん、私の気持ちは…」
「わかってる。でも本当にあなたの選んだ道は厳しいわよ。」
「ええ、でもこのまま何もしないでいたら私、どうにかなってしまいそうで。」
奈美は重く沈んだ表情で陽子に言った。陽子はそんな奈美の気持ちが痛いほどわかった。
「決心は堅いようね。わかったわ。お互い協力してがんばりましょう。」
「ハイ」
陽子が差し出した右手を奈美は力強く握り締めた。
「じゃあ、あなたも捜査局の人間となったからは、それ相応の知識が必要ね。これから勉強といきましょう。」
「ハイ」
二人は姉妹のように打ち解けた感じで食堂へ再び歩き始めた。
3
それから数日後、奈美は剣持に呼ばれて例の書斎に赴いた。すでに陽子も来ている。
「奈美、早速だが指令だ。」
剣持の言葉に奈美の全身に緊張が走った。
「君にある高校に転入してもらい、その内部を探ってもらいたい。」
「高校に?」
「そうだ。これを見てくれ。」
剣持が机の上のあるスイッチを入れると、書斎のカーテンが独りでに締まり、部屋全体が薄暗くなった。次のスイッチを入れると、壁に掛かっている絵が急に白くなり、その白い画面に近代的な校舎が映し出された。奈美は今初めてそれが絵にカモフラージュされたモニターであることを知った。
「私立明泉学園高校。ここに転入してもらう。」
「ここに何かあるんですか。」
「ウム、ここは2年前まで校内暴力等で騒がれていた高校なのだが、去年からその騒動がピタリと止み、今では模範的な学校として教育委員会からも高い評価を得ている。」
「フ~ン、すごいわね。どんな方法を使ったのかしら。」
「それが問題だ。」
剣持はそう言うと、また別なスイッチを押した。画面が変わり、何かのグラフが二つ表れた。
「このグラフを見てくれ。右が校内暴力で騒がれた頃の全生徒の成績分布表、左は今年のものだ。」
右の棒グラフはかなりのバラつきが見えたが、左はある箇所にきれいに集中していた。 「見てわかるように、今年のグラフはある一定成績の所にほとんどの生徒が集中している事がわかる。しかも、それ以上もそれ以下というものもほとんどない。」
「確かに妙ですね。」
奈美は不思議な好奇心にかられてモニターを見つめた。
「しかも、この高校は去年理事長が替わっているわ。」
奈美の後に立っていた陽子が突然口を開いた。
「それじゃあ、その理事長が替わってから、この高校は急に模範学校になったということですか?」
「そうだ。しかもそんな学校がここ二・三年、急増している。」
「皆、理事長なり、経営者なりが替わっているわ。」
剣持と陽子の言葉で奈美の頭の中に大きな疑惑が生じた。
「組織!」
「そうだ。どうやらその理事長が我々が追っている組織と何らかの繋がりを持っているらしいのだ。」
剣持は再びスイッチを押した。今度は画面に一人の中年男が映し出された。
「これが明泉学園の理事長であり、現校長の松浦要蔵だ。」
奈美はその画面を食い入るように見つめた。
「奈美、学校というものは一つの閉鎖社会だ。そこで君に生徒として潜入してもらい、学校内部で何が起こっているのか、組織の狙いは何なのか、それを探ってもらいたい。もしかすると、組織の一端が掴めるかもしれない。」
剣持がモニターのスイッチを切ると、締まっていたカーテンが再び開き、室内に太陽の光が射し込んできた。
「転入の為の必要な手続きは全て取った。後は陽子から必要な情報を貰い、すぐに実行に移ってくれ。」
「わかりました。」
「くれぐれも言っておくが、充分気をつけるのだぞ。」
「わかっています。」
奈美は自分の使命の重要さに全身が熱くなる思いであった。
4
一週間後、奈美は明泉学園の校門の前に立っていた。
朝の校門前は生徒達で活気づいていた。友達同士でおしゃべりをしながら、あるいは何かの参考書を読みながら、思い思いの姿で校門から校舎の中へ入っていった。
そんなどこにでもある朝の風景の中、奈美の心の中には、自分の受けた指令に対する緊張感とは別に何か心弾むものがあった。
(そうだ。私は学校に行くのは初めてなんだ。)
今まで亘と二人きりの生活を送ってきた奈美であった。学校へも行かず、その分亘から何もかも教えを受けてきた。その生活を思い出すと、再び奈美の心に悲しみが蘇ったきた。
その時、感傷的になっていた奈美へ突然、後から声がかかった。
「おい、おまえ!」
突然の言葉に奈美は一瞬体を硬直させた。そして、そのまま静かに後を振り向いた。
目の前に神経質な顔立ちをした学生が、腕組みをして立っていた。右の二の腕に明泉学園の校章の入った腕章が見える。その両脇には、やはり同じ腕章をした学生が二人立っていた。
「おまえ、見かけない顔だがどこへ行くつもりだ。」
学生は蛇のような鋭い視線を奈美に向けて高飛車に言った。奈美は多少憤りを感じながらも、それを表には出さず素直に答えた。
「はい、今日からこの学園に転校して来ました一条奈美です。よろしく。」
奈美は軽く頭を下げた。
「転校生?」
男は探るような目つきで奈美を見回した。その時右側にいた学生が男にそっと耳打ちした。男は軽く頷くと、再び奈美を見つめた。
「もうすぐ、始業のベルが鳴る。早く職員室へ行きなさい。」
そう言い残すと男は、二人の学生を引き連れて、さっさと校舎の中に消えていった。
「何かしら、今の?」
「生徒自治会よ。」
突然自分の疑問に対する返答が後から帰ってきたため、奈美は再度驚いて後を振り向いた。
そこには奈美と同じくらいの背丈の少女が、人懐っこい笑顔を見せて立っていた。
「あなた、転校生でわからないと思うけど、この学園は生徒の自主性が重んじられてて、生徒自らの手で学園生活が運営されているの。風紀から校則までね。彼らはその実行委員で、あなたが会ったのは自治会会長の上村さんよ。」
少女は初めて会った奈美に、友達に説明するように気安く話した。
「あの、あなたは…?」
「あら、いやだ。このままじゃ遅刻するわ。それじゃあ!」
そう言って少女は、奈美を残して校舎の中へ入っていった。
奈美はしばらくその場に立ちつくし、少女の消えていった方を見ていたが、やがて笑みを浮かべると校舎の中に入っていった。
5
