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二、切り裂きジャック

        1

 川端の心は暗く沈んでいた。

 長い廊下を歩きながら任務の失敗の言い訳をあれこれ考えると、気持ちは更に暗くなった。

 気が付くと、川端はこれから会うべき人間のいる部屋のドアの前に立っていた。ノックしようとする手は震え、口の中はカラカラに乾き、今にもその場から逃げ出したい衝動に駆られる川端であった。

 意を決してドアをノックすると、応答もなくドアは静かに開いた。

 中はかなり広く、片側には秘書らしい女性が机の上に置いてあるパソコンのモニターを眺めながら、慣れた手つきでキーボードを叩いていた。中央には畳一枚分くらいの大きさの机が置いてあり、その後に一人の男が川端に背を向けて座っていた。

 「また、失敗したようだね。」

 背を向けたまま男は冷たい口調で言った。

 「申し訳ありません。室長。しかし、邪魔が…。」

 「言い訳はよしたまえ。」

 川端の言葉を塞ぐように男は威圧的に言った。男の言葉に川端の全身は硬直し、言葉を続けることができなくなった。

 「川端君、君は私がもっとも忌み嫌う言葉を知っているかね。」

 突然の質問に川端はすぐに答えられず、しばらく口をパクパクさせた。

 「し・失敗です。」

 やっとの思いで川端の口から出た言葉を聞いて男は深い溜息をついた。

 「そう、失敗という二文字だ。それを君は二度まで私に言わせた訳だ。」

 「申し訳ありません。」

 「君には失望したよ。もう二度とここに来なくていい。」

 男の凍りつくような言葉に、川端の全身に悪寒が走った。

 「室長、もう一度チャンスをください。お願いします。」

 川端は必死に哀願した。

 「もういい。下がりたまえ。」

 男の冷酷な口調に川端は何を言っても無駄な事を悟った。同時に全身の力が抜けていくのを感じた。

 「失礼します。」

 川端は肩を落として部屋から出て行った。男は相変わらず背を向けたままである。

 「樫村君、川端君の全データを削除してくれたまえ。」

 「ハイ、わかりました。」

 樫村と呼ばれた女性はすぐにキーボードを操作した。モニターに川端の名前がすぐ表示され、それを確認するとキーボードにある一つのキーを押した。一番下の段に‘削除’の文字が表示され、数秒後に川端の名前はモニターから消えた。

 「室長、他にご用は?」

 「ジャックを呼んでくれ。」

 「かしこまりました。」

 樫村は男に言われて目の前にある電話の受話器を取った。

 男は背を向けたまま静かにイスから立ち上がると窓に歩み寄った。

 外は闇に包まれネオンが遠く輝いていた。

        2

 奈美は窓から差し込む朝の光で目覚めた。しかし、全身が怠くすぐには起き上がれなかった。

 昨日の突然の出来事に奈美の全身は疲れきっていた。

 追っ手の追撃から逃れた奈美と陽子は、あの後、ある屋敷に入った。陽子にこの部屋を案内され言われるままベットに入り、眠りについた奈美であった。

 奈美は横になったまま今までの事をあれこれ考えた。昨日、襲って来た男達の事、兄の死との関係、そして、陽子の事。しかし、考えれば考える程、疑惑が膨れるばかりであった。