奈美の目の前には、剣持の部屋で見せられた、あの松浦がいた。悠然として校長のイスに座り、奈美の身上書に目を通していた。
やがて、身上書から奈美へと目を移すと、やさしく語りかけた。
「そうか、ご両親は交通事故で。それは気の毒に。」
「はい、今は叔父の元に引き取られて、そこで暮らしています。」
「フム、それでこの学園にね。そうですか。とにかく挫けず、ここで楽しい学園生活を送ってください。」
松浦がやさしく笑みを浮かべたとき、校長室のドアをノックする音が聞こえた。
「どうぞ。」
松浦が答えると、ドアが開き、一人の青年教師が校長室に入ってきた。
「失礼します。」
精悍な顔つきの、一目でスポーツマンとわかるような青年教師であった。
「アッ、金田先生。いいところに来た。今日から先生のクラスに転入する一条奈美さんだ。一条さん、この方が君の担任になる金田先生です。」
「金田です。よろしく。」
金田は、青年教師特有のさわやかな笑顔を見せて、奈美に挨拶した。
「金田先生。一条さんを教室まで案内してやってください。一条さんもしっかり学んで、がんばるように。」
「ありがとうございます。」
奈美は松浦に一礼すると、金田の後について校長室を出た。
金田は特に余計な話をすることもなく、奈美を目指す教室へと連れて行った。
教室にはいると、中は整然とひとつの乱れもなく、全員がイスに座って授業を待っていた。それは極端なくらい規律正しく、余計におかしな雰囲気を漂わせていた。
金田が黒板に奈美の名前を書き、紹介している間も全員が一言も口を利かず、黙って金田の話を聞いていた。
「じゃあ一条さん、君は藤堂さんの後の席に座りたまえ。窓際の一番奥の席だ。」
奈美が金田に言われた席を見ると、その前に先程奈美に話しかけた少女が座っており、奈美に笑顔を送っていた。奈美はその少女の横を通り過ぎる時、軽く会釈をして自分の席に座った。
一時限目の授業が終わり、休み時間になるとすぐに少女は後を振り向き、奈美に話しかけてきた。
「あなたが私のクラスに来るなんてこれも何かの縁ね。あ、私、藤堂リエ。よろしくね。」
例の人懐っこい笑顔でリエは自己紹介をした。
「一条奈美です。よろしくお願いします。」
「堅い挨拶はナシナシ。昼休みになったら学校の中を案内してあげるからね。」
リエは奈美に対して以前から友達だったような口調で語りかけた。奈美もリエの話しぶりに気持ちが和む思いがした。
「このクラスは随分規律正しいんですね。」
「このクラスだけじゃあないわよ。学園全体がこんな感じね。」
「学園全体が…」
奈美はクラス全体がどこか普通ではない、不思議な雰囲気に包まれているのを肌で感じていた。
(この感じがこのクラスだけでなく、学園全体に…?)
「どうしたの?」
リエが不思議そうな顔をして奈美に尋ねた。
「アッ、いえ」
奈美はリエに悟られないように曖昧な笑みを見せた。その時、二時限目のベルが鳴った。
二時限目、三時限目と授業は進み、四時限目が終わって奈美は昼休みを迎えた。
リエは約束通り、奈美に学園内を案内し始めた。
近代的な校舎の中は様々な設備が揃っており、奈美には目に映るものすべてが珍しかった。
「へえ~、学校って結構いろいろな物があるのね。」
奈美は子供のように無邪気になって、学校の中を歩き回った。
「奈美っておかしいわね。まるで学校が初めてって感じ。」
「だって、そうですもの。」
「エッ?」
リエは奈美の返答に不思議そうな顔をした。その顔を見て奈美は慌てて言い繕った。
「い、いえ、こういう学校は初めてなのよ。前いた学校は田舎の古い学校だったから。」
「ああ、なるほど。」
リエは奈美の言い訳に納得したように頷いた。
「藤堂さん、ここは?」
奈美はある教室の中をしげしげ眺めながらリエに尋ねた。
「リエでいいわよ。そこ、そこは英語の授業の時に使う視聴覚室よ。」
「視聴覚室。」
奈美が教室の中を物珍しそうに見ていると、聞き覚えのある声が後から聞こえた。
「おい、そこで何をしているんだ。」
振り向くと、そこには例の自治会長の上村が立っていた。
「あ、会長。いま転校生の一条さんに校内を案内していたところです。」
リエが上村にそう言うと、上村はまた奈美を探るような目で見つめた。
奈美の全身に緊張が走った。
「もうすぐ授業が始まる。すぐに教室に戻りたまえ。」
上村は命令調に二人に言い残すと、その場を立ち去った。
「何かいやな感じね。」
「しっ、聞こえるわよ。」
奈美はドキッとして思わず辺りを見渡した。しかし、周りにはリエ以外には誰もいなかった。ホッとしてリエの顔を見たとき、リエが突然吹き出した。それにつられて奈美も笑い出した。奈美は笑いながら自分に初めて友達ができた事を感じた。
「さあ、授業が始まるけど、そうだ。次の授業はここでやるんだわ。」
「ここで?」
奈美はリエに言われて、再び視聴覚室を見た。
6
五時限目の授業はリエの言った通り、視聴覚室での英語の授業であった。クラスの生徒が続々集まり、奈美はリエの隣りに座った。
操作の方法をリエに教わった奈美は、備え付けのヘッドホンを耳に当てた。やがて、授業が始まり、ヘッドホンから先生の声や教材となる外国人の声が流れてきた。
しばらくの間、何事もなく授業は続いた。奈美は物珍しそうに外国人の声を聞き続けていたが、やがて奈美の体に一種異様な感覚が入り込んできた。
頭の中に外国人とは別な、不思議な声が響いてきたのだ。それは奈美を別な場所へ誘い込むような甘美な歌声のようでもあった。
奈美は次第にその声に連れられて、自分の心が体から離れて行くような感覚に襲われた。
歌声は近づいては遠退き、遠退いては近づいて奈美の意識を捕らえて離さなかった。奈美は自分が暗黒の淵にどんどん引き込まれて行くのを感じた。
(この声に誘われてはいけない。)
奈美の心の奥底から別の声が響いた。
自制心の声であった。
奈美の心の中を二つの力が激しく対決し、奈美は今にも自分の体が真っ二つになるような感覚に襲われた。
奈美は渾身の力を奮い起こし、耳からヘッドホンを外した。その途端、今まで奈美を捕らえていたあの歌声は消え、現実の世界が目の前に広がった。
悪夢から覚めた思いであった。
奈美は一息ついて、周りを見た。
皆が普通に授業を受けている。