 奈美がベットの中でいろいろ考えている時、ドアをノックする音がした。

 「どうぞ。」

 奈美は体を起こしノックに答えた。ドアはすぐに開き、陽子が中に入ってきた。

 「おはよう、どう、よく眠れた?」

 陽子はベットの端に腰掛けながら奈美に聞いた。

 「ええ、何とか。それより陽子さん。ここは一体どこなんですか?昨日は暗くてよく判らなかったんだけど。」

 「ここは私がお世話になっている人の屋敷よ。」

 「陽子さんが?」

 「ええ、それより起きれる?」

 「ハイ」

 「そう、それなら下に食事の用意ができているから、着替えて降りていらっしゃい。」

 そう言うと陽子は立ち上がり、部屋を出ていった。

 陽子が出て行った後、奈美はベットから下り、急いで着替えた。

 部屋から出ると、奈美は改めて屋敷の大きさを知った。両側に伸びる廊下にドアがずらりと並び、まるでホテルを思わせた。

 階段を降りるとホテルの支配人のような初老の男が立っていた。

 「一条奈美様ですね。食堂はこちらです。」

 奈美は男に案内されるまま食堂に向かった。食堂も映画に出てきそうな立派なものだった。席には陽子がすでに着いており、コーヒーを飲んでいた。

 「こちらにお座りください。」

 男が奈美を陽子の真向かいの席に座らせると、すぐにウェーターらしい男が食事を運んできた。

 しかし、奈美はすぐに食事には手をつけずしばらくそれを眺めていた。

 「どうしたの?食べないの。」

 陽子は軽く首を傾げながら尋ねた。

 「陽子さん、教えてください。陽子さんは知っているんでしょう。昨日襲ってきた人達が何者なのか。」

 奈美は真剣な目を陽子に向けて疑問をぶつけた。

 「私、判らない事ばかりで頭が変になりそうなんです。お願いです。陽子さん、知っているなら教えてください。」

 陽子は奈美の必死の思いに圧倒され、しばらく言葉が出なかった。奈美は陽子の返答を不安と期待を一緒にして待った。

 やがて、陽子の口が静かに開いた。

 「そうね。奈美も知っておいた方がいいかもね。聞きたい事もあるし。」

 「それじゃ…」

 奈美の顔に明るい色が表れた。

 「奈美、食事が終わったら私についてらっしゃい。会わせたい人がいるから。」

 「会わせたい人?」

 陽子はそれだけを言うと後は口を噤んでしまった。奈美もそれ以上は聞こうとはせず、用意された食事に口をつけた。

        3

 数十分後、二人は食事を終え、奈美は陽子に連れられて屋敷の奥へと向かった。陽子は目指すドアの前に立ち止まるとすぐにドアをノックした。

 「はいりたまえ。」

 ドアの奥から返事がすぐに帰ってきた。

 陽子はドアのノブに手を掛けると静かにドアを引いた。奈美の心臓が不安と期待に高鳴った。

 部屋の中はかなりの広さであった。

 ドアのすぐ(そば)にソファが置いてあり、部屋の片側は書籍でほとんど占められていた。部

屋の一番奥に畳半分くらいの机が置いてあり、その前に一人の初老の紳士が奈美と陽子を見つめながら立っていた。

 「よく来たね。さっ、そこに座りたまえ。」

 紳士は奈美を座らせようとソファを指し示した。奈美は紳士に言われるままソファに座った。その隣に陽子が座った。

 「一条奈美さんですね。陽子から話は聞いています。昨日は大変でしたね。」

 紳士は笑みを浮かべながら机の後のイスに腰を掛けた。

 「あの、あなたは一体…」

 「ははは、失礼。自己紹介がまだでしたな。私の名は剣持といいます。」

 「剣持さん。」

 「そう、君の隣にいる陽子とは上司と部下の関係にあります。」

 「上司と部下?」

 奈美は陽子と剣持を不思議そうな顔で順に見た。

 「そして、君のお兄さん、一条亘も私の信頼すべき部下の一人でした。」

 「え!兄さんが。」

 突然、亘の名が出て奈美は思わず身を乗り出した。

 「兄さん、いえ、兄を知っているんですか。」

 「ええ、よく知っておりますよ。」

 剣持は優しい微笑みを奈美に向けて頷いた。

 「教えてください、兄の事を。お願いします。」

 奈美は哀願するように剣持を見つめた。剣持は奈美の目をしばらく見つめた後、決心したかのように立ち上がり、奈美のそばへ近づいた。

 「まず、最初に私達の事をお話ししなくてはなりませんね。」

 奈美は全身を緊張させて剣持の話を待った。

 「私や陽子は国家公安委員会直属の特別捜査局に身を置いています。私は一応その局長を勤めておりますが。」

 奈美は意外な話に信じられないような顔をした。

 「そして、君のお兄さん、一条亘も陽子と同じ捜査局の人間でした。」

 「え!?兄さんも…」

 奈美は剣持の言葉に陽子の方を見た。陽子は微笑んだまま黙って頷いた。

 「我々捜査局は五年前からある組織について内偵を進めていました。」

 「ある組織?」

 「そう、数年前から急激に大きくなった組織があるのです。それは今や政財界に深く結びつき、日本のあらゆる場所にその根を伸ばしているのです。」

 剣持は机の上の青銅製のタバコケースからタバコを取り上げると、それを口にくわえ火をつけた。

 「その組織は五年前から全国各地の私立の高校、大学等を自分の支配下に治め始めました。」

 「支配下?」

 「そう、乗っ取りや買収等あらゆる方法によってその組織の下で運営されるようになった学校は、ここ五年の内に急増しているのです。また、組織によって設立された学校もかなりの数に上っています。」

 剣持の顔からはすでに笑顔は消え、その表情は厳しくなっていた。

 「このことは表面的には単なる企業戦略に見える動きなのだが、我々はそのように単純には考えなかった。

この一連の動きの裏には何か恐ろしい陰謀が隠されていると考えたのです。」

 「陰謀?どんな陰謀なんですか。」

 奈美の心は剣持の語る話に引きつけられていた。

 「未だ確証は得ていないのだが…」

 剣持の顔に一瞬躊躇(ためら)いが生じた。

 「日本乗っ取り(クーデター)。」

 「日本乗っ取り!?」

 奈美は剣持の言葉に我が耳を疑った。

 「日本を乗っ取ろうと企てているんですか?」

 「ウム、あらゆる方面の調査の結果、我々はそう推理した。そして、その確証を得る為にその組織に捜査局の人間を潜入させ、調査をさせたのだ。」

 「その任に当たったのが奈美、あなたのお兄さん、一条亘よ。」

その時まで沈黙を守っていた陽子が突然口を開いた。

 「え、兄さんが…」

 奈美は驚いて陽子の方に顔を向けた。

 「そう、君のお兄さんが単身その組織に潜入して調査を行った。しかし、二年前一本の連絡を最後に亘は我々の前から消息を絶った。」

 その時、剣持の口にした‘二年前’という言葉に奈美の頬が微かに動いた。剣持はその奈美の反応を見逃さなかった。

 「‘マリオネット’これが亘からの最後の連絡だった。その後の行方は杳として(つか)めなかった。」

 剣持は短くなったタバコを青銅製の灰皿に押しつけて消すと、深い溜息をついた。

 「そして、今やっと亘の消息は我々の元に届いたのです。死という形で…。」

 剣持の顔には掛替えのない人間を失った悲しみが色濃く表れていた。奈美の脳裏にも自分を必死に助けようとした亘の顔が大きくクローズアップされ、思わず涙が滲んで来た。

 「私の教えられる事はここまでだが、今度は私の方から尋ねたい事があるのです。」

 剣持の突然の言葉に奈美は涙で潤んだ目を剣持の方へ向けた。

 「君と亘のことなのだ。」

 奈美は剣持の質問の意図がよく飲み込めなかった。

 「どういうことですか。」

 「君にとっては辛い事かもしれないが…、私の知っている限りでは亘には家族はいない筈なのだ。」

 剣持の言葉に奈美の顔色が変わった。

 「亘の家族は亘が中学の時、飛行機事故で亡くなったと聞いている。妹さんが生きていたとは今まで聞いたこともなかった。」

 剣持の目に疑惑の色が表れた。奈美は唇を震わせ、石になったようにしばらく沈黙を守った。

 「言いたくなかったら無理には聞かないが…。」

 剣持は奈美の返答を諦めたかのように奈美に背を向けて机に歩み寄った。その時、奈美の口が静かに開いた。

 「仰る通り、私と亘兄さんは本当の兄妹ではありません。」

 剣持と陽子は一斉に奈美の顔を見た。その目には一つの決断をした強い意志が表れていた。しかし、それに続く言葉は二人にとっては思いがけないものであった。

 「私、記憶喪失なんです。」

 「記憶喪失!?どういう事なのですか。」

 剣持の目に強い好奇心が表れた。

 「私、二年前からの記憶が一切ないんです。」

 「二年前からの…」

 剣持の脳裏に先程、奈美が見せた表情が浮かんだ。

 「そうか、それで…。あっいや、奈美さん私に何もかも聞かせてくれませんか?」

 剣持は子供に向ける父親のような優しい目で奈美を促した。

 奈美は剣持に全てを委ねるように話を続けた。

 「私が兄に始めて会ったのは、病院のベットの中でした。永い眠りから目覚めた時、兄の笑顔が目の前にありました。」

 「すると、その時にはもう…」

 「ハイ、自分の名前も、生まれた所も、どうしてその病院にいたのかも何もかも覚えていませんでした。」

 「フム、それでどうして亘の妹に?」

 「兄がそう言ったんです。『君は僕の妹なんだ。今は事故でちょっと記憶を失っているけど、僕がついているから安心しなさい。』って…。」

 奈美の顔に再び悲しみの色が表れた。

 「そうか、亘が君にそんなことを…」

 「奈美という名前も兄が教えてくれたんです。」

 奈美は服の上から兄の形見のペンダントを握り締めた。

 「二日位して兄と私は病院を出ました。そして、日本中を旅しました。その間、兄は私にいろいろな事を教えてくれました。」

 「幸せだったのね。」

 陽子には奈美の口調から二人の生活ぶりが容易に想像できた。

 「ええ、そして一年前、北海道に家を借りて、そこで暮らすようになりました。私も薄々気づいていました。私が兄の本当の妹でない事は。でもそんな事はどうでも良かったんです。兄と一緒にいられれば。」

 「亘さんのことを本当に愛していたのね。」

 陽子が優しくそっと言うと、奈美は軽く頷いた。

 「でも、その兄も今はもう…」

 不意に奈美の心を大きな悲しみが襲った。奈美の目から大粒の涙が止め処もなく零れ落ちた。陽子はポケットからハンカチを取りだし、その涙を拭きながら奈美をそっと抱き寄せた。

 「どうやら亘の失踪の原因は君の過去にあるようだ。」

 剣持の不意の発言に奈美は涙で濡れた顔を上げた。

 「私の過去…」

 「そう、二年前という時期的な事でも、昨日の襲撃事件から見ても、どうやら君が重要な鍵を握っているようだ。今でも昔の事は少しも思い出せないのですか。」

 奈美は当惑した顔つきで頷いた。

 「そうか、では‘マリオネット’という言葉に心当たりは?」

 「いいえ」

 奈美は頭を振りながら答えた。

 「そうか…」

 剣持は少しがっかりしたような顔つきで、机の上のタバコをまた取りだし、火をつけた。

 「あの、私はどうなるんですか。」

 奈美は不安を胸に剣持に尋ねた。

 「安心なさい。君の事は私が責任をもって面倒を見る。いつまでもこの屋敷にいればいい。」

 剣持は奈美の不安を解消するように微笑みながら言った。

 「私もあなたのそばにずっといるわ。」

 陽子も奈美の肩に手を掛けながら、奈美を安心させるように言った。

 二人の言葉に奈美は今までの不安が薄れていくのを感じた。それと同時に、奈美の胸に新たな決意も生まれてきた。

 「剣持さん、お願いがあるんです。」

 「うん、何だね。」

 剣持は奈美の目に強い意志を感じた。

 「私にも何か手伝わせてください。お願いします。」

 「き、君…」

 剣持は当惑した。

 「私、知りたいんです。自分の過去の事を。自分が何者で、どこから来て、なぜ狙われるのか。」

 剣持は奈美の強い意志に溢れた目に見つめられて圧倒されそうになった。

 「奈美君、君の気持ちは判るがその事は我々に任せなさい。」

 剣持はなんとか奈美の決意を押さえようとした。それは部外の者を関わらせたくないという捜査局長としての考えと、危険な場所へ若い娘を送りたくないという父親のような気持ちの入り交じったものであった。