しかし、一見普通に授業を受けているようで、皆の様子は普通ではなかった。その目は夢見るように焦点があっておらず、皆が放心状態のようになっていた。
(おかしい。)
奈美はヘッドホンを外したまま、しばらく周りの生徒達を見つめ続けた。やがて、終了のベルが鳴ると、全員が夢から覚めたような顔つきになった。
奈美の中に大いなる疑問が生じた。
(おかしい。ここには何かある。)
奈美は手にしたヘッドホンをじっと見つめた。その時、後から奈美の肩を叩く者がいた。振り向くとリエが笑顔で立っていた。
「どうしたの。そんな深刻な顔をして。授業わからなかった?」
リエは心配そうな顔をして奈美の顔を覗き込んだ。
「い、いえ…」
「大丈夫よ。そのうち慣れるから。」
リエは笑顔を見せて奈美を励ました。
「リエさん、あなた感じなかった?」
「エッ、何を?」
「今、授業を受けてて変な感じがしたのよ。何というか、不思議な…。」
リエは奈美の言っている意味が理解できないような顔をした。
「いいえ、何も感じなかったけど。」
そう否定するリエを見て、奈美はまた深く考え込み始めた。
「さあ、そんな落ち込まないで教室に戻りましょう。」
奈美はリエに引っ張られるようにして視聴覚室を出た。
夕方、授業が終わり、奈美が校門から外へ出ると、校門から5百メートル離れた先に見覚えのあるフェアレディが停まっていた。案の定、中から陽子が下りてきて、奈美に向かって手を振った。奈美も手を振りながら陽子のそばに駆け寄った。
「陽子さん、迎えに来てくれたんですか。」
「近くまで来たもんでね。どう、転校第一日目の感想は?」
「楽しかったですよ。友達もできたし。」
「ヘェ、一日目でもう友達ができたの。やるじゃあない。奈美、さあ乗って。」
奈美は助手席に座ると、陽子もすぐに運転席に座った。
二人を乗せたフェアレディは滑るように走り出した。その様子を校門の脇からじっと見つめる者がいた。
上村であった。
上村はフェアレディが走り去るのを見届けると、校舎へ足先を向けた。
奈美は今日一日の出来事を陽子に詳しく聞かせた。陽子も奈美の話を笑顔で聞いていた。
「学園生活、結構気に入ったみたいね。」
「ええ、とっても楽しいです。でも…」
「でも?」
「ちょっとおかしな事があったんです。」
「おかしなこと?」
「ええ、屋敷に着いたら詳しくお話しします。」
奈美の表情が急に深刻になったことに陽子は気になった。
十数分後、フェアレディは屋敷に着いた。奈美はすぐに自分の部屋に上がり、服を着替えると食堂に下りてきた。食堂では陽子がコーヒーの用意をして待っていた。
「奈美、早速だけどさっきのおかしな事ってなに?」
陽子は奈美の前にカップを置きながら尋ねた。
「エエ、実は…」
奈美は英語の授業の時に受けたあの不思議な感覚を陽子に詳しく聞かせた。
「そう、それはおかしいわね。」
「そう思います。私もあれには何かあるんじゃないかと思うんです。」
「その授業、テープに録れないかしら。」
「エ?」
「つまりその授業をテープに録って分析してみるのよ。」
「そうか。」
「何か掴めるかもしれないわ。」
「じゃあ、早速来週やってみます。」
奈美は目を輝かせながら陽子にそう言った。
奈美と陽子が屋敷で話し合っている丁度その頃、明泉学園の音楽室に二人の男が姿を現した。
上村と松浦である。
夕暮れ時も過ぎ、音楽室全体は薄暗くなっていた。その中を二人は黙ったままグランドピアノの前に歩み寄った。
すると突然、ピアノが鳴り出した。
甘美な音楽が音楽室の中を流れた。
いつの間にかピアノの前に一人の少女が座っており、二人に背を向けたまま少女は一心にピアノを弾いていた。
「どうか?怪しい動きはあったか。」
少女はピアノを弾きながら二人に尋ねた。
「いえ、今のところはまだ…」
上村が即座に答えた。
「どういたしましょう。」
松浦がオドオドしながら少女の背中に向かって尋ねた。
「動き出す前に消しましょうか。」
上村の発言に松浦の肩がピクッと震えた。
「いや、まだいい。もうしばらく様子を見ましょう。」
「しかし…」
「私の言う事が聞けないと言うの。上村。」
少女の鋭い声とともにピアノの音が止んだ。と同時に、上村の体が棒のように硬直した。
「いえ、そんなことは…」
「ならいい。」
再び、ピアノが鳴り出した。
「当分の間、様子を見ます。ただ、十分に気をつけておいてください。いいですね。」
「はい、かしこまりました。」
二人は同時に返事をすると、少女の背に向かって深々と頭を下げた。そして、そのまま黙って音楽室から出て行った。
もはや、すっかり暗くなった音楽室でピアノの音だけが鳴り続けていた。
7
一週間後、再び英語の授業がある日がやって来た。例の視聴覚室にクラス全員が移った。奈美は席に着くと、周りの生徒に悟られぬように、そっとヘッドホンの内側に超小型のマイクを取り付けた。そして、自分自身は耳栓をしてヘッドホンを着けた。
(これであの怪しい歌声は聞こえないわ。)
やがて授業が始まり、また例の怪しくも甘美な歌声が聞こえ始めた。しかし、耳栓のおかげで以前のように奈美の心を捕らえるという事はなかった。
奈美はポケットに入れてある小型テープレコーダーのスイッチを入れた。それから周りの様子を見た。やはり、以前のように全員が催眠術にかかったように、夢見るような顔つきで授業を受けていた。
(みんな、あの歌声の虜になっているんだわ。)
奈美が教壇にいる教師に目を移したとき、鋭い殺気が奈美の背中を貫いた。
(誰かが自分を見ている。)
咄嗟に奈美は後を振り向いた。しかし、辺りを見渡しても、それらしい人物は奈美の目には映らなかった。しかも、殺気の方もいつの間にか消え失せていた。
(気のせいかしら。)
疑惑を胸に抱いたまま、やがて授業も終わり、皆が席を立ち始めた。
「奈美、行こう。」
リエが後から奈美に向かって言った。
「ええ」
奈美も笑顔で振り返りながら席を立った。
一日の授業が終わり、放課後になると生徒達は皆、帰り支度を始めた。その中、奈美は席を立とうとはしなかった。
「奈美、帰ろう。」
リエが奈美の肩に手を置きながら言った。
「アッ、エエ…」
奈美はリエに促されて、初めて帰り支度をした。