 しかし、剣持の言葉で簡単に決意を変える奈美ではなかった。

 「私、他人に任せたくないんです。昨日襲ってきた人達も、兄を殺した人達も剣持さんの言った組織の人間なんでしょう。」

 「多分…」

 「きっとそうです。自分の過去にその原因があるなら、自分の手でそれを見つけたいんです。自分の手で兄の(かたき)を討ちたいんです!」

 奈美は怒りで充満した目を剣持に向けて叫んだ。悲痛な叫びであった。

 剣持にも、またそばにいる陽子にも奈美の気持ちが痛い程判った。しかし、剣持には奈美の要望を受け入れる訳にはいかなかった。

 「奈美君、君の気持ちは判る。しかし、君を我々の仕事に参加させる訳にはいかないのだ。」

 「足手まといになるというのですか?」

 「はっきり言えばそうだ。」

 剣持は心を鬼にしてはっきり奈美に告げた。

 剣持の言葉は奈美の心にグサッと突き刺さり、奈美は全身から急に力が抜けていくのを感じた。そして、自分自身の力の無さに怒りと悔しさを感じ、唇を噛み締めた。

 「私、何の力も無いんですね。兄の(かたき)を討つ事も、自分の過去を知ることも何もできないなんて…。」

 奈美の頬が再び大粒の涙で濡れた。

 陽子は悲しみと悔しさに身を沈めている奈美の肩をそっと抱き寄せた。

 「奈美、泣かないで。きっとあなたのお兄さんの敵やあなたの過去の事は私が探し出して上げるから…ね。」

 陽子は微笑みながら奈美の目から溢れる涙を拭いた。

 「奈美君、今は辛いだろうが、我々を信じて待ってくれないだろうか。きっと、君の気持ちに添うよう全力を尽くすから。」

 剣持は懇願するように奈美の目を見つめた。しばらくの沈黙の後、奈美の口が静かに開いた。

 「わかりました。剣持さんにお任せします。」

 奈美は多少心残りを持ちながら剣持の言葉に従った。

 剣持は奈美の返答に安心したかのように顔を綻ばせた。

 「じゃあ、奈美、もう行きましょう。」

 陽子が立ち上がると、奈美も誘われるように立ち上がった。

 「剣持さん、お騒がせしました。これからもよろしくお願いします。」

 奈美は剣持に向かって深々と頭を下げた。それを見て剣持も微笑みながら頷いた。

 奈美と陽子は剣持の部屋から退出すると再び食堂に戻った。

 「さっ、奈美、嫌な事は忘れて、町にでも出ましょうか。」

 陽子は努めて明るく言った。

 陽子の言葉に初めて奈美は笑顔を見せた。

        4

 夜が闇を呼び、闇が町を眠りに(いざな)う頃、奈美のいる屋敷の前に一台の黒塗りのベンツが停まった。

 ドアが静かに開き、中から一人の男が降りた。

 長身である。

 一九〇はあろうか。

 上半身を黒い革ジャンで包み、下半身はジーンズにブーツという姿で、男はじっと屋敷を見つめた。

 「ここか。」

 男の口が不意に開いた。

 目は屋敷を向いたままである。

 「ハイ、ジャック様。」

 運転席から答えが返ってきた。

 ジャックと呼ばれた男の口に笑みが浮かんだ。

 「お前はここで待っていろ。」

 ジャックは運転席の男にそう言い残すと、屋敷に向かって静かに歩き始めた。

 屋敷の塀の前まで来ると、ジャックは塀の高さを目測で確かめた。そして、軽く身を屈めたかと思うと、信じられない跳躍力で二メートル以上ある塀を一瞬にして飛び越えた。

 塀を飛び越えたジャックは、一気に屋敷の庭を横切り、いくつか並んでいる窓の一つに取り付いた。そして、その窓を丹念に調べ始めた。

 「フ、やはり警報装置がついているか。」

 自分の予想に確信したジャックは、今度は周りを見渡した。

 すぐ目の前に大きなブナの木がある。

 ジャックの頭に次の行動がすぐ思い浮かんだ。すると、ジャックは懐からガラス切りを取り出し、窓ガラスを丸く切り取った。そして、その穴から腕を差し込み、窓の鍵を外した。

 ジャックが窓を静かに開けると同時に、屋敷中に警報ベルが鳴り響いた。

 屋敷中の窓が点灯し、近くのドアから数人の男が飛び出してきた。

 しかし、その時にはジャックはその場から消え、そばに立っているブナの木の上に取り付いていた。

 まもなく、警報の鳴った窓のそばに男達が集まって来た。

 「侵入者のようだ。屋敷の周囲を捜せ。」

 男達は銘々に散り、侵入者の捜査を始めた。その様子をジャックは木の上から眺めていた。

 やがて、男達がその場から去るとジャックは木の上から飛び降りた。

 周りを見渡した後、ジャックは男達が出てきたドアに静かに近づいた。

 ドアの前にはまだ一人、男が警戒の姿勢をとって立っている。

 ジャックはブーツに装着しているナイフを引き抜くと、慎重に男の後に近づいた。

 いきなり大きな手が男の口を塞いだ。

 男が自分の口を塞いだ手を外そうともがいた瞬間、ジャックのナイフが男の背中に深々と突き刺さった。

 男の体が一瞬、硬直する。

 やがて、空気が抜けた風船のように男はその場に崩れ落ちた。

 ジャックは男の死体をドアから屋敷の中に引きずり込むと、屋敷の奥へと侵入していった。

        5

 奈美は突然の警報ベルに目を覚まし、ベットから跳ね起きた。

 「何かしら。」

 奈美はベットを下り、パジャマのままそっとドアを開けた。

 階下で人のざわめく声が聞こえる。

 何かが起きたのだ。

 奈美は不安と好奇心から部屋を出ようとした。そこへ丁度、陽子が駆け足でやって来た。

 「奈美」

 「陽子さん、何かあったんですか。」

 奈美は不安そうな目を向けて、陽子に尋ねた。

 「侵入者のようだわ。でも大丈夫。あなたは心配しないで部屋にいなさい。」

 陽子は奈美の肩に手を置いて、軽く微笑んだ。

 「でも…。」

 「さっ、心配しないで。いい、部屋から出ないでおとなしくしているのよ。」

 陽子は念を押すと、その場から駆け去っていった。

 残された奈美の心には不安が渦巻いていた。しかも、陽子の言った‘侵入者’という言葉が気になっていた。

 「よし」

 奈美は意を決すると、部屋に戻り着替え始めた。そして、着替え終えると部屋を抜け出し、陽子の駆けて行った方へ歩きだした。

        6

 ジャックは全身に警戒心を満たしながら、長い廊下を静かに歩いていた。

 すでに、警報ベルは鳴り止み、屋敷の中は不気味なほど静まり返っていた。

 侵入してすでに五分近くが経過している。外に出た連中も戻ってくる頃だ。面倒にならないうちに目的を達成しなければならなかった。

 ジャックの足の動きが速くなった。

 その時、ジャックの背中を殺気が貫いた。急いで振り返った時、目の前にシグP220を構えた警備員が、敵意の目を見せて立っていた。

 シグの冷たい銃口が真っ直ぐジャックの胸に向けられている。

 「ナイフを捨てて、手を上げろ!」

 警備員は声を荒げてジャックに向かって怒鳴った。

 ジャックは苦笑を浮かべ、素直にナイフを捨て手を上げた。

 警備員は目の前に放り投げられたナイフを拾い上げる為、身を屈めた。

 警備員の注意が一瞬ジャックから逸れた。

 ジャックの右腕が警備員に向かって素早く伸びた。

 警備員の顔がジャックの方に向くのと、ジャックの右手が光るのが、ほぼ同時だった。

 ジャックと警備員の間の空間を一条の光が飛び、警備員の首に一筋の細い線を描いた。

 次の瞬間、警備員の首に描かれた線から鮮血が迸った。

 警備員は一瞬何が起こったかわからず、口をパクパクさせて、しばらく突っ立っていたが、その目が白目を()くと、糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。

 ジャックはゆっくりとナイフを拾い上げ、目の前に横たわる死体に蔑みの目を投げかけた。

 その一部始終を廊下の(かど)から見ていたものがいた。

 奈美である。

 奈美は目の前の惨劇に恐怖しながら、悲鳴を上げそうになるのを必死に(こら)えた。

 ジャックは奈美の存在に気づいた様子はなく、その場から立ち去ろうとした。

 奈美は迷った。

 この場をどうしようか迷った。

 その時、奈美の頭に剣持の言葉が蘇った。

 (あの男が組織の者なら狙いは私。)