「行きましょう。リエ。」
奈美はリエに笑顔を送りながら共に教室を出た。
帰り道、リエは奈美に盛んに世間話をした。しかし、奈美はリエの話に生返事をするだけで、その心は別な方に飛んでいた。
「奈美、どうしたの?」
「エ?」
「さっきから変だよ。」
リエは心配そうな顔をして奈美の顔を覗き込んだ。
「ううん、何でもないわ。」
「そう、ならいいけど。ネェ、いつもの店に寄ろうよ。」
「あ、リエ、ごめん。私、用事があるの。」
「そうなの。じゃあ、明日ね。さようなら。」
「さようなら。」
手を振りながらリエは奈美と別れた。
奈美はしばらくリエを見送った後、再び学園に通じる道を戻っていった。
学園はすでに夕暮れを迎えていた。校庭にはほんのわずかな生徒しか残っておらず、校舎も廃墟のように静まり返っていた。
奈美は静寂に包まれた廊下を例の視聴覚室へと向かった。
視聴覚室には人影も見えず、ドアには鍵が掛かっていた。奈美はヘアピンを取り出すと、鍵穴に差し込み、それを軽く動かした。鍵は簡単に開き、奈美はドアを静かに開けると、素早く教室の中に入り、後ろ手にドアを閉めた。奈美はすぐに教師用のコントロールボックスに近づくと、そこを色々と調べ始めた。
日は西に沈み、教室の中には闇が侵入し始めている。しかし、奈美はその事にも気づかぬ風に熱心に調査を続けた。
その時、奈美の背中を一陣の風のように殺気が貫いた。
突然、教室の中が明るくなった。
振り向くと、ドアの前に上村が鬼の形相で立っていた。
「そこで何をしている。」
威圧的な言葉が上村の口から出た。
「いえ、ちょっと忘れ物をして。でも、ここではなかったようです。失礼しました。」
奈美が急いで教室を出ようと上村の脇を通りかかった時、いきなり上村の手が奈美の左腕を取った。
「逃げる事はないじゃあないか。」
「逃げるなんて、そんな…」
上村の口元に邪悪な笑みが浮かんだ。
奈美の背中に悪寒が走った。
上村は強引に奈美を教室に押し戻すと、後ろ手にドアの鍵を閉めた。
奈美は本能的に身構え、上村を見つめた。
上村は薄笑いを浮かべたまま奈美に一歩ずつ近づいた。いつの間にか、教室の中には上村とは別に二人
の男が立っていた。奈美が上村と初めて会ったとき、そばに立っていた男達である。
二人の男と上村はじりじりと奈美に近づき、後ずさる奈美は教室の隅へと追い詰められる形となった。
「ここで何を探っていた。」
上村は奈美に対して鋭い視線を向けながら問いつめた。
「探るなんて、私はただ忘れ物を探しに…」
「嘘をつくな!」
上村はヒステリックに叫んだ。
「おまえがこの学園に何かを探りに来たという事はわかっているんだ。」
上村はまた一歩、奈美に近づいた。奈美の体を、危険を教える信号が駆け抜けた。
「このまま貴様を帰すわけにはいかなくなったな。」
「どうするつもり?」
奈美の顔が険しくなった。
上村が懐から30センチ程の金属製の棍棒を取りだしたからだ。他の二人も同様の物を手に握っていた。
奈美の目が戦闘色に変わり、しぜん体も戦闘体制に入った。
「あなた達はこの学園で何が行われているか知っているようね。」
奈美の目は三人の動きを鋭く見張っていた。
「丁度いいわ。あなた達の口から直接聞きましょう。」
奈美の大胆な発言に上村の怒りが爆発した。
「おのれ!へらず口をたたけんようにしてやる!」
上村は、そう言うな否や、手にした棍棒を奈美の頭めがけて振り下ろした。
それを見た奈美の体が、スッと横に動いた。
上村の棍棒は奈美の脇を通り過ぎ、その勢いで上村の体が前につんのめった。
その足を奈美の右足が掃らう。
上村はバランスを崩し、床に顔面から不様に倒れ込んだ。
それを見た二人が奈美に対して、同時に攻撃を仕掛けてきた。
奈美は左にサイドステップして、二人の棍棒を躱すと、左の男の脇腹に横蹴りを入れた。
「グエッ」
奈美の横蹴りに吹き飛んだ男は、すぐ横にいた男を巻き込んで、共に床に倒れた。
「くそ!」
男が奈美の蹴りに気絶した仲間を押し退けて、立ち上がろうとした。そこへ、再び奈美の右足が飛んだ。
「グッ」
頭を蹴り上げられた男は、床に頭を打ちつけ、そのまま動かなくなった。
「おのれ~!」
奈美の背後に立った上村は、憎悪の言葉を吐きながら奈美に躍りかかった。
背後に危険を感じた奈美は、急いで後を振り向いた。
目の前に凶暴な目をした上村と棍棒が迫っていた。
躱す間もなく、奈美は棍棒を右腕で受け止めた。
上村の棍棒を持つ手に鈍い衝撃が伝わり、一瞬上村は奈美の右腕を砕いたと思った。しかし、奈美の右腕は何の変化もなく、代わりに上村の金属製の棍棒が妙な形に曲がっていた。
上村の全身に戦慄が走った。
更にそれは奈美の姿を見たとき、一層増加された。
奈美の髪がいつの間にか銀色に変化し、風もないのに波打っていた。
「お、おまえは一体…」
上村は思わず後ずさった。
「どうしたの。もう終わり?」
奈美の口元に不適な笑みが浮かんだ。
「くそ!」
上村は持っていた棍棒を奈美に投げつけると、その場から逃げ出そうとした。
奈美が飛んできた棍棒を軽く躱すと同時に、その髪から一条の光が迸った。
上村の鼻先を光が掠め、柱に一本の銀の針が突き刺さった。
銀の針を見た上村は、畏怖の目で奈美を見ると、萎んでいく風船のようにその場に座り込んだ。
「さあ、何もかも話して貰うわよ。」
奈美は、恐怖に怯える上村を見下ろしながら、上村に近づいた。上村に先程の威勢はすでに消え、蛇に
睨まれた蛙のようにその場から動けないでいた。
「あなた達はこの学園で何をしようとしているの。」
奈美は威圧的に上村に尋ねた。
「し・知らん!俺は何も知らん。」
「うそおっしゃい。私を襲ってきたのが何よりの証拠だわ。」
奈美は上村の胸元を掴むと、グイッと引き寄せた。
「く・苦しい。離してくれ。」
「離してほしければ何もかも話す事ね。」
奈美は上村の胸元を掴んでいる手に力を入れた。
「お・俺は本当に何も知らんのだ。ただ、ローレライの命令で…」
「ローレライ?ローレライって何者なの。」
「く・苦しい。離してくれ。知っていることは全部話すから。」
奈美は上村の胸元から手を離した。しかし、警戒心はまだ解いていない。