 奈美の気持ちが固まった。

 奈美は廊下の角から出ると、倒れている警備員の手からシグを取り上げ、ジャックの後をつけ始めた。

 奈美は相手に気づかれないように慎重に歩を進めた。

 ジャックは二階に上がり、しばらく歩くとあるドアの前で止まった。

 奈美の部屋である。

 思った通り相手の狙いは奈美であった。

 奈美は階段の所で身を伏せながら、緊張した面持ちでじっとジャックの行動を見つめていた。

 その時、奈美は手前の廊下の(かど)に立っている人物に気づいた。

 陽子である。

 陽子も角に身を隠しながらジャックの様子を窺っていた。

 ジャックの手がドアのノブに掛かった。

 それと同時に、陽子はPPKを構えながらジャックの背後に飛び出した。

 「動くな!」

 陽子はジャックを睨みながら強い口調で叫んだ。その手にあるPPKの銃口は真直ぐジャックの心臓を狙っていた。

 突然、後から警告を受けたジャックはその場で硬直した。

 「おとなしく武器を捨てなさい。」

 陽子はそう言いながらPPKのハンマーを起こした。

 ジャックはその音を聞いて、手にしたナイフを自分の前に捨てた。

 「いい子ね。じゃあ、今度は手を上げてゆっくりこちらを向きなさい。」

 ジャックは陽子に言われるまま、手を上げ、ゆっくりと陽子の方へ振り向いた。

 「本当にいい子ね。じゃあ、次は床に両手をついて。」

 陽子は警戒の姿勢を緩めず、ジャックに命令した。しかし今度は陽子の命令を聞かず、ジャックは口元に笑みを滲ませるだけであった。

 「何がおかしいの!ちゃんと言う事を聞かないと痛い目に遭うわよ。」

 陽子は多少ヒステリックに叫んだ。しかし、ジャックは相変わらずニヤニヤしているだけであった。

その様子を見ていた奈美の脳裏に先程の惨劇が蘇ってきた。

 陽子に危険が迫っている。そう予感した時、奈美の足は床を蹴っていた。

 「陽子さん、あぶない!」

 奈美が叫ぶのと同時に、ジャックの右腕が陽子に向かって伸びた。

 指先が光り、一条の光が迸った。

 奈美は陽子の体に自分の体をぶつけ、陽子を強引に床に伏せさせた。

 その頭上を一本の光が掠め、後の壁に一本の黒い線を描いた。

 「くそ!」

 ジャックの顔が悔しさに歪んだ。

 陽子は急いで起きあがり、ジャックに向かってPPKを構えた。

 ジャックは再び陽子に向かって右腕を伸ばした。

 陽子が引き金を絞る寸前、ジャックの指先から発せられた光線が陽子の右腕を掠めた。

 「キャッ!」

 陽子の右腕に激痛が走り、思わずPPKを床に落とした。急いでPPKを拾おうとした陽子の足元にまた光線が届き、床に黒い穴を開けた。

 その時初めて陽子は相手の持つ力の恐ろしさを知った。

 「レーザー!?」

 陽子は思わず後ずさりした。

 ジャックは残忍な笑みを浮かべながらゆっくりと近づいた。その指先は陽子の顔に真っ直ぐ伸びていた。

 その時、ジャックは陽子の陰に隠れている一人の少女に気づいた。

 「そうか、おまえか。」

 ジャックの殺意の籠もった目が奈美に向けられた。

 奈美の全身に悪寒が走り、恐怖感が身を包んだ。

 ジャックの指先が陽子から奈美に移った。それを見た陽子はいきなりジャックの右腕にしがみついた。

 いきなりしがみつかれジャックはあらぬ方向にレーザーを撃った。

 レーザーは目標を外し、天井の蛍光灯をうち砕いた。

 「奈美、早く逃げなさい!」

 陽子はジャックにしがみつきながら叫んだ。奈美は陽子に言われるまま廊下を駆けだした。

 「まて!」

 ジャックはしがみつく陽子の腹部に膝蹴りを入れ、後頭部に手刀をくわえた。

 「ウッ」

 軽い呻き声とともに陽子はその場に倒れた。ジャックは陽子には気にも掛けず、奈美の後を追った。

        7

 奈美はジャックから逃れようと脇目もふらず廊下を駆けた。

 ジャックは奈美に追いつこうと足を速めた。その目の前に二人の警備員が飛び出した。

 「止まれ!」

 二人は銘々に銃を構えて叫んだ。

 「どけえ!」

 ジャックが叫ぶと同時に指先からレーザーが迸った。

 引き金を引く間もなく、レーザーは二人の額を貫いた。

 不様にひっくり返った警備員の後に奈美の姿があった。

 「のがさんぞ。」

 ジャックは警備員の死体を踏み越えると再びその後を追った。

 奈美は恐怖から逃げるように必死に駆けた。しかし、不運にも廊下の突き当たりに出てしまい、逃げ場を失ってしまった。

 振り返ると、獲物を狙う狼のように、ジャックが静かに近づいてきた。

 奈美はジーパンに挟んであったシグを取り出すと、銃口をジャックに向けた。

 「ち、近づくと撃つわよ。」

 奈美は震えながら引き金に指をかけた。

 それを見て、ジャックの口の端が釣り上がった。

 「バカめ、安全装置がかかったままだ。」

 「えっ!?」

 奈美の注意が一瞬逸れた。

 その隙をついてジャックの右手が目にも止まらぬ速さで、奈美のシグを持つ手をはらった。シグは奈美の手から放り出され、壁にぶつかってジャックの足元に転がった。

 奈美の体が恐怖で硬直し動けなくなった。

 「覚悟するんだな、A7。」

 ジャックは静かに、しかし、威圧的に奈美に向かって言った。

 「お、お前は誰なの?なぜ、私を狙うの?」

 奈美は全身が凍りつきそうになる恐怖感に堪えながら、やっとの思いで言った。

 「フッ、知りたいか。」

 ジャックは残忍な笑みを見せながら奈美に近づいた。

 「俺の名はジャック。組織の命令でお前を抹殺に来た。」

 「組織?」

 奈美の頭に剣持の言葉が蘇った。

 「その組織がなぜ私を狙うの。」

 「死に行く運命のお前に話しても詮無き事だ。」

 ジャックは冷ややかに言い放つと、右腕を構えた。ジャックの指先が真っ直ぐ奈美の首を狙って伸び始めた。

 奈美の恐怖心が頂点に達した。

 理性や思考が吹き飛び、死にたくないという本能だけが奈美の全身を支配した。

 その時、奈美の体の中で何かが目覚めた。それは野獣の防衛本能にも似たものであった。

 奈美の頭の中を‘目の前の敵を倒せ’という意識が駆け回った。

 それと同時に奈美は、体が熱くなり不思議な力が全身に漲ってくるのを感じた。

 そしてそれは、体の異変としてジャックの目に映った。

 今まで恐怖で(おのの)いていた奈美の目が、攻撃的な色に変わっていき、漆黒に輝いていた奈美の髪が徐々に銀色に変色していった。

 「しまった!」

 ジャックの中に初めて後悔の念が生まれた。

 その瞬間、ジャックの指先からレーザーが放たれた。

 レーザー光が奈美の首を切り裂いたかと思った瞬間、奈美の体は消え、その(うしろ)の壁に黒い跡を残した。

 そのとき奈美の体は天井スレスレまで飛び上がり、後ろ足で壁を蹴ると、ジャックの頭上を飛び越えてその背後に降り立った。

 ジャックの全身に戦慄が走った。

 (A7のアーマノイドとしての能力が目覚めた。)

 ジャックの目の前に立つ奈美は、先程までの恐怖に震えていた少女とは違っていた。髪の色は完全に銀色に変色し、その目は戦闘意識に燃えていた。 相手を倒すことに何の躊躇(ためら)いも感じず遂行する強さが、今の奈美には感じられた。

 それを見てジャックの全身から恐ろしい程の殺気が発散された。

 気の弱い者ならそれだけで気絶してしまう程の物であった。しかし、奈美は顔色一つ変えず、ジャックを凝視した。

 二人の間に恐ろしいまでの緊迫感を持った空間が形成された。

 その中で先に行動を起こしたのはジャックであった。

 ジャックの右腕が目にも止まらぬ速さで伸び、奈美の顔を狙ってレーザーを発射した。しかし、奈美の体はそれより一瞬早く動き、レーザー光は奈美の脇を通り抜けていった。

 ジャックの顔に憤怒の表情が表れた。

 奈美を仕留めようと、ジャックは次々とレーザーを発射した。

 しかし、ジャックが狙いを定める一瞬前に奈美の体が移動するため、レーザー光は空しく空を切るだけであった。

 ジャックの表情が怒りから焦りに変わった。

 もう一度、レーザーを撃とうと右腕を構えた時、ジャックの右腕に鋭い痛みが走った。

 見ると、いつの間にかジャックの右腕に細い銀色の針が突き刺さっていた。

 ジャックの顔に戸惑いの色が生まれた。

 ジャックは腕から針を引き抜くと、再びレーザーを撃つため右腕を構えた。

 それを見た瞬間、奈美の銀色に輝く髪が風に吹かれたように波打ち始め、続いて、奈美の髪から一筋の光が迸った。

 光は銀の針となって空を切り、まさにレーザーを撃とうとしていたジャックの右手を貫いた。

 「グッ!」

 ジャックの顔が苦痛に歪んだ。

 「こ、これがA7の能力か。」

 ジャックは目の前の奈美を畏怖の目で見た。奈美は眉一つ動かさず、ジャックに一歩ずつ近づいた。

 今度こそは仕留めようと、ジャックは再び右腕を構えた。しかし、奈美はジャックの右手が目に入らないのか、その歩調を変えなかった。

 その大胆な行動に、かえってジャックの方が圧倒され、思わず後ずさりした。

 「く、くそ!」

 半ば自棄になってジャックはレーザーを発射しようとした。しかし、ジャックの指先からレーザーは発射されなかった。

 「!?」

 ジャックの頭が混乱した。

 再度レーザーを発射しようとしたが、結果は同じだった。

 その時、今まで閉ざしていた奈美の口が初めて開いた。

 「無駄よ。あなたはもう二度とレーザーを撃てないわ。」

 奈美の言葉にジャックは自らの右手を凝視した。

 (しまった。伝導管を切られた。)