上村は二・三度咳き込み、呼吸を整えると奈美に向かって顔を上げた。
「実は…」
上村が何か言いかけた時、鋭い音が空を切り、奈美の耳元を何かが掠めた。
次の瞬間、上村の額に一本の矢が突き刺さった。
「上村!」
上村は、何が起きたのか判らないような顔をしたまま、その場に倒れた。
奈美が急いで振り返ると、鍵が掛けられていたはずのドアがいつの間にか開いており、黒い影が廊下を走り去った。
「まて!」
奈美は廊下を飛び出し、辺りを見渡した。しかし、人影はすでになく、静寂だけが残されていた。
教室に戻ってみると、いつの間にか他の二人の胸にも矢が突き立っており、二人とも
冷たくなっていた。
「口封じってわけね。」
三つの死体を見下ろしながら、奈美はぽつんと言った。
8
屋敷に戻った奈美は、早速例のテープを陽子に渡し、分析を依頼した。そして、先程起こった出来事を詳しく話した。
「そう、敵も相当なものね。」
「ええ、都合が悪ければ、人の命なんか何とも思わずに簡単に切り捨てる。許せないわ。」
奈美は怒りを顕わにして言った。
「鍵はそのローレライという人物ね。」
「一体何者なんでしょう。」
「松浦達を陰で操っている人物でしょうね。そして、組織の手がかりを掴む重要な人物でもあるわ。」
「そのローレライを捕まえれば、組織の事も判るというわけですね。」
奈美の目が輝きだした。
「でも、その正体も判らないのよ。奈美。」
「松浦なら何か知っているかも。」
「どうするつもり。直にあって聞いてみる?」
「エエ」
奈美が事も無げにそう言ったため、陽子はしばらく二の句が告げなかった。
「でも奈美、あなたの事は相手に知られているのよ。どんな罠が待っているか判らないわ。」
陽子は不安な面持ちで奈美に言った。
「大丈夫、陽子さん。心配しないでください。それより、テープの分析の方を急いでお願いします。」
奈美は陽子の不安を解消するように笑顔で言った。
「奈美…」
陽子の不安はそれでも消えなかった。
それから一週間が過ぎた。
奈美がいつものように登校しようとした時、陽子が呼び止めた。
「奈美、テープの分析結果が出たわ。」
「で、どうだったんですか?」
奈美は好奇心を顕わにして、陽子の話を待った。
「思った通りあのテープから特殊な音波が検出されたわ。」
「特殊な音波?」
陽子は手にしていた分析表を奈美に見せながら話を続けた。
「ごく微弱な音波なんだけど、充分人間に催眠効果を与えるそうよ。」
「催眠効果。そうか、それでみんなあんな顔つきを。」
奈美の脳裏に授業中の生徒達の顔がありありと浮かんで来た。あの夢見るような顔つきは、催眠状態に陥った為なのだ。そして、あの歌声は自分を催眠状態に陥らせる悪魔の歌だったのだ。
「これで敵が学園で何をやっているのか、判ってきたわね。」
陽子の言葉に奈美は軽く頷いた。
「やつらは視聴覚教育を通してこの特殊音波を使い、生徒達に人格操作を行っているのよ。」
「やつらは生徒達を人格操作して、どうしようというんでしょう。」
「日本乗っ取りの手兵にしようとしてるのだと思うわ。」
奈美にとっては予期していた答えであった。しかし、予期していたとはいえ、新めて陽子の口から聞くと、その非道さに怒りが全身を駆け廻る思いがした。
「ゆるせないわ。何も知らない生徒達の心を勝手に操って、自分たちの野望の為の道具にしようなんて。」
奈美は拳を強く握り締めた。それを見た陽子が奈美の肩にそっと手を置いた。
「落ち着いて、奈美。」
その言葉に奈美は拳の力を抜いた。
「すみません。興奮して。」
「捜査員は常に冷静にね。」
「もう大丈夫です。とにかく、松浦を調べてみます。何か知っているはずですから。」
「充分気をつけてね。奈美。」
「ハイ、ところで陽子さんはどうするんですか。」
「私は機材の販売元から探ってみるわ。」
「そうですか。じゃあ、充分気をつけてください。」
「お互いにね。」
陽子は笑顔を見せたが、心の中は不安で一杯であった。敵の正体もまだはっきりしていない所へ、十七才の娘を送らねばならないと思うと、すぐにでも引き止めたい気持ちに駆られる陽子であった。
「じゃあ、行ってきます。」
奈美は明るい笑顔を陽子に送って、元気よく出て行った。
一人残った陽子は不安な目を奈美の後ろ姿に送りながら、しばらくの間その場に佇んでいた。
9
学園は夕暮れを迎えようとしていた。
日はすでに西に傾き、夕日が校舎を赤く染めていた。校舎や校庭に残っていた生徒達も帰宅の途につき、学園は無人と化そうとしていた。
その誰もいなくなった教室に、一人の少女がポツンと立っている。
奈美であった。
奈美は強い決意を胸に秘め、日が暮れるのをじっと待っていた。
校舎を赤く染めていた夕日もやがて街並みの中に消え、闇が急速に侵入してきた。
奈美は行動を起こした。
教室を出た奈美は真っ直ぐ校長室を目指した。
墓場のように静まり返った廊下を、奈美は慎重な足取りで歩いていった。
校長室の前にたどり着くと、奈美はドアのノブに手をかけた。
案の定、鍵が掛かっている。
奈美はポケットから針金を取り出すと、それを鍵穴に差し込み、辺りに気を配りながら針金を動かし続けた。やがて、鍵が開く音が奈美の耳に届いた。
辺りに人影が無いことを確かめると、奈美は静かにドアを開け、滑り込むように部屋の中に入った。
部屋の中はすでに闇が充満している。
奈美はポケットからペンライトを取りだし、スイッチを入れた。
闇の中に小さな光の輪が出現した。
奈美はその光の輪を頼りに部屋の中を調べ始めた。机の引き出しの中から、本棚の書類まで奈美は何かに取り憑かれたように、一心不乱に調べ続けた。そのため、校長室のドアが少しずつ開いてる事に気づかなかった。
突然、部屋が明るくなった。
奈美の全身を驚愕と緊張が同時に走り、視線がドアの方向に飛んだ。
ドアの前に松浦が、その目を血走らせながら立っていた。
奈美は手にした書類を本棚に戻し、ゆっくりと松浦の方へ体を向けた。
「ここで何をしている。」
松浦はできるだけ威圧的に奈美に向かって言った。しかし、奈美は松浦の言葉に動じる様子もなく、逆
に不適な笑みを見せた。
「もちろん、あなたがこの学園でやろうとしていることの証拠を捜しているのよ。」