 レーザーを撃てない理由(わけ)を知ると、ジャックの体に戦慄が走った。

 (このままでは不利だ。何とかしなくては。)

 そう思うのと行動を起こすのがほぼ同時であった。

 ジャックは床を蹴り、そばの窓ガラスを突き破って庭に飛び出した。

 それを見た奈美もすぐに窓を突き破り、庭に飛び出した。

        8

 奈美が庭に下り立った時、すでにジャックの姿はどこにも見あたらなかった。しかし、奈美の肌にはまだジャックが庭の中に潜み、自分を狙っているのがヒシヒシと伝わっていた。

 奈美は全ての感覚を最大限に駆使して、ジャックの居所を探った。

 庭はその隅々まで闇に包まれ、その中で二人の人間が戦いを繰り広げているとは思えない程、静まり返っていた。

 奈美は慎重に歩を進めた。

 ジャックの居所は今だ掴めない。

 完全に気配を消していた。

 庭の中で一際高い木の下に奈美が歩み寄った時、奈美の頭を殺気が貫いた。同時に黒い物体が頭上から奈美に躍りかかった。

 奈美の体がすばやく横に動いた。

 目の前を光の筋が通り過ぎる。

 奈美の服が肩から数センチ切り裂かれ、奈美の白い肌が顕わになり、そこから真っ赤な血が滲み出してきた。

 奈美の目の前にギラついた目をしたジャックが立っている。

 奈美は身構えながらジャックを睨み付けた。

 「シャッ!」

 気合いとともにジャックの体が風のように動いた。

 再び、光の筋が闇を裂く。

 奈美は身を沈めながらその光をかわした。と同時に奈美の手刀がジャックの首めがけて飛んだ。

 ジャックは右腕で奈美の手刀を受け止めながら、左手を奈美めがけて振り下ろした。奈美のもう片方の手がそれをガッチリと受け止めた。

 見ると、ジャックの左手の爪が異常に伸び、ナイフのように鋭く光っていた。それが奈美を切り裂こうと鼻先で蠢いていた。

 奈美の腕にすさまじい力が加わった。

 ジャックの爪がジリジリと奈美の顔面に近づく。

 不意に奈美の体がスッと沈んだ。

 奈美の右足がジャックの腹部を蹴り上げ、その力でジャックを後方に投げ飛ばした。

 投げ飛ばされたジャックは、空中で一回転し地面に降り立った。

 そこへ奈美の針が飛んだ。

 「グワッ!」

 悲鳴とともにジャックは左手を押さえた。見ると左手を銀の針が貫いている。

 「これでその左手も使えなくなったわね。ジャック。」

 ジャックを睨みながら奈美はゆっくりと近づいた。

 「クッ」

 ジャックは憤怒の表情を見せ、いきなり土を掴むと、それを奈美めがけて投げつけた。

 奈美がそれを軽く避ける隙に、ジャックの体が横に飛んだ。

 奈美の針がそれを追って飛ぶ。

 ジャックは体を捻ってそれを躱しながら、茂みの中に消えていった。

 奈美は急いでその場所に駆けつけ、茂みの中を探った。しかし、ジャックの姿はその場から煙のように消えていた。

 再び闇と静寂が蘇った。

 奈美は慎重に辺りを見渡した。

 その時、闇の中から二本の腕が浮かび上がり、奈美の首に蛇のように絡みついた。

 いつの間にか奈美の背後に廻ったジャックは、奈美の首をへし折ろうと渾身の力を両腕に込めた。

 たちまち奈美の額に脂汗が滲み、苦痛に顔が歪んだ。

 「手間取ったが、今すぐ楽にしてやるぜ。」

 ジャックの顔に勝利の満悦感と、サディスティックな笑いの入混じった表情が表れている。

 奈美の首の骨がジャックの腕の力に悲鳴を上げ始めた。

 すでに血の気は失せている。

 目の前が霞み、意識が徐々に遠退き、脳裏を陽子や剣持そして亘の顔が通り過ぎていった。

 「兄・さ・ん…」

 亘の死が奈美の脳裏にクローズアップされ、その怒りと復讐心が薄れる奈美の意識をかろうじて保った。

 保たれた意識の中、奈美は行動を起こした。

 奈美の両腕が奈美の首と、それに絡みつくジャックの腕の間に割り込もうとする。

 「無駄だ。おとなしく死ね!」

 ジャックは嘲笑を浮かべながら更に両腕に力を入れた。しかし、奈美の腕は徐々に腕と首の間に侵入してきた。

 ジャックの表情が戦慄に変わった。

 「まさか…、そんなバカな。」

 やがて、奈美の想像以上の力によって、ジャックの腕は奈美の首から大きく引き離され、その首に奈美の腕がかかった。

 奈美は渾身の力で、ジャックを肩越しに投げ飛ばした。

 突然の反撃にジャックの体は即座に反応できず、ジャックは向かい側の木に強烈に体を打ち付けた。激突のショックにジャックはしばらく起き上がれなかった。

 「く、くそ…。」

 全身のしびれに耐えながらよろよろと立ち上がったジャックの体に、妙な物が絡みついてきた。

それは細い銀色の糸であった。

 「こ、これは…?」

 糸は幾重にもジャックに絡みつき、やがてジャックの体の自由を奪った。

 「ちくしょう。」

 ジャックは糸を切ろうともがいたが、もがけばもがくほど糸はジャックの体をきつく締め上げた。

 絡みついた糸と格闘しているジャックのそばに奈美が静かに歩み寄って来た。

 「無駄よ。私の髪はあなたの力でも切れないわ。」

 「髪?」

 奈美にそう言われて、ジャックは新ためて、自分に巻き付いている糸を見つめた。

 「ジャック、もう逃げられないわ。おとなしく私の質問に答えてちょうだい。」

 一見、静かな口調であったが、ジャックには充分威圧的であった。

 「なぜ、私を狙うの?」

 奈美の澄んだ目がジャックに集中した。しかし、ジャックは奈美の質問に答える替わりに嘲笑を返した。

 「何がおかしいの。」

 ジャックの返答に奈美の目が怒りで顕わになった。

 「俺が簡単に口を割るとでも思っているのか。」

 「割らせてみせるわ。」

 奈美の目に固い決意の色が浮かんだ。どんな方法を使ってでも、口を割らせようという強い意志が見えた。

 しかし、それを見てもジャックは動じることもなく、相変わらず嘲笑を浮かべていた。

 その時、銀の針がジャックの頬を掠めて、後の木に突き刺さった。

 ジャックの顔から一瞬嘲笑が消えた。

 頬から一筋の赤い血が流れた。

 「次はどこがいい?」

 凍りつくような言葉が奈美の口から発せられた。

 しばらくの沈黙の後、ジャックの顔に再び嘲笑が浮かび上がった。

 「フフフ、やはりな。」

 「?」

 奈美はジャックの笑いの意味が理解しかねた。それを見て、更にジャックは声を上げて笑った。

 「ハハハ、一つだけ教えておいてやろう。お前は俺と同じなのさ。」

 「同じ?」

 「そうさ、俺と同じく戦いを好み、殺人を好むアーマノイドなのさ、A7。」

 「アーマノイド?A7?何なのそれは。」

 奈美は思わずジャックの襟を掴んで、相手を揺さぶった。

 「もっと知りたかったら首領に会うんだな。」

 「首領?それは一体誰なの。どこにいるの!」

 襟を掴む奈美の腕に力が入った。それによってジャックは仰け反るような姿勢になった。

 「自分で見つけるんだな。」

 そう言うとジャックは何かを噛むような仕草をした。

 その途端、ジャックの顔から血の気が失せ、みるみるうちに唇が紫色に変色していった。その様子に驚いた奈美は、ジャックを激しく揺さぶった。

 「どうしたの?しっかりしなさい!」

 ジャックは土色に変化した顔を上げ、荒い息の中奈美に言った。

 「こ、これだけは、言っておく…。お、俺を倒しても、組織は…、つ、次の刺客を、必ずお前に送る…。め、命令が…ちゃ、着実に…遂行されるまでな。」

 そう言うと、ジャックはまた口元に笑いを浮かべ、そのまま動かなくなった。

 「ジャック!ジャック!」

 いくら叫んでも、もはやジャックには聞こえなかった。

 奈美は死体と化したジャックを、その場にそっと横たえ、静かに立ち上がった。

 しばらくの間、ジャックの死体を見つめたままその場に立ちつくしていた。

 その時、奈美の耳に何かが弾けるような音が聞こえた。

 奈美の全身に危険を知らせる感覚が走り抜けた。

 奈美の足が大地を蹴った。

 それに一瞬遅れて、ジャックの体が白い光に包まれた。

 大音響とともにジャックの体が爆発した。

 爆風は周辺を吹き飛ばし、奈美もそれに巻き込まれ、木の葉のように吹き飛ばされた。爆風に飛ばされた奈美は、地面にしたたか体を打ちつけ、そのショックにしばらく起き上がれなかった。

 爆発音に誘われるように、陽子や警備員達が奈美のいる場所に駆けつけた。

 「大丈夫?奈美。」

 陽子は倒れている奈美をすぐに抱き起こし、心配そうな顔で奈美の顔を覗き込んだ。

 奈美は苦痛を押さえながら笑顔を見せた。

 「大丈夫よ、陽子さん。」

 そう言って奈美は、痛む体を庇いながら立ち上がった。

 「無理しちゃダメよ。」

 陽子はよろめく奈美の体を支えようと手を差し出した。しかし、奈美は陽子の手を振り払い、ジャックの死体があった場所へよろよろと歩み寄った。

 ジャックの体は跡形もなく消え失せ、地面に黒い焼け跡があるだけであった。

 奈美は呆然とその跡を見つめた。

 不意に奈美の体に激しい虚脱感が襲った。思わず、奈美はその場に崩れ落ち、地面に片膝をついた。いつの間にか、銀色に輝いていた髪は元の漆黒の髪に戻っていた。

 奈美の頭にジャックの言葉が蘇った。

 (アーマノイド、A7)

 奈美にまた新たな疑惑が生じた。

 (いったい何のことなの。それに私の体…)

 奈美は自分の手に目を落とした。

 (一体どうなっているの。)

 突然、恐怖感が奈美を襲った。

 奈美は頭を抱え、その場に蹲った。

 その時、奈美の肩にそっと手を置く者があった。振り向くと目の前にいつの間にか陽子が立っていた。

 そのやさしい笑顔を見て、奈美の目から涙が溢れてきた。

 「陽子さん。」

 奈美は陽子の胸に飛び込むと、堰を切ったように泣き出した。

 「陽子さん、わたしこわい。自分自身が恐い。」

 「奈美…」

 陽子は泣いて帰ってきたわが子を慰める母親のような気持ちで、奈美を抱き締めた。

 奈美はいつまでも陽子の胸の中で泣き続けた。


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