事も無げに言う奈美に、松浦の方が逆に動揺した。
「き・きさま、やはりその目的でこの学園に入ってきたのか。」
松浦はこめかみに血管を浮かばせて奈美を睨み付けた。しかし、奈美の態度はあくまでも冷静であった。
「そうよ。そして、あなた方がこの学園で何をしようとしているのかも、だいたい判ったわ。」
奈美は松浦を睨み付けながら一歩近づいた。松浦は奈美の言い知れぬ迫力に思わず後ずさりした。
「あなた達は英語の授業を通して生徒達に催眠音波を聞かせ、その人格を操作しようとしたのよ。」
奈美の言葉に松浦は動揺した。
「そして、その事に気づいた私の口を封じようと、あなたは上村に命じて私を襲わせた。」
松浦の動揺が更に増した。
「でも失敗した。だから口封じのために上村の命を奪ったのよ。これでね。」
そう言うのと同時に、奈美の右手が素早く伸びた。
鋭い音とともに松浦の耳元を何かが掠め、後のドアに突き刺さった。
思わず、松浦は後を振り返った。
そこには上村の命を奪った例の矢が突き刺さっていた。
「グッ」
松浦の顔に苦渋の色が表れた。
「さあ、答えて貰うわよ。何もかも。」
奈美はまた一歩近づいた。
松浦の額に脂汗が浮かんだ。
「あなた達は生徒達を人格操作して、何をしようとしているの。ローレライって何者なの。」
奈美は語気を強めて松浦に迫った。
「クソ!」
ヒステリックな叫びとともに、松浦の右手が奈美に向かって伸びた。
銀の光が奈美に迫った。
奈美は、その光を数センチの間合いで躱しながら、後方に飛び退いた。
奈美の視線が松浦の右手に飛んだ。
いつの間にか松浦の右手に一本のナイフが握られている。そのナイフを顔の前まで上げながら松浦は、奈美を睨み付けた。
その目は殺意の炎に燃え、右手がその緊張で微かに震えている。
松浦の足が、少しずつ奈美との間合いを詰めようと、前に進んだ。奈美もそれにあわせて少しずつ後退した。
張り詰めた空気が二人の間に流れた。
奈美の背中が窓ガラスに触れた。
後がない。
そう思った途端、松浦の体が急速に動いた。右手に握られたナイフが奈美の左胸に迫った。奈美はその切っ先をスレスレで躱すと、手刀で松浦のナイフを叩き落とした。と同時に、奈美の右掌底が松浦の鼻面にヒットした。
松浦は辺りに鼻血を撒き散らしながら後方に吹き飛び、ドアの前に尻餅をついた。
奈美は次の攻撃に備えて身構えた。
しかし、松浦は反撃しようとはせず、恐怖の目で奈美を見つめていた。そんな松浦を見て、奈美は構えを解き、ゆっくりと近づいた。
「さあ、おとなしく私の質問に答えてちょうだい。校長先生。」
奈美が一歩近づくに従い、松浦は迫り上がるように立ち上がった。
「あなた達の目的は何なの。」
奈美は威圧的な語調で松浦に迫った。
「校長!」
奈美が一歩踏み出した。
その途端、松浦の右手がドアに突き刺さった矢に伸びた。そして、矢を引き抜くと奈美に向かってそれを投げつけた。
突然の反撃に奈美はその矢を躱すのが精一杯であった。その隙に松浦はドアを開け、廊下に飛び出した。
「まて!」
奈美も松浦の後を追って廊下に飛び出した。
闇に染まった廊下を奈美は走った。しかし、松浦の逃げ足は早く、すぐに松浦の姿を見失ってしまった。
「チッ」
奈美は舌打ちをしながら辺りを見渡した。その時、獣の咆哮のような悲鳴が闇の廊下を突き抜けた。
「あれは」
奈美はいやな予感を胸に、悲鳴のした方へ走った。しばらく行くと、例の視聴覚室の前に黒い物が蹲っていた。
それが松浦である事はすぐにわかった。
「松浦!」
奈美はすぐに松浦のそばに駆け寄った。
松浦は目や耳、鼻から血を流し、その顔は真っ赤に染まっていた。
「松浦!だれにやられたの!」
奈美は松浦を抱き起こしながら大声で叫んだ。奈美の声が届いたのか、松浦は血に染まった唇を少しずつ動かした。
「ロ・ロー…レ…ライ…」
途切れ途切れにその名前を告げると、松浦はそのまま動かなくなった。
奈美は松浦をその場に横たえると、すくっと立ち上がった。
奈美の全身が怒りで震えていた。
「一体何人の命を奪えば済むの!いるなら出てきなさい。私は逃げも隠れもしないわ!!」
無人の校舎に奈美の叫び声が木霊した。
その時、奈美の叫びに答えるように遠くからピアノの音が流れ始めた。
奈美はその音に導かれるように音のする方向へ歩き始めた。
ピアノの音を辿って奈美が行き着いた場所は、音楽室であった。
ピアノはまだ鳴り止まず、まるで奈美に音楽室に入ってこいと誘っているようであった。奈美はドアに手をかけ、それを静かに開けた。
音楽室も廊下同様、闇に覆われていた。しかし、いつの間にか出ていた月の明かりが窓から射し込み、部屋の中を薄く照らし出していた。
その月明かりに浮かび上がったピアノの前に、一人の少女が背を向けて座っていた。
少女は奈美が入って来た事にも気がつかない風に、一心にピアノを弾き続けていた。
「ローレライ…」
奈美がポツリと呟くと、ピアノを弾く少女の指がピタリと止まった。
途端に音楽室が静寂に包まれた。
奈美は怒りの目で少女の背中を見つめた。
少女はピアノの蓋を閉めると、奈美に背を向けたままゆっくりと立ち上がった。
「とうとう、ここまで来たわね。奈美。」
「その声は…!?」
奈美の怒りの目が戸惑いの色に変わった。
少女はゆっくりと奈美の方へ振り向いた。その少女の顔を見て、奈美は驚愕した。
「リエ!」
藤堂リエはいつも奈美に見せるやさしい顔とはうって変わって、厳しい表情を見せて立っていた。
10
奈美は今だ信じられない面持ちでリエを見つめていた。
「そう、私がローレライ。あなたが捜しているローレライよ。」
「うそ!信じられないわ。」
「信じようと信じまいとこれが現実よ。さあ、奈美、覚悟はいい。」
リエは厳しい表情のまま身構えた。
「まってリエ、これはどういう事なの。」
奈美の全身に動揺が走った。先程までの怒りは完全に消え、戸惑いだけが奈美の心を捕らえていた。
「あなたが思っている通りよ。私が上村達に命じてあなたを襲わせた。そして、計画が洩れるのを防ぐために上村や松浦の口を封じたのも私。」
リエの手刀が奈美めがけて飛んだ。
奈美は紙一重でそれを躱すと、自然にリエに対して身構えた。
「うそでしょう。リエ、あなたはあんなに私に優しかったじゃあない。」
奈美の脳裏にリエと過ごした数日間の想い出が駆け巡った。
「フフッ、すべてあなたに近づくために、あなたに私の正体を悟らせないための芝居よ。」
リエは容赦なく奈美に攻撃を仕掛けた。しかし、奈美はただ躱すだけで反撃しようとはしなかった。
「リエ、あなたとは戦えないわ。だって、あなたは私にできた初めての友達なんですもの。」
奈美はリエの攻撃を躱しながら悲痛な思いを訴えた。しかし、リエは表情一つ変えず、執拗に攻撃を続けた。
「奈美、いい加減甘い考えは棄てる事ね。私はあなたを抹殺するために組織に差し向けられた刺客。」
リエの拳が奈美の腹部に鋭く入った。と同時に、左手刀も奈美の後頭部を打ち据えた。
奈美はリエの攻撃にその場に倒れた。しかし、リエは攻撃の手を休めようとせず、奈美の頭に蹴りを入れようとした。
奈美はそれを間一髪で躱し、転がるようにしてその場から逃げた。
「リエ、何故組織は私を狙うの。」
奈美は起き上がりながらリエに向かって叫んだ。
「あなたが邪魔だからよ。アーマノイドとしてのあなたがね。」
リエは少しずつ間合いを詰めながら答えた。
「アーマノイド?それは一体何なの。」
「新しい世界を作るための先兵。」
「新しい世界?」
「そうよ。この腐りきった世の中を作り変えるのよ。」
「作り変える?その為に生徒達を人格操作したの。」
「そうよ。」
「そんな…リエ、そんな事間違っている。お願い、目を覚まして。」
奈美は目を潤ませて再度訴えた。
「おしゃべりが過ぎたようね。」
リエの目が怪しく光った。
途端に音楽室の窓という窓が一斉に震え始め、頭が割れんばかりの激痛が奈美を襲った。奈美は思わず頭を押さえ、床を転がるようにして廊下に飛び出した。
廊下に出た途端、奈美を襲った激痛が消えた。
「今のは…」
「死の歌よ。」
予期せぬ返答に奈美は急いで振り返った。目の前にリエが静かに立っている。
「死の歌!?」
「奈美、私が何故ローレライと呼ばれているかわかる。私の出す声は人間の可聴音域を遙かに越えた超高周波。伝説と同じように私の歌声を聞いた者は死への道を辿る。奈美、あなたも私の死の子守歌を聞いてあの世に行くといいわ。」
そういうと、リエの超高周波が再び奈美を襲った。
耳を押さえても激痛は奈美を捕らえて離さなかった。
堪りかねた奈美は、床を蹴って窓を突き破り、中庭へ飛び出した。
中庭に飛び出し、奈美はやっと死の苦しみから解放された。途端に奈美の全身に虚脱感が襲い、思わず中庭に植えてある松の木に凭れた。
その時、奈美の背中を殺気が鋭く貫いた。危険を知らせる信号が奈美の体を突き動かし、その場から急いで身を引いた。
次の瞬間、奈美の凭れていた松の木が大きく振動し、真ん中から爆発するように粉々に砕け散った。
大きな音を立てて倒れていく松の木を目で追いながら、奈美ははっきりと恐怖を感じた。
奈美の背後にリエが眼光鋭く立っていた。
奈美の体に恐怖と共に戦闘意識が本能的に沸き上がってきた。それは奈美にはどうする事もできない、アーマノイドとしての自己防衛本能であった。
「リエ、一つだけ聞いてもいい。」
「なに?」
「私に優しくしてくれたことは全て嘘だったの。」
リエが一瞬口ごもった。
「そうよ。」
リエは吐き捨てるように言った。
「そう、わかったわ。」
リエの言葉に奈美の心の中で何かが弾け飛んだ。奈美の頬を一筋の涙が流れ、それとともに奈美の髪も徐々に銀色に変色していった。
奈美がゆっくりと振り向いた。
その顔は先程までの悲痛な思いを訴えた少女の物ではなく、一個の戦闘マシーンと化した人間の物であった。
「やっとその気になったようね。」
リエの口の端が軽く釣り上がった。
奈美の銀の髪が、風に吹かれたように、波打ち始めた。リエの目も猛獣のように闘争本能に燃えていた。
二人の間に緊迫した戦闘空間が形成されていく。
先に行動を起こしたのはリエであった。
リエの足が地を蹴ったかと思うと、その体は疾風のように奈美の前に移動し、それと同時にリエの貫手が奈美の喉元に迫った。
奈美はそれを体を捻りながら躱し、その回転力でリエの後頭部に手刀を打ち込んだ。
その直前、リエは体を沈めて奈美の手刀を躱した。そして、両手を地面につくと、それで体を支えながら奈美の腹部に蹴りを見舞った。
リエの蹴りが奈美の腹部に食い込む寸前、奈美は地を蹴り、後方に大きく飛びながら奈美の髪から数条の光が迸った。
銀の針がリエに向かって飛んだ。
しかし、リエはすでに別な場所に移動していた。
奈美が地面に着地したのを見計らうように、リエの超音波が奈美に向かって発せられた。 奈美の額に危険を知らせる信号が貫いた。それが奈美の体を横に飛ばした。
奈美の後にあったもう一本の松の木が、真ん中から粉々に砕け散った。
奈美の髪から再び一条の光が迸った。
しかし、奈美の銀の針は、リエに届く前にリエの超音波によって、粉々に消し飛んでしまった。
「いくらやっても無駄よ。私の歌声の前には、あなたの超振動針もシャープペンの芯
と同じよ。」
リエの口元に勝ち誇ったような笑みが浮かんだ。逆に奈美の顔には焦りの色が表れた。
奈美は少しずつ右に移動しながら、視線をリエの頭から足へと落としていった。そして、リエの足先に視線が止まった時、奈美の頭にある考えが浮かんだ。
奈美はゆっくりと右手を背中に回すと、髪の毛を一本引き抜いた。
「奈美、覚悟!」
リエの口から殺気とともに、超音波が発せられた。
奈美は左に飛びながらリエの超音波を躱すと、手にした髪の毛をリエの足に向けて投げつけた。
髪の毛は生き物のようにスルスルと伸び、リエの足首に絡みついた。
「!」
リエが自分の足に絡みついた銀の糸に気づいた瞬間、奈美はその糸を思い切り引っ張った。
不意に足を引っ張られたリエは体のバランスを崩し、地面に尻餅をついた。
「いまだ!」
間一髪を入れず、奈美の髪から銀の針が飛んだ。
それがリエの右胸を貫いた。
「グッ」
リエは右胸を押さえたまま仰向けに倒れた。
緊張と静寂がその場に流れた。
リエは仰向けに倒れたままピクリとも動かなかった。
(やったの?)
不安と期待が奈美の胸を過ぎった。
奈美はしばらくの間、横たわるリエの姿を見つめた。
数分の時が流れた。
それでもリエは動かなかった。
(終わったみたいね。)
奈美の体から急速に戦闘意識が失せていった。と同時に、心の奥底から哀しみが沸き上がった。
髪も元の漆黒色に変わっていた。
「リエ…」
奈美は哀しみの目でリエを見つめながら一歩踏み出した。その時、リエの目がパッと開いた。
「!」
奈美の体にサッと緊張が走った。
しかし、奈美が身構えるより早く、リエの口から超音波が発せられた。
奈美は体を捻りながらそれを躱そうとしたが超音波は奈美の左肩を直撃した。
セーラー服の肩の部分が引き千切れ、白い肌にひび割れが走り、そこから鮮血が迸った。
「ウッ!」
奈美は右手で左肩を抑えると、脱兎のごとく走り出した。
「逃がさないわよ。」
再びリエの口から超音波が発せられた。
奈美のすぐ脇の地面がバッと四散した。
しかし、奈美のスピードはそれでも衰えず、逆にその速さを増して校舎の裏に廻って行った。
リエがその後を急いで追い、校舎の裏に廻った時、奈美の姿が忽然と消えていた。
リエはその場に立ち止まると、辺りを伺った。天空にはすでに月が昇り、その淡い光で辺りを照らしていた。
リエは自分の五感をフル稼働してその中を探った。しかし、辺りに人の気配はなく、墓場のように静まり返っていた。
ただ、左手にあるプールから、プールサイドを叩く水音がするだけであった。
リエはゆっくりとプールの方へ目を向けた。
水面に月が映り、波間にゆらゆらと揺れている。ここで二人のアーマノイドが死闘を繰り広げているとは思えない静けさであった。
ひととき、リエは水面に映る月に見取れた。
その時、水面に映る月が大きく揺れたかと思うと、次の瞬間、そこが大きく盛り上がりパッと弾け散った。
「!?」
リエの体を驚愕と戦闘意識が同時に走った。
弾けた水面から黒い影が飛び出し、リエの頭上高く飛び上がった。
それを目で追うリエには、その影が奈美であることはすぐ判った。
奈美の髪はいつの間にか銀色に変わっており、それが飛び散る水滴とともに月明かりに照らされて、キラキラと輝いていた。
リエの目にはそれが天空を舞う天使の姿に映った。
リエの動きが一瞬止まった。
その隙をついて奈美の髪から銀の針が飛んだ。針は光の線となってリエの首を貫いた。
「グッ」
リエは何が起こったのか判らないような顔をしながら数歩後ずさった。
奈美がプールサイドに降り立つと、その姿勢のままリエをじっと見つめた。リエも自分の前に立つ奈美をじっと見つめた。二人の間にまだ死闘が続くかに見えた。
不意にリエの目が柔らかくなった。
「み・見事ね。奈美。私の負けだわ。」
そう言うとリエはその場に崩れるように倒れた。
「リエ!」
奈美はリエへの警戒心も忘れ、急いで駆け寄るとその体を抱き起こした。
「リエ、しっかりして、リエ。」
奈美はリエを死の淵から呼び返すように叫んだ。
「リエ、私、あなたとは本当に戦いたくなかった。だって、あなたは私にとって初めてできた友達だったんですもの。」
奈美は目に涙をためながら言った。
「わ・私もそうよ。奈美…」
リエはうっすら目を開けながら答えた。その目には涙が滲んでいた。
「奈美…、わ・私、あなたのことが本当に好きだった…。」
突然、リエの口から鮮血が迸った。
「リエ、しっかりして。あなたにこんな命令したのは誰なの。」
リエの顔からはすでに血の気は失せ、息も絶え絶えであった。
「リエ、あなたや私をこんな風にした張本人は誰なの!」
リエは気力を振り絞って奈美の問いに答えた。
「ア・アルフィス…エンタープライズ…お・面…史郎…」
「アルフィスエンタープライズ、面史郎。それが全ての張本人なのね。」
リエは苦しい息の下、ゆっくりと頷いた。そして、再び血を吐いた。
「リエ、しっかりして、リエ!」
奈美は泣きじゃくりながら叫んだ。それに答えるかのように再びリエの口が動いた。
「な・奈美…、アーマ…ノイドで無かったら、わ・私達…けっこういい…友達だったでしょうね。」
リエは奈美の顔を見つめながらニッコリと笑った。
「リエ…」
奈美は胸が詰まって何も答えられなかった。その時、不意にリエの体から力が抜けた。
「リエ?…リエ!」
しかし、今度はいくら叫んでも体を揺すっても、リエは二度と目を開けようとはしなかった。
「リエ───!!」
奈美の叫びは無人の校舎に悲しく木霊するだけだった。
天空に昇った月の光を正面に受けながら、奈美はリエを抱えたまま立ち上がった。
「アルフィスエンタープライズ、面史郎。許さない。人を人とも思わない組織を私は絶対許さない。」
奈美の目には新たな決意の炎が燃え上がっていた。
「面史郎、必ず探し出してこの手で倒してやるわ。」
奈美は誓いをたてるように月に向かって叫んだ